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異世界転生と地味な文官生活

王都の朝は、白い霧に包まれていた。

 薄く漂う冷気が肌を撫で、石畳を踏む足音は霧の中へとふわりと吸い込まれていく。


 その静けさの中、王宮文官局へ続く渡り廊下を、小柄な少女が小走りで駆けていた。


 リリー・エヴァレスト。王宮文官局の文官見習いになって三年。

 主な担当は、書類整理・報告書の写し・資料の分類。


 華やかさとは無縁だが、緻密さと根気が求められる、まさに“縁の下”の仕事だ。


 ……そして、それはリリーがいちばん得意とする領域でもある。


 茶色の髪をひとつにまとめ、淡い琥珀色の瞳を伏せ気味にしながら、彼女は廊下をすり抜けていく。

 足音はほとんど響かず、すれ違う侍女たちが彼女の存在に気づくのは、すぐそばを通り過ぎたあとだ。


 気配を消して通路を移動するその様子は、侍女より静かで、衛兵よりすばしこい。


 同僚からはよくこう言われる。


「気づいたら隣にいるよね」

「音もなく資料が積まれてて、ちょっと怖いです」


 妙な方向で称賛(?)されているが、当の本人に自覚はない。


(今日も……何事もなく終わりますように……)


 いつものように、心の中でそっと祈る。


 書庫にこもって淡々と仕事をこなし、静かに一日が終わっていく――それがリリーにとって、いちばん落ち着く日常だった。


 自分は地味で、目立たない存在。

 同僚とも最低限の会話しかしないし、親しい人もほんの一握り。もともと控えめな性格に加えて、どこか“人と距離を置く癖”がある。


 ただひとつ。


 今日の彼女は、いつもよりほんの少しだけ表情が柔らかかった。


 最近、部署の仲間にこう言われることが増えたのだ。


「リリーさん、前より雰囲気が柔らかくなりましたね」


 その理由は、本人がいちばんよく分かっている。


(この世界……やっぱり、前世でハマってたあの物語に似てる……!)


 半年前。

 ふっと前世の記憶がよみがえったとき、リリーは確信した。


 この世界は、生前自分が読みふけっていた物語に酷似している。


 登場人物の名前、国家の構造、王都の地理、貴族家の構成――細部こそ違えど、骨組みはほとんど同じ。


 そして何より。


 そこには、“推し”が存在していた。


 推し。レイ。


 伯爵家嫡男レオナルドに仕える執事で、無駄のない所作、銀灰の髪、静かな物腰。

 感情の起伏は少ないのに、ふとしたときに見せる優しさの破壊力が致死量。


 前世のリリーは、そんなレイを尊みながら生きていた、ただの“推し崇拝者”だ。


 その物語はBL漫画で、主役はレオナルドと異世界転生者の青年。

 けれどリリーは、もっぱら脇役のレイに心臓を撃ち抜かれ続けていた。


 ただでさえマイナーな作品で、さらに脇役推し。

 語り合える同士などほとんどおらず、孤独な推し活の日々だった。


(あの頃、“レイ様尊い……”って心の中で拝んでたキャラが、今ここに、生身で存在してるなんて……)


 そう思うたび、胸の奥がふわっと浮き立つ。


 記憶を思い出してからというもの、リリーの精神テンションは常時二割増しだ。


 とはいえ――


 王宮文官見習いである自分が、推しと直接会うことなど、あるはずがない。

 見られるとしても、たまたま遠くの廊下で見かける程度。せいぜい「あ、いた……」と柱の陰からひっそり拝むくらいだろう。


 そう、思っていた。


 この日までは。


◇◇◇


 昼下がり。

 陽がほんのりと傾き始めた時間、書庫には紙とインクの匂いが満ちていた。


 高い本棚が並ぶ静かな空間で、リリーは机に向かい、黙々と写し書きをしていた。

 羽ペンの先が紙の上を滑る、かすかな音だけが響く。


「リリー・エヴァレスト」


 不意に名前を呼ばれ、リリーはぴたりと手を止めた。


 顔を上げると、入口に立っていた上司の文官が、分厚い資料束を抱えている。


「はい?」


「追加資料の搬送を頼みたい」


 そう言って差し出された資料は、見ただけで腕が悲鳴を上げそうな重さだ。


 もちろん、拒否権はない。


「届け先は――伯爵家嫡男レオナルド殿の執務室だ」


 その瞬間、リリーの心臓が跳ね上がった。


(レ、レオナルド様!?)


