アンネ&レオナルドside
「……どう見える、アンネ」
昼下がり。
文官棟二階の控え室には、紅茶の香りと紙の匂いが漂っていた。
窓際の長椅子に腰を下ろしたレオナルドは、カップを指先でゆっくり回しながら、庭の方に視線を向けている。
対面の机では、アンネが書類の束に埋もれたまま、渋い顔でペンを走らせていた。
「どう見えるって、何がですか」
「決まってるだろう。レイとリリー嬢」
名前が出た瞬間、アンネのペン先がぴたりと止まる。
そして、ため息混じりに言った。
「……見ての通りじゃないですか。お互い、意識はしてるのに、自覚はゼロ」
「やっぱり、そう見える?」
「見えます。というか、見えないほうがおかしいです」
アンネは匙を置き、指を一本立てた。
「リリーは最近、レイ様の名前が聞こえるだけで顔が赤くなります。
レイ様はレイ様で、リリーが男の文官と話してるときだけ、書類のめくり方が雑になります」
「……そんなに細かく見ているんだね」
「毎日隣の席で見てますから。いやでも目に入ります」
レオナルドはくすりと笑った。
「なるほど。観察の精度が高い」
「喜んでる場合じゃないです。
このままだと、どっちか先に過負荷で倒れますよ。特にリリー」
「やっぱり、あの子のほうが危なっかしいか」
「はい。推しの顔を近距離で見ただけで床と友達になれる子ですから。
最近のレイ様の距離感だと、そのうち本当に倒れます」
遠い目で言うアンネに、レオナルドは「ふふっ」と喉を鳴らした。
「情が深いね、君は」
「友達ですから。あの子、仕事は誰より優秀なのに、レイ様のことになると本気で呼吸忘れますからね」
「……友達、か。いい言葉だ」
どこか羨ましげな声音に、アンネは一瞬だけ首を傾げたが、深くは触れないことにしてペンを取り直した。
少しの沈黙。
やがてアンネが、ふと顔を上げる。
「……レオナルド様。ひとつ相談があるんですが」
「聞こう」
「まだ何も言ってません」
「どうせ、あの二人の話だろう?」
あっさり返されて、アンネは思わず苦笑した。
「……まあ、その通りです」
書類をぱたんと閉じ、姿勢を正す。
「レイ様が、自分の気持ちにもう少しだけ気づくように、さりげなく後押ししたいんです」
「ふむ」
「真面目で誠実な人なので、正面から “好きなんでしょ?” なんて言っても、絶対否定するでしょうし。
でも、“失いたくない”と思ったら、絶対に動く人でもあると思うんです」
アンネは机の端を指先でとんとんと叩いた。
「なので、ほんの少しだけ距離感をいじって……“今の状態が当たり前じゃないかも”って気づいてもらえたらな、と」
「なるほど」
レオナルドは面白そうに目を細める。
「つまり、“近くにいるのが当然”だと思っている相手が、すっと離れたら――どう感じるか、というわけだ」
「そういうことです。もちろん、リリーが本気で不安になるようなやり方はしません」
「優しいね」
「当たり前です。あの子が泣いたら、私がレイ様を殴ります」
「それはやめておこうか。執事が壊れると伯爵家が困る」
軽い冗談を挟みながらも、レオナルドの視線には真剣味が宿っていた。
「いいよ。君の案、協力しよう。
こっちは会議やら用件やら、少し動かして“環境”を作る。君は、さりげない“きっかけ”を」
「……悪ノリはほどほどにお願いしますね?」
「心外だな。僕はいつだって真面目だよ」
「誰も信じませんよ、その台詞」
アンネの冷静なツッコミに、レオナルドは肩をすくめた。
「まあ、あの二人が前に進むなら、それで十分だ」
「……はい」
アンネは小さく息を吸い込んだ。
「あの子には、ちゃんと幸せになってほしいんです。
推し相手だからって、遠慮したまま終わってほしくない」
「いい友達だ」
穏やかに告げられたその言葉に、アンネは照れ隠しのように視線をそらした。
その時、控え室の扉が控えめにノックされる。
「どうぞ」
レオナルドが声をかけると、扉の隙間から、見慣れた茶髪の頭がそろりと覗いた。
「あ、あの……アンネ、レオナルド様……ちょっとよろしいでしょうか……」
アンネとレオナルドは、同時に顔を見合わせた。
(早くないですか)
(予定よりだいぶ早いね)
二人の目が、静かにそう語り合う。
◆ ◆ ◆
「リリー? どうしたの、そんな顔して」
アンネが慌てて立ち上がると、リリーはおずおずと部屋に入ってきた。
手を胸の前でぎゅっと握りしめ、心細そうに視線をさまよわせている。
「えっと……その……」
「ゆっくりでいいわ。座る?」
「だ、大丈夫です……。あの……レイ様が……」
そこで言葉を切り、ますます眉を寄せる。
「今日、少し様子がおかしくて……。わたし、なにかしてしまったんでしょうか」
アンネの胸が、きゅっと締めつけられる。
「どうおかしかったのか、教えてもらえるかな」
レオナルドが穏やかに促すと、リリーはこくこくと頷いた。
「さっき、伯爵家の執務室に書類をお持ちしたんです。
いつもみたいに“ありがとう、助かります”って言ってくださったんですけど……」
「うん」
「そのあと、急に目をそらされて……。少し黙ってから、椅子を、すこしだけ後ろに引かれて……。そのまま、なんというか……距離を取られたような、そんな感じがして」
言いながら、不安そうに指先を握り込む。
「わたし……なにか気に障ること、言いましたか……?」
「何も言ってないでしょう?」
