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3.

 あの人を見かけた。

 凄く遠くて顔の判別も難しいくらいの距離だったけれど、わたしは間違わない。

 種よりも独特の色をまとう人間のなかで、彼のことを見間違ったりはしない。

 記憶にある姿よりもずっと大人びていて、記憶の彼と同じ笑顔を浮かべている。

「あの人達はなにをしているの?」

「出入りの業者でございましょう。商品の搬入ではありませんか?」

「面白そうね、近くで見てみたいわ」

 少しでも彼に近づけるかもしれない。下心があった事は認める。

「駄目ですよ。彼等は遊びでここにいるわけではありません。興味から仕事の邪魔をしてはなりません」

 ガレにたしなめられて気付く。

 そうだ、邪魔をすれば嫌われてしまうかもしれない。

 聖殿に入ってから、外部との接触は極力控えるように言われている。

 実際、控えるまでもなく機会すらない。

 こうして姿を見ることができたのも偶然だ。

「ごめんなさい。そこまで考えていなかったわ」

「謝ることはありませんよ。トゥレスさまはまだ、邪魔をしたわけではありませんから。わかっていただければ宜しいのです」

 ガレに促されてわたしは聖殿の奥へと向かって行く。

 そこが私の生活の場でもあるし、世話をしている種達もいる。

 何度か名残惜しそうに振り返るわたしをみて、ガレは苦笑していたけれど咎めなかった。



 嬰児が聖殿の表に立つことはほぼない。

 出入りの業者なんて多すぎて、すべてを把握している関係者のほうが少ないはずだ。

 機会があれば、商人の出入りしていた表の一角へと行きたいと願ってみたが、何度か繰り返して同じことを聞くうちに、口を開く前から素晴らしい笑顔で駄目だと念押しされるようになった。

