4.
わたしの一番古い記憶は、どこかの旅芸人一座の荷馬車のなかだ。
隅でいつも、膝を抱えて蹲っていた。
たくさん人はいたけれど、その誰もがわたしを嫌っていた。
嫌っているというより、気味悪がって近づかない。
どんなに酷く殴られても、血を吐くほど蹴られても、翌日にはすべて治っている変な子供だから。
いま思えば、あれは嬰児としての能力の一つだったけれど、あの当時それを知っている人は身近にいなかった。
下手に殺しても、翌日には生き返ってきそうで怖い、と誰かが言った。
これから行く大きな都で、変な力を持つ子供を集めている施設がある、と誰かが言った。
そこに捨てていけば勝手に保護してくれるんじゃないか、と全員が頷いた。
すべてわたしの目の前で交わされた言葉だ。
彼等は喋らないわたしを見下していて、会話を理解していないと思っているようだが、わたしは理解していた。
いつも破れかぶれの服を肩に引っかけていただけのわたしは、その夜、念入りに洗われた。
少しでも見栄えよくしようとしてくれた女性が、新しい服をくれた。
いままでよりも布地が多くて暖かいと思ったことは覚えている。
数日後、遠くに見えた都はいままで見たどの町よりも大きくて驚いた。
あれがこれからわたしの捨てられる場所なのか、と確信した。
これまで一切話しかけてこようともしなかった人たちが、なにか声をかけてきたけれどあまり記憶にない。
わたしに握らされた少しの小銭は、彼らなりの良心だったのだろう。
都の入り口で荷馬車からおろされ、背中を押された。
振り返ると、荷馬車が大急ぎで離れていくのが見えた。
何も感じない自分が不思議だった。
大きな都の入り口は開け放たれていて、日が傾いている時間にしては随分と人が多く歩いていた。綺麗に舗装された石畳は歩きやすくて、夕暮れの朱色を仄かに反射していた。
大通りには出店がならび、そこかしこに色とりどりの花が飾られている。
なにかの祭りだろうか。
旅芸人の一座にいたため、祭りの匂いには敏感だった。
浮かれて財布が軽くなる人々を集め、芸を披露して小銭を稼ぐ。
すこしだけ現離れした異空間のようだ。
新しい服をもらったわたしは人込みに紛れてもそれほど目立つことなく、長く遠く続く道をひたすらに歩いていた。
どこに行けばいいのかもわからない。
捨てられたのだから、帰る場所もない。
このまま野垂れ死んでも、哀しむ人はいない。
あのまま旅芸人一座に居座って殺されるのと、見知らぬ大きな都で野垂れ死にするのなら、どちらのほうが良いだろう。
殺されるおそれがないだけ、都を彷徨って人知れず死ぬ方が痛くないぶん良いかもしれない。
その時、目の前で人が転んだ。
誰かとぶつかったようで「気をつけろ」という男の声が聞こえた。
見ればわたしよりは大きいけれど、まだ少年といえる年代の男の子が膝から血を流して蹲っている。
彼が背負っていた荷物が散らかり、雑踏の下で拾い上げる前に踏みつぶされていった。
「痛てーな、クソッ! お前が気をつけろ」
罵声を返して慌てて荷物を拾っていたが、半分以上は駄目になっているように見えた。
わたしの足もとにも少しだけ転がってきたので拾い上げる。
小さな装飾の細工物だった。
そのときのわたしは、なにかわからないけれど綺麗な物だと思った。
「ああ、拾ってくれたのか。ありがとな」
彼はわたしの頭を撫で、手の中のものをすいっと取り上げた。
「あーあ、半分以上ダメになっちまった。怒られるな、これは」
悔しそうに涙を滲ませ、というか、本当は泣いていたと思う。
わたしは彼の手の中にある幾つかの破片に手を伸ばした。
「おい、こら、危ないだろうが」
慌ててわたしから破片を取り上げようとした彼は、一瞬遅かった。
わたしの手の中で、砕けた欠片が一つに繋がっていく。
壊れたものを修復するのは得意だ。
昔から生傷が絶えなかったので、復元するのはなんでも得意だった。
自分の身体だけではなく、触れるものも再現できると気付いたのは、つい最近だったけれど。
「ん」