アンネがすかさず口を挟む。
「い、言ってない……と思います……」
「だよね」
アンネはひとつ息を吐き、腕を組んだ。
「リリー。レイ様、怒ってるように見えた?」
「いえ……怒ってるというか……むしろ、困っているような……」
そこで自分で言いながら、はっとしたように口を閉じる。
レオナルドが、ゆっくりと微笑んだ。
「だったら、嫌われてはいないね」
「……え?」
「レイはね、“苦手な相手”にはもっとはっきり距離を置くよ。
仕事の話しかしなくなったりね。君には、まだ普通に話していたんだろう?」
「は、はい……。仕事のお話は、いつも通りで……」
「じゃあ、怒っているわけではない」
きっぱり言い切られて、リリーはきょとんとする。
アンネはその様子がおかしくもあり、愛おしくもあり、思わず額を押さえた。
「リリー。
最近のレイ様、あなたの話題になると、ちょっと不器用になってるの気づいてる?」
「ふ、ふきよう……?」
「前はもっと、仕事として割り切って接してたでしょ。
今は、間合いを測ってる感じがするのよね。近づきすぎたり、急に離れたり」
リリーは、過去のやり取りを必死に辿っているようだった。
「……たしかに、前より“どうしよう”って顔、してたかも……」
ぼそりとこぼした呟きに、アンネとレオナルドは目を合わせる。
(自覚はあるんだ)
(あるみたいだね)
レオナルドは、少しだけ真面目な声色になった。
「人はね、どうでもいい相手に対して悩んだりしないんだよ」
「……え?」
「距離を測ろうとしているということは、それだけ慎重になっているということだ。
乱暴に言えば、“雑に扱いたくない相手”なんだろうね」
リリーの目が、ぱちぱちと瞬く。
「わ、わたしが……?」
「少なくとも、そうとしか見えないけど」
アンネは肩をすくめる。
「だからね、“嫌われたかも”って決めつけないで。
ちょっと時間を置いてみなさい。落ち着いたら、向こうから何か言ってくると思う」
「レイ様のほうから……?」
「レイ様、逃げ続けるタイプじゃないもの。
自分の中で答えが出たら、ちゃんと言葉にする人よ」
自分はよく知っている、と言うように、アンネはきっぱりと言った。
リリーはしばらく迷っていたが、やがて小さく息を吸う。
「……わかりました。
その……ありがとうございます」
深く頭を下げてから、ふと顔を上げる。
「アンネ、レオナルド様」
「うん?」
「わたし……」
一度言葉を飲み込み、それでも勇気を出すように続けた。
「もう少しだけ……逃げずに頑張ってみます」
照れくさそうな、でもどこか晴れやかな笑顔だった。
扉が閉まると、控え室に静けさが戻る。
そしてすぐに、アンネが机に突っ伏した。
「……レオナルド様」
「なんだい」
「今のあの顔、絶対あとで一人で転がり回ります。
床かベッドかの違いだけです」
「うん、僕もそう思う」
二人のため息が、見事に揃った。
◆ ◆ ◆
それから少し経った頃。
文官棟の廊下の曲がり角から、アンネはそっと顔を出した。
「……やっぱり、ここね」
窓辺の小さな休憩スペース。
そこに、レイとリリーが向かい合って座っていた。
少し離れているので、会話の中身までは聞こえない。
けれど、空気の張りつめ方で“ただ事ではない”のはわかる。
レイが、いつもより深く頭を下げた。
謝っているのだろう。
リリーが慌てて手を振り、首を横に振る。
それから、レイが何かを言い出した。
短い言葉。
でも、声色にははっきりとした熱が乗っている。
リリーの肩が、びくりと震えた。
アンネは思わず息を飲む。
「……今の、絶対なにか言いましたよね」
「“大切”くらいは言ったように見えたけれどね」
隣で同じく覗き込んでいたレオナルドが、小さな声で答える。
「仕事の話だって言い張ることもできるけど……まあ、あの顔じゃね」
「ずるい言い方です」
「レイらしいと言えば、らしい」
窓辺の二人は、まだ何かを話している。
リリーは俯いたり顔を上げたり、忙しなく視線を揺らしながらも、席を立とうとはしない。
やがて、レイの表情がふっと和らいだ。
それは、主であるレオナルドにも滅多に向けられない種類の笑みだった。
「……あれは、いい顔ですね」
アンネがぽつりと漏らす。
「恋をしている人の顔だったよ」
レオナルドの言葉に、アンネは小さく頷いた。
話がひと段落したのだろう。
レイが立ち上がり、軽く会釈をする。
リリーも立ち上がって、深く頭を下げた。
レイの背中が廊下の向こうへ消えていく。
残されたリリーは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
それから、胸の前でそっと両手を握りしめ、窓の外を見上げる。
ほんの一瞬だけ、誰もいないと思っている方向へ——
柔らかく笑った。
それを見て、アンネは胸の奥がじんと熱くなる。
「……やっと、自分の気持ちをちゃんと見た顔ですね、あれ」
「そうだね」
レオナルドは、どこか満足げに息を吐いた。
「これでようやく、二人の物語がちゃんと動き始めた」
「ここから先は、もうあの二人次第ですね」
「それが一番、見ていて楽しいところだ」
窓から差し込む光が、廊下の床に長い影を落とす。
アンネは、その影を眺めながら心の中でそっと呟いた。
(リリー。絶対、幸せになってよね)
その願いだけが、夏の気配を含んだ風に溶けていった。