 落ち込んでいたが、種の世話という本来すべきことから逃げるわけにはいかない。自分が管理している庭の一角で、水を片手にぼんやりと立っていた。

 表に行けばあの人に会えるかもしれない。

 なのに行けない。

 面白くない。

 不穏な気をまき散らすわたしに種のほうが委縮したのか、一向に発芽しない。

 毎日の水やりなど止めてしまおうか。もう、芽がでないのなら廃棄でいいじゃない。

 不謹慎にもそんなことをちらりと思う。

 ふと、なにか聞きなれない微かな音がした。

 庭と外部を区切る植え木の外から聞こえてくる。

 わたしはなんとなく、音のする方へと歩いて行った。

 植え木はわたしよりも大きく、上から外を見ることはできない。

 だが、下の方にはところどころに隙間ができており、地面に這いつくばるようにして音の発生源を探した。

 庭の敷地より数段低い場所に大きな通りが見えた。

 歩いている人は少なく、たくさんの荷馬車が行きかっている。

 皆、聖殿へと向かい、もしくは去っていく人達のようだった。

 荷馬車にも色々あった。馬を四頭も繋いだ大きなものから、一頭がゆっくりと引く小さなものまで様々だ。

 それが商人の家格や羽振りを知らしめるものだと、当時のわたしが知る由もない。

 たくさんの色々な荷馬車が見られて、単純に楽しかった。

 一つの小さな荷馬車を見て、あの人だと思った。

 御者席の顔など見えない。声も聞こえない。ただ、纏う気の色がそう言っている。

 繋いでいるのは馬ではなく、一回り小さなよく知らない動物で、後でそれがロバだと知ったけれど、馬よりも小さくて可愛いと思った。

 行き交う馬車の人と知り合いなのか、手をあげて挨拶しているのがわかる。

 あの人を見る手段は、聖殿の表に立つことだけではないのだと、その時わかった。

 遠くからでもこうして見ることができる。

 わたしを知ってもらうことができないのは残念だけれど。

 ねえ、あなた。あなたはわたしを覚えてくれているかしら。

 きっと忘れているわよね。それでも良いの。

 最初の出会いからやりなおして、少しでも好きになってもらいえば良いのだもの。



 表に行きたいと言わなくなったわたしを、誰もが一過性の好奇心だったのだと気にも留めない。

 あの人の姿が見られるのなら、別に聖殿の表じゃなくても構わない。

 わたしはこれまでになく足繁く、自分の庭に通うようになった。

 嬰児が植物の世話をするのは当たり前のことで、咎める者もいなければ、止められることもない。

 熱心に仕事をすれば褒められるだけ。

 わたしの目的は別にあったのだけれど、ついでに種のお世話も頑張っておいた。

 そうでなくてはとても怪しいことくらい、わたしにもわかる。

「最近は随分と熱心にお世話に励まれるのですね」

「ええ。なかなか気難しい子が一斉に芽吹いたのよ。今は頑張らないと」

「左様にございますか。では、昼食はお庭にお持ちしたほうがよろしいですか?」

 ガレは気を利かせて余計な事を言う。

 嬰児の庭には部外者は立入禁止だ。専属侍女のガレは別だけれど。

 種の声を聞いて育てるのだから、余計な雑音はない方がいいし、種は他人の気配に敏感な物も多く、知らない人間がいれば何も語らなくなってしまう。

 元嬰児のガレだから、わたしの庭まで自由に入って来られる。

 普段は遠慮して入ってこないけれど、もしもあの人を見に行っている時に来られたらわたしが困る。

「ううん。いつも通り食堂に行くわ。お世話するのは楽しいけれど、付きっ切りだと少し疲れるの」

「食事が気分転換にもなるのなら、それもよろしいのでしょうね。あまり根を詰めすぎないようにしてください」

「はぁーい」

 うん、なんとか上手く誤魔化せた。

 本当は食堂まで行くのはとても面倒。持ってきてもらった方が有難い。

 でも、わたしがしていることを知られるともっと面倒だ。

 わたしは毎日植えこみから外を覗いている。

 あの人の姿を見られる日と時間をおおまかに把握する一カ月後まで、なにかと理由をつけては庭に入り浸っていた。

 そしてわかったのは毎月の第三木の曜日。

 必ずあの人が聖殿に来る日が、それだということ。



 聖殿を退出される嬰児さまをお見送りする。

 誰もが幸せそうにほほ笑んで、相手の手を取って去っていく。

 わたしも手ずから育てて作った小さな花束を持って、最後の挨拶へと向かっていた。

「ラ・シエテさま」

「まあ、わざわざ見送りに来てくれたの? エル・トゥレス」

 わたしより五年前の世代は、嬰児が多くいた。ラ・シエテさまはその年七番目の嬰児だ。

 その年、見送る嬰児さまのなかでは一番親しくさせてもらっていた。

「はい。長いお勤めお疲れ様でございます。どうかお健やかにあられてください」

 これまでの感謝と、これからの幸福を祈って花束を渡す。ラ・シエテさまは笑顔で受け取ってくださった。

「ありがとう。嬉しいわ」

 本当は少し寂しい。ラ・シエテさま達の世代がいなくなれば、その後は年に一人か二人の嬰児しかいないのだ。

 そのなかでも、成人まで残る人は限られる。

 こうして公にお見送りができることは喜ばしいことであるはずなのに、なぜか涙があふれて止まらなかった。

「そんなに泣かないで、エル・トゥレス。あなたが聖殿を辞すれば、また会うこともあるでしょうに」

「でも、五年も先の話になります」

「たった五年、よ。そう考えたほうが楽しくなるわ」

 わたしの頭を撫でながら、ラ・シエテさまは微笑まれた。

「私は楽しみよ。五年後、あなたはどんな女性になっているのかしら。今よりもずっと背が伸びて、誰もが振り返るような美女になっていたらどうしましょう、って」

「そんなこと、あるはずがないです」

「わからないわよ。あなた可愛いもの」

 そんなことを言ってくれるのは、ラ・シエテさまくらいだというのに。

 恨みがましく見上げると、快活な笑顔が見える。

「ねえ、エル・トゥレス。あなた知っていて? 私達嬰児が聖殿を辞する時って、大体は嫁ぐのよ。相手は選び放題なの。こーんな分厚い候補者の書類渡されて、その中から選ぶのよ。でもね、見たことも会った事もない人達なのに、私達がその中から誰か一人を選べると思う?」

