5 悠久の記憶
朝になり森へと一行は出立した。満身創痍のノアとすべての幻獣を伴い、深い森の中を歩く。フェンリルに負ぶわれたノアは苦しそうに喘いでいたけれど、本人のたっての希望だから連れていかないわけにもいかなかった。
荒い呼気が静謐な森に溶けていく。森を埋め尽くすのは真っ黒な葉を茂らせた針葉樹、それらがわずかに注ぎこむ陽光を求めて競うように淡い緑の空へと背高く伸びている。歩を一歩進めるたびに苔蒸した地面が静かな音を立てて沈みこむ。
ほのかに水の香りがしていた。視線を伸ばすとところどころにエメラルドに光る水たまりがある。周囲には生き物の気配もある。
「ノア、あっているのか」
無作為に突き進んでいることを心配したアーサーが確かめた。
「大丈夫、……森が呼んでいる」
耳を澄ましても呼ぶ声は聞こえない。ノアはいったいなにと会話しているのか。頭はやっぱり大丈夫なのか。
「満身創痍で死んだりしないかしら」
「冷たすぎるよ、……イブ」
ノアが力なく笑った。
朝食時に事情は話して皆一連の流れは知っている。直接ノアに問いたいこともあるだろう。けれど、ノアの容体を懸念してそれには触れないでいてくれた。
しかし、もう半刻以上歩いている。それでもグリフォンの姿は見つからない。
「ねえ、ノア。契約って簡単に破棄できるのかな」
「……」
帰ってきたのは沈黙だった。
「いえないんだね」
「分からないんだ、肝心の部分が。でもこの森に友人がいる」
「友人って?」
ウィーンの問いかけにノアは目深にかぶっていた帽子のピンクの羽をぴんっと跳ねあげた。以前友人からもらったと大袈裟にいっていたけれど、その友人ということだろうか。ここが幻獣の住む森というのならばそれも可笑しくはない。
ノアは記憶が混濁しているのかなにかを考えこむように目を白黒させている。彼の記憶はちゃんと戻り始めている。なのに肝心の部分がつかめないのだろう。
「彼なんていったかな」
ノアはフェンリルの背でぽつり呟いた。
「ボクは反対だ」
神のしもべとなり永遠の命を得られるということを意気揚々と伝えると彼は意外にも強く反発した。
「永遠の命だよ、ずっと年を取らずに生き続けられるんだ」
「それって生きてるっていえるのかな」
「亡霊のキミにいわれたくはないよ」
ノアの言葉に彼はくいっと眉を吊りあげた。
「ずいぶん辛辣なことをいうようになったね」
「ボクは森で一番賢い、知っているだろう。だから神さまも気にかけてくださったんだよ」
そう、ノアは始まりの森で一番の賢者。自身でもそう自負している。
「ボクにはそんな風の思えないよ、ノア。キミは誤った人生を歩もうとしている」
「人生の正しさはボクが自分で決める」
つんと唇を尖らせて、偉そうにいってみた。
「神さまは絶望しておられるといっているんだ。その手伝いをするのがどうして間違いなのさ。神さまって偉いんだろう?」
「世界を滅ぼす手伝いなんてしなくていい!」
泉の上に立つ彼は怒り叫んだ。
「神さまの絶望が分からないっていうのかい。そうか、キミは死んでいるからだ」
ノアの子供じみた理論に、死んでいると指摘された彼は諭すように反論した。
「気に入らなければ滅ぼすなんて横暴だって思わないのか。人間も動物もちゃんと生きているんだよ」
「正直、皆がどうなるかなんてどっちでもいいんだよ、ボクは自分が死ななければそれでいいんだ」
「一人で生き続けるのはとっても辛いことなんだよ、ノア。寂しくても寂しいと伝えられる相手もいない。世界が滅びても大切なものが皆がいなくなってもずっとずっと生き続けるんだ。その可笑しさをキミは分かってない」
言葉に対抗するようにノアは頬を膨らませた。
「だったら仲間を連れていくよ。そうだ、神さまに頼んで皆も同じように生き続けられるようにしてもらおう。ボクは一人じゃない」
「皆で森を捨てるっていうのか。ボクが一人になる!」
彼は悲壮な顔をしていた。ただあの時の自分にやっぱり彼の大事にしているものが理解できなかったのだ。
「ワガママなキミの相手はもう疲れたよ。静かに森に眠り給え、シルフ」
締めの言葉とともにやがて記憶の中の彼は静かに消えていく。
「そう、……彼はシルフだった」
開眼したようにノアはつぶやく。
「なにが?」
フェンリルの背で揺られながらノアは遥か遠くを見ていた。もう、ずっとずっと、前の古い記憶だ。なにが。ノアはウィーンのその言葉に答える適切な言葉を探した。そして、ふっと微笑む。今なら素直に認められる。
「古い友人さ」




