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無自覚な嫉妬

レイとリリーの距離は、少しずつ、けれど確かに縮まっていた。


 だが、近づけば近づくほど、心のどこかがそわそわと揺れ始める。


 その日、文官局には外部領地からの使者が来ており、

 各部署は朝からてんやわんやだった。


「この一覧、急ぎで転記をお願いできますか」


 声をかけてきたのは、久しぶりに王都へ来たという若い男爵家嫡男、エリオット・バーンズ。

 柔らかな金髪を後ろで束ね、いかにも貴族らしい物腰の青年だ。


「あ、はい。内容を確認してからでよろしければ」


 リリーが戸惑いながら書類を受け取ると、エリオットはにこりと目を細めた。


「ありがとうございます。前から思っていましたが、あなたの書類はとても読みやすいですね。いつも助かっています」


「えっ……そ、そんな……。でも、そう言っていただけるのは嬉しいです」


 褒められ慣れていないリリーは、視線の置き場に困りながらも、ぺこりと頭を下げる。


 エリオットはさらに何か言いかけて——


「リリー嬢」


 低く抑えられた声が、後ろから落ちてきた。


 反射的に振り返ると、そこにはレイが立っていた。


 いつもの執事服。いつもの無駄のない姿勢。

 一見、表情もいつも通り——のはずなのに。


(……え。なんか、空気が……冷たい……?)


 リリーは意味もなく背筋を伸ばした。


「こちらの書類も、至急で確認をお願いします」


 差し出された束は、見覚えのある資料だった。


(これ、たしか……一ヵ月後の会議用の下書き、だったような……。

 “時間のある時でいい”って、前にレオナルド様が……)


 首をかしげる間もなく、レイの視線がリリーからエリオットへと移る。


「男爵殿も、文官局へご用件でしたか」


「ああ、はい。こちらの転記をお願いしていまして。いつもとても丁寧なお仕事をされる方だと伺っていたので」


 エリオットはにこやかだ。


 対して、レイの声音はひどく淡々としていた。


「仕事ぶりを評価していただけるのは光栄です。

 ですが、本日は急ぎの案件が多く、彼女も手が塞がっておりますので」


 表面上は丁寧な言い回し。

 それなのに、どこか「これ以上は近づくな」と線を引いているようにも聞こえる。


(きょ、今日のレイ様……怖い……?)


 リリーは胸に二束の書類を抱えたまま、小さく縮こまった。


 エリオットは、それ以上は踏み込まず、「では、お任せします」と礼を述べて去っていく。


 その背中と、リリーの後ろ姿を、レイの視線がしばらく追っていたことに——

 当の本人だけが、気づいていなかった。


 ◆ ◆ ◆


 夕方。

 怒涛のような一日も、ようやく終わりが見え始める。


(あと……この束が終われば……)


 リリーは机に向かい、ひたすら羽ペンを走らせていた。


 そんな時。


「リリーさん。先ほどお願いした書類、進み具合はいかがですか?」


 声の主は、またしてもエリオットだった。


「あっ……えっと、もうすぐ写しが終わります。確認まで含めて、あと少しお時間をいただければ」


「本当に助かります。噂以上ですね。こんなに早く仕上がるなんて」


 エリオットは柔らかく笑む。


「今度、礼をさせてください。お茶の一杯くらいなら——」


「リリー嬢」


 ぴし、と空気が張った。


 レイの声は静かだったが、その場の温度が少し下がった気がした。


 横を見ると、レイがいつの間にかすぐ側まで来ていた。


「その書類、確認は私が手伝います」


「えっ!? で、でも、もう大体終わっていて……」


「急ぎの分は、なるべく今日中に片づけてしまった方がいい。

 あなた一人に任せるのは、負担が大きいでしょう」


 レイは、今度はエリオットに向き直る。


「男爵殿。写しの最終確認はこちらで行いますので、内容に問題がなければ、明朝までに仕上げてお届けします」


「そ、そうですか。そこまでしていただけるとは」


「伯爵家としても関わる書類ですから。きちんと整えておきたいのです」


 言っていることは理屈としておかしくない。

 だが、リリーには分かる。


(……レイ様、ちょっと、いつもより“言い方”が強い……)