「……いいえ」

「でしょう? でもね、私は自分で選んでやったの。だってなにか悔しいじゃない。これまでの人生、殆ど聖殿の意向に沿って生きてきたのに、最後まで聖殿のお勧め人物を押し付けられるのって」

 腰に手を当てて立つラ・シエテさまは、誇らしげに胸を張った。

「あの、それでラ・シエテさまはどうやって相手を選ばれたのですか?」

「簡単よ。貰った書類をね、こうして放り投げて見たの。その中で一枚だけ、私の足元に落ちてきた。その人が私の旦那さま」

 随分と豪胆な人生の決め方だ。

 それは禁じられている博打にも似た決め方ではないだろうか。

 涙は自然に止まり、彼女を祝福して送りだしていいのかどうかも迷いがでる。

「決めてからが大変だったわ。散々確認という名の説得が続くし、理由を教えろと言われるのよ。言えるわけないじゃない。適当に決めました、なんて」

「……そうですね」

 ラ・シエテさまの主張に頷くしかできないわたしは、どうしたらいいのだろう。

 こんな事実、真実でも虚偽でも知りたくなかった。

「でも私、後悔してないわ。見てくれは良くないけれど、会ってみたらいい人だったもの。聖殿のように贅沢はさせられないけれど、本当に良いんですかって何度も聞かれたわ。嬰児さまの都合で突然断られても、気にしたりはしませんって。何故かわかる? 嬰児に渡される書類なんて見せかけで、本当はどこの家に送られるのか、もう内々に決まっているのよ。聖殿は嬰児に「お任せします」って言われるのを待っているの。だから、あなたも頑張ってね」

 ぽんぽんと肩を叩かれて励まされた。

 頑張る? なにを?

 首を傾げた時、ラ・シエテさまの後ろに立つ人影が見えた。

「お待たせ。やあ、これは可愛い嬰児さまのお見送り中だったんだね、邪魔をしてしまったかな」

 背の高い人だった。横にも少し広い人だった。

 他の嬰児さまを迎えに来ている人達とは明らかに違う、質素な服を着た庶民的な人だった。

 でも、とても優しい顔でにこにことしていた。

「エル・トゥレス、紹介するわ。こちらが私の旦那さまになる人よ」

「はじめまして、嬰児さま。都の隅で香辛料を取り扱っている小さな店の主です」

 嬰児の名を口にするのは、聖殿の関係者に限られる。初対面の人は紹介されても呼んではいけないのだ。相手も極力自分の名を名乗らない。癒着を防ぐために、下手に嬰児と親しくなれば聖殿との取引は打ち切られる。

