2.
白い建物の中から庭の景色を眺めている。
見慣れた建物は堅牢で白亜、聖殿と呼ばれる嬰児の住まいだ。
壁一面の精緻な紋様は、嬰児を守るための物と言われているが、もはや真偽など不明。
嬰児は年々減り、誰も見つからない年もあるほどだ。
「トゥレスさま、またこちらへいらしていたのですか」
呆れたような声が背後から投げかけられた。
長年付き合ってきた彼女には、わたしの行動が手に取るようにわかるのだろう。部屋を抜け出してもすぐ、彼女には見つけられてしまう。
「だってガレ、もうすぐこの庭も見納めになるのよ」
「それほど庭が名残惜しければ、お残りになれば宜しいでしょう。トゥレスさまが望めば、聖殿に残ることもできるでしょうに」
嬰児が聖殿にいるのは成人まで。公にはそう決められている。
嬰児としての能力がそのあたりで枯渇するのだ。
名ばかりの嬰児が聖殿に残ることはできない。
ただ、元嬰児は引く手あまたに行き先がある。
仕事に邁進したければ王宮に仕官することもできるし、都の種苗屋では高待遇で雇用される。嫁ぎ先を探してもよりどりみどりだ。
嬰児の能力を己の血に混ぜたいと願う人は多い。
血による才能の継承は保証されていないが、期待をしてしまうのだろう。
行く先は嬰児の意思が最優先で決められる。
一番多いのは、名家に嫁ぐことだ。
嬰児は母神の才を受け継ぐ者、総じて女性ばかり。
聖殿で種の世話をすること以外、特殊な教育は受けない。
一般常識や一般教養までは身につけていても、突然世間の荒波に投げ出されて立てるほど世慣れていないし、強い自立心もない。
わたしも一般的な嬰児と同じく、嫁ぐことを決めていた。
「ガレはわたしを買いかぶりすぎなのよ。こんな微細な力で聖殿に残っても迷惑をかけるだけだわ」
わたしは珍しく、成人間際になっても能力を保っていた。
もともと強い力ではなかったけれど、消えることなく成人まで才能を保持できることは稀だ。
能力があれば、成人後も聖殿に残ることは許される。
種の声を聞き、育てあげる力さえあれば、いつまでも嬰児として保護されるのだ。
「だからと言って、なにもあんな男に嫁がれなくても、候補者は大勢おりましたのに」
「あら、ガレはわたしの未来の旦那さまのこと、嫌い?」
「私が個人的に嫌いなのではなく、あれは女性の敵でございましょう」
苦々しく断言する彼女の眉間には、深い皺が刻まれる。
確かに、異性関係の噂には事欠かない。
取り立てて整った容貌とはいわないが、人好きのする笑顔と話術に都合よく遊ばれた女性の話題は絶え間なく聞く。
あの人が嬰児の嫁ぎ先として候補に残れたのは、一重に聖殿に出入りする業者の一人で、年齢的に釣り合うというだけの理由だった。名簿で言えば末席の端になんとかひっかかっていた程度の相手。
名簿上位者には豪商の当主もいれば貴族の跡継ぎもいる。
極端に年回りが違う相手は、それだけで対象外だ。
嬰児は聖殿にいる間、その能力を国のために使う。僅かな時間しか使えない希有な才能を国に捧げる見返りとして、その後の人生の保証をされているようなものだ。
民間の小さな商人に嫁がなくても、わたしが望めばいくらでも受け入れ先はある。
能力が消えずにあるのだから、聖殿に残ることもできる。
「わたしのことより、ガレはどうするの? わたしが引きとめたから残ってくれていたのだろうけれど、あなただって元嬰児なんだし、私が聖殿を辞するのなら、身の振り方を考えないと」
ガレは元嬰児だ。わたしと同じ年に聖殿にきた最初の嬰児。
彼女のような元嬰児は珍しくはない。成人まで力があるほうが珍しいのだ。
かつてエル・ウノと呼ばれていた彼女は、数年で能力が消えてしまった一人だ。エル・トゥレスと呼ばれるわたしの面倒をよく見てくれた。早々に聖殿を辞そうとした彼女を引きとめ、自分の世話役にしてしまったわたしには、ガレの今後が気にかかる。
「確かに元嬰児という保証はされますが、私は聖殿から送りだされる嬰児様達と同列ではございませんので」
聖殿から直に送りだされる元嬰児と、早くに能力を失くしてしまった元嬰児のその後は少し違う。
どちらも引く手あまたに違いはないが、ガレのように現嬰児の世話役に抜擢される事もある。
かつて同じ能力を持っていた者のほうが、嬰児に色々と対応しやすいのだ。
「できればトゥレスさまの嫁ぎ先で、一緒に雇っていただけると助かります」
「まあ、名案ね。ガレが一緒に来てくれれば心強いわ。頼んでみるわね」
わたしはガレの苦笑に気付きながら、知らないふりをする。
半分は冗談なのだろうとわかっている。
きっとガレの不安はわたしのことだ。
大切にされるはずの元嬰児、敬われるはずの元嬰児。
あの人評判を聞けば聞くほど、嫌な予感だけが大きくなる。
「トゥレスさま、考え直す気はございませんか?」
何に対してのことなのか、わたしは呆れるほどにわかっていた。
ガレだけではない。何人もの関係者に、幾度も同じ質問をされてきた。
わたしが嫁ぎ先を決めてからこれまで、袖を引く者は後を絶たない。
「……ごめんなさい」
何度も繰り返してきた返答を口にする。
わたしだけは違うなんて自惚れているわけじゃない。
きっと、周囲の心配は的中する。
それでもわたしは望む。
あの人の傍にいることを。
結婚式は盛大だった。
嬰児の結婚式は、例外なく聖殿で執り行われる。
聖殿の嬰児が民間の誰に嫁ぐのかを、大体的に披露するためだ。
これからわたしは、嬰児とは呼ばれなくなる。
聖殿の関係者も参列し、あの人の商売関係者も集まり、元嬰児を妻に迎える家の誉れを大きく宣伝していた。
披露宴が終わり、わたしに与えられた部屋でガレと一緒に時間を潰す。
研ぎ澄まされたように色々な事に敏感になる神経は、式の緊張が続いているせいだろうか。
ガレが淹れてくれたお茶を口に含むと、少しだけ落ち着いた。