綺麗に元の形に戻ったものを差し出すと、彼はわたしを凝視した。
「えっと、もしかして、嬰児さま?」
わたしはそんな名前ではない。無言で首を横に振る。
「でも、こんなことができるの、嬰児さまだけだろう?」
しつこく食い下がるので、再度首を振る。
みどりごさまって誰かは知らないが、その人はわたしと似たようなことができるらしい。
「なあ、どこに行くんだ? もしかして、こっそり聖殿抜けだしてお祭り見にきたのか? だったらおれ、案内してやろうか?」
わたしはそれまでいた一座から捨てられたばかりで、どこからか抜け出してきた人ではないのだけれど、案内してくれる人は欲しかった。
少し迷っていると、いつの間にか荷物を背負いなおした彼が、わたしに手を差し出していた。
「さ、行こう。花祭り最後のパレードが大通りを通る時間だ」
どうせ行く場所もないのだから、パレードとやらを見に行ってもいいなぁ。
黙って彼の隣に立つと、手を握られた。
「手を繋いでおかないと、はぐれたらどうするんだよ」
ぶっきらぼうな物言いとは裏腹に、彼の手はとても温かかった。
パレードの人込みは田舎者のわたしが考えた以上の賑わいで、はぐれるよりも踏み殺されるかと思った。
頭上から絶え間なく降る花弁。一歩先を歩くことも困難な人混み。耳を劈くような歓声とむせるような熱気。
山車とやらが目の前の通りを過ぎて行ったと聞かされても、わたしの目にはなにも映っていない。
見えるのはただ、人、人、人の群れだった。
逃げたくても逃げられない、出たくても出られないので、ひたすら我慢していたのだ。
「綺麗だっただろ? パレードの山車は全部この日のために栽培された生花でできているんだ。この都の花祭りが、種苗取引の解禁日でもあるんだぞ」
なにか難しい説明を楽しそうにしてくれるのだが、わたしには半分もわかっていない。
とりあえず、本物の花がいっぱいあるということがおぼろげに理解できた程度だ。
「なあ、聞いてる?」
なにも反応しないわたしが不満らしい。
何度も頷いてみせると、にかっと笑う。
わたしが知っている笑顔とはまるで違って見えた。
芸人一座は皆、いつでも笑顔だった。
怒っていても、不満があっても、悲しくても苦しくても、客の前では笑顔でいなければならない。
だから、誰もが通常装備で笑顔だった。
わたしは彼等の笑顔が不気味だった。
いつも同じ顔を張り付けたような表情に見えていた。
自然な表情ではなく、笑顔という仮面を張り付けているような気がしていた。
彼のそれは本当に楽しそうで嬉しそうで、率直な感情がわたしにも伝わってくる。
「あっ、バクラヴァ」
視線の先にある屋台で、なにか食べ物が売られているのが見える。
なんだかわからないけれど、見ている間にもたくさんの人が買って行った。
「ロクムも捨てがたいよな」
立ち並ぶ屋台の品などわたしにはわからないが、目移りしている彼には大切な事らしい。
少し黙ったあと、私を見てこっそりと言う。
「なあ、いくらくらい金持ってる? バクラヴァとロクム一個ずつ買って、半分ずつわけないか?」
お金らしきものは持たされた小銭しか持っていなかったけれど、見せればその中の一つで十分だと言われた。
彼の言う屋台に並んで一つだけ買うと、人で埋まっているとしか言えない大通りを離れ、路地裏に回る。通りを一つ挟むだけで落ち着いた静かな場所に出た。その先にある噴水の傍で二人並んで腰を下ろす。
「おれ、こっちを先に半分食べるから、お前はそっちを先に半分食べちまえよ。そしたら交換な」
頷いて自分が手にしていたものを一口食べる。
それまで、甘いという味を知らなかった。
やわらかく、舌の上で形を失くす食べ物を知らなかった。
わたしは驚き、手の中にある塊をよくよく観察した。
力を入れ過ぎると崩れる。口の中で粘つくようにあちこちにひっついて離れない。
「なぁ、いつまで味わってんの?」
わたしが一口を楽しんでいる間に、彼はもう半分食べて終わっていた。