 伯爵家の嫡男。物語の片方の主人公。

 そして、彼に仕える執事が――


(ちょっと待って。ということは、もしかしてレイ様も……そこに……?)


 頭の中で、冷静さとオタク的テンションが殴り合いを始める。


 高位貴族は、リリーにとって“二重の意味”で苦手だ。


 一つ目。身分差による純粋な緊張。

 二つ目。物語の登場人物としての尊さ。


 緊張と尊さが同時に襲ってくる相手に、まともな対応ができる気がしない。


 ましてや、レオナルドは完璧な紳士として知られている。

 王宮でも指折りの優雅さと人望を持つ人物であり、「近寄りがたいが理想の上司」と噂される存在だ。


 気軽に話しかけられる相手では、決してない。


 ……が。


「……承りました。行って参ります」


 仕事は仕事だ。


 リリーは喉をこくりと鳴らし、両腕で資料束を抱え上げた。

 思ったよりもずしりと重い。だが、ここでよろけるわけにはいかない。


(大丈夫。私はただのモブ文官。背景。影。空気……!)


 自己暗示にも似た言葉を胸の中で唱えながら、伯爵家の執務室へと続く廊下を進む。


 やがて、目的の扉が見えてきた。


 重厚な木の扉。磨き込まれた真鍮の取っ手。

 “中にいる人たち”の格の違いを嫌でも感じさせるその前で、リリーは一度立ち止まり、深呼吸をする。


(落ち着け、私。失礼のないように。推しの前で失態とか死ぬから……精神的に)


 ノックしようと持ち上げた手が、わずかに震える。


「し、失礼いたします。文官局より資料をお持ちしました」


 コン、コン、と扉を叩いて声をかけると、すぐに内側から返事が聞こえた。


「どうぞ」


 静かに扉が開く。


 その瞬間――


 リリーの脳は、一瞬で沸騰した。


 視界の中央に飛び込んできたのは、銀灰色の髪。

 整った横顔。まっすぐな立ち姿。

 少し伏せられた鋭い瞳は、どこか柔らかさを含んでいる。


 レイがいた。


(……え)


 思考が止まる。


(え……えっ……ええええええええええーーーーッ!?)


 内心で絶叫が木霊する。

 魂が数回昇天して、ぎりぎり現世に引き戻された。


「文官局の方ですか?」


 淡々とした、低く落ち着いた声が耳を打つ。


(推しの……推しの声……!? 生声!? 生レイボイス……!?)


 鼓膜が喜びの悲鳴を上げた。


 表情筋が暴走しそうになるのを、リリーは必死に押さえ込む。


「は、はいっ! こちら、追加資料でございます!」


 なんとか体裁をなしたつもりだが、差し出した手ははっきり震えていた。


 レイはその震えを見て、ほんの一瞬だけ瞬きをする。


 彼の視線が、自分の手から顔へとゆっくり移ってくる。


(見ないで……いや見て……でもやっぱり見ないで……!)


 リリーの頭の中で、矛盾した願いがぐるぐる回る。


 そんな混乱をよそに、レイは資料を受け取り、落ち着いた声で言った。


「重かったでしょう。助かりました」


 その一言。


 その優しい声音。


(尊っ……!!)


 胸の中で何かが爆発した。


 頬の筋肉が引きつり、うっかり“にやけ顔”になりそうになるのを、必死に真面目な表情へとねじ曲げる。

 内心は大火事だ。


 ふと視線の端に、金髪の貴公子――レオナルドの姿が見えた。


 彼は紅茶のカップを持ったまま、完璧な微笑を崩さずにこちらを見ている。

 ただ、その青い瞳だけは、明らかに愉快そうだった。


(み、見られてる……! 絶対見られてる……!

 推しの前で挙動不審なオタク姿を……!)


 説明を簡潔に済ませ、深く頭を下げる。


「それでは、失礼いたします」


 声が少し裏返った気がするが、深く考えている余裕はない。


 そそくさと執務室を出て、扉が閉まるのを背中で感じた瞬間――


「…………っっっ!!!」


 声にならない悲鳴が、喉の奥で暴れた。


 人気のない廊下の壁にぴたりと背をつけ、リリーはこぶしをぎゅっと握りしめる。


(レイ様が……目の前に……!

 “重かったでしょう。助かりました”って……!

 あんな優しい声で……!)