二間続きの部屋は聖殿にいたころの部屋の作りと似ていて、あの人が少しでもわたしのことを考えてくれたようで嬉しかった。
ただ、室内は殺風景であまり家具はない。
「元嬰児を迎えるにしては、馬鹿にしすぎです」
ガレが大層憤慨するので、わたしは言葉を失くして苦笑する。
聖殿を出るまでは何度も引きとめたくせに、ガレは結局わたしの嫁ぎ先についてきてくれた。
あれほどあの人を嫌がっていたのに、少し意外だと思ったのは内緒。
「別に必要ないわ。これまでだってそうだったじゃない」
窮屈なドレスは脱ぎ、身軽な服装に着替える。
本来なら、ここで新郎を待つのが新婦のあるべき姿だろう。
でも、わたしは待たない。きっとあの人は来ないから。
わたしに用意されたのは、屋敷の隅の部屋だ。あの人の部屋は屋敷の中央にある。義理の家族の部屋も同じ。
招かれざる客といったところだろうか。
覚悟はしていた。
あの人を選んだのはわたし。嬰児が選ぶ以上、あの人の意思は関係ない。
本当に思っている相手が別にいても、候補になり選ばれたなら、嬰児を拒否することなど出来やしない。
あれはそういう制度なのだから。
「さあ、明日からの新生活に備えて、今日は早く休みましょう。ガレも休んで」
物言いたげなガレの視線が少し痛い。
彼女の言いたいことはわかっている。
初夜に新婦をないがしろにする男のどこがいいのか。
彼女の瞳が雄弁に語る。
他人事ならきっと、わたしもそう思っただろう。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさいませ」
渋々と部屋を出ていくガレを見送り、わたしは微笑む。
きっと不思議でしょうね。わたしがなぜ相手にあの人を選んだのか。
見知らぬ誰かを押しのけてでも、わたしはこの場所に立ちたかった。
一月、二月と時が経ち、三月に入るころにはガレと二人で生活している毎日が普通になってきた。
聖殿にいたころと違い、植物の世話も種の声を聞く必要もない。
何もすることがないと、ガレでなくても溜息をつきたくなる。
「今日はいらっしゃれないそうよ」
「今日も、の間違いでございましょう」
夫の言伝を口にすれば、ガレの怒りに火を注ぐことになる。
私の夫は、結婚式以来、顔を合わせた回数の方が少ない。
ただ、稀に会うことがあれば、自分の予定は律儀に伝えてくる。
この家は朝食のみ、家族揃って食べることが習慣らしく、結婚式の後に放置された私にも、翌朝には声がかかった。
あくまでも仕事がなければ全員で、ということ。
わたしが夫や義母、義妹と揃って朝食をともにしたのは数える程度だ。
最初の頃は誘われるままに食卓を囲んでいたが、ガレに聞かれてその様子を話すたびに彼女の機嫌が悪くなる。
「元嬰児さまはなにも知らないのね」
彼女たちにそう言われるたびに、わたしはその通りだと思って頷いていた。
だが、それは世間で嫌味か皮肉という言葉の暴力であるらしい。
聖殿に長く住んでいたわたしに、そういった類のことを言う人はいなかった。
単に、なんでも率直にものを言うことが普通の家族というものなのかと思っていた。
まったく気付かなかったわたしがなにも知らないのは事実だ。
ガレの怒る理由がわからない。
ただ、唯一の味方を失くしたくないという打算で、私は朝食の席に着くことを止めた。
そんな彼女たちだが、夫がいるときには何も言わない。
普段はわたしが同席しなくても何も言ってこないが、夫がいるとわかっているときには報せが来る。今朝はそんな珍しい朝だった。
夫は月に一度くらいの割合で、わたしの部屋を訪れる。
お茶を飲んで、なにか不自由はないかという決まった言葉だけを告げると、少しの滞在で去ってしまう。
あの人の隣でお茶を飲む自分など、今までは妄想でしかなかった。
これからはたまにでも現実として起こりえるのだ。
今月は忙しくて、遠方に出向くので来られないと言われた。
少し残念に思う。
「ああ、でも、植物を少し育ててみたいとお願いしたら、好きにしろと仰っていたわ」
「それは喜ぶところではございません」
手を叩いて朗報を告げたのに、ガレは渋い顔のままだ。
この三カ月、手持無沙汰で仕方がない。
聖殿にいた時と違い、なにもすることがないのは苦痛だ。
「いいじゃない、好きに育てても良いって仰って下さったのよ。さっそく種を買いに行きましょう。種類はそうね、薬草関連がいいかしら」
まだ嬰児としての能力があるわたしには、難しいと言われている薬草でも、取扱に厳重な審査が必要な毒草でも入手可能だ。様々な調合も聖殿で教わっている。
わたしには夫の商売などよく理解できないのだから、自分に出来ることで役に立てるとすれば、このくらいしかない。
「頭痛、腹痛、鎮静くらいなら、面倒な手続きがいらない種で調合できるわ。ね?」
しばらく何か言いたげにしていたガレだが「はい、承知しました」と苦笑する。
種の声を聞き、育てるのは嬰児の本能に近い。
すべき目標があれば、人は前を向けるのだ。
義母や義妹に「こんなものを持ちこんで」と詰られたが、植物を育てることは楽しかった。
様々な鉢を並べ、一つ一つ違う種を植える。
幸いなことに、わたしの部屋は屋敷の中でも日当たりがよく、種の発芽には最適な条件も揃っていた。
最初は顔をしかめていた義理の家族たちだが、薬が色々と出来上がるとなにか納得したようで「人間、ひとつくらい取り柄があるものね」と褒められた。
嬉しくてガレに報告したのだが、怒られた。なぜだろう、珍しくわたしを認めてくれたのに。
「あんな人たちに嬰児のつくる薬など渡す必要はありません」
「なぜ? あの人も喜んでくれたのよ」
腹痛薬や傷薬は夫も重宝しているらしく「あれは助かった。また頼む」と言われたのだ。
「トゥレスさま。嬰児の薬はほいほいと無料で配るようなものではありません。市場では高値で取引される貴重品なのです」