焦って飲みこもうとすると、今度は喉の奥にへばりついて落ちていかない。
突然むせ始めた私を見て、彼は慌ててどこかに走っていった。
遠くなる背中を見て、またか、と思った。
彼も、わたしが面倒になって去っていったのだと。
しばらく咳き込んでいると喉につかえていたものが落ちたのか溶けたのか、ようやく楽に呼吸ができるようになった。
ふと、目の前に木製のお椀が差し出される。
見上げると、彼が少し弾んだ呼吸でお椀を持って立っていた。
「あんまり小さい子にロクム食べさせると、喉に詰まらせるんだったよな。悪い、忘れてた。祭りの日は通りの井戸が解禁される日で良かったよ。ちゃんと水、飲んどけよ」
お椀を受け取り、言われた通り水を飲んだ。
冷たくてつっかえていた物が流されていく気がした。
「そう言えば、いまさらだけどお前の名前、聞いてなかったよな。おれ、ヤーガス。細工問屋の倅」
「…… 」
わたしの名を聞いて、彼は言った。
「嬰児さまは名前まで植物なんだな」
不思議そうに首を傾げるわたしに、彼は教えてくれた。
「え、知らなかった? それ、小さな白い花の名前じゃん」
あの後、わたしを聖殿まで送ってくれたあなたは知らなかったでしょう。
あの時点で、わたしは嬰児なんかじゃなかったの。
ただの捨てられた異邦の子供。送り先は孤児院が妥当、のはずだった。
背を向けたあなたの服を握りしめて離さなかったわたしの思いが、聖殿の枯れた花をいっきに蘇らせたのが最初のきっかけ。
聖殿にあのまま引き取られて、嬰名を貰ったわ。きちんとした居場所もできた。自分の力がなにかも教えてもらったし、役割も知った。使い方も覚えたし、もっとちゃんとした人間になりたくて精一杯色々学んだわ。
あなたに再会した時、あの時言えなかったお礼もきちんと言いたかったし、なにより自分がどれだけ幸運だったのかわかったの。
あの日あなたに出会えなかったなら、わたしはどうなっていたのかしら。
今ならわかるの。望んだように静かに死ぬことなんて出来なかったでしょうね。
なにより、力が目覚めることもなかったでしょう。
わたしには初めてだった。
誰かに感謝される事も誰かと手を繋ぐことも、何かを分け合うことも無償で何かをしてもらうことも。
笑顔が優しいものだなんて知らなかった。
手を繋ぐと温かいなんて知らなかった。
半分こなんて提案されたのも、気遣ってもらうことも。
あなたにはいつもの、当たり前の、普通のことだったのでしょうね。
でも、わたしにはどれも初めてだった。
実態のないものを意味するのだと言われていたわたしの名に、違う意味をくれた人。
わたしの眠っていた感情は、あなたに向いて芽吹いたの。
あなたの光で、暖かさで、育つことを覚えたの。
あの時から、あなただけがわたしの太陽。
あなたが笑ってくれるのなら、わたしはそれだけで生きていける。
傍にいられるのならなんでも良かった。
喜んでもらえるのならなんでもするわ。
一番じゃなくてもいいから、好きになってもらえたらどんなに嬉しいか。
ずっと夢見てたの。
また、あなたと手を繋いで花祭りを見てみたかった。
バクラヴァとロクムをもう一度分け合って食べたかった。今度はあなたより早く食べて見せるわ。そして、わたしが言うのよ。「まだ食べてるの?」って。
わたしのために水を汲んで来てくれたあなたに、今なら言えるわ「ありがとう」って。
ろくに喋れず、言葉が遅かったあの頃のわたしじゃないから。
でももう、ダメみたい。
この子の浸食が思った以上に速くて、わたしではとても止められない。
わたしの記憶から時間遡行をして、もとの時間に戻ろうとしている。
わたしはあとどれくらい、あなたを覚えていられるかしら。わたしを保っていられるかしら。
ねえ、あなた。
ひとつだけ願ってもいいかしら。
どうか、わたしの名を呼んで。
嬰児名じゃない本当の名前。昔、あなたにだけ教えたわたしの名。
聖殿で何度か聞かれたけれど、絶対に言わなかったわたしの名前。