 エリオットは一瞬だけきまり悪そうに笑い、「ではよろしくお願いします」と席を離れた。


 その背中を見送りながら、リリーはそっとレイを見上げる。


「あ、あのっ、レイ様……?」


「……仕事を手伝うのは、珍しいことではないでしょう」


 視線は書類へ。

 だが、その横顔はどこか硬い。


(いや、珍しいです。すごく珍しいです……!)


 リリーの内心のツッコミは届かない。


 しばらく二人で黙々と作業を続けた後、ふいにレイがペンを止めた。


「……あの男爵は」


「はい?」


「なぜ、君にあれほど話しかけるんだろう」


「えっ」


 レイは一枚の紙を見つめたまま、続ける。


「仕事の相談にしては、用件が多い気がします。

 ……“お茶”などという言葉も聞こえましたが」


「き、聞こえてたんですか……」


(というか、聞いてたんですか……)


 リリーの心臓が跳ねた。


 レイの声音は低く抑えられているが、棘というより、うまく処理できない不満が混じっているように聞こえる。


「別に……いえ、その。男爵様は、ただ仕事の礼を言ってくださっただけで……」


「……そうですか」


 短い返事。

 それきり、レイは黙り込んでしまった。


(い、今のって……やっぱり、ちょっと……嫉妬、っぽい……?)


 思った瞬間、顔が一気に熱くなる。


 だが、その確信を持つ勇気は、まだなかった。


 少し間を置き、レイが小さく息を吐く。


「……先ほどは、言い方がきつかったですね。失礼しました」


「い、いえっ! そんな……!」


「仕事の範囲だと割り切ればいいだけなのに、うまく出来なかった。

 今はそれが、少し……気になっています」


 どこか自分自身に不満を抱いているような口調だった。


 リリーは胸の前でそっと手を握りしめる。


 レイの横顔は、いつになく脆く見えた。


 ◆ ◆ ◆


 その夜。


 閉館の片づけのため、文官局の一角には数人だけが残っていた。


 リリーも最後の帳簿類を回収するため、廊下を行ったり来たりしている。

 すでに人影の少なくなった王宮は、昼とは別の顔を見せていた。


「こちらの書類棚は私が片づけます。リリー嬢は、その帳簿を会計室に届けてください」


「あ、はい。ありがとうございます」


 振り返ると、レイも同じフロアに残っていた。


(さっきから……話したいことが、いっぱいあるのに)


 嫉妬にも似た言葉。

 自分でも止められていないような吐露。


 全部、ちゃんと聞きたい。

 でも、何から聞けばいいのか分からない。


 ぎこちない沈黙だけが、二人の間を行き来していた。


 リリーは両腕で分厚い帳簿を抱えながら、廊下を歩く。

 小さな窓から差し込む夜の月明かりが、大理石の床に淡く反射していた。


「……今日のことですが」


 背中に、レイの声が落ちた。


 足が、自然と止まる。


「先に、謝っておきます」


「え……?」


 レイは窓際に立ち、夜の庭に目を向けたまま続ける。


「私は、自分の感情の扱い方があまり得意ではありません。

 ……特に、最近のあなたに関するものは」


(“最近の”……)


 リリーの喉が、ごくりと鳴る。


「あなたが他の男性と楽しそうに話していると、胸が苦しくなる。

 仕事仲間ならば、嬉しく思えばいいだけなのに、そう思えない自分がいて……」


 そこで言葉が途切れた。


「うまく説明できず、距離を置いたり、余計な口を挟んだりしてしまいました。

 ……不快でしたね」


 最後だけ、わずかに自嘲が混じる。


(不快なんて……)