「でも、わたしにできることはこのくらいしかないもの。役に立てたのなら嬉しいわ」
わたしが夫の商売の役にたつとすれば「元嬰児の嫁」という肩書くらいのものだ。
聖殿と取引のある、他の商売人より少しだけ信用が厚くなる程度。
「本当にそう思っていらっしゃいますか?」
ガレは真剣な顔でわたしの顔をのぞきこんだ。
「ご当主には通っている女性がいるようですよ」
それはわたしも知っている。
口さがない使用人は大勢いるし、彼等がなんの気なしに話す言葉を拾うこともある。
聞けば胸の奥が痛むけれど、その痛みの名をわたしは知らない。
「今ならまだ、聖殿に戻ることもできましょう。嬰児は貴重です。こんな場所でうらぶれるより、トゥレスさまはもっと正当な評価をされる場所にいるべきです」
わたしは夫と寝室を共にしていない。
だからまだ、聖殿に戻ることはできる。
でも、わたしは頷かない。
「ごめんなさい、ガレ」
「なぜですか?」
理由はある。でも、誰にも言いたくない。
「そうね、強いて言うのなら、あの人はわたしの太陽だから。あの人が笑っていてくれるのなら、わたしは幸せなの」
そう、幸せなのだ、きっと。
聖殿にいて、遠くからあの人を見ていたころよりもずっと。
傍にいて、顔を見ることができる。触れられる距離に近づける。
「私には……理解できません」
ガレに声には悔しさが滲む。
わたしのことを思ってくれていることが痛いほどにわかる。
でもお願い、否定しないで。
誰よりも我儘なのはきっと、わたしなのだから。
わたしの作る薬は義理の家族やその親類には好評で、大量に依頼してくることもある。
無茶な要求は拒み、できる範囲で渡すようにしていた。
義母も義妹も少しずつ態度が和らぎ、種とか鉢の購入に関してはなにも文句は言われなくなっていた。薬の調合に必要な高価な器機も与えてくれた。
「都合よくトゥレスさまを利用しているだけです。お礼を言う必要すらありません」
高価な器機を部屋に届けられたため、お礼に伺おうとしていたわたしとガレは少しだけ言い争った。
奇しくも、ガレとそんな諍いがあった日だった。
珍しく夕餉に来るようにと報せがきた。
なんでも夫が珍しいものを持って帰ってきたらしい。
ガレは相変わらず夫や家族をよく思っていないようだったが、仕度は手伝ってくれた。
食堂に行くと、大きな机が運び込まれ、その上に見た事もないような装飾品が所せましと並んでいた。
義母も義妹も、その机の前で珍しい品に魅入っていた。一歩後ろで嬉しそうな顔をしている夫を見つける。
「おかえりなさいませ、旦那さま」
「ああ。お前も好きな物があったら持って行くと良い。聖殿の修復に携わった職人が手慰みに作ったもので、帰郷するときの家族の土産代にしたいらしい。買ってやれば喜ぶぞ」
百年に一度、聖殿の修復が行われる。
腕に定評がある職人は各地から集められ、修復に携わる。
わたしが聖殿にいたころに修復はなかったが、そんな時期になっていたのだろう。
都だけではなく、四方八方から職人が集められるので、珍しいものが多くあった。
仲買の仕事として臨時で請けたのだろうか。
上流階級向けの豪華さはなく、木製の庶民的な物が多かった。
「兄さん、これはなに?」
「それは簪といって、髪を飾るものだ」
「これは櫛のように見えるけれど」
「ああ、飾りを兼ねた櫛で、結いあげた髪に挿すものらしい」
都ではあまり見ない鳥や蝶を模した装飾もある。見た事もない花のような形もある。
わたしも物珍しさにひかれ、机の前から動けずにいた。
義母や義妹のように手に取る勇気はないが、遠目に見ているだけでも面白い。
わざわざ招かれる職人だけあり、どれも素晴らしいものだった。
「全部素敵ね。あれもこれも欲しくなるわ」
「そうね、目移りして困るわね」
「おいおい、一人二つくらいまでにしておいてくれよ。こっちの財布がもたないぞ」
上機嫌の母と妹に声をかけると、夫はわたしにも視線をむける。
「好きな物を選ぶと良い」
夫に笑いかけられたのは、これが初めてだ。
機嫌の良さも手伝ってか、いつになく嬉しそうだ。
わたしは思わず頷いた。
装飾品にあまり興味はないが、夫が笑いかけてくれることが嬉しかった。
「あたしこれとこれにするっ!」
「じゃあ、私はこれらを」
早い者勝ちと言わんばかりに義妹が二つ、両手に握る。義母は大きな貴石が入ったものを二つ選んでいた。
見ているだけで満足していたわたしは、なんとなく目についたものを一つ選んだ。
「これ、よろしいでしょうか」
派手さはない。物珍しさも異国情緒もない。ありきたりな細工物だった。
「ああ、それか。それは都の見習い細工師のものだが、そんなもので良いのか?」
「はい。見ていてなにか魅かれるのです」
わたしの言葉に、夫は笑う。
「そうか。それはまだ見習いだが、有望だと目をつけている奴の品だ。今は大した値などつかないが、おれの目が確かなら、将来それが一番高価になるかもしれないな」
夫の言葉に義母と義妹は一瞬不満そうな顔をしたが、一番安いものを選んだわたしへの文句はないようだった。
晩餐はいつもより遅く始まった。
義母が聞いてきた噂話をし、義妹が欲しいものを夫にねだる。そして、夫は仕事で見聞きした面白い話を披露して場をにぎわせていた。
わたしはずっと、懐にしまった小さな細工物が気になって、その日の会話は殆ど覚えていない。
彼が夫の部下になったのは、雪の降る時期だった。
朝食の席で、これから屋敷にも出入りさせると言われて紹介された。
義母も義妹も、若くて整った容貌の彼を気にいったようだ。
私にはあまり関係のないことなので、一応顔を覚える程度には見ておいた。
とても綺麗な仕草に極上の笑顔を張り付けている、そんな気がした。
夫いわく彼には商才があるようで、片腕として仕込むつもりだとも言う。
なにか嫌な予感がした。
例えるのなら薄曇りなどではなく、目に見える暗雲を運んでくる。