目印みたいに顔中にあったそばかすは年齢を重ねるごとに消え、あれだけ特徴的だった赤毛も普通の茶色になってしまったけれど、どうかみすぼらしい昔のわたしを思い出して。
「旦那様、起きてください」
ヤーガスを揺り起こした侍女の声は冷静に聞こえるが、どこか逼迫した緊張感が漂っている。
「どうした?」
「奥様が」
言われて視線を向けると、寝台の上にいる妻が仄かに光っていた。
人体が発光するはずがない、とどこか冷静な部分がそれを否定する。
だが、光っているとしか言いようがない状態で、妻は静かに目を瞑っていた。
ゆるやかに、だが確実に強くなっていく光。
「どういうことだ」
これからなにがおこるのか、おころうとしているのか、推測すらできない。
危険ななにかを体内に取り込んでいる、とあの種苗屋は言っていなかっただろうか。
これが危険と直結するのかどうか、その判断さえできないままヤーガスは立ちすくむ。
「ガレ、旦那様を連れて部屋の外に出ていなさい」
若い女性の声がした。誰かに命を下すことに慣れたそれは、ヤーガスの耳には届いても、理解しきれていなかった。
「ですが」
「ここから先は、嬰児の力がない人間には危険なの。わかるわね?」
「承知……いたしました。旦那様、さあ、出ましょう」
ひかれた腕を、ヤーガスは無意識のうちに振り払う。
「名を、呼んでほしいと言われた……」
そう、確かに妻に請われたのだ。夢の中で。
ヤーガスしか知らないと言われた、妻の本当の名前。
おぼろげには覚えている。幼いころ、仕事に失敗したあとに会った嬰児の事。
夜遅くに帰宅し、父親に散々叱られたが、嬰児が復元してくれた小さな装飾品だけはヤーガスに渡された。「それはきっと、お前に福音をもたらすものだから」と。
あれはいつも、財布に忍ばせて身につけて歩いていた。幸運のお守りだと言われていたから。
「旦那様、お早くっ!」
動こうとしないヤーガスの腕を引っ張る侍女の顔が、常になく感情豊かだった。あまり嬉しそうではなく、焦りと怒りのように見えるけれど、意外だと思った。冷静沈着としか言いようがないこの女にも、感情の波があることが。
「面倒だから、二人とも出ていてちょうだい」
その声が聞こえた途端、ヤーガスは妻の寝室の前に立っていた。
ヤーガスを引っ張っていた侍女も同じく、突然の出来事だったらしく、二人は顔を見合わせた。
扉の隙間から光が漏れていた。窓の外は暗く、外から差し込む光などない。
なにがおこったのか、まるで理解できない。
「旦那様、いけませんっ! 邪魔をしてはなりませんっ!」
必死に止める侍女の声を無視して、目の前の木の扉を壊そうとした。だが、妻の寝室に繋がる扉はどんなに叩いても蹴っても、頑健な鉄のごとくまるで歯が立たなかった。
「お守り……そうだ、財布っ」
昔、偶然に出会った嬰児が目の前で復元して見せた小さな細工物。
あれを見ればなにか思い出せるのかもしれない。
ヤーガスは懐から財布を取り出し、逆さにして大きく振った。中身が床に散らばって小銭の多くが転がっていく。
「旦那様……」
侍女の困惑した視線を無視し、ヤーガスは転がらず足元に残った小さな木製の細工を拾い上げた。
花を象った小さな、そして拙いものだと今のヤーガスにはわかる。価値などない。嬰児の貴重な力をつかって貰うほどの品ではない。
花の名前だと自分は言った。白く小さな花。
そばかすだらけの小さな女の子の手を引いて聖殿に向かった。
赤毛、だっただろうか。覚えていない。
気配を消し、ほとんど喋らない少女と似ていると思ったのだ。
自己主張をするよりも、他を引き立たせるために使われる事が多いその花の名。
そう、思い出した。
服のすそを掴んで潤んだ、新芽を思わせる緑の瞳。あれだけは今でも変わっていなかったのに。
呼ぶ声が聞こえる。
自分の名を呼ぶ声が。
うっすらと目を開けると、深い緑を縁取る金環の瞳が自分を覗きこんでいた。
エル・トゥレスは、彼女の名を知らない。でも、存在は知っていた。
「よく頑張ったわね」
激励の言葉は短く、微かな笑みを含んでいた。
