推しが“推し”で済まなくなる頃
王宮に夏の気配が近づいてきた頃——
リリーは、自分の中で何かが少しずつ変わってきているのを感じていた。
それは、はっきりした形を持たず、言葉にもできない。
ただ、胸の奥の奥、誰にも触れられたことのない場所で、静かに芽吹いていくやわらかい感情。
きっかけは、あの日のレイの言葉だった。
「また……あなたと過ごしたいと思いました」
いつも通りの、穏やかで、やさしい声音。
あくまで仕事上のコミュニケーションの一環であり、気遣いでしかないはずなのに——
なぜかその一言が、ずっと胸の中に残り続けている。
(……なんで、こんなに、嬉しかったんだろう)
書類整理中、ふとした瞬間に思い出しては、胸がきゅっと詰まる。
推しに優しくされて感情がバグる、という現象は既に何度か経験済みだ。
だが今回は、反応が違った。
高まりではなく——静かな温度。
ほんのりとした熱が、心に塗られるような感覚。
その日の昼休み、アンネがデスクじゃなくて、中庭で食べようと誘ってきた。
中庭へ出ると、涼しい風が気持ちいい。緑が鮮やかであの日のデートから経った月日を感じる。
あの後は、特に二人で出かけることもなかったけど、レイは普段通り優しい。
アンネが弁当を持ったままじっとリリーを観察してきた。
「……リリー、最近、なんか変だよね」
「へっ!? な、なにがっ!?」
「だって、仕事の時も前までは集中してたのに、最近ぼーっとしてることが増えてる気がするし⋯。それにレイ様が来たとき、動揺の仕方が“推しの供給で死にかけてる人”の反応じゃないっていうか」
「そ、そんな分類あったの……?」
アンネは真剣な顔でこくりとうなずく。
「だって、私ずっとあなたの隣の席でレイ様とのやり取り見てきたのよ?最初と反応がなんか違うもの。最近のあなたは、もっと……こう……」
アンネは箸を置き、手を胸の前でぎゅっと合わせた。
「胸のあたりが、こう……“ぎゅーっ”てなってる感じです」
「えっ、それは……わ、わたしの心臓の動き!? 見えてるの!?」
「見えるわけないでしょう!? 感情の方よ!」
アンネが珍しく頬を赤らめながら、必死に言葉を選ぶ。
「……あなた、レイ様に“恋”し始めてるんじゃない?」
リリーの思考は、そこですべて止まった。
「こ、こい……? 恋!? ないないないない!! だって、推しだよ!? 推しに恋なんてしないから! あれは人生を支える宗教であって——ッ」
「はい、はい、わかったから落ち着いて」
アンネは呆れたようにため息をつき、しかし目は優しい。
「推しは推しでいい。恋は恋でいい。でもね、両方が同時に存在することだってあると思うの」
「両方……?」
「ええ。そういう人もいると思うのよね。だって、推しって人として好きってことでしょ?関わる中でそれがもっと別の感情になってしまうことだってあるんじゃない?」
リリーは、自分の胸にそっと手を当てた。
(わたし……恋、してる?)
考えただけで鼓動が跳ねる。
ありえないと否定したいのに、アンネの言葉が胸の奥に落ちていく。
「む、無理だよ……レイ様みたいな人、雲の上どころか宇宙の外側の人だよ……!」
「そんなこと言って。あなた、最近、レイ様と目が合うだけで顔赤くなってるじゃない」
「そ、それは供給で……ッ!」
「はいはい、言い訳ご苦労様です」
アンネはにっこりと笑った。
「でもね、リリー。自分の気持ちをごまかしてばかりだと、本当に苦しいと思うの。それに自分の気持ちに正直に生きたほうが人生楽しいわよ?レイ様が他の誰かと結婚したら苦しいでしょ?」
アンネの言葉は、ひどく優しくて、同時に胸に刺さる。
リリーは俯き、視線を落とした。
(……苦しいの、かも)
推しとして存在していたレイが、少しずつ違った色で見えるようになってきている。
その変化が怖くて、認められなくて、でも目をそらすこともできない。
アンネがそっと椅子を寄せる。
「怖いなら、私が相談に乗ってあげる」
「アンネ……」
「あなたの友達ですからね」
その言葉に、鼻の奥がつんとした。
午後の仕事に戻ったとき、廊下でレイに呼び止められる。
「リリー嬢、少しよろしいですか?」
「はっ、はいっ!?」
(や、やばい……さっき“恋”って言葉を聞いたせいで、なんか意識しちゃう……!!)
レイはいつもの穏やかな笑顔を向ける。
「昨日の資料について、少し気になる点があって。少し、一緒に確認をお願いできますか?」
「あ、あのっ、もちろんです! なんでも!」
(“なんでも”とか言っちゃった!!?)