「はじめまして、ラ・シエテさまの旦那さま、ですよね?」

 結婚式も披露宴も終わった今、旦那さまになる予定の人、ではなく、旦那さまのはずだ。

「はい。この度は身に余る誉れを頂くことになりました。どうぞ嬰児さまも聖殿を辞した際には、どうぞお気軽にお立ち寄りください」

「ありがとうございます。是非、お伺いさせてください」

 ラ・シエテさまを見れば、嬉しそうに笑っている。

 穏やかな気が流れる。この人はきっと、ラ・シエテさまを大切にしてくれるだろう。

「挨拶はもう済んだわ。行きましょう」

 ラ・シエテさまはさっと踵を返し、そのまま去ろうとする。

 わたしは慌ててラ・シエテさまの袖をつかんだ。

「あの、ラ・シエテさま。先程のお話ですが、頑張るってなにをでしょう」

 振り返るラ・シエテさまは、驚いたように目を見張り、そして屈んで私の耳元でそっと告げた。

「あのね、エル・トゥレス。あなた時々植え込みの下から外を覗いているわよね。食堂に来る時、服の前面だけが異常に汚れて目立つわよ」

「あの、それはっ」

「いーの、いーの。私も時々やってたから」

 思わず言い訳しようと口を開くが、ラ・シエテさまはそれを遮った。

 嬰児が外を見る理由は限られる。

 ただの好奇心なら頻繁に見ることはない。定期的に服を汚す必要もない。

 なにか外に興味の対象があるのだと態度で示したようなものだ。

「聖殿の意向とは関係なく、私達は自分で選ぶことができるのよ。それだけは忘れないでいてね」

「はい……」

 わたしに微笑んだあと、ラ・シエテさまは聖殿を辞された。

 振り返ることもなく、旦那さまの隣で誇らしそうに、嬉しそうに。

 わたしもいつか、あんなふうに強くなれるだろうか。



 時が経ち、わたしも聖殿を辞する時が近づいていた。

 ラ・シエテさまに教わった通り、嫁ぎ先の候補者書類は一抱えにもなる厚みがあった。

 さすがに、書類をばら撒いて相手を決めたラ・シエテさまの真似をする勇気はない。

 ぱらぱらと上から順にめくっていく。

 名前も顔も知らない人達。誰もが等しくのっぺらぼうに見える。

 それでも一応、すべてに目を通すのが礼儀だろう。

 見もせずに断られたのでは、見知らぬ相手とはいえ失礼だ。

 書類の上から貴族、商人と続く。そのなかでも順位があるようで、似たような名前が続く事もあった。

「わからないなぁ」

 先の嬰児達が「お任せします」と言いたくなった気持ちの方がわかる。

 書類の中のどれを重視するべきなのか、なにを最優先に選ぶべきなのか、まったくわからない。

 後ろの方になればなるほど、最初より興味が失せていい加減になっていく。

 ぺらり、ぱらり、と惰性で紙をくっていたときだ。

 覚えのある名を目にする。

 勢いでめくってしまった書類を戻し、じっくりと目を通す。

 あの人だった。

「うそっ」

 だらりと寝そべっていた身体を起こし、真剣に見入る。

 間違いなくあの人の名だ。

 覚えている。忘れたりしない。今だって遠くから見ている。

 そう、見ているだけなのが悔しいけれど。

 何度も何度も読み返す。

 同名の別人なんかではないことを確信する。

 わたしは彼の書類だけを抜き取ると、急いで担当者の所へ向かった。

 急がないと、誰よりも早く告げないと、もしかしたら他の誰かがあの人の妻に決まってしまうかもしれないから。

 担当者の部屋を訪れ、無理矢理面会を申し込んだ。

 ちょうど私に都合よく、彼は急ぎではない仕事をしていたようで、すぐに招き入れられたのが幸いだった。