「時間遡行なんて、今の聖殿では教えていないはずでしょう? 驚いたわ」
「も……しわけ――」
「謝って欲しいわけじゃないの。あなたじゃなければ、被害は拡大していたでしょう。私にしてもあの子の存在する時空がどこなのかわからなくて、思っていたよりも遅くなってしまったし。あなたにだけ負担をかけて悪かったわ。どう? まだ身体に不調はあるかしら。一応、時間は戻したつもりなんだけど」
言われて気付く。
体内にあった違和感はなく、重なる鼓動も聞こえない。気だるい疲れは残っているものの確かに自分一人の身体だ。
「筋力の衰えは戻せないから、起き上がったりするのは徐々に、ね」
彼女はエル・トゥレスからゆっくりと離れ、床に落ちていた細く白い布を手繰り寄せた。無造作に扱っているが、それは長い包帯のように見える。
「……めさ」
「そうそう、あの子の名前」
呼びかけようとしたエル・トゥレスの言葉を塞ぎ、彼女は笑う。
「あの『隠された種』の名前、『うたたね』っていうんですって。『うた種』か『うたた根』か分からないけれど、エル・トゥレス、あなたには知る権利がある。あなたなら、もう呼んでも大丈夫よ」
口を閉じ、黙って首を横に振ると「そう」と簡素な言葉が戻る。
嬰児だけに伝わる遥かな昔話だと思っていた。
『隠された種』と『封印された時間』の話。
人の世にあっては災いしか呼ばないだろうと女神が隠した種と、それを封じた時間の話。
封印された時間を解く鍵は嬰児の能力、隠された種を育てられるのは嬰児の身体。故に、決して封印を解いてはいけないと聞かされていたあの口伝。
本当に『種』が存在しているとは思わなかった。
そして、本当に自分が苗床になるとも想像していなかった。
嬰児は女神の力を授かった人間ではなく、正確には、女神が封じた時間を解く鍵を持つ人間のこと。
封印された時間については、今ではよくわからないらしいけれど、正しく時間を辿ることができるのは、嬰児の頂点に立つ人だけと聞く。
だから彼女の名を知らなくても、エル・トゥレスは彼女の存在を知っていた。
嬰児の身体を苗床に育つ特殊な種を、綺麗に取り除けるのは彼女だけだから。
ただ、存在は知っていても会うのは初めてだった。
ある時を境に、彼女の存在は歴史から抹消されている。当時の王族の不手際だったと聞くが、その時代を知る人間はもういない。
嬰児でありながらただ一人、聖殿に属さない存在。それを許された存在。
そもそもこの国に嬰児が集まるのは、この地に『種』が眠っているから。『種』が苗床になれる存在を導くからだと聞かされた。
嬰児が集う聖殿のどこかには『封印された時間』が存在するとも聞いたけれど、これは定かではないそう。誰も見つけたことがなく、定期的に噂として流れていた。
「ゆめ、を……ていました」
長く、あまり楽しくはない夢だった。
けれど、幸せな夢だ。
あの人が傍にいていくれた。ずっと寄り添っていてくれる夢。
「それ、夢じゃないわ」
「?」
「だって、あんまりにも分かっていない人だったから、あなたの精神と繋げてみたの。休息も必要だったみたいだし、ついでにね。エル・トゥレスも、長年伝えたかったことが本人に直接伝わって良かったわね」
彼女の言うことが咄嗟には理解できず、エル・トゥレスは瞬き、押し黙る。
いま、なんと言われたのだろう。
精神を繋いだ、だったか。
それは確か、ああ、そうか。まるで嘘をつけない状態ではないか。
すると、あの薄らぼんやり見ていた夢は彼に筒抜けだったということだ。
夢と言うより、過去を忠実になぞっただけ、だった気がするが。
それは――。
「ひっ、どっ!」
「なにが? あなたたち、かなりメンドクサイわよ。迷惑夫婦よ。だいだいね、エル・トゥレスが本当の事をさっさと彼に言っていれば、こんなに面倒なことにならなかったのよ。ずっと前からあなたが好きでしたって、抱きついて言っちゃえば良かったのよ」
腰に手を当てて、呆れたように自分を見下ろす彼女の視線が痛い。
そんなこと、素直に言えたらこんなに苦労していない。
