6 うさぎの冒険
ウィーンはしばらく涙が止まらなくて目を擦りながら歩いていた。早すぎるエドの足を追うこともできなくて、懸命に視線を伸ばしてもその先に映りこむのは楽しそうな町人たちばかり。気がつくとバザールの中で迷子になっていた。
泣いているウィーンを気遣う者はない。それぞれ商売や買い物に忙しく、自身の日常を生きている。疎外感を感じて肩を落とし、数え切れない人波の中をとぼとぼと歩き続けた。
途中、鳥をたくさん売っている店があって、ウィーンは思わず立ち止まった。大きくて真っ赤な羽の見たこともない異国の鳥、ほとんどウィーンの背丈ほどある。首には頑丈な鎖が取りつけられていた。
「やあ、坊やいらっしゃい」
異国情緒たっぷりのターバンを巻いた色黒の男性が話しかけてきた。店の中はとても暗い。通りから見えないところでも生き物が蠢いている。少し恐れながら勇気を出して話しかけた。
「この鳥はどうして鎖でつながれているの」
「飛んで逃げてしまうからさ」
店主は奇妙な笑いを浮かべる、店の雰囲気と相まってよりいっそう不気味に見えた。この巨大な鳥が空を飛ぶのかと恐れを包み隠しながら、ガラス玉のような黒の瞳を見つめる。
「触っていいよ」
店主が気さくにいうので大丈夫なのだろうかと恐る恐る手を伸ばす。すっと艶やかな赤の羽に触れようとしたら、鳥が突然、クァッと鳴いたので驚いて手を引っこめた。店主はにやにやと笑いながら「手を食われるよ」と忠告した。
囚われた鳥がいっぱい。全て愛玩用の鳥だ。鳥を飼うということが急に恐ろしく思えて、なんだかこれ以上いたくはなかった。口の中に心地悪い後味が残る。
小さく、ありがとう、と言葉を残すとウィーンは店を立ち去った。
涙は止まり、でも行く当てはなく。町中を歩き続けているとふと嗅ぎ慣れた匂いに気がついた。歩調を早めて駆け寄る。たくさんの本が机に並べられていた。
「うわあ、すごい。たくさんある」
思わず悲しく辛い気持ちを忘れて瞳を輝かせた。
「こんにちは」
机の向こう側で、優しそうな白の服を着た白帽子の白髪の老人がにっこりと笑った。胸元に立派な金の十字架を垂らしている、神父だ。
「こんにちは、神父さま」
丁寧に礼をするとウィーンは手を伸ばした。
がっつくのはあまり行儀のいいことで無いと知っているが本だけはどうしようもなかった。つかんだ本にはうさぎの絵が描かれていた。
「うさぎの冒険」
「開いて読んでごらん」
ウィーンはコクリと頷くと、最初の一ページを開いた。
――うさぎのオドネルは村一番の足をもつ、うさぎ界のスプリンターです。ある日、お母さんうさぎが病気になりました。お母さんのために薬を探す冒険にでようと決意したのです……
そこまで読んでウィーンは気持ちがぶり返した。途端に大好きな王妃のことが気になり始めたのだ。うさぎの母、ウィーンの母。ウィーンはこの世の全てが滅ぶという耐えがたい事実を思いだし鬱屈とした気持ちになった。
本を読むのを止めたウィーンを見て、神父は声をかけてきた。
「面白く無かったかな」
ウィーンはフルフルと首を振る。
「欲しければあげるよ」
神父はそういったけれど、周りを見ると修道女たちが子供たちから本の対価に金銭を受け取っているのに気づいた。
「寄付しなければいけないんでしょう」
そういってウィーンはリュックを下ろす。お金は一銭も持っていない。だから荷物の中からおもちゃを一つ取り出した。
「大事なものじゃないのかい」
「構わないんです」
沈んだ声でそういってリュックを背負いなおした。
「ありがとう、大事にするよ」
神父は対価のおもちゃを受け取るとウィーンの頭を優しく撫でてくれた。柔らかな感触に目頭が熱くなる。
辛かったこと、困っていること、悲しい気持ちがいっせいに溢れだしてウィーンは大粒の涙をこぼし始めた。それを見た神父が「どうしたんだい」と優しく問いかけてくれた。
机に平積みされたたくさんの本に夢中で、後ろに立派な教会があるなんて気づきもしなかった。入ってみてなんとなく悟る。ここはセシルブリュネ大聖堂だ。
城の自室から白亜の姿を毎日眺めてどんな場所なのだろうと想像した。毎日国中に鳴り響く鐘の壮麗さ、威風堂々たる姿。この国の一つの自慢だと父である国王はいつだかいっていた。
入ってみると中はとても静かで、金色の綺麗な芸術品が随所にある。入り口から真っ直ぐ進んだところに神の石像が置かれていて、それを中心に左右対称の厳かな祭壇があった。そして灯された長い蝋燭と祀られた花が厳かな景色に色を添えていた。
そして、驚くべきは。
「ウィーン!」
祭壇に一番近い長イスで兄エドが振り向いた。手には読んでいる最中と思われる絵本がある。
「エド兄さん、ここにいたの」
思わず涙が引っこんだ。
「お前もここに来たのか。じいさんに声かけられて」
「神父さまだよ」
ちょっと失礼だと思って神父を見あげると彼は笑っていた。
「そうかしこまる必要はないのですよ。ただの神父なのですから」
「でも」
「じいさんに本貰ったんだ」
対価を支払わなかったというのもまたエドらしい。エドはそういう無邪気な兄なのだ。
「あの、神父さま」
ウィーンは心に抱えた思いを打ち明けたくなった。その深刻そうな顔を見て神父は朗らかに応じる。
「ご事情がお有りのようですね、お聞かせ願えますかな。王子さま方」
ウィーンは説明の下手なエドの代わりに整理のつかない頭のままで城での一連の出来事を話した。
「となると、この世界が滅ぶ。その災害から逃れるのは王子さま方だけ。お三方はそのノアという青年とともに天空の都市に向かってそれで……」
説明している自分でも戸惑いを覚えるような突飛な内容だったが、神父は疑わず心穏やかに聞いてくれた。
「神さまがそのようなことをなさるのでしょうか」
三人並んで長イスに座り、目前の神像を見つめる。ウィーンはずっと、神は恵みをもたらしてくれるものだと信じてきた。周りの大人たちに教えられて、本から学び。
その神が世界を滅ぼそうとしている。神に仕える者ならば真実を知っているのだろうか。
「国王陛下は信用しておられるのですね。ゆえにご兄弟をそのノアという青年に」
「それはまだ分かりませんけれど」
神父は組んだ手の指を打ちながらゆっくり情報の整理をしているようだった。あの飛空艇の姿を見た者ならば容易に疑うということも出来ないのかもしれない。あの船の舞い降りる姿にはそれほどの説得力があった。
考えこんでいると、ふいにエドの腹がくうぅと鳴る。なんて間抜けな音なんだと思ったら続けてウィーンの腹も鳴った。それを聞いて神父はふっと深刻な顔を崩して笑む。
「今日はどちらで過ごされるご予定ですか」
ウィーンは黙って唇を噛みしめる。エドも期待して何かいいたそうにしていたが、結局いうことはできずに下を向く。
そのとき、礼拝堂の入り口が勢いよく開いた。
差しこんだ光の向こうに人影を見つける。アーサーだった。横には修道女が数名いて、どうやら探して連れてきてくれたようだった。