 そんなこと、一度もない。

 むしろ、そんなふうに悩んでくれていると知って——


 胸がきゅっと熱くなる。


「れ、レイ様っ」


 振り返ろうとした、その瞬間だった。


 抱えていた帳簿の角が、廊下の出っ張りにかすかに引っかかる。


「わっ……!」


 足がもつれ、前のめりに倒れかけた。


「危ない」


 支える腕が、瞬時に伸びる。


 細い腰をしっかりと支えられ、リリーの体は宙で止まった。


 距離が、一気にゼロに近づく。


 月明かりの下。

 息が触れそうなほどの近さで、レイの瞳と真正面からぶつかった。


「……っ」


 レイも小さく息を呑む。


 胸と胸の距離が、あまりにも近すぎる。

 抱えた帳簿がなければ、そのまま抱きしめられていたかもしれない。


「す、すみません……!」


 慌てて体勢を立て直そうとするリリーを、レイの手が一拍遅れて離れる。


「いいえ。……こちらこそ。

 今日は、どうにも冷静さを欠いているようです」


 レイは額に手を当てて、わずかに視線をそらす。


 リリーの胸は、痛いくらいに締めつけられた。


 その時。


「おや? 二人とも、まだ残っていたのかい」


 廊下の角から、呑気な声がした。


「……っ!」


 レオナルドだ。


 少し遅れて、アンネも顔を出す。


 レオナルドは、一瞬で状況を把握したらしい。

 片眉を上げて、楽しげに目を細めた。


「ずいぶん、仲睦まじい姿だったように見えたけど?」


「ち、違いますからね!?」


 反射的に否定したのはレイだった。


「彼女が転びそうだったので……支えただけです」


「そうかそうか。いいと思うよ、支えるのは大事だ」


 どう見ても面白がっている主に、レイは鋭い視線を送るが、レオナルドには一切効いていない。


「リリー、大丈夫?」


 アンネが小声で駆け寄る。


「だ、だいじょうぶ……。ちょっと、心臓がうるさいだけ……」


「それ、全然大丈夫じゃないからね」


 アンネは額を押さえた。


「今日一日の供給を全部合わせても多すぎるのに、最後にそれは反則よ……」


 ◆ ◆ ◆


 その帰り道。


 リリーは胸の前で手を組んだまま、ゆっくりと歩いていた。


(レイ様……)


 腰を支えられた感触が、まだ消えない。


 あの距離。

 あの目。

 そして――あの言葉。


『あなたが他の男性と話していると、胸が苦しくなる』


(やっぱり……ただの“仕事仲間”じゃ、ないんだ……)


 嬉しさと怖さが、同じくらいの強さで胸の中をぐるぐる回る。


「……近かったなぁ……」


 誰もいない道で、ぽつりと漏らす。


 顔が、また熱くなった。


 一方その頃。


 王宮の外階段を降りていたレイは、夜風を胸いっぱいに吸い込んでいた。


(……もう、言い訳は効かないな)


 リリーが別の男と並んで笑うと、どうしようもなく苛立つ。

 こちらを見上げて名前を呼ぶと、胸の奥がじんと温かくなる。


 それを「気のせい」や「仕事上の心配」と片づけるには、もう無理があった。


「これは……」


 言葉の先を、喉の奥で飲み込む。


 まだ「恋」という形にはうまく結びつかない。

 だが、今まで知っているどの感情とも違うことだけは、はっきりしていた。


(……彼女を、“誰のものでもない今の状態”のまま見ていたいと思う自分がいる)


 そんな自分に、少しだけ呆れながらも。


 レイはそっと目を閉じる。


 胸の中で、何かが静かに形を取り始めていた。


 ーーすれ違いだと思っていた揺らぎは、

 気づけば、二人の距離をまた一歩だけ近づけていたのだった。

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