8 世界の事実
「急所は避けた、だから気にするな」
ガリバルダ号に戻ってもエドは落ちこんだままだった。宿屋に一度戻り、金貨を全て回収してそれは暴漢たちに与えた。代わりに宿屋の家族に危害を加えないことを約束させて。全ての善意が無駄。こうなることをノアは初めからそれを望んでいたのだろうか。
手を下したことをアーサーは悔いていない様子だったが、その行為の重さを思うと申し訳ない気持ちが浮かんでくる。
自身が行ったのは救済ではなく同情。結果的に誰も救えなかった。混乱を招いただけ。そのことにまた落ちこむ。
アーサーは振り向き、表情を険しくすると船縁に腰かけたノアに叩きつけるようにいった。
「お前には人生の宝物がないのか!」
そう糾弾する彼の表情はこれ以上ないほどに歪んでいた。
「あれは母の指輪だ! 故郷から持ってきた宝を手放せるわけないだろう!」
「さあ、ボクに宝物はないから」
涼しい顔で応えるノアにアーサーはきっと視線を強くする。さらに追求の手を緩めず憤慨して言葉を重ねた。
「エドに人を刺すことはできない、それも分かっていただろう!」
その怒りの声音はこれまでに見たことがないほど苛烈なものだった。
「あの人たちは悪い人たちだよ。金欲しさに子供を殺したんだ」
ノアは詰まらなそうに飄々と答える。
「金がないから奪うしかなかったんだ」
アーサーが手を振り払った。
「じゃあ、悪くないのかい?」
ノアの思わぬ問いかけにアーサーは息をのんだ。ノアの詰問は続く。
「金欲しさに子供たちを殺したけれど、悪くない人たち。そうだ、あの人たちは困っていた。やっぱりキミのブルーサファイヤもあげてしまえば良かったのかもしれない」
エドは真っ青な顔をあげた。
「そんなこと」
「できないっていうのかい、それならばキミはおかしい。キミは宿屋で可哀そうな人たちにおもちゃをあげた、金貨をあげた。あの男たちも犯罪することでしか生きていけない、同じように貧しさに苦しむ可哀そうな人たちだ」
エドは、はっとしてなにもいえずに唇を噛んだ。ノアのいわんとすることを察してしまったのだ。
「あの貧しい宿屋と襲撃者たちの抱える貧しさになんの違いがあるのだろうか。どこも違わない。それをキミは偶然知り合ったというだけであの宿屋の人々に施しをしてしまったんだ。この国で救われるべき命はたくさんあったというのに、あの家族だけに」
エドは目を見開いたあと、あふれる思いを閉じめるように目をぐっと瞑った。
「目にしてしまったものは可哀想だからほうっておけない。それも1つの考え方だろう。けれど、金銭を与えることはこの国の抱える問題を解決する唯一の手段とはならない。その証拠にキミが善意で授けた金貨はなにものにもならなかったはずだ。あの人たちは金貨が尽きればまた子供を売っていただろう」
エドは顔をくしゃっと潰した。ノアは足を組みかえて思案した様子で空を見る。
「悪いのは状況を理解してなかったキミだろうか、あるいは見捨てる世界か、それとも、対処できぬ国か、はたまた自治体、違うね。貧しさと富が入り混じるこの世界そのものが手の施しようがないほどに、そういう理不尽で溢れている」
「エドの優しさを否定するな!」
「事実なんだよ、アーサー」
ノアは低く呟いて続ける。
「この旅で一番大事なことは自身を律すること。どんな世界の現状を目にしようとも飲みこまれない魂としての強さを磨く。世界の悪意を知って罪を憎み、その経験は全てのちの新しき世界に生かす。新世界の理を作るのがキミたちの務めだからさ。そして、そのための旅路であることを強く意識してもらいたい。ボクは時と魂をかけて学んでほしいのさ」
「冷たすぎるよ、ノア」
ウィーンが寂しくぽつりとこぼした。そのつぶやきにノアはふっと笑みを消す。
「キミたちがいつまでも理解しないから教えておく。世界はキミたちが思うような優しさでは動いていない。富を求めて貧富の差が生まれ、強者が弱者を虐げる。弱者はさらなる弱者を虐げる。そして金の為ならばときに命さえ奪うのもいとわない。それが現状だ」
ノアは船縁から降りて、しゃがむと唇が触れるか触れないかの距離でエドの耳元で意地悪に囁く。
「それでも世界が救いたいかい」
エドは目を見開いた。自分たちがリアチュチュの大地で見たものが世界の真実とするのならば、やはりそれを救いたいと願うのは――
アーサーがあまりのいいぶりに割って入ろうとしたのが見えた。だが、それより先にエドは涙を一筋こぼした。
「救いたい」
語尾が震えて落ちる、エドは涙をはらはらとこぼしながら泣いた。うつむいて目をぬぐい、それでも涙が滴り落ちていく。
「救いたいと思っちゃいけないのか」
エドの溢れる涙は世界の理不尽へ向けてのものだった。自身が変えることのできぬ現実を目の当たりにして、ただひたすらに泣き続けた。甲板には重たい沈黙が流れ、誰も声をかけることができずに黙りこむ。
エドの心にあるのは平等に生きられない世界への悲しみ、無意味と罵られてもできることならば彼らを本当に助けたかったのだ。
しきりに泣き続けるエドの横に座ると珍しくノアが慈愛に満ちた声で語りかけた。
「優しいね、エド」
「知るかよ」
強情なエドは唇を噛んで、けれど泣き続けた。ノアはその様子をしばらく見てエドから離れると船縁に立ち、小さくなった地上に向けて大きく手を広げ盛大に言葉を放った。
「キミの善意の思いやりは世界に届いているかい? どうだろう。寸分も理解していないのじゃないかな」
「それはみんなが一生懸命生きているからだよ」
ウィーンは顔をあげ、訴えかけるように大声でいった。
「みんな一生懸命生きているから、ときに間違うんだ。大切な声も聞こえなくなるんだ」
「キミはいい子だね、ウィーン」
ノアは振り向き微笑んでいた。いつものにやにや笑いではなかった。これはときおりウィーンだけに見せる優しさなのかもしれない。
「過ちも後悔も全ては神の雨に流れる。残るのは清浄な世界さ」
そして静かに天に祈るようにいった。
「世界の悲しさを忘れずに大人になりなさい。今度世界が変わるときは深く愛し合えるように」
瞬間、祈りの声を吹き流すように風が立ちのぼって、ノアの心を一つの言葉が揺さぶった。それは鮮やかに脳裏をかすめ消えていく。帽子が舞いあがり甲板へはらりと落ちた。
――キミは寂しい人だね、ノア。
人生のどこかで聞いたはずの言葉だった。でもその言葉の主をノアは覚えていはいない。それほどにもう昔のことだ。ノアは目を静かにつむると思い出の欠片を封じこめた。
ガルバリダ号はリアチュチュの地を離れて次の目的地へと向かい始めていた。