 頭の中を、さっきの声と言葉と顔がエンドレスリピートする。


(供給量、多っ……! 尊みの過剰摂取で倒れる……!)


 胸の奥が熱くて、心臓の鼓動が収まらない。


(落ち着け……ここ王宮だから……奇声を発したら本当に終わる……!)


 深呼吸を繰り返し、なんとか「いつもの地味な文官モード」に戻る。


 ――が、戻りきれない。


 その頃、執務室の中では。


「……随分、反応の豊かな子だね」


 レオナルドが、紅茶をひと口含みながら楽しそうに呟いていた。


 レイは受け取った資料を机に並べながら、わずかに首を傾げる。


「何か……不適切な点がありましたでしょうか」


「おかしい、という意味じゃないよ」


 レオナルドは口元を緩める。


「むしろ、珍しい。普段は静かで淡々と働いている子だと聞いているんだ。さっきの、あれだけ表情が揺れたのは、君が声をかけた途端だった」


「……」


 レイの眉が、ほんのわずかに動いた。


 たしかに、先ほどの彼女の反応は少し――いや、かなり過剰だった気がする。


 緊張している、というだけでは説明しきれない何か。


 けれど、不快ではなかった。


 むしろ。


「……私はあまり、他人があそこまで喜ぶところを見ることがないので」


「なるほど。実に君らしい感想だね」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


 レオナルドは、楽しそうに目を細めた。


「興味は、湧いた?」


 唐突な問いに、レイは一瞬だけ言葉を失う。


「……仕事の上で、という意味でしたら」


「うんうん。そういうことにしておこうか」


 レオナルドの曖昧な笑みに、何かを見透かすような色がにじむ。


 レイはそれ以上何も言わず、資料へ視線を落とした。


 しかし心のどこかで、先ほど扉の向こうに消えていった小柄な後ろ姿と、必死に取り繕っていた笑顔が、薄く焼きついている。


(普段は……どんな顔で仕事をしている人なのだろうか)


 伯爵家に出入りする文官の中で、レオナルドの記憶に残るほどの仕事ぶりなら、おそらく優秀なのだろう。


 ――彼女のことを、まだ何も知らない。


 そう気づいた瞬間、ほんの少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。


◇◇◇


 その日の夜。


 王宮での仕事を終え、自室に戻ったリリーは、扉を閉めた瞬間ベッドへとダイブした。


「むりむりむりむり……っ!」


 声には出していない。

 しかし、脳内では絶叫と黄色い歓声が飛び交っている。


(今日だけで、供給量が通常の十倍はあった……!)


 推しの生声。

 推しの視線。

 推しの言葉。

 推しの優しさ。


(“重かったでしょう。助かりました”って……あれ、普通の社交辞令なんだろうけど……尊すぎて心臓に悪い……!)


 布団の上でごろんと転がり、枕に顔を押しつけ、足をじたばたさせる。


 王宮での“地味で真面目な文官”モードからは想像もできない姿だが、ここは完全なプライベート空間だ。誰にも見られていない。見られていないはずだ。見られていたら死ぬ。


(どうしよう……また会えるかな……いや、会えないほうが精神的には安定する……!)


 でも――


(会いたい……!)


 矛盾した感情が、胸の中でぐるぐると回り続ける。


 彼は物語の中で“推し”だった存在。

 前世の自分にとっては、画面の向こうにいる、人としての距離が永遠に縮まらない相手だった。


 現世の自分にとっても、本来は“ただの貴族の執事”でしかないはずだ。


 それなのに。


 現実のレイは、物語よりもずっと近くにいる。

 物語よりもずっと、優しい声で自分に言葉をかけてくれた。


 それは、ただの“推し”としての崇拝では処理しきれないくらいの熱を、胸の奥に残していく。


(……レイ様……)


 名前を心の中で呼ぶだけで、頬が熱くなる。


 それが何なのか、この時点のリリーはまだはっきりと言葉にできない。


 けれど。


 それはたしかに、静かに、そして確実に――


 “恋”へと形を変え始めていた。


 こうして、文官見習いリリーと、王都一の執事レイとの、少し不器用で、少し騒がしくて、ひどく甘酸っぱい日常が幕を開ける。


 まだ誰も知らない、運命の第一歩だった。


完結まで既に書き終わっている作品になります!もしよければ★★★★★、ブクマいただけると大変励みになりますので、よろしくお願いします。

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