5 ウィーンの独りごと
アーサーと初めてケンカをしてしまった。派手なぶつかり合いではないけれど大きな意見の相違があった。ノアのことをそんな風にいうだなんて信じられない。
毎日のご飯の時間を大事にして、アーサー、エド、ウィーン、幻獣、動物、植物、全ての者を温かく迎え入れた彼の心を思うと腹立たしい気持ちになったのだ。かけがえのない多くの時間を共にした彼はすでに自分たちの親のようなものだ。
家にはウィーン一人しかおらず、気まずい空気を嫌悪して二人の兄は出ていってしまった。狭い家と思っていたが、一人になるとこんなにも広く感じた。
「あんまりだ」
不満を口にしながら処理できぬ感情を抱えて本棚へと向かう。
ルイーザストーンで過ごすうちにずいぶんと本が増えた。あまり買い過ぎてもいけないので、本棚は小さい物を選び、その本棚に入らなくなった本は処分することにしている。
背表紙で物色したけれど今の気分に合う本は一冊も無かった。怒りをぶつけるように本を読むことは躊躇われたし、冷静なときでなければ物語は入ってこない。
諦めてソファに寝転がり、サラの盛ってくれたフルーツ皿の黄色い柑橘系の果物に手を伸ばした。食べもせずにすべすべとした皮を無心で撫でる。
「そうだよ、ノアはそんなことしないよ」
心のどこかで疑っている自分もいて、それが浮上してこないように心の奥底にしまう。今、アーサーは疑念でいっぱいで信じるということを忘れてしまっているのだ。
強情でないウィーンが敢えてノアを固く信じる理由はいくつかあるが、実はセシルブリュネを旅立って半年の頃の、丁度ワイズポーシャの国を後にしたあとのホームシックがきっかけだった。
当時、ウィーンは八歳で、両親と会えないことがとても辛かった。兄たちには恥ずかしくて相談できず、それ慰めてくれたのがノアだった。
昼間に船長室を訪れては趣味の悪い布団の中でお昼寝をして、寄り添う彼が下手くそでいびつな物語を語ってくれたことを覚えている。
――物語の主人公はある星の少年だ。
彼に家族はなく、生まれてからずっと一人きり。この世に一人で生まれ、一人で星を眺めて、一人で長い夢を見ていた。
とても幸せだと思っていたけれど、ある日、少年は自身がとても寂しいということに気づく。
星には幻獣もたくさんいた、青いバラも沢山咲いていた。
それでも、少年は寂しかった。他人がいないのだ。
それから毎日毎日、少年は自分以外の誰かが来てくれるのを心待ちにして空を眺めた。でも、他人はいつまで経ってもやってこない。なぜならここは……
「ブルーローザ?」
小さなウィーンの問いかけにノアは頭を撫でて「どうだろうね」と微笑んだ。
ノアが語るブルーローザがどんな場所か、ウィーンは考えてみたけれど想像もつかなかった。
ノアは布団をウィーンに深く被せながら「夢の世界は綺麗で美しい、でも本当はとても寂しい場所なんだよ」と締めくくった。
そんな風に寂しいという感情を吐露する者が、家族をないがしろにするだろうか。
ウィーンはますます焼けつくような気持ちになって、起きあがる。アーサーはたぶん間違っている。自身の考えに固執することはこれまで無かったけれど、ノアに関しては譲れない。
果物を食べずに皿に戻して、立ちあがろうとしたときドアがノックされた。
「やあ、元気かい。愛する三人の王子たち。ボクが心底嫌いでも居留守なんて使わないでくれよ、傷つくんだ。それにこれは一年ぶりの感動の再会だからね」
飄々とした惑星人のリズムにウィーンははっと顔を上げる。彼だと確信する、数カ月ぶりのひどく懐かしい声だった。
「ノア!」
ウィーンは玄関に走ると勢いよくドアを開けた。ドアの外にはにやにや笑いの紳士が立っていた。
「やあ、ウィーン大きくなったね。背は小さいままだけれど」
きついジョークも懐かしい。ウィーンはノアに飛びつき顔を埋めた。ノアがよっと後ろに一歩よろけて、手に持った紙袋が大きく揺れる。ノアはそのまま優しくウィーンを抱きしめ返した。
「どこへ行っていたの」
顔を上げて問いかけるとノアがウィーンの頭を両手でつかんだ。
「遊覧飛行さ、それくらいしたくなるだろう。大袈裟にいうと星を五周はしたと思うよ。実質は一回りした程度だけれど」
「アーサー兄さんが怒ってたよ」
「短気は感心しないな」
そう、短気。アーサーは短気だったのかもしれない。ウィーンはノアの腕から離れると、さらりと小金の髪を揺らしながら入ってと告げた。
家に入ったノアはリビングを見渡してふふんと満足げに鼻息を鳴らした。
「ずいぶんキレイなウチだね。掃除してるのかい」
「アーサー兄さんの婚約者が時々きてくれるんだ」
「つがいは要らないっていってたアーサーがそんなことするようになったのかい」
ノアがソファに腰掛け足を組んだのでウィーンはキッチンへと向かった。
「ウィーンお茶はいいんだ、珈琲にしてくれたまえ」
リビングから聞こえてきた声にふふっと笑ってしまう。まったくノアらしい。紅茶の茶葉を棚に戻して棚から珈琲を取った。
珈琲を淹れるとノアの前に差しだした。
「どうぞ」
ノアは鼻の下で香りを燻らせて、最上の笑みを浮かべる。その感動を大事に味わうようにカップをゆっくりと口へ運んだ。
「ウィーンの淹れた珈琲なんて一生飲めないかもしれないからね」
ぽつりとつぶやいた言葉が余韻を引く。なんだか変な感覚だ、言葉が寂しく感じられた。なにをそんなに思い詰めているのだろうと考える。
「ねえ、もう一年経ったかな。ノア」
「一年経たないと会いに来ちゃいけないのかい」
ノアはくいっと口角をひねりあげた。やっぱり変だ。
「そうじゃないよ。でもキミが寂しがるなんて」
「寂しかったとはいわないよ。憶測で物をいうものじゃない」
それもそうだけれどと吐息する。
「様子が変だよ、なにかあったんじゃないの」
ノアの動揺はそのしぐさにも表れていた。美しい爪先をかんかんと机に打ちつけている。
「いいかい、ウィーン。いかに温厚なボクだって話したくないことの一つや二つあるんだ。お尻のいぼが痛いなんていわせるんじゃないよ」
そういってノアは隣に置いていた紙袋に手を伸ばした。中をごそごそ漁り取りだしたのは一冊の本だ。それをウィーンは両手で丁寧に受け取りタイトルを読みあげる。
「ブルーローザの……章」
判別不能なほど、とても下手くそな字で、紙もずいぶんと古い。手のひらでようやくつかめるほど分厚い紙の束だ。
「ボクの人生の悲劇が書かれているんだ」
ノアは笑いながらいう。ノアの人生の悲劇だって?
そう告げたノアの表情は驚くほど愉快そうだった。ほんとうは喜劇じゃないのだろうかと疑うほどに。
ウィーンはなにがなんだか分からなかった。




