6 世界の秘密
「来てたのかノア」
帰宅したアーサーはひどく驚いていた。冷静なアーサーの語尾がわずかに乱れた。全く以って予想外の行動、どこまでも読めないのがノアだ。まさかこの国にこのタイミングで戻ってくるとは兄も思ってもみなかったらしい。
ウィーンと、ちらと視線が合ったがアーサーは先刻のことを謝らずにソファに腰かけた。ウィーンも気まずかったが、自身が謝るという質の問題でも無いのだろう。
ノアはすかした顔で珈琲のお代わりを満足げに飲んでいる。ノアは人生の悲劇だといった。だがその表情を見ていると、悲しいのか悲しくないのか。本当のところはウィーンにもよく分からない。
アーサーはソファで堂々とくつろぐノアの対面に木のスツールを置くと足を開きその間に手を組んで垂らすと真っ直ぐにノアを見た。
「どこにいっていた」
「難しい話の前に感動の抱擁はしないかい、ウィーンはしてくれたよ」
アーサーは吐息して問い詰める。
「オレは抱擁より難しい話がしたい。ノア、この一年間お前はなにをしていたんだ」
性急すぎるアーサーの質問だったが珍しくそれにノアが応じた。
「いいよ、正直に答える。ただし、それを語るにはこの本を読んでもらわなくちゃならない」
そういって机の上に置いていたブルーローザの章を指先で突きだした。アーサーは訝しげに眉を吊りあげる。
「ボクがずっとずっと以前に書いた本さ。何百年も昔に。でも、この本は壮大な『ノアの方舟伝説』のほんの一部であって、全てじゃない。ボクはこの一年その残りの章を探しに世界各地に旅に出ていたんだ」
「ノアの方舟伝説」
そういってアーサーはブルーローザの章を手に取った。ぱらぱらと開いて目をしかめる。
「感動したかい」
「汚すぎて読めない」
そういって本を閉じて同じ場所に返すとアーサーは質問を続けた。
「それで、その方舟伝説の残りとやらは見つかったのか」
「灯台下暗しというだろう。ずいぶんと踊らされて愚かだったよ。それはまさに……」
ノアが鮮やかに答えようとしたとき、丁度玄関が開いてどきりとした。
「ただいま」
エドが丁度帰宅した。声が脱力気味で元気がない。外でなにかあったのだろうか。
だが、彼は目前にいたノアの懐かしい顔を見ると飛びあがらんばかりに驚いた。
「うわっ、ノア」
その反応にノアは唇を尖らせて、まるで化け物だよ、傷つくじゃないかとこぼした。
「エド。抱擁はするかい」
ノアはにやにやと笑う。
「ああ、いや。それはいい」
エドは話があるようでノアの冗談には触れず、ポケットの中から三枚のチケットを取りだすとスライドさせて机に並べた。
「これさ、お前のことじゃないのか」
エドの突きだしたそれを見て三人とも動きを止めた。三枚ある。どうやら芝居のチケットのようだが。
「どうしたのコレ」
エドは普段芝居など好まない。それをわざわざ買ってきたのかと問おうとしたら、ノアがチケットを手元に寄せた。そしてタイトルをゆっくり読みあげる。
「のあの……はこぶね……でんせつ」
ノアは読みあげて目を見開く。
「やはりそうだったね」
なにかの確信を得た彼ははっとした表情で声を沈ませた。もしかすると見つけてはいけないものをまさしく見つけてしまった瞬間だったのかもしれない。
「ここが山地であるということをボクは失念していたんだ。見なれたはずの場所だったというのに海水が引き、地形が変わり、国ができたことでほとんど見知らぬ土地のように感じていた。だが、ここはまごうことなき彼らと別れた最後の土地なんだ」
「いっていることが分からないよ、ノア」
唐突な話を遮りウィーンは問いかけた。心から湧きでた疑問だった。
「五百年前一つの壮大な物語が終わりを告げた。とても悲しい世界破滅の物語だ。そして終末世界を生き延びた三人の兄弟とその伴侶たちとボクはたしかにこの地で別れたということさ」
「それって」
ウィーンは息をのむ。なにかが酷く似すぎているのだ。とても恐ろしい真実にたどり着こうとしている気がしてならなかった。
「そう」
ノアは深く呼吸した。その緊張感が三人の心を支配し始めていた。
「神さまが世界を滅ぼされるのはこれが初めてじゃない」
しばらく息を吸うのも忘れて固まっていたが、最初に喋りだしたのはアーサーだった。
「どういうことだ」
「言葉のとおりさ。もう一度いおうか。神さまが世界を滅ぼすのはこれが初めてじゃないんだ」
「お前人間だろ」
問いかけたのはエドだった。ただの人間が五百年も生きているとは考えにくい。
「人間じゃないよ、分かってたんじゃないのかい」
「分かるわけねえだろ!」
「ボクの正体はどうでもいいよ。それよりキミの持ち帰ったチケットさ」
ノアはすっと整った指先をチケットへと這わせた。チケットには木造船と動物がたくさん描かれている。
「このチケットが教えてくれたことが二つある。一つはボクが人気者だということ。素晴らしい! そして、もう一つはノアの方舟伝説の原作、つまりボクが書いた本はこの国にある。どうしてだか分かるかい」
「分からない、ちゃんといえ」
アーサーがきつく問い詰めた。
「この国を興したのは兄弟大公のヨハン、ディル、レニーの兄弟たちだ。ボクは五百年前この地を離れる際、彼らに残りの書物をすべて預けた。ブルーローザの神さまに決して見つからないように大事に保管してとね。その物語が運よくこの地に残っている。だから大衆演劇として親しまれているのさ」
「ノア、分からないよ」
ウィーンは何故だか説明できない悲しさが込みあげた。どうしようもなく悲しく思えたのだ。
「真実を知るのはどうせだからこのお芝居を見てからにしよう。ボクもお芝居を見るのは久しぶりさ、とても心躍るよ」
彼の道化のような振る舞いが心に刺さる。踊る言葉に相反してノアは笑っていなかった。




