8 イブの正体
しばらく信じられない気持ちでウィーンは視線を彷徨わせた。
「なんどもなんどもって」
「神さまは地上が気に入らなくなるたびに地上を滅ぼしてきたってことか」
そうさとエドの問いかけに応えてノアは自らの嘆きを紡いだ。
「ボクは神さまが世界を壊したいと思うたびに長い眠りから覚めて、神さまの命に従い子供たちをブルーローザへと連れ帰る。そして彼らを連れ帰ったボクは……ボクは」
続く言葉は涙でぐちゃぐちゃに潰れた。
「泣いてちゃ分からないよ、ノア」
「ボクも分からないんだ!」
ノアはえぐえぐと泣きながら声を張りあげた。あまりの切迫した声に皆息をのんだ。どうしてよいものか分からずうろたえていると、時間があまりに過ぎていたのか劇場関係者が迎えにきた。
「芝居はいかがだったでしょうか」
老齢の紳士が微笑んで問いかけるのでなにか答えようとしたらノアが声を張りあげた。
「とても感動しています!」
これには三人とも口をあんぐりと開けてしまった。泣いているこの状況をも利用するのがノアという生き物なのかもしれない。
「つかぬことをお伺いしますが、ずびっ……この作品の原作はどちらで読めるのでしょう。ずびっ……あまりに感動しましたからずびっ……ぜひとも一度拝読したいのです」
彼は鼻を啜りながら問いかけた。そうか、とウィーンは心の中で手を打つ。ノアは原作本の行方を探ろうとしているのだ。
「ああ、それでしたらノアの方舟伝説の原作は一般人は読むことを許可されていないはずです。原本は全て国立図書館に所蔵されているはずですから」
「わたしは人生で最大に感動した物語を読む権利すら持ち合わせてはいないのですか」
ノアは物凄い剣幕で問いつめた。
「それほど感動されたとは。役者冥利に尽きるというものです。必ず演者に伝えます、喜びますよ」
「感動はよいのです! 本を見せてください」
「そうはいわれましても。国立図書館は一般人に開放されておらず一部の貴族と関係者にしか閲覧が許されていないのです」
人のよさそうな紳士は困ってしまった。打つ手なし、しばらくその事実に沈黙していると紳士が思いついたように言葉を継いだ。
「あなた方はこちらの貴賓席のチケットを持ってらした。お知り合いに偉い方がいらっしゃるのではないですか」
みんなエドをばっと振り向いた。
「えっ、あ。オレ?」
* * *
後日、国立図書館を訪れた自分たちを待っていてくれたのは黒髪の猫目の美少女だった。小鼻がつんとしてて気が強そうだけれど可愛い、これがエドの選んだ女性なのだろうかとウィーンはほくそ笑んだ。
国立図書館は石造りの三階建ての重厚な造りで、聞けば何百万冊という国で発行された全ての書籍を所蔵しているという。その古びた香りにウィーンは心が落ち着いた。なんと素敵な空間なんだろう。
何重にも施された木の扉と警備を通り抜ける最中、彼女と兄エドは会話していた。
「まったく大公の娘だったなんて信じられないな」
「あら、あなたがどこかの国の偉い王子さまだってのとどちらが疑わしいかしら」
ふふと笑みが漏れてしまう。
「あの、イブさん。ほんとうに見せて頂いて構わないのでしょうか」
「いいわよ、お父さまにも話してあるわ。減る物じゃないでしょうし」
あっさり投げ捨てるように彼女はいうけれど国宝なんだ、とても大事なもののはずだ。
「なあ、オレ。イブに話してないことがあるんだけれど」
「安心して秘密ならわたしにも山ほどあるんだから」
やり取りをみるにどうやらこのイブという娘は相当頭がキレて機転もきく。
「ノアの方舟伝説の話は代々大公一家が語り継いでいた物語なの。ずうっとずうっと前の先祖から大切にね。大衆演劇にするには突飛過ぎるし、なにしろ長年秘密にしてきたことだしずいぶん揉めたけれども、大盛況のようだから。父もほっとしているわ」
父というのはすなわち大公のこと。今回のこともイブが内密に伝え、およそ理解してくれていると聞く。彼女の存在とエドの幸運に改めて感謝だ。
これまでで一番大きな扉の前に立つとイブが小さく息を吸ったのが聞こえた。衛兵によって最後の扉が開け放たれる。
そこは落ち着いたアイボリーの色調の小さな会議室のような場所だった。小さな赤い絵が一つ。部屋の真ん中に大きく立派な一枚板の机があってその周囲にイスが八脚ある。
その机から離れるようにして立っていた少女が出迎えた。こちらの到着を待っていたらしい。眼鏡をかけ左右に長い三つ編みを垂らした栗毛の少女は皆を感慨深く眺めると深く礼をした。




