1 神の眠る丘
南岸にガリバルダ号を接岸して降りた。動物たちをともなう大所帯、船内に残すことも考えたが交渉の場につくならばともに連れていったほうがいいだろうと皆で話し合った結論だった。
ブルーローザの地表を構成するのは分厚い水晶だ、だがあまりに分厚く光が屈折して透き通る美しさの向こうにもはや地上世界は覗けない。
道縁には人の背丈より大きい巨大原石が芸術作品のように生えていて、水晶に緑のエメラルド、赤のルビー、青のサファイヤが入り混じり幻想的な空間を演出している。まさに神の奇跡のような場所だけれど、
「怖いわ、ここ」
イブが怯えるように吐いた。ウィーンも静かにそう感じていた、この場所はとても怖いのだ。ひどく無機質で温かく寄り添うものが、すがりつき逃れるものがない。生命の躍動が感じられないのだ。
こんな冷たい場所でノアたちは何万年も過ごしてきたのか。
「そういわないで、神さまとの交渉が失敗したらここがしばらくの住処になるんだよ」
「縁起でもないこというなよ」
たしかに縁起でもない。でもその万が一の可能性はウィーンも考えている。交渉が上手くいかなかったら、自分たちは水没してゆく地上を泣きながら見守りここで当面暮らすことになるのだ。だから、そうならぬようあらゆる策は講じたが、それでも不十分という可能性はある。
ふいにノアが遠くの山を指さした。
「あの山がボクのねぐらだよ。宝石のベッドとクローゼットがある。気になるならば案内するけれど」
それには誰も応じなかった。神との対話を控え皆、そこまでの余裕がないのだ。ノアは指を降ろすと丘まで案内するよ、と笑ってつぶやいた。
この状況下でも幸い動物たちも大人しく着いてきている。もしかすると彼らにもここが特別な場所であることや神威のようなものは伝わっているのかもしれない。神の使者であるノアとスムーズに契約を交わしたことを考えると動物はそうした気配を察することに長けている。
そして神の丘が次第に近づくにつれて視界の端に青いものが映るようになった。
奇妙なこの世界の奇跡――
「青いバラ……」
アーサーが気圧されたようにつぶやく。
「本当にあったのね」
花屋の娘のサラの言葉にも感激は含まれていない。存在自体が異質であるからだ。
「まるで泡沫の夢のように素敵だろう。このバラは鉱石の成分を吸い取りその生命を維持している。ブルーローザにしか咲かない奇跡のバラだよ」
「ブルーローザってそういう意味だったんだね」
「そうさ。この世界は奇跡でできている」
ノアは屈託なく笑った。
最後の小山を越えて丘のふもとが見えると一行は息をのんだ。
丘を形成しているのは無数の宝石の残骸、その丘の頂点に巨大水晶が寄り集まり、そのふもとを無限の青いバラが埋め尽くしていた。
圧巻の情景に言葉も出ず、戸惑っているとノアが一歩を踏みだした。
「いこう、神さまはあそこだ」
ざりざりと宝石屑を踏みしめ、丘を登りきると動物たちと皆で巨大水晶を円形に取り囲み心を決めた。緊張に手が汗ばみ、心は昂る。
大きく深呼吸してノアが手を空に掲げ、水晶に話しかける。
「神さま、ノアは戻りました。運命の子らをお連れしました」
声が空気に綺麗に響いた。無言を貫いていた水晶がきらりと光ったかと思うと白髪の老人がまるで打ち寄せる波のようにさあっと水晶の上空に姿を現した。
長すぎる純白の髪と髭を蓄え、白のローブを身にまとい古びた杖を手にしている。厳かな顔からは感情が読み取れない。彼が神か。
ノアは手を降ろし、真っ直ぐ彼を見据える。沈黙を破り、神と思しき存在は杖を大きく振り被った。
「ノアよ。そなたの心はすべて分かっておる」
神は怒りに震える声で叫んだ。
「くっ、ああ。ああああ」
ノアが急に膝をついて胸を押さえ苦しみ始めた。
「ノア!」
ウィーンは走り寄った。
「神をたばかろうという愚かな試みも、この大地を消そうとする卑しいき心も筒抜けである」
「ぐああああ」
「貴様は幻獣の分際で、神の使者に召しあげられた幸運を無下にする気か」
あまりの剣幕に総毛立った。恐れながらウィーンは声をあげた。
「話をしたいのです!」
「口ごたえはよい!」
ノアの口からは苦しみがこぼれ出て、服に皺を寄せて胸を押さえつけている。
「世界を嘆きの雨によって洗い流す、この方針に変更はない。お前たちは新しき世界に備えよ。大地が洗われるのを静かにこの地で待て」
あまりの激情に言葉をなくした。取りつく島もない。
ノアの顔には脂汗が浮かんで呼吸が荒い。余程苦しいのだろう、口を開けては開いていいたいことをいい出せないでいる。ウィーンは震える指を握りしめ、心を決めて神を睨みつけた。
「どうしてそれほどまでに地上を憎まれるのですか」




