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5.

 ヤーガス達が都の外れにある小さな家に移り住んで、もう三月近くになる。

 仕事の方は、ヤーガス達が自由に動けるようになった時には既に、片腕になるだろうと見込んでいた男が、妹の夫として幅を利かせていた。

 二週間以上も不在にして不足がないのなら、それもいいだろう。

 ヤーガスは妻とその侍女だけを連れ、屋敷を出ることにした。

 本当は、一人で一から出直すつもりだった。

 妻はまだ聖殿に戻れる身なのだから、自分につきあって苦労する必要などない。

 白い結婚だったのだと、いつでも証明する、と。

 そう告げたのだが、笑顔で無視された。

 まずは安宿でも拠点にし、知り合いに仕事を頼もうと思っていたヤーガスの目論見は、初手から大きく躓いた。

 ヤーガスはろくに財産と呼べる物は持っていなかったのだが、妻が想像以上に金を持っていた。

 家を借りる資金も、新しい家財道具も、当座の食費も全部、だ。

 どうやら、嬰児の薬とやらはヤーガスが想像していた以上に高価な代物だったようで、手付かずに残っていたそれを惜しげもなく使う妻に、当分は頭があがらない。

 この数カ月、養われていたのはヤーガスのほうだった。

 今借りている町はずれの小さな家は、壁を少しでも強く叩けば罅が入りそうな、強い風が吹けば屋根が飛びそうな、あばら屋に近い。

 以前の屋敷を基準に考えれば、物置でももう少し頑丈につくっていたはず、とヤーガスは思う。

 それでもこの家に決めたのは、割と広い庭があったからだ。

 おそらく、妻や侍女は都の中心部の利便性よりも、庭があるほうが喜ぶのではないか、とヤーガスは思ったのだ。

 最初は、このような場所で眠れるかどうかも危ぶんだ。

 自分が、ではなく、妻とその侍女が、だ。

 彼女たちは元嬰児で、誰よりも守られて大切に育てられた存在だから。

 この国で、重要な人材だから。

 だがヤーガスの心配は余所に、この家を見た女性陣の感想は「屋根が飛ぶ前に石でも乗せますか」と侍女は言い、「わたし、自分でお料理してみたかったの」と台所で大はしゃぎしている妻がいた。庭の有無で決めたと言うと「良かった」と二人して満足そうな顔になる。

 もう少し良い立地の家を借りられれば良かったのだが、ヤーガスの現状では無理だったのだ。

 仕事の信用は失墜し、自由に使える金もなく、紹介してくれるような知人や友人はいたものの仕事がらみの関係が多く、必要以上に迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 陽が落ちる直前になるまで、都の中を歩き回る。

 ヤーガスはかつての得意先を回り、細々と以前の仕事を再開するようになっていた。

 昔と違って馬車はなく、徒歩で回るから訪問する件数は限られる。

 店の名を失くしたヤーガスを相手にしない所もあれば、快く取引に応じてくれる所もあった。

 以前取引をしていた三割ほどの細工師と商店が、いまのヤーガスの得意先だった。

「おかえりなさいませ」

 ヤーガスを笑顔で出迎える妻は最近、近所の奥様方と仲良くなったらしい。

 なんでも、困っている家に無料で薬を配ったのがきっかけだとか。

 周辺は間違っても裕福と呼べる家はなく、借金のないヤーガスの家はかなりマシな部類だそうだ。

「ただいま」

 妻に答えながら、ヤーガスは玄関脇に積み上がっている見慣れない食材に視線がうつる。

 これは妻の稼ぎなのだ。

 元嬰児が作る薬は、高価だが効果も保証されている。

 薬は貰ったものの、支払うお金のない近所の人々が、金銭代わりのお礼と言って持ってくるものは、いわゆる食べ物が多かった。

 新鮮とは程遠いが、食べられないほどでもない。

 これでも、彼等の精一杯なのだと知っているから、この家で文句を言う人間はいない。

 あまりに多いとまた近所に配ることになるので、数日分だけこうして見える場所に置いておくと、受け取れないという返事が嘘でない証明になるそうだ。

 時々、遠くに出かけて仕事をしていた者が、珍しい植物を根の付いたまま持ってくるという。

 受け取った元嬰児が大喜びするさまを見て、近所では「嬰児さまに差し上げるのは、やはり植物」と言われているそうだ。

 妻達が庭で育てている植物のことなど、ヤーガスにはわからない。どれが薬草で、どれが雑草なのか見分けもつかない。それ故、使い道に口を挟むつもりもなかった。

「毎日こんなに遅く……、浮気なさっているのではありませんね?」

 笑顔で寄ってくる妻の後ろから現れる侍女は、毎日呪いの言葉のように浮気を疑う。

 その理由が今ならわかる。

 あれだ。聖殿の調査内容だ。

「あの報告書の内容は誤解だと、何度も説明しただろう。全部取引先の細工師の名で、泊まったのは事実だが、おれがしていたのは炊事と掃除だ。疑うのなら、いつでもおれに着いてこい。ただし、炊事も掃除も手伝ってもらうからな」