彼を見た最初の印象は不吉なものでしかなかった。
ただ、そんな漠然とした予感など、誰にも言えるはずがない。
ましてや、嬉しそうな夫の顔を見ていると、無駄に不安を煽るようなことは言えない。
わたしは夫の商売に関しては何も知らないのだから。
そう、わたしにとって大切なのは夫だけ。
彼がどんな人物であろうとも、夫が笑ってくれるのならばそれで良い。
「見知らぬ者が出入りしているようです」
ガレに言われて、彼のことを話すのを忘れていたことに気づく。
「夫の部下のかたね。この間の朝食で紹介されたわ。ガレに言うのを忘れていたのはわたしの落ち度ね、ごめんなさい」
「それは構いませんが、あの者には不穏な気配を感じます」
ガレも? と聞くことは憚られた。
わたし一人ならばともかく、ガレとともに重なる勘は単なる思い込みで済まないことが多い。
嬰児は目に見えないものを読む。種の意思もその一つ。
芽を出し育とうとする気配にはより敏感になる。
わたしたちは元嬰児だ。気を読むことには長けているが、他人を陥れるような言葉は控えるのが常。
予感通りに育たないことはままあるし、一見良くない気をまとっていても、擬態ということがある。
ある程度の確信がなければ、見える気の行方は口にしない。
「そう。でも、もう少し様子を見てみましょう。夫は彼をとても信頼しているようなの」
商売に関することを話し合ったり、大切な得意先を任せたり、他の従業員には関わらせない深い部分まで彼には教え込んでいるようだ。
商才の有無はわたしにはわからない。
あの人が彼を見込んでいるというのなら、あるのかもしれないという程度。
「トゥレスさまがそう仰るのなら」
ガレはすぐに頷いた。
気の読解はわたしよりもガレのほうが優秀だった。
わたしはいつもなんとなく、でしか判断できない。
願わくば何事もなく過ぎますように。
抱える不安に蓋をして、わたしは考えないことにした。
彼の立ち振る舞いは見事だった。
わたしが考えることを放棄している間に、彼は義母に取り入り、義妹の心に入り込んだ。
本当は、わたしにも取り入るつもりだったのか、屋敷に来るたびにわたしの部屋を訪れた。
ガレはそれを嫌がり、わたしも極力避けたため、彼とは常に一定の距離を保ったままの関係だった。
それが災いしたのかもしれない。
気付いた時に彼は、義母や義妹と一緒に食事をとるようになっていた。
夫ではない人が主の席に座り、彼の機嫌をとるような義妹の態度が不遜さに拍車をかける。
義母は義母で二人の仲を取り持つように、しきりと結婚をちらつかせていた。
夫が知ればどう思うだろう。
義妹と彼の結婚により、仕事だけではなく身内としても頼りになる相手だと思うだろうか。
夫がいるときの彼とは違い、屋敷の中ではまるで自分が主人だと言わんばかりの傲慢さを見せることもある。
わたしに向けてまで威張ることはないが、使用人の何人かはそれが理由で辞めていった。
「元嬰児が嫁すと、その家は栄えるといいますが本当なのですね」
なにかの時にそう言われ、わたしは初めて不快だと思った。
義母や義妹にはこれまで、なにを言われてもなにも感じなかった。
あの人達は心の底から私を憎んだり疎んだりしているわけではない。
夫という家族をわたしに取られたという悔しさは感じたが、それまで自分達がいた場所に、余所者が入ってきたのが気にいらなかったのだ。
彼女たちを差し置いてわたしが出しゃばらなければ、元嬰児で薬もつくれる便利な女、というくらいにしか認識されていない。
高価な薬をつくれる嫁なら、親類にも大きな顔で自慢できる。
元嬰児という肩書も、十分役に立つ。
商売敵と手を組むために女性を迎えるよりは、はるかに有利だった。
自分達の贅沢を妨げないのならばそれで良い。
そんなことを言われた過去もある。
おそらく本心だったのだろう。
少し悲しいけれど、それはそれで仕方がないと思う。
無理を言って夫に嫁いだのはわたしのほうだ。
でも、彼は違う。
柔和な顔で微笑みながら、その目が少しも笑っていないのだ。
わたしを見る目も、まるで商品の品定めをするような検分の色がある。
怖い、と思った。
結果的に、わたしはもっと彼を避けるようになった。
部屋に引きこもるようになったわたしは、ガレに頼んである数種類の種を買ってもらうことにした。申請を出し、聖殿から届くまでに一月はかかる。
どうか間にあってほしい。思い違いであってほしい。
そんな祈りを嘲笑うように暗闇は伝播していた。
染まることは拒むことよりも簡単だったのだろうか。
「娘と結婚して、あなたがこの家の正式な跡取りになれば良いのです。息子は前妻の子であって私の子ではない。今まで贅沢させてもらったことには感謝しますが、私は我が子に幸せになってほしいのです」
庭で種の世話をしていたわたしの耳に届いた義母の声に、戦慄を覚えた。
告げる相手は、一人しか思い浮かばない。
あれほど夫に大切にされていたのに。
あれほど夫に信頼されていたのに。
なにか冷たく重苦しいものが、空気とともに身体の奥に沈んでいく。
「それは構いませんが、当主の奥様である元嬰児さまはいかがいたしましょう」
「あれは金を生み出す卵。適当に言いくるめて飼っておけばいいでしょう」
外聞も良いですしね、という低い声は笑いを含んでいる。
「まだ時期ではありません。私は当主に仕事の全てを教わっていませんから」
含まれる空恐ろしい意味に、わたしも気付いた。
時期が来れば災いとなる。確実に、彼はあの人を追い詰めるだろう。
ガレに頼んだ種が手元に届いたのは、そこの頃だった。
「トゥレスさま、このようなものを何に使うのですか?」
ガレの疑問はもっともだ。
薬草と毒草は紙一重。使用法、調合法一つでどちらにもなるものが多い。
腹痛薬や傷薬と違い、高値で取引されるこれらの植物は、種だけ渡されても育てられないことが多い。
