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1 ノアの思索

 朝食のあとの一杯の珈琲は人生と心を豊かにしてくれる。これはどこかのしがない老人の受け売りだ。

 恐らく立ち寄ったどこかの国の市場で聞いたことだが思い出は流れゆくもの、その声の主をいちいち覚えていたりはしない。

 カップから立ちのぼる湯気を鼻元で薫らせて豪快に吸うと、その重厚なフレイバーが脳髄にまで広がって最上に幸せな音楽を奏でた。この朝食のあとのご褒美の時間をボクはガルバリダ号の家族たちと共有している。


 そばにはグリフォンがいて、サルがいて、フェアリーがいて、小型のゾウがいて、フェンリルも。食事を終えた彼らは皆、腹をさすりとても幸福そうに微笑んでいる。

 動物は笑わないって? 夢のない事実をいうものではないよ。分からないかな、これは単なる比喩表現さ。


 家族は他にも紹介しきれないほどたくさんいて、皆が揃う朝夕の食事の時間はまるで森の音楽会のようになる。


「ごちそうさま、フェンリル。食事を運んでくれてありがとう。皆食事をともにしてくれてありがとう。ボクは今日も皆に感謝している」


 たっぷりの感謝の気持ちをこめて労う。こうして語り合えることに感謝するのだ。小さな幸せを楽しめないヤツに大きな幸せは訪れない。これもボクの長い人生で学んだことだ。

 朝食を終えたボクは水やりついでに、朝の日差しを浴びるため甲板へと出た。水やりはいつもは下僕の……おっと失礼、乗組員のエドにやらせていたことだけれど、彼がいない以上ボクがやるしかない。でないと長い旅路の間に植物たちは皆、枯れてしまうのだから。


 アルミのジョウロにたっぷり水を汲んで一輪一輪丁寧に水をかける。なにしろ数が多いのでとても時間がかかる作業だ。

 植物たちとはコミュニケーションを取りながらときに腹を割って深く話し合って、意思と願いを細かく聞いていく。


「ああ、今日はあまりいらないって? 食欲がないのかい」

「葉が茂ったね、もうじき花芽がつくんじゃないかな。とても楽しみだよ」


 日常会話を終えたボクはからのジョウロ片手に伸びをして、遮るもののない天空を仰ぎ見る。この世界の空は数百年前と寸分も変わらない。



――ボクはノア。この世界に唯一無二の神の使いだ。



 さて、兄弟王子たちが船を降りてもうすぐ半年になるだろうか。ああ、勘違いしないでくれたまえ、心配しなくてもいい。決して仲たがいしたわけではないよ。逃げられてもいないからね。


 彼らは今ある(・・)目的のために地上で生活をしている。ボクもともに降りてもよかったのだけれど、ときには兄弟水入らずで過ごして欲しいからね。それに保護者が付き添っていては、まともにつがいも見つけられないだろう。

 そう、彼らには迫る時間を忘れて恋をして、よき伴侶を得て欲しいと思っている。これはそのための時間。神さまの計画どおり彼らの子孫がカルガモ式に増えて後の世界を作っていくのだから。


 丹念に水やりを終えたボクはいつものように大好きな読書を楽しむために図書室へとあがった。船後部の尖塔のてっぺんにある図書室は景色がよく、朝から晩まで角度を変えて沈んでゆく陽光が楽しめる。


 壁を埋める造りつけの本棚を眺め、膨大な人生の時間のうちに、何度も繰り返し読んだ愛読書に想いを寄せた。本を読むと悲しみも孤独もどこかへいってしまうから不思議だ。

 さあ、今日の本を決めよう。本棚の前で目をつむり、人差し指をのばして本の背表紙の前でお遊びのようにスライドさせる。右へ左へゆっくりと何度も何度もこするように。


「これだ」


 選んだ一冊の背表紙に触れて目を開けた。ゆっくりと背表紙を引き、手に取り確かめる。

 『世界地図』と書かれている。なんの冗談だろうか、偶然の神さまは今日一日世界地図だけを読み更けろというのか。おまけにこの地図は役に立たないある事情がある。


 とはいえ、朝選んだ本をその日必ず読むと決めている。これは揺るぎない絶対だ。口をへの字に曲げて部屋の片隅のソファに腰かけると律儀に一ページ目を開いた。


 一ページ目にあったのは世界の全形だった。北の大陸にセシルブリュネがあって、南西のラマリエ大陸にレッドエデンとワイズポーシャ、東にリアチュチュがある。そう、確かにあるはずなのだ。

 だが、それらの国名はこの地図に一ミリも記載されていない。代わりに記されているのは聞き覚えのない国の名前。

 この地図はすでにこれまでの旅で何度か見ていて、その可笑しさにはボクも気がついていた。そしてその理由にも。だが、おぼろげな記憶による推論だから口にできるほど確証がないのだ。


 恐らくこの地図はこの世界のものであって、この世界のものではない。


 腕をソファの縁についてじっくりとページを捲った。図書室に入り浸りのウィーンもこの地図は見たはずだけれど、なにも疑問は口にしていなかった。退屈でやめてしまったか、彼にはそもそも疑問に思うような世界の知識がなかったか。


 数ページをめくり、手を止めた。拡大地図の真ん中に書かれたソレイユドールという国名がふと目に飛びこんでくる。


「ソレイユドール」


 確かめるように口にする。唇を舐めてもう一度ソレイユドールとつぶやく。ボクはこの名前を確かにどこかで聞いたことがあるのだ。失せてしまった記憶の中に手がかりを探そうと懸命に思考を巡らせていると瞬間、黄土の景色が過った。


 途端、洪水のような記憶が押し寄せる。まるで分厚い心のアルバムを開くようにたくさんの絵が心の中でばらばらと捲られていく。砂っぽい町中に植わった痩せた木、色あせたテント、裸足で歩く痩せた人々。巨石の岸壁に囲われた貧しい町の掘っ建て小屋に住んでいたあの子たちの恐怖に怯えた顔がまざまざと蘇った。


「ヨハン、ディル、レニー」


 愛しさに引きつけられるようにその名をつぶやいていた。彼らなのだ、あの時の彼らなのだ。確かにそう思えたのに自身はその脈絡を覚えていない。彼らはいったい誰なのだろう。 本を閉じると記憶が静かに去る。まるで大事なものが失せるような感覚を覚えた。そして、この感情は恐らくすでに昔、自身が経験していたことなのだろう。



――キミは寂しい人だね、ノア。



 言葉が心に蘇り、はらりと涙がこぼれた。涙が本の裏表紙を濡らす。どうして泣けてくるのかもボクには分からない。とても、とても大事な感情だった気がするのだ。



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