 細工師というのは仕事に集中しはじめると何日でも作業台から離れず没頭するし、食事を抜くことも日常茶飯事だ。定期的に見回って無理やり食事をさせないと、ある日訪問したら餓死していてもおかしくない。

 そういうおかしな連中が、男女を問わず多いのだ。

「異性の家に泊まること、そのものがおかしいのです」

「同性の家にも泊まっているし、同じく世話を焼いているさ」

 侍女の言うことは一般論として正しい。それはヤーガスも理解している。

 だが、疑われても少しも疾しい所はないし、見捨てたせいで得意先が死んだら、困るのはヤーガス自身だ。大体、あんな異臭を放つ生き物、女性として見たことがない。細工師として一流でも、仕事中や終えた直後は、人間をやめるつもりなのかと疑うほどに不衛生で不摂生だ。

「ガレ、旦那様を責めるのは程々にして食事にしましょう。あなたに是非食べていただきたくて、お待ちしておりましたの」

「おい。その言い方だと、お前も信じてないだろう」

「気のせいではありませんこと?」

 楽しそうに笑って台所に消えていく妻の後ろ姿を見ていると、そっと侍女がヤーガスに薬袋を手渡した。

「なあ。もしかして、今日の料理……」

「その通りです。お気を確かに挑んでくださいませ」

 三人で暮らし始めて判明したのだが、妻の料理は独特で色々と壊滅的だった。

 食材の、主に植物の声が聞こえるらしく、自分をつかってくれと各々が訴えるらしい。

「偏って使うと不満が聞こえてうるさいんですもの。これはこれで食べられないものではないですし」

 妻に心酔している侍女ですら一口で匙を置いた料理を、勧められたヤーガスが無理して平らげた所、数日寝込むはめになったのは記憶に新しい。何故か妻だけが平気で、倒れたヤーガスの介護を献身的に嬉しそうに勤めていた。

「旦那様もたまにはよい仕事をなさいますね」

 侍女に真顔で褒められたのも、これが初めてのことだった。

 それとなく二人して料理の担当からはずしているのだが、時折張りきって台所に立とうとする。

「なぜ止めなかった」

「気付いたときにはもう、爽やかに包丁をお持ちでしたので」

 薬の調合は素晴らしいと聞くのに、なぜ調味料の配合は滅茶苦茶なのか、どうしても解せない。

「取り上げろ」

「無理です」

 二人の地味な攻防は、妻が顔をのぞかせて「どうかしましたか?」と首を傾げた時点で強制終了になった。

 恐る恐る食卓に並ぶ料理を見る。

 以前と違って目に滲みるような刺激臭はないし、何を混ぜたのか不明な不気味色のなにかもない。

 臭いと見た目は以前よりマシになっていた。

「今日は、もらったときに調理方法も聞いたので、大丈夫ですよ」

 二人の様子を見て頬を膨らませている妻に、ヤーガスと侍女は苦笑する。

「じゃあ、いただこうか」

「どうぞ、召し上がれ」

 機嫌良く笑う妻には悪いが、ヤーガスは貰った薬を手放すことなく席に着いた。



 結論だけいうと、妻の料理は食べられる物になっていた。

 手放しで美味いと言えないけれど、以前のように腹痛と頭痛と嘔吐下痢が一気に押し寄せて脱水症状をおこすようなものではなくなっていた。

 妻と侍女が片付けをしている間、ヤーガスは所在なく食卓に座っていた。

「どうぞ、あなた」

 妻がお茶を淹れてヤーガスに持ってくる。

 あれほど致死率が高そうな料理を作る妻なのに、何故か、お茶だけは最初から淹れるのが巧かった。

 カップを差し出す指先が荒れている。

 それを知っているから、ヤーガスは迷っていた。

 ヤーガスの所に留まらず貴族のもとに嫁ぎ直せば、妻の指先が荒れるような生活をせずに済むはずなのだ。嬰児として聖殿に戻れば、また敬われて暮らしの心配などせずに生きられるはずなのだ。

 この数カ月で、ヤーガスの仕事はなんとか軌道にのった。

 以前と同じことをやっているから慣れているのも一因だろうが、取引相手だった細工師のなかでも一流と呼ばれる腕の持ち主が、こぞってあちらから取引を申し出てくれたことが大きい。

「昔はこちらが散々お世話になったじゃないですか。特に駆け出しの頃」

 今年の花娘に選ばれた細工師は、へらりと笑って溜めていた小物を差し出した。

「私だけじゃなくて、ほら、怪我して仕事ができなくなった先輩にも援助していたりしたんでしょ? あの先輩、田舎に帰る前、工房に来て後輩みんなに頭下げて行ったんですよね。オレはもう、あの人に恩返しができないから、お前等に頼むって。それに、今更知らない人と取引したら、私は簡単に騙されそうだし」