それでも厳重に管理され、渡す相手を選ぶのは、種そものもにも効用があるからだ。
「たまには気難しい子たちも相手にしてみようかと思ったの。規定通り、ちゃんと聖殿にも半分はお渡しするわよ」
嬰児の能力がないとなかなか芽吹かない植物は、収穫のとき、聖殿に半分を治めるのが決まりだ。
「種の声が聞けるうちにしか、できないことだもの」
「それはそうですけど」
怪訝な顔をしていたガレだが、すぐに笑顔にかわる。
「トゥレスさまの能力がまだ消えていないことを知り、聖殿にいらっしゃる皆様、喜んでいましたよ」
喜ぶべきことなのだろうか。
嬰児が少ない今、貴重な種を確実に育てられる人間は必要だろう。
でも、それはわたしじゃなくても良いはずだ。
「では、もっと喜んでいただけるように種のお世話をしなくっちゃね」
「私もお手伝いいたします」
「ありがとう」
わたしはこの時、上手く笑えていたのか自信がない。
本当の目的を知れば、ガレは怒るだろうか。悲しむだろうか。それとも、聖殿までわたしをひきずっていくかもしれない。
ごめんなさい。なにも言えずに誤魔化すわたしを許してくれとは言わないけれど。
でも、どうか気付かないで。気付いていないふりをして。
わたしは一番信頼している彼女に、そっと背を向けた。
何事もなく日々は過ぎていく。
彼は相変わらず屋敷に出入りし、主に義母と義妹の機嫌を取り、たまにわたしの様子を伺いに来た。
「ご当主に報告の義務がありますから」
綺麗な笑顔でつげる言葉に、真実味は感じられない。
世間知らずな元嬰児。
そんな蔑みとも恐れともとれる微妙な感情しか読みとれない。
嬰児を傷つければ厳罰に処される。外聞も良くない。一般人相手に重罪を犯すよりも深く長く、親族まで含めて周囲から侮蔑されるのだ。
単独で国益を担う嬰児の地位はそれほどに高い。
わたしには手を出しあぐねているのか、彼の品定めをするような視線は時折まとわりついていた。
元嬰児という存在が珍しい事もあるのだろうが、とにかく気持ちが悪い。
「恙無くすごしておりますとお伝えください。ごきげんよう」
「つれないことを仰らず、たまには会話を楽しんでくださいませんか?」
「楽しい会話は相手を選びますでしょう。どうぞお引き取りを」
笑顔のまま退席せず、反対に近づこうとした彼の前に立ったのはガレだった。
辛辣な言葉に反し、彼に負けない笑顔で開け放った戸のほうへ促した。
彼は不満そうだったが、しつこく食い下がることはせずに出ていった。
「差し出がましいことをいたしました。お許しを」
「いいえ、助かったわガレ。でも、あなたは大丈夫?」
彼の屋敷での影響力は無視できないほどになっていた。
義母の助けもあるだろうが、それ以上に義妹の交際相手として、当主の片腕として、ゆるぎない立場を築いている。
このままではいけないとわかっている。
残された時間もそう長くはないだろう。
「私を解雇できるのはご当主だけです」
元嬰児につき従ってきた専属侍女は、義母の差配では解雇できない。
それだけは救いだった。
屋敷の中には、大人しい口数の少ない使用人しかいない。諫言しようとした者は解雇されたと聞く。
商売のほうの従業員でも、心ある者はそれとなく夫から遠ざけられたそうだ。
「大事になるまで見抜けなければ、それもご当主の器ということでしょう」
わたしが嫁いでからずっと、夫からの伝言を報せに来てくれていた使用人が辞すときに、そんなことを言われた。
至言なのかもしれない。でも、達観できるほどわたしは強くない。
最後まで足掻いてみようと思った。
誰が夫を見捨てても、見限っても、わたしはそうしない。したくない。
「それにしても、随分と育ちましたね。もうそろそろ初葉を摘み取る頃合いでしょうか」
窓辺に並ぶ鉢植は多く、中には民間に伝わっていないものもある。
ガレが知っているのは、元嬰児だからだ。
「そうね。そろそろ摘み取りましょうか」
葉の薬用は色々ある。聖殿に届ければ喜んでもらえるだろう。
「聖殿には乾燥させてから届けたほうがいいわよね」
「まあ、手間が省けますからね」
「時間だけはあるのだから、そうしましょう」
本当の目的は別にある。わたしはこの植物の根が欲しいのだ。
葉や芽、花とまるで違った効能を持つこの植物の根は、一般には決して出回らない。
葉を摘み取った後、焼却処分されるはずの根を回収するのに、時間を少しでもかせぎたい。
「花を咲かせて新しい種子を取るまで頑張ってみようかしら」
「それはちょっと。私はそこまでお手伝いしませんよ」
種類を考えれば数年がかりになる話だ。ガレが躊躇するのはわかる。
「冗談よ。それまで私が能力を保っている保証もないのだし、無茶はできないわ」
「ご理解していただけているのなら、それで良いのですよ」
ガレは優しく微笑む。
何故だかそのとき、全てを見抜かれている気がした。
漆黒の闇が背後まで近付いてきているのを感じる。
音をひそませていても、わたしにはわかる。
夫が時折、気だるそうにしている様子を何度か見かけた。
「旦那さま、お加減が悪いのですか?」
「いや、なんでもない。疲れているのだろう」
疲れとは明らかに違う気の流れが見えるのに、夫のほうが気のせいだと思っているようだ。
かといって、本当のことは言えない。
毒を盛られているのかもしれない、なんて。
夫がどれほど家族を大切にしている人なのか、わたしは知っている。
義母に殺されようとしているなどと告げても信じてもらえないだろう。
彼が夫を裏切っているという、確たる証拠もない。
仕事に関して、わたしは門外漢なのだから。
わたしに見える不穏な気配の流れは、聖殿にいる嬰児としてなら聞き届けてもらえるかもしれないが今は違う。
いかほどの信頼性があるだろう。
「疲労回復に効く薬をあとでお持ちします」
「ああ、それは助かる」
義母の視線が鋭くなったのを感じるが、素知らぬふりをして食事を続ける。