「失礼します。今、お時間よろしいでしょうか」

「どうしました、エル・トゥレス。そのように慌てて。なにか問題でもありましたか?」

「いえ、あの、私がこちらを辞する時の、その、相手なのですが」

「ああ、本日お渡しした書類のことですか? 目ぼしい方でもいらっしゃいましたか?」

「はいっ! わたし、この方のもとに嫁ぎたいのですっ!」

「……はい?」

 どうやら担当者は冗談で言ったらしい。

 わたしが差し出す書類を見て、次にわたしを見て、そしてわたしの伴侶選びはラ・シエテさま以来の大騒動に発展した。



「なぜ彼なのです」

 答えなどない。あの人の傍にいたいから。

「他にお心にかなった者はおりませんか?」

 あの人以上に気になる相手などいない。

「書類の見方がわからなかっただけではないのでしょうか」

 わたしはそこまで馬鹿だと思われているのか。

 あからさまに「嫁ぎ先を変更しろ」と要求しているのか、数人がかりで私室に閉じ込められた。

「理由はありません。変更もしません」

「エル・トゥレスさま」

「あら、だって、これは嬰児の意思が最優先されるのでしょう? なにか不都合があるのでしょうか。わたしは確かに、候補者の書類の中から選んだのですよ」

 苦い顔で一同が押し黙る。

 屁理屈でも良い。分はわたしにあるはずだった。

 中でも一番、ガレがしぶとかった。

「もっと良いお相手がいると思います」

 ずい、と書類の束をわたしに押し付ける。

 他の誰かなら無視できても、わたしはガレに弱いのだ。

「もう、十分吟味しました」

「即日決定は吟味したと言いません。再考する余地は十分にあります」

「わたしが決めたのよ」

「まだ、決定してはおりません」

「嬰児の意思が最優先じゃなかったの?」

「当然最優先されますとも。嬰児さまの人生なのですから。ですから、期日満了まで十分にお考えくださいと申し上げているのです」

 あからさまに反対とは言わない。ただ、再考を促すガレの言葉は強固で厄介だった。

 わたしの心は決まっているのに、周囲がこれほど反対するとは思ってもいなかった。

 ラ・シエテさまも、このしつこい問答をはねのけられたのだろうか。

「その男の素行調査です」

「いらないわ」

「是非ともご覧ください。後で内容をお伺いさせていただきます」

 それって読むことを強制しているのよね。

 不貞腐れて受け取ると、ガレは退室していった。

 興味はないが、一通り目を通す。

 派手な女性関係が羅列していた。

 でも、専門のお店に通うのなら仕方がないじゃない。

 恋愛だって、経験がないと言われるほうがおかしいのよ。

 世間と隔離された嬰児じゃあるまいし。

 ぶつぶつと文句を言いながら読んでいく。

 そりゃ、こんな内容、読んでいてもちっとも楽しくない。

 他の女性と仲良くしているあの人なんて、想像したくもない。

 泣きたい気持ちにだってなる。

 わたしは、渡された書類にあった人を選んだだけじゃない。

 こんなに寄ってたかって反対するくらいなら、あの人を名簿に入れてぬか喜びなんてさせないでよ。

 なによ、皆さん美人で綺麗で、あの人の目にとまって良かったわね。

 どうせわたしは、あの人に顔も知られていない嬰児よ。

 立場的に不利なのよ。

 世慣れていないし、あの人の好きな事も好きな物も知らない。

 遠くから見て喜んでいる覗き魔みたいなもんよ。

 だからなに?

 これから頑張れば遅くないでしょ?

