1 記憶と記録
「は、はじめまして。わた、わたくしエリーと申します。すみません、本当にすみません。おじょ、お嬢様のご友人と伺いまして、すみません」
ぺこぺことしながら、ごんっと頭を机にぶつけた。そして、彼女はまた謝る。
「すみません。本当にすみません」
なんというか個性的な人だなとウィーンは思った。イブは吐息すると改めて彼女を紹介した。
「エリーよ。ここの司書をしているの。彼女若いけれどノアの方舟伝説の研究の第一人者よ。父の勅命で方舟伝説に関する全ての原本の管理をしているの。エリー、ちゃんと話しなさいね」
「すみませ……、いえ、あの。すみません。ですが、著者のジョン・スミスご本人にお会いできるだなんて。なにかの間違いじゃないかって。だって生きていたら何万歳って。なにかの僥倖ではないかと、非常に緊張しておりまして」
「緊張なさらないでください、ただので道化ですよ」
前髪を癖のように触り続けるエリーに向けてノアは手を差しだす。するとエリーはきらりと目を輝かせた。
「おお、これは噂のシェイクハンドですね」
そういってノアの手を両手で丁寧に握る。
「これでわたしも仲間でしょうか」
この言葉には四人とも驚いた。握手を交わして動物を乗船させることの意味を彼女は理解しているのだ。目を丸くしたウィーン立ちに彼女ははきはきと告げる。
「幻獣の章の第一項、動物たちとの乗船契約の心得に記載されていることです」
これにはノアも舌を巻いた様子だった。
エリーがあらかじめ持ってきていた箱には紐閉じの紙の束の本が数冊入っていた。手袋をはめた手でエリーはそれを一冊ずつ取りだして、机の上に丁寧に並べながらそのタイトルを読みあげていく。先程までの滑稽な様子は微塵もない。とても真剣な表情で、その様子をウィーンはじっと見ていた。
「『物語の章』、『生活の章』、『地上の章』、『三人兄弟の章』、『学びの章』、『幻獣の章』、この図書館に収められていたノアの方舟伝説は全部で六冊です。現在国立劇場で公演されているノアの方舟伝説はあくまでその内容の一部でして、『物語の章』をわたしが要約したものを元に脚本家がファンタジーに仕立てたものです。それに……」
「ボクの持ってきた『ブルーローザの章』が加わる」
一堂に会した書物を眺め皆、息をのんだ。
「ノアの方舟伝説は全部で七冊あったわけですね」
感慨深そうにエリーはつぶやいた。その解読に人生の時間を賭してきた彼女にとっては感慨深いことなのかもしれない。
「どうしてお前は書いたことすら覚えていなかったんだ」
アーサーの問いかけにノアは腕を組んだ。
「神さまは使命を終えたボクの記憶を長い間眠らせることによってリセットしているんだ。それに関してはブルーローザの章のどこかのページに書いてあったけれど、水晶によって魂を浄化すると書いてあったね。自分で読んでくれたまえ、あいにくボクは彼女ほど記憶力がよくない」
そういって手袋をはめる。ブルーローザの章をつかんでアーサーに渡した。アーサーは顔をしかめながら手袋をはめた手でページをぱらぱらとめくる。
「どのくらい眠っていたんだ」
「さあ、その時々で違うだろうから正確なことは分からないけれど」
「この国の歴史はおよそ五百年。大なり小なり違えど大洪水の間隔もその位だったと考えられるんじゃないかしら」
そう答えたイブもまた本に手を伸ばす。エリーは一冊手に取った。
「この学びの章に関しては神は、ノアに世界を担う子供たちへの教育を施させていたと書かれています。それぞれに与えた試練のことが主ですけれど、とても凄惨なこともやっていたようです。世界を巡り、未来を担う彼らに神の理想をすりこむ。清廉な世界を目指してのことだったと、そしてノア自身も初めはその考えに同調していたと書かれています」
それをウィーンは受け取る。そしてこれまで乗り越えてきた困難の数々を思った。間違いなくノアの意思もあっただろうけれど、そのほとんどが神の意思だったかと思うと辛いものも残る。
「初めは、というのは」
アーサーは視線を本に落としたままで冷静に問いかけた。
「旅を続ける中でノアは次第にヨハン、ディル、レニーの三兄弟に情が移ったと書かれています。彼らとともに生きていたくなったと。彼らの愛する世界を救いたくなったと。これも物語の章の最終章に書かれていたことでしたが、物語の本筋がぶれるので演劇では略してあります」
「驚いたな」
「ボクに情があったことがかい」
ノアがにやにや笑いで問いかけた。
「相変わらず世界を壊滅させたいのかと思っていたんだよ」
「人は見た目で判断するなってパパ、ママに教わらなかったのかい」
「パパ、ママって」
エドがへっと鼻で笑って一冊に手を伸ばした。
「皆、読めるかい」
「汚すぎるよ、ノア。文脈もめちゃくちゃだ」
ウィーンはこぼした。それにエリーは是とうなづく。
「ノアの方舟伝説はとても難しい本なんです。ここまで解読するのに数百年費やしているんですよ」
「とんでもないものを残したよな」
「分かりやすいと思ってた、ショックだよ」
エドの言葉にノアはおどけた。
「ボクには断片的に覚えていることも幾つかあって、それは食事へのこだわりだった。無意識に大事にしていたけれど、今思えば過去の習慣が身に染みついていたのかもしれない」
「ヒポポータマスですね」
エリーが閃いたようにいう。あとはジョン・スミスと名乗ることかな、とノアは付け足した。
「わたしの拡大解釈かもしれませんが、このノアの方舟伝説は過去のノアから未来のノアへの手紙だったような気がしているんです。物語の章の十三章に再び記憶を失うことを恐れたノアは世界が水没している間にガリバルダ号の書斎にこもり、執筆をしたと。懸命にその旅で知り得た秘密を綴ったと書かれてあります」
「どうしてそんなことをする必要性があったんだ」
エドの問いかけに答えたのはノアだった。
「世に名を知らしめる劇作家になるためさ」
アーサーが顔をしかめたので、ノアは咳払いをして自らの言動を上書きした。
「その答えはブルーローザの章に書かれてあったよ」
「物語の章にも一部書かれてありました」
そしてエリーは記憶をなぞるようにいった。
「ノアはまさかの約束をしていたのです。三人の兄弟たちに向けて、必ず地上を水没から守ると。神の意思には従わず、世界を救って見せると。でもその約束は果たせなかった。その理由は書かれてありませんでしたが、ノアは約束を破ってしまったことをひどく後悔していたのです。兄弟たちからも裏切り者と罵られた。だからノアの方舟伝説を著して未来の自分が同じ誤った選択をしないようにと警告の意味もこめられていたんだと思われます」
皆、ノアの顔を一様に見る。彼はひどく懐かしいものを見るような表情で、ノアの方舟伝説を見ていた。なにかいおうとして口を噤むとふっと表情をおどけたように崩し、手をひらひらとさせた。
「読書する時間はあるよ。皆、黙ってボクの力作を読むがいい。ノルマは一人一冊だからね」
「それってわたしも数に入ってるのかしら」
イブが吐息した。彼女の呆れ声も真っ当なものかもしれない、とても分厚い紙の束だ。文字もびっしり情熱的に書かれてある。
「もちろんさ、キミも大事な未来の船の一員だからね。違うかい、エド?」
「ここまできて神の意思に添う必要性あんのかよ」
エドは少し困ったような表情を見せた。