わたしが薬をつくるのを止める理由はないだろう。
彼女とて、わたしの薬を重宝している一人なのだから。
聖殿に分けてもらった植物の根は保存してある。
あれを使えば良い。
わたしにできることは限られている。
その後、夫に渡した薬の効果は目に見えて現れた。
義母や彼が首を傾げるほど、夫は瞬く間に復調したのだ。
「あの薬はよく効くな。また頼む」
「少し時間がかかりますけれど、必ず」
あれは解毒剤だ。あの植物の根は、他の異物を体内から排出する効果がある。
世間ではあまり知られていないけれど、聖殿ではよく知られていた。
聖殿だけで管理されている種なので、それほど周知されていないだけ。
知識として知っていても、種が手に入らなければ作れない。
飲まされた毒が遅行性で良かった。
わたしは愚かにも、それで全てが解決したような気になっていた。
「聞きましたよ、奥様」
彼がわたしの部屋を訪れて開口一番に笑う。
誰からなにを聞いたと言うのだ。
「ご当主にお渡ししているこれ、疲労回復の薬ではなく、解毒薬だそうですね。それも、ある種の植物しかとれない貴重なもの。王族か聖殿の嬰児にしか使用を許可されないほど貴重なものだそうですね」
彼の指先で転がる丸薬は、わたしが夫に渡したあの薬だった。
なぜ彼が持っているのだろう。
「ああ、何故持っているのか不思議ですか? ご当主にお願いしたら快く分けてくださいましたよ。よく効くと仰って」
彼の笑顔が気持ち悪いと感じる。
夫の信頼を逆手にとって、自慢そうに語るその神経がわからない。
「さすが元嬰児さまは違いますね。どこで聞いたのか知りませんが、余計なことをしてくださいました」
丁寧な口調がわたしを嘲笑っているように聞こえる。
事実、面白くないのだろう。
彼の眼だけが冷たく光る。
「薬に関しては、町の名医でも嬰児さまにはかなわないそうですね。ご当主を毒殺するのは諦めましょう。なに、問題はありません。もともと、毒殺などという手掛かりが残りそうな手段には反対だったのです。ということで奥様、ここはひとつ賭けをしませんか?」
「わたしには……あなたがなにを言っているのかわかりませんし、賭けとやらをするつもりもありません」
鼓動が耳元で聞こえる。まるで全身が脈打っているかのようだ。
緊張のあまり、しらを切りとおせてはいない。
口調も固く、彼の目を見ることすらできない。
自覚はあっても引くわけにはいかなかった。
「奥様にとっても、そう悪い話ではないと思うのですよ。この賭けにのってくださるのなら、その間、ご当主の無事はお約束いたします」
思わず顔をあげると、彼と目があった。
彼にとって夫は邪魔なはずだ。
そもそも、わたしとなにを賭けるつもりなのだろう。わたしには薬以外、さほど価値はないというのに。
「ここに一つ珍しい種があります」
彼の差し出したものを見て、わたしは震えた。
奇妙な歪みをまとう種は、この時間にあっていない。
まるで、時間律を歪めた先から取り出した遺失物のようだ。
「この種を奥様に処分していただきたいのです。どうやら、この種は持ち主が変わるたびに変死するといういわくつきの代物でして、それでいて燃やしても刻んでも翌日には元の形に戻っているそうなのです。災いを運ぶと嫌われている物ですが、さすがに元嬰児さまは植物を嫌ったりなさいませんよね?」
なぜ平気な顔で持てるのだろう。そんな歪な物を。
彼が一歩近づくと、わたしは一歩後退する。
少しだけ片眉をあげ、彼は笑った。
「おや? 元嬰児さまともあろう方でも、これは怖いものですか?」
「怖いというより、それは存在を許されないものです」
「ならば、なおさらです。これを嬰児の力とやらで、処分するなり眠らせて頂きたい。嬰児とは種の声を聞くことができるのでしょう? 育てるのではなく、説得でもして長く眠ってもらえませんかね。かなり迷惑なほど、被害がでているのですよ」
それはそうだろう。これは時間を違えたものだ。
燃やすにしても刻むにしても、元の時間で行わなければ意味がない。
翌日に復元されるのは、存在する時間がずれているからだ。
「処分を任されたのですが、どうにも手にあまりまして」
「任された? 誰にです」
夫がこれに絡んでいるのだろうか。
わたしの不安はすぐさま彼に否定される。
「ああ、ご当主じゃありませんよ。奥様の知らない人間です」
怪しい存在なと知りたくないし、追求したくもない。
ただ、その種も苦しそうに見えた。
時間律を狂わされ、そぐわない時代に落とされた迷い物。
「手段は問いません。なくなればそれで良いのです」
わたしは彼を、まだ疑わしく思っている。なかなか受け取らないわたしに、彼はその種を投げてよこした。反射的に受け取ってしまう。
「ご当主が明日にでも事故にあわれるほうがお好みですか?」
返答につまる。
わたしは夫に生きていて欲しい。
夫にはずっと笑っていて欲しい。
悲しんだり苦しんだりしてほしくないのだから。
それは、ガレがお茶を取りに退席している僅かのことだ。
「お待たせいたしました」
急いで戻ってきたガレの声に、わたしは思わずその種を隠し持った。
厄介なものだと、見ただけでわかっていたというのに。
ガレの入室でうやむやになってしまったけれど、わたしにあの種は荷が重い。
どうにか彼に連絡を取って返したいと思うのだが、肝心の種が見つからない。
あの日、受け止めて隠したはずの場所にはなにもなかった。
ガレには言えないでいる。
夫に渡した丸薬は門外不出の調合だ。勿論、わたしやガレが服用する事に問題はない。夫まではなんとか許されるはずだが、部外者である彼の手に渡り、市井の専門家に渡ることは許されない。
そう簡単にわかるようなものではないけれど、材料も入手できないはずだけれど、不安が心から離れない。
「トゥレスさま、なにかお悩みなのですか?」
「いいえ」
わたしを案じるガレには申し訳ないと思う。