 彼女が簡単に騙されそうという一点においては納得しかけたが、ヤーガスは嬉しかった。

 これまでやってきたことの全てが無駄になったと思っていたのに、無駄ではなかったと言ってくれる人も確かにいる。

 そして、迷信だと思っていた花娘の幸運を、今は少し信じている。

 彼女は今年の幸運を約束された花娘に選ばれた。

 花娘の近くにいる人物にもまた、幸運のおすそわけがある、とこの国では言われている。

 ラルビに紹介してもらった種苗屋が妻を助けてくれた。

 そしてラルビもまた、ヤーガスと取引してくれると言う。

 積み重ねてきた過去の実績だけが、自分を助けてくれたわけではないだろう。

 すべての解決の糸口は、花娘に選ばれた細工師が握っていたのだ。

 彼女にあの種苗屋を教えられなければ、妻は目覚めなかった。

 ヤーガスも妻の本心を知らず、すれ違ったまま死に別れたかもしれない。

 少しでも間違っていたら、ヤーガスは今、身動きがとれないほどの窮地にたっていたはずだ。

 彼女の約束された幸運を、確かに分けてもらった気がしてならないのだ。

 だからこそ思う。分けてもらった幸運を独り占めしてはならないのだ、と。

 本当は、まだそんな時期ではないとわかっている。

 妻の治療に手を貸してくれた種苗屋の店主にも、まだ礼すら言えていないのだ。

 何度訪問しても不思議なほど会えない。

 だから迷う。

「相談がある」

「相談ですか? わたしに?」

 戸惑う妻を前に、ヤーガスは重い口を開いた。

「まだろくに生活費も渡せないのに、こんなことを言う資格はないと思う。でも、仕事がやっと軌道にのった。利益が出るようになった。だからまた、新人細工師への援助を再開したいと思う。お前にはまだ、苦労と迷惑をかけることになる。昔のようなゆとりのある生活も遠くなる。おれには甲斐性も器もないが、彼等を潰したくないんだ」

 かつて援助をしていた新人細工師が、店の名で援助を断られていると聞いた。

 最初から光る才能を見せる者は少ない。それは一部の天才だけだ。

 技術が理想に追いつくまで、凡人は時間がかかる。

 だから店の名で、生活の足しになる援助をしていた。

 ヤーガスが店主の時はそれで良かったが、今の店主は違う人間だ。

 経営方針が変更されたのは、当然のことだと思う。

 ヤーガスは、己の無力さが歯痒かった。

「えーと、甲斐性とか器ってなんですか?」

「お金を稼ぐ能力とか、人の上に立つ資質とかですね」

 妻の疑問にさっと答えたのは、侍女のほうだった。

 彼女の視線が冷たいのは気のせいなどではないはずだ。

「人の上に立つ資質って、どこで判断するの?」

「使用人の数とか、取引先の数ではないのですか? 相手が多いほど難しいでしょうし」

 侍女の返答を聞いて、妻は頷いた。

「旦那様がしたいようになさってください」

「トゥレスさま、本当にわかっておいでなのですか?」

 訝しげな侍女の問いは、ヤーガスの問いでもある。

 なにやらあっさりとした返答だったが、こと人生に関わる重要なことを相談したつもりだ。どうも理解していないとしか思えない。

 その問いは妻には不服だったらしく、頬がぷうっと膨れた。

「失礼ね、わかってるわよ。でもね、たくさん使用人がいて大きかった以前のお屋敷で暮らしていた時より、旦那様とガレと三人で暮らしているこの家の方がわたしは好き。何日も誰とも顔を合わせないでひっそり暮らしていたあの頃より、誰がいつ帰ってきたのかすぐにわかる小さい家の方が幸せだと感じるの。使用人なんかいなくても、大好きなものだけに囲まれて生きていくほうが、ずっと楽しいわ」

 言葉を区切り、ヤーガスを見上げて妻は微笑む。

「あなたがわたしの目の前で笑っていてくれることが一番嬉しいの。相談してくれてありがとう」

「贅沢できなくても、か? 苦労するぞ、お前」

 思わぬ返答に面喰いながら、ヤーガスは眉を顰めた。

 そうでもしないと、泣きたい気持ちになる。

「あなたもね。わたし、地の果てまでも着いて行くつもりなので、ずっと覚悟していてくださいね」

「……望むところだ。ありがとう、カスミ」

 彼にだけ許された彼女の名を呼ぶと「それは反則です」と不満そうな声があがる。

 小さな家のほうが幸せだという妻の言い分は、共有した夢の中で「当主の器ではない」と言われた自分をどれだけ勇気づけてくれたか、彼女は知っているのだろうか。

 都の外れにあるこの家はヤーガスにとって、手のひらサイズの小さな宝箱なのだ。

 無用な物が入らないほど小さいが、中身は極上の品ばかりの宝石箱。

 以前の屋敷は大きかったが、不要な物が多かった。入るから何でも入れていたが、用途としてはゴミ箱のようだ。今の家とはまるで違う。

 あの日を境に、ヤーガスはゴミ箱を捨てて宝石箱を手に入れた。

 自分の器が小さくても、厳選した中身がヤーガスを宝石箱にしてくれる。

 妻が満足してくれている限り、ヤーガスは自信を持ってそう言える。

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