無理に嫁いだことだって、迷惑だったかもしれない。彼の恋路を邪魔をしただけかもしれない。その上、気持ちも押し付けるようなこと、言えるはずがない。
「ねえ、エル・トゥレス。普通の人間には、言葉で伝えなくちゃ理解してもらえないのよ。相手は嬰児でもないし、植物でもないんだから」
「そ……なこと」わかっている。
嫌われたくなくて、これでも一生懸命考えた。
「わかってないからこうなったんでしょう? 本音をぶつけることは、相互理解の第一歩じゃない。まったく同じ意見で同じ感情の他人同士なんて、いるはずないわ。お互い違って当然なの。本当の自分を見てもらえなかったら、あなたずっと苦しいままよ。それって、彼にとっても苦しいんじゃないかしら。隠されているのに本音を知って欲しいって、すっごく無茶苦茶な我儘よ。喧嘩しろって言ってるわけじゃないけれど、喧嘩もできない夫婦なんて、つまらないわ。彼のために死ぬ覚悟はできるのに、話す覚悟ができないのはどうしてなの。死ぬよりずっと簡単でしょ?」
自分より年下の彼女だが、言うことは一々尤もで、反論するところが見つからない。
でも、他にも方法はあったはずなのだ。
彼女にならできたはずだ。
なぜ、こんな強硬手段にでたのだろう。
上手く出て来ない言葉の代わりに、恨みがましく睨みあげる。
「やっちゃって終わったんだから、仕方ないでしょう? なに? 自力で解決できましたって言うつもり?」
間違っても言えない台詞を先に言われ、言葉に詰まる。
遠くで音が聞こえる。
二人のどちらが発するのでもない、低く鈍い音。それと、声が微かに聞こえてきた。
「うるさいわ。ったく、こんな夜中にどんだけの大声出してんの、あの男。ガレもあんまり役に立たなかったのね」
忌々しそうに軽く舌打ちする彼女と裏腹に、エル・トゥレスは自分の顔が熱を赤くなるのを感じていた。
長く呼ばれる事のなかった、本当の名で自分を呼ぶ声。
彼女の張る結界の外から、微かに響く夫の声が耳に届く。
「声だけ完全に戻してあげる。いい、エル・トゥレス。これは貸しよ」
無言で何度もうなづくと、彼女はそっとエル・トゥレスの喉に手を当てた。
「あなたは私を知らない。私を見かけても声をかけない。当然、訪ねてきてお礼なんかも言っちゃダメよ。次会う時、私達は初対面、はじめましてって言いあうの。わかった?」
真剣な緑の瞳の金環がかすかにゆらめいた。
理由はわからないけれど、エル・トゥレスは視線をあげて答える。
「確かに、了承いたしました。嬰姫様」
途端、大きな音が響く。
視線を向けると、扉を蹴破る勢いで飛び込んできた夫とガレの姿を見た。
結界が消えたのが先か、彼女が姿を消したのが先か、もうそれすらもわからない。
「私がわかりますか? トゥレスさま」
駆け寄り、自分の手を握るガレを見て微笑む。
「心配かけてごめんなさい、ガレ」
「大丈夫、なのか?」
距離をとったまま近づかない夫が、少し離れた場所から問うてくる。
「はい。おかげさまをもちまして」
頷き、決まり文句を口にするが、エル・トゥレスは逡巡していた。
なにから話せばいいのか、どこから話せばいいのか。それすらも迷う。
容易に動けないほど弱った身体のいま、話す手段しかエル・トゥレスには残されていない。
「今更ですがあなたに、聞いていただきたいことがあるのです」
横たわったままのエル・トゥレスが視線をあげると、珍しく夫と視線があった。
「たくさんありすぎて、何から言えばいいのか分かりませんが」
精神を繋がれたのなら、もう彼には色々とバレているのだろうけれど、自分の口から言わなければいけないことはまだ残っている。
「奇遇だな。おれも、聞きたいことが山ほどある。伝えなければならないことも、言いたいことも、だ」
少し怒ったような夫の顔など初めて見た。いや、二度目だ。
一番最初の出会いは、泣きそうな夫の怒った顔だったのだから。
きっと、わたし達夫婦はここからもう一度始めるのだ。
エル・トゥレスは小さな確信を抱き、微笑んだ。