 渡された書類を見ながら泣いていたわたしは、いつの間にか眠っていた。



 翌朝、わたしの部屋に来て叩き起こしたのはガレだった。

「いかがでございましたか?」

「……羨ましかった」

 ぴしっと何かが凍りつくような音が聞こえる。

 不貞腐れたままのわたしと、凍りついたガレの無言の冷戦は昼まで続いた。

 昼で中断したのは、庭の世話があったからだ。

 やる気なく自分の庭に立つ。

 ぱちゃぱちゃと水をかけてまわるが、どこにどれだけ撒いたのか覚えていない。

 どこかに水分調整が必要な植物があった気もするけれど、どうでもいい。

 ふと気付く。種達の声が聞こえなくなった。

 おかしいな、と思ったときだ。

「こんにちは。エル・トゥレスさま」

 振り返るとそこにいたのは、見るからに貴族と思しき若い男性だった。

「どちらさま? 嬰児の庭へ立ち入ることは関係者でも禁止されているはずですが」

「何事にも例外というのはあるのですよ。とはいえ、さすがにそちらへ降りることはできません」

「貴族の方が、なんのご用かしら」

「貴女が一番よく、理解していると思いますけどね。どうぞこちらへ」

 幼子に言って聞かせるような口調で、彼はわたしを建物の中に促した。

 知らないふりをしていても、わかっていた。

 きっと彼は聖殿が選んだわたしの夫になるはずだった人だ。

 わたしがあの人を選ばなければ、「お任せします」と言えば会う予定だったはずの人。

 わたしの嬰名を呼べるのだから間違いない。

 渋々と呼ばれた場所まで赴く。

「どうぞおかけください」

 椅子を引いた状態で待たれては、無碍にするわけにもいかない。

 不満を隠さないまま、わたしはそこに腰を下ろした。

「自己紹介からはじめましょうか?」

「いりません」

「では、お茶でも……」

「ご用件は何でしょう」

 彼の気遣いを遮り、わたしは単刀直入に尋ねた。

「ご存知だと思いますけど」

「わかりません。はっきりと仰ってください」

 曖昧に誤魔化す貴族の言葉遊びは嫌いだ。

 優しい言葉で相手を罵倒するくらいなら、正面から怒鳴られたほうがいい。

 どんなに婉曲に誤魔化しても、わたしは彼を選べない。

 責められたなら謝ろう。

 嬰児の意思が最優先なら、わたしが妥協しない限り望みは叶うはずだから。

「意外と気が強いのですね。嬰児にしては珍しい」

「珍しい嬰児を見物しにいらしたのですか?」

「それもあります。ご自分で伴侶を選ぶ嬰児はとても珍しいですから。それに、聖殿の奥に入る機会など生涯に一度あるかどうか。これはゆっくりと見て回る価値がある」

 聖殿が昨日から大騒ぎしていることは知っている。

 わたしを私室に押し込めている間、なにを考えていたのかまでは知らないけれど。

 あの人の女癖の悪さを知らしめて、落ち込んだわたしを励ます作戦でもあったのだろうか。

 でも、目の前の人はまったくわたしを励ます気はなさそうだ。

 言葉通り、珍獣の物見にきましたという雰囲気がある。

 聖殿の内部や嬰児の庭を興味深そうに見ているし、いまも柱の模様が美しいと褒めている。

 本当に何をしに来たんだろう、この人。

「見学したければご自由にどうぞ。許可されているのでしたら問題ありませんでしょう」

「案内はしていただけないのですか?」

「必要には見えませんが」

 悠然と構えている彼は、案内もなくこの庭までやってきた。

 当然、帰るまでの順路も把握しているだろう。

「哀れな男に少しくらいの慈悲を下さっても良いとは思いませんか?」

「どこに哀れな男がいるのです?」

「目の前にいるでしょう」

 全然哀れに見えない。

 気のせいでなければ、余裕綽々でふんぞり返っているように見える。

 知っている限り貴族というのは尊大な人が多いけれど、張りぼてのように見せかけだけ繕っている人も多い。

 でも、この人は違う。当然のように身についている。

 おそらく、生まれながらの高位貴族だ。

「難しいお願いではないでしょう? 我が家が毎年聖殿に納める寄付の額を考えれば」

「申し訳ありませんが、存じません。ですが、出口までなら案内いたしましょう」

