『豊麗の国セシルブリュネ』
世界の幸せは幸せを信じる者の場所から始まっていく。
兄弟たちがセシルブリュネに戻ってから十年が過ぎた。その間彼らは世界の国々と親交を深めることに尽力し、貧しい国には支援をして苦境から立ち上がれるよう援助する世界的仕組みを創った。貧しい国のため、ひいてはそこに生きる国民のためである。
そして今、セシルブリュネ国内ではある演劇のことで話題が持ち切りだ。
「お父さま! お母さま! 急いで」
「ベス、走ったりしなくても劇場は逃げたりしないよ」
「転びますよ」
ひどく身なりのいい少女は劇場の石階段を駆けあがると後からやってくる両親に向かって呼びかける。
劇場に入り、支配人に案内されて夫妻は娘と一緒に特別席へと座った。中は真っ暗で壁際の松明だけが、頼りだ。
「すまない遅くなった」
国王はすでに入っていたエド夫妻とウィーン夫妻に声をかける。ウィーンは「いいよ」と優しくいって、エドが「休みくらい考えて、仕事を割り振って欲しいよな」とぼやいた。
間もなく開演、会場が静かになったところで舞台袖から老齢の女性が出てきた。
三兄弟が心から楽しみにしていたジョン・スミスの最高傑作『ノアの方舟伝説』がいよいよ幕を開ける。
「本日皆さまにお話しするのは、古より愛されたある一つの物語です。演目は『ノアの方舟伝説』、劇作家ジョン・スミスによるこの世界を語り継いでいく至高の物語です。これは世界のどこかに存在するいう大陸ブルーローザで生まれたある青年の物語――」
語り部が引いて、幕がさあっと開いた。
心があのときの感動を追いかけて。息をのんでウィーンは舞台を見守った。
「ああ、ボクはノア。どうしてこの世に一人きりなのでしょう」
暗がりで確認すると小さなベス王女が手を握りしめている。物語に釘づけだ。
「咲き乱れるこの青いバラも、寄り添う仲間たちも、ボクの孤独を永遠に分かってはくれない」
「ノア、悲しむことはない」
松明を持った白髪の老人が舞台袖から出てきて主人公ノアに語りかける。
「ああ、神さま。どうして神さまはボクをお創りになられたのですか」
「長い眠りでお前はそれさえも忘れてしまったのかな」
「遥かなる星の歩みの中で生まれた人間という特別な生き物は、知恵を育み、星を豊かにしてきた。だが、人間は賢いがゆえに、ときに争い、ときに憎しみあい。よってそのたびに私は大洪水という名の制裁を与えて、地上を洗い流してきた」
「また、滅ぼされるのですね」
「お前の役目はその大災害から逃れる人々を選ぶこと。何万年も繰り返してきた運命をやっと思い出したか」
「はい!」
「このブルーローザへ逃れた三人の人間とその伴侶を残し、人は尽きる。浄化の終わった世界でお前の選んだ人々は再び繁栄するだろう。そして、その後の世界が醜いものであるならば、やはり私は世界を怒りの洪水で押し流す」
演者がわっと手を挙げるとどよめきが起こる。その光景にウィーンは小さなころのあの感覚を取り戻し、舞台を懐かしんだ。
脳裏によみがえるのは兄弟たちと世界を旅した記憶。動物、幻獣、そしてなによりも愛しいノア。彼らはいつも常に大きな意思で自分たちを見守ってくれていたのだ。
彼の小さなこだわりと大きなこだわりを思い出す。彼と過ごした時間は一生の宝物としてこれからも生き続ける。
そして自身たちにできるのは古い物語を語り継ぎ、神の与えた教訓を引き継いでいくことだ。それがきっと世界をよりよき方向へ導いていくのだから。
舞台は終盤にさしかかり、役者の声があの時のノアに重なっていく。
彼はいつも冗談の塊で、ときに悪趣味で。今だからいえる。そんな彼がウィーンは大好きだった。
ウィーンは万感の思いで拍手喝さいの舞台を見た。夢中だったはずの舞台はすでに終わり、役者があいさつしているところだった。涙があふれて止まらなかった。
「終わったよ。ボクたちの物語はようやく終わったんだよ、ノア」
* * *
ふと声が聞こえた気がして彼は森の梢を見あげた。
気のせいではない、ウィーンの声だ。自身はなんども繰り返し読まれてきた古の物語の終焉をそのとき確かに感じ取ったのだ。
幕はすでに閉じられて、演者は皆、舞台を降りた。三兄弟とその伴侶はすでに別の物語への道を歩み始めている。
この物語も終わるときがそろそろ近づいているらしい。
もう演技を続けられないほどに年老いた彼は、シワのよった指でいたわるように愛しき友に触れて微笑んだ。
「こんな素晴らしい物語はないよ、心躍る冒険ファンタジーだった。キミもそう思うだろ、グリフォン」
問いかけられたグリフォンは甘えるように身を寄せるとその白濁した瞳を閉じた。
いずれ自身も森の一部となる。でもそれでいいとノアは思っている。
だれも訪れることのない世界の片隅にある始まりの森で、年老いた幻獣たちは今も静かに暮らしている。
(了)