無用な心配をさせるべきではない。彼女はこの家と単なる雇用関係しかないし、彼が持ちこんできた厄介事とはさらに関係がない。ましてやあの丸薬に関してなど知るはずもない。
万が一を考えると、ガレを巻き込むことはできない。
空いた時間を使って、わたしは部屋の中を隅々まで探すことしかできなかった。
自分の体調がおかしいと気付いたのは、それから数日後のことだ。
鼓動に重なり微かに聞こえる息遣いのような気配がある。
ひそやかに、それでいて徐々に大きくなっている。
その気配の異質さは、あの種から発せられていたものと似ていた。
わたしの一部に同化しているのか、確かな場所が掴めない。
解毒作用のある薬草を集め、薬を調合してみたがまるで効き目はない。
色々と試した結果、あの種は嬰児の能力と相性が良いようだということが分かっただけだった。
芽吹こうという意思はなく、ただ自分の存在をこの時間にあわせるように、徐々にわたしとの同化を深めていく。
嬰児が種と同化したという話など聞いたことがない。
聖殿に知らせれば自然、丸薬のことや薬草のこと、ひいては家中の問題まで明るみに出てしまう。
そんなことは決してできない。
繰り返す逡巡と迷いが、決断を遅らせていた。
夫が苦しむことを承知で、彼のことを告げたほうが良いのだろうか。
それとも、このままわたしが種を処理できたら何事もなく終わるのだろうか。
彼のことは信用できないが、夫に服毒させないという約束は守られているようで、時々同席する食事の席で不安になるような変化はなかった。
わたしのなかで徐々に広がる異質な気配は、ゆっくりと違う形を作っていく。
その頃になってようやく、自分が種の苗床になっていることに気付いた。
この時間に種を馴染ませてはいけない。
必死に種の成長を押さえようとしてみたが、嬰児本来の能力は真逆のものだ。
目立った効果はなく、わたしは次第に自分の処し方を考えるようになっていた。
わたしが死ねば、身体を苗床にしている種もこの時代には馴染めない。
馴染めないからと言って存在が消えるわけではない。わたしのなかで広がった種は、もっと大きくもっと増えているはずだ。
種が残れば、彼は夫になにをするのかわからない。
もはやわたし一人の生死で決められるような段階ではなかった。
聖殿に伝えることも躊躇われる。
こんな異質な種の存在を、わたしは知らない。教わった覚えもない。
対処法があるかどうかも怪しい。
第一、夫の思い人を押しのけて妻になったわたしが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
悩んで迷って、なに一つ決断できないままに時間だけは過ぎていった。
目に見える変化として、徐々に眠る時間が長くなってきた。
食欲もなくなり、水しか欲しくない。暇があれば陽のあたる場所にいる。
まるで植物のようだ、と思った時、緩慢な死が自分に近づいてきていることを自覚した。
わたし個人の意思は徐々に薄くなり、眠っているのか起きているのかも怪しくなってきたころ、ようやく決心した。
残り少ない嬰児の力を注いで、自分ごと種を封印することを。
嬰児は成長の速度を管理できる。成長を止めることは難しいが、できる限り遅くすることはできる。
もう、この方法しか思いつかない。
わたしがわたしでいられる間に実行しなければ、もっと最悪の事態になるだろう。
「ねえ、ガレ。わたしに何かあったら、あなたはどうするの?」
「何かとは?」
「そうね、いなくなったり死んでしまった場合かしら」
「失踪なさったなら探します。お亡くなりになったのなら、実家に帰るでしょう」
意外な返答だった。
「え? ガレには帰る家があるの?」
「はい。この都の中に」
そんなに近くに戻れる場所があるのなら、心配しなくても良いだろうか。
「どうして急に、そのようなことを聞かれるのですか?」
「うん、聖殿から無理についてきてもらったから、気になって。本当はガレにも進みたかった違う道があったのかもしれないって思ったの」
「そのような気遣いは無用です。私は自分でトゥレスさまについて行こうと思ったのですから」
「嘘でも嬉しいわ」
「疑っておいでですか?」
「ううん、誰よりもガレを信じているわ。ありがとう」
聖殿に引き取られて以降、ガレには迷惑をかけてばかりだった。
言葉もろくに喋らないその年三番目の嬰児。一番目の彼女はいつも、わたしの手を引いて歩いていた。根気よく話しかけてくれたし、勉強もつきっきりで教えてくれた。
ガレがいなかったら、今のわたしはいない。
いつもわたしの先を行く彼女。ガレの背中を見ていれば、わたしは安心してついて行ける。
なのに、本当のことをなにも言えずにごめんなさい。
どうか、ガレだけでも自由に、幸せになって欲しい。
わたしはもう、幸せだから。長く憧れていた夢は叶ったから。
きっとこれは、自分の幸せしか考えなかった傲慢なわたしへの罰なのだ。
ゆっくりとヤーガスが目を開けると、見慣れない多くの鉢植が見えた。
しばらくぼんやりと眺めていて、ここが妻の部屋だったことを思い出す。
重ねた手はそのままで、やはり眠ったままの妻がそこに横たわっていた。
随分と長く鮮明な夢を見ていた。
あまりに克明で、色々と心の整理がつかない。
あれが単なる夢ではないことは漠然とわかる。
妻が見た過去なのだろう。
「お目覚めですか?」
無機質な女性の声がした。
妻の専属侍女だと理解するのに時間が必要だった。
「お前は……元嬰児だったのだな」
「今更それがなにか?」
彼女の返答は素っ気ない。もともと愛想はなかったが、理由を知った今、それほど苛立ちは感じない。
「お食事をお持ちしました」
「ああ、すまないな。外はまだ明るいようだが、あれから何刻ほどたったのだろうか」
ヤーガスは長い夢を見ていた心地だったが、窓から差し込む光を見ればそれほど時間は経っていないような気がする。