胸が爆発しそうだった。
こんなの、いつもの供給よりずっと危険だ。
(わたし……ほんとに……レイ様のこと……)
答えが浮かをびそうになった瞬間。
「リリー嬢?」
「っ……な、んでもないです!!」
レイは少し驚きながらも微笑む。
「そうですか。では、行きましょう」
その仕草一つ、歩き方一つまで、胸がきゅっと締めつける。
もう自覚せずにはいられなかった。
——これは推しへの崇拝なんかじゃない。
もっと危うくて
もっと温かくて
触れたら壊れてしまいそうで
でもどうしても欲しくなってしまう、そんな感情。
(わたし……恋してるんだ……)
気づいてしまった。
気づいた瞬間、世界が少し変わった気がした。
レイと並んで資料室へ歩くわずかな時間が、永遠のように感じられた。
(落ち着け、落ち着け……いつものわたし……ただのモブ……)
そう自分に言い聞かせてみても、心臓だけはまったく言うことを聞かない。
資料室の扉を開けると、レイが軽く手で促してくれる。
「どうぞ」
「は、はい……っ」
(その紳士みたいな所作、ほんと心臓に悪いんだよぉ……!)
机に資料を広げると、レイはリリーの隣ではなく、斜め後ろに立つ。
距離は近すぎず、離れすぎず……だが、レイの体温がほんのり届いてくる。
(うそ……え、これ……距離近い……!)
いつもなら平常心で受け止められるのに、今日はそれがひどく刺激的だった。
「ここの数字ですが、昨日の分と微妙に合わないんです」
レイはリリーの手元を覗き込むようにして指差す。
その瞬間——
ほんの少し、肩が触れた。
「ひゃっ」
「……? どうかしましたか?」
レイが覗き込むようにして顔を近づける。
至近距離、息が触れそうな距離。
「ひ、ひぃ……! ち、近いっ……!」
「え?」
レイは首を傾げる。
「いつもと同じ場所なんですが……?」
(ちがうんだよ……! わたしが勝手に意識してるだけなんだよ……!)
「す、すみません! なんでも……なんでも……ないです……」
声が情けなく震える。
レイはリリーの異変を感じ取ったのか、少しだけ距離を取った。
「……体調が悪かったら、無理はしないでくださいね」
その言い方がまた優しくて甘くて、リリーの胸を容赦なく締め付けた。
「は、はい……」
(やっぱり好きだ……)
認めた瞬間、視界が少し開けた気がした。
資料の確認が終わると、レイはふっと微笑んだ。
「助かりました。リリー嬢のおかげで、だいぶ早く片付きました」
「い、いえ……わたしは……何も……」
「そんなことはありません。いつも助かっています」
優しい、あたたかい声音。
推しとして聞き慣れたはずの言葉なのに——
今日は違う。
まるで特別扱いされているように感じてしまって、胸が熱くなる。
「その……レイ様」
「はい?」
リリーは言葉を飲み込みそうになりながら、勇気を出して顔を上げた。
(聞きたい……これが“供給”じゃなくて……本当にわたしに向けられた言葉なのか……)
「わ……わたしのこと……その……」
「?」
「い、いえ! なんでもないです!!」
飲み込んでしまった。
レイは優しく笑った。
「また何かあれば、いつでも言ってください」
「……はい」
リリーは頭を下げながら、レイ様の横顔を盗み見る。
その瞬間、気づいてしまった。
(あ……わたし、レイ様の笑顔……こんな近くで見るの、初めて……)
いつも遠くから見ていた推しが、今は手を伸ばせば触れそうなほど近くにいる。
その距離が、急に怖かった。
(どうしよう……推しじゃなくて……“好きな人”として見てる……)
胸が熱くなり、喉がからからになる。
このままでは、いつか本当にレイに気持ちがばれてしまうかもしれない。
そう思うと、心臓が痛いほど締めつけられた。
仕事が終わった帰り道。
アンネがすぐに駆け寄ってきた。
「で? どうだった?」
「ど、どうって何が……」
「はい嘘ついた。恋してる人の顔よ。それ」
「〜〜〜〜〜っ!!」
リリーは両手で顔を覆う。
アンネはため息交じりに肩をすくめた。
「リリー。あなた、もう推しとしてレイ様を見る段階は終わってるんじゃない?」
「……やっぱり……?」
「ええ、“どう感想を言語化するか考えてる目”じゃなくて、“好きな人を見つめるときの目”」
(そんなのあるの……!?)
アンネは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫よ。恋することは悪いことじゃないから」
「でも……でも……! わたし、モブで、侍女で……! レイ様は天上の王子様みたいな人で……!」
「関係ありません」
アンネは即答した。
「気持ちが生まれるのに、身分も立場も関係ありません。
ただ……」
「ただ……?」
「あなたがその気持ちを誤魔化していると、レイ様もきっと困ると思うわ」
リリーは胸を押さえた。
(……困らせたくない……)
その想いが、恋であることを突きつける。
アンネは小さく息をつきながら笑った。
「まぁ、焦らずに。恋はゆっくり、気づいていくものだから」
「アンネ……ありがとう……」
「友達だからね」
またその言葉に救われた。
その夜、リリーは自室のベッドに座ったまま、胸に手を当てていた。
(レイ様のこと、好きなんだ……わたし……)
推しから恋へ。
その境界線は、思っていたよりずっと曖昧で、そして痛いほど鮮明だった。
気づいてしまった以上、もう戻れない。
(これからどうしたら……)
答えはまだ出なかったけれど——
胸の奥でそっと芽吹いた恋心は、もう止められないところまで育ち始めていた。