 なんかもう、面倒くさい。

 聖殿の寄付とか事務的な事、嬰児が知っているはずないし。

 とにかく、さっさとお引き取り頂きたいのだ。

 出口までの最短距離を案内したほうが、わたしの心の安寧には良いだろう。

 そう言って立ちあがったのは、わたしが先だった。

 すっと自然にあいた手を取られる。

 いつの間に隣に来ていたのだろう。彼はわたしの手を握っていた。

「あの、手……」

「女性をエスコートするのは男性の役目です」

 いや、聖殿のなかでエスコートとかいらないし。

 そっと外そうとしてみたが、離れなかった。

「貴女の案内なら最短距離でしょう? その短い時間くらい、資金源をもてなしてください」

 笑顔で接待を強要された。

 なんかわたし、昨日から色々と強要されることが多い気がする。

 ともかく、彼は手を離してくれる気がないのだろう。

 わたしは手の不自由さを諦めて、ここから出口への一番短いコースをたどり始めた。



「嬰児さまを伴って歩けるのは光栄ですね」

 え? 無理強いしたよね。わたし、最初は断ったよね。寄付とかちらつかせて脅したよね。

「満足いただけてよろしゅうございました」

 心の声とは裏腹に、微笑んでみせる。

 貴族に嫁ぐことを前提としているのか、嬰児が辞する最後の年は、こうしたわけのわからない礼儀と教養を教え込まれるのだ。

 お世辞とかいいから、さっさと帰ってくれないかな。

 彼の立場を考えれば、即刻退場は面子にかかわるのだろうけれど。

 だからわたしも、こうして嫌々ながら付き合っている。

 貴族の面子を潰していいことなんかない。

 嬰児でいるうちは保護されるけれど、もうじき聖殿を辞するわたしは、相手の体面や体裁ということも考えなければならないのだ。そう、教わった。

 真面目に勉強してきて良かった。

 彼の会話は「そうですか」という相槌一つで済ませ、他のことを考えていた。

 ふと、彼の歩みが止まる。

 出口まではもう少しだ。その無駄に長い足をもっと素早く動かしてほしい。

 仰ぐと、彼が苦笑していた。

「エル・トゥレスさま、私の話、聞いていらっしゃいませんでしたね」

 図星だった。「そうですか」の返答では珍妙になるなにかを話していたようだ。

「申し訳ありません。お世話している種のことを考えておりました」

 嘘だがこのさい仕方がない。

 もっともらしくて相手に非難されない言い訳がこれ以外に思い浮かばない。

「そういうことにしておいてさしあげましょう」

 とても嫌な返事が降ってきた。

 この人、苦手だ。本気でさっさと出ていってほしい。

「あの書類の束から、彼を選んだ決め手はなんですか? とお伺いしました」

 あの人を選んだ理由は、あの人だったから。

 それ以外にない。

 説明できないから言えずにいる。

「我が家の勝手な事情を申し上げれば、私の兄も数年前、嬰児さまの候補になっておきながらお断りされた過去があります。兄は嬰児さまに会って、きれいに諦めたと笑っておりましたが、私は解せません。兄弟立て続けにこのような仕打ちをされるほど、我が家に瑕瑾がありましたか?」

 彼や彼の家に瑕瑾はない。過去の出来事にも、多分ない。

 数年前、自分で伴侶を選んだのはラ・シエテさまお一人だ。

 ラ・シエテさまがお断りした相手と、わたしにあてがわれるはずだった相手が兄弟だったのは本当に偶然だ。

「いいえ、……なにも」

「納得いく理由をご説明いただけないのに?」

 返す言葉がなにもなかった。

 わたしがあの人を好きなだけ。

 あの人の傍で笑う顔を見たいだけ。

 ただそれだけの理由で選んだ。

「嬰児さまが自分で伴侶を選ばれるのは良しとしましょう。ですが、相手に拒否権がないことをご存知ですか?」

「え?」

「嬰児さまが選んだ相手に、もしも結婚を約束した他の女性がいたとします。でも、嬰児さまに選ばれてしまったなら、相手は嬰児さまを拒否できません。本当に思う相手と泣く泣く別れてでも、嬰児さまを受け入れることになるでしょう。心でどう思おうとも、幸せな、誉れある男として振舞うしかなくなります。ですが、聖殿が選ぶ私達にその心配はありません」