侍女が差し出すトレイを受け取り、聞いてみる。
「ご当主がこの部屋へ入ってからなら、六日ほど経過しております」
「えっ?」
想定外の返答に、ヤーガスは我が耳を疑った。
「その間、ご当主はずっと眠っておいででした」
「そ……そうか。誰か呼びに来たりはしなかったか?」
「いいえ、誰もおいでにはなっておりません。母君も妹君も、仕事関係のかたも来訪なさっておられません」
勤めて事務的に応えるガレは嘘など言わない。
雇用主の質問には事実で応えるのみだ。
「やはりあれは、夢であって夢ではなかったのだな」
ヤーガスは得心がいった。
数日の仕事を任せるつもりでいたが、彼はヤーガスの得意先全てを根こそぎ奪うつもりなのだろう。
義母にしても、妹可愛さにヤーガスを家から追い出すどころか、殺すことまで視野に入れていた。
なにも知らないだろう妹も、あの二人に良いように丸めこまれているだろう。
父から引き継いだ仕事だったが、ヤーガスは自分の仕事が好きだった。
やりがいは多分にあった。良い職人を見つければ嬉しかった。良い作品が出来上がれば我がことのように喜んだ。頼られれば応えたいと思ったし、大成した職人がわざわざ訪れてくれることも楽しみの一つだった。
「どうなさいますか?」
「なにがだ?」
「これからお出かけになると仰るのであれば、すぐに仕度をいたします」
彼女はどこまで知っているのだろう。
妻の視点から見た夢ではよくわからないが、想像以上に有能な人物のように思う。
ヤーガスがすぐさま出かけたくなるような事態がおきているのだろう。
彼女はきっと、妻を置いてヤーガスが出ていっても咎めない。
「いや、いい。今更足掻いても無駄だ。それよりも、妻が目覚めない原因がわかった」
「左様にございますか」
「聞かないのか?」
あれほど心配していた彼女にしては、淡泊な反応だ。
誰よりも原因を知りたがっていたのは、自分よりも彼女のほうだったはずなのに。
「私が伺っても、なに一つお役に立つことはできません。誰かに言うだけでも気が楽になると言うのであれば、不肖ならがお伺いいたします」
役に立てないと断言するのなら、彼女は知っているのだろう。
でも自分を気遣い、聞くことはすると言う。
「誰に聞いた? あの店主か?」
「少しは事情を知らないと困ることもあるだろうと、大まかに説明くださいました」
あの若い種苗屋の店主は、ヤーガスの期待以上に手を貸してくれたようだ。
妻の枕元には、彼女が持ってきた気持ちの悪い色の薬瓶が置いてある。
「あれから毎日薬を届けてくださいます。情けないことに、励まされることも多々あるのです。私はお傍にありながら、なにも気付けませんでした」
淡々と語る言葉に、哀しみと悔しさが浮かんでいる。
「それを言うのなら、なにも気付けなかった間抜けな当主の立場がない」
ヤーガスはこれまで、妻が何を考えているのか聞いたことがない。
元嬰児を妻に迎えるという誉以外を期待するな、と聖殿から言われていた。
妻という形で迎えても、彼女はいつかヤーガスのもとを去っていくものだと思っていた。
周囲の反対を押し切り、妻が望んで嫁いできたことなど初めて知った。
無言のまま否定も肯定もしない侍女を見て、ヤーガスは問いかける。
「なあ、どうしておれが嫁ぎ先に選ばれたのか、知っているか?」
「存じません。何度聞いても、誰が聞いても、教えてくださいませんでした」
夢の中と寸分たがわぬ返答がかえる。
あれだけは不思議だった。
妻の気持ちは真摯なものだった。あれだけの思いを向けられる理由が、ヤーガスには思いあたらない。
「なにかお心当たりがおありで?」
「いいや、まったくない」
聖殿にいる頃、遠目に見た記憶はあるが、言葉を交わした覚えはない。
ヤーガスは聖殿と取引のある商人ではあるが、末端の一人であり、嬰児の住まいがある奥まで行くことすらできないのだ。
「そうでございましょうね。私は聖殿にあがった直後からトゥレスさまを存じておりますが、ご当主に関連したなにかがあった覚えはないのです」
彼女が断言できるのならば、ヤーガスの記憶違いという可能性もない。
「皆、不思議に思っておりました。嬰児が聖殿を辞する時、大抵は聖殿の判断に従うのが常です。トゥレスさまのように自分で決められる方は大変珍しいのです」
外部との接触がない嬰児は、聖殿が薦める嫁ぎ先に応じるものだ。
それが一番確実で、間違いがない。
相手もそれなりに厳選されており、大切にされることが決まっている。
ガレの言葉にヤーガスも頷く。
「理由を、知ったほうが良いのだろうか」
「私には難しい答えです」
知りたいような、それでいて知りたくないような綯い交ぜな気持ちがある。
「ですが、彼の店主が申しておりました。全てを知らなければ、起こす術は見つからないだろう、と」
一を知り、十を理解できるほどヤーガスの頭はよくない。
一を知ったのなら、一しか理解できない凡人である。
「そうか。ではまたしばらく、手数をかけるな」
つないだままの手を見て、ヤーガスは呟やく。
知りたいと思う。
妻のためだけではなく、自分のためにも。
こんなに思われていることを知らなかった。気付かなかった。
夫として、ヤーガスはあまり褒められたことをしていない。
いつかいなくなる相手だと思っていたから、儀礼的な対応しかしなかった。
距離を縮めようとしたことも、妻個人について深く知ろうとしたこともない。
まだ間に合うのなら、やれることはやっておきたい。
仕事に関してはおそらく手遅れだろうが、妻のことはまだ時間があるのだから。
なにもせずにこのまま妻に死なれるのでは、誰のためにもならないのではないだろうか。
「私に出来る事でしたら、全力でお手伝いいたします」
ヤーガスはこの時、初めて妻の侍女から笑顔を向けられた。
二人の中で、確かに何かが繋がった瞬間だった。