 すうっと血の気が引くような気がした。

 その可能性を、わたしはまったく考えていなかったのだ。

 あの人と将来を約束した女性が他にいるかもしれない、なんて当たり前のことを。

「見知らぬ誰かを押しのけてでも、自分の幸せだけを追求なさるのですか?」

 ぴくりと思わず握られていた手が反応する。

 そんなことはない。

 誰かを不幸にしても、自分が幸せになりたいなんて思わない。

「どうぞ期日まで、十分にお考えください」

 反応しなくなったわたしをその場に置き、彼は颯爽と出ていった。

 彼に残された言葉は、なによりも深くわたしを惑わせることになる。



 最近無性にラ・シエテさまにお会いしたいと思うことがある。

 あの方ならなんと言うだろう。

 彼と別れてから、わたしは部屋で塞ぎこむことが増えた。

 誰もなにも言わないけれど、様子を見られているのは感じている。

 頑張れば良いのだと思っていた。

 今からでも間に合うと思っていた。

 でも、あの人にもう将来を約束した相手がいたのなら、わたしはどうするのが良いのだろう。

 諦める? そんなの嫌だ。

 無理やりにでも伴侶になる? それも嫌だ。

 過去の女性遍歴なら、いつかきっと忘れられる。

 わたしのように拒否権のない相手に指名されたら、あの人はどう思うだろう。

 迷惑かもしれない。疎ましがられるかもしれない。

 憎まれても、恨まれてもいい。

 あの人はわたしの隣で笑ってくれるだろうか。

 そんなはずない。

「エル・トゥレスさま、起きていらっしゃいますか?」

「ええ。どうぞ」

 ガレの声に応じると、そっと戸が開いた。空気が入れ替わり、外の冷気が部屋の温度を低くする。

「お食事はきちんと召し上がってください。顔色が悪いですよ」

「食欲がないの」

「なにをお悩みなのか、話して頂けませんか? 勿論、私でなくても構いません。トゥレスさまが会いたい人物がいるのなら、お呼びいたしましょう」

「ううん、いいの」

 ラ・シエテさまを望めば会えるかもしれない。でも、あの方に助言されたなら、わたしは自分で決めることをせず、言われるままに従ってしまいそうだ。

 そんなことはできない。

 これはわたしが決めなければ。

 誰かに頼ってはいけないのだ。

「ですが……」

「自分で考えたいの。自分で決めたいの」

 わたしが自分で伴侶を選んだことは、聖殿中に知られていた。

 外部にまで詳細が漏れていないのは、わたしが最後に決定を覆すことを期待しているからだろう。

 わたしが聖殿の決定に従えば、皆に祝福されて聖殿を辞することができるのだろう。

 あの人を選べば、祝福されるかどうかも怪しい。

 本当に好きな相手の幸せを願うのならば、わたしが身を引くべきだろう。

 でも、できない。したくない。

 決断への時間だけは容赦なく刻々と近づいていた。



 期日の最終日がやってきた。

 わたしを含めた二名の嬰児が聖殿を辞する。

 もう一人嬰児、エル・ドスは既に聖殿の選択に「お任せ」したそうだ。滞りなく準備が進んでいると聞く。

「エル・トゥレスさま。決まりましたでしょうか」

「はい。最初に選んだ方でお願いします」

 散々迷って、散々悩んだ。

 わたしの出した結論はきっと正しくない。

 自分の浅ましさと強欲さに気持ち悪くなる。

 関係者の落胆した顔が見える。

 少しは期待していたのだろう。沈痛な表情に溜息の嵐だ。

 居た堪れない。まるで、断罪を待つ罪人のようだ。

「これは最終意思確認ですよ。これから先の撤回は難しくなります」

「構いません。すすめてください」

 この期に及んでなお、撤回できないと断言しないのがおかしい。

 難しくなるってなに? もう、覆せないのに。

 あの人は困惑した顔で承諾したと聞く。

 無理もない。わたしのことなど覚えていないのだから。

 時折、打ち合わせと称して聖殿に招かれるあの人は、いつも居心地悪そうにしている。

 ごめんなさい。わたしのせいね。

 でも、譲れない。

 誰かが泣いていたとしても、心は痛むけれど後悔しない。

 わたしが好きな人の隣に立つ力を持っているのなら、誰かを押しのけてでもあなたの傍にいたいと思ったの。

「遅い反抗期なのか? こっちは断られても別に困らないぞ。貴族のようにこだわる面子はないからな」

 何度か真意を疑うようなことを言うあの人に、わたしは黙して首を振る。

 あなたは知らなくて良いの。

 わたしが卑劣なのは自覚しているから。

 ねえ、もしもあなたに好きな人がいても、どうか言わないで。黙っていてね。

 あなたの口から聞かない限り、わたしは夢を見たままでいられるの。

 妻として、女として未熟なのは知っているけれど、精一杯努力するわ。

 わたしの全てをなげうっても、あなたが笑っていられるのならそれで良い。

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