8 朝焼けの戦争
星がひとつ一つ消えていく明けの空をウィーンはガリバルダ号の甲板の縁で眺めていた。
本当はぐっすり眠っていたのだけれど、夜中にノアが、がばっと起きて「船に戻ろう」といいだしたのだ。眠い目を擦りながら、宿を出て、ノアの魔術のような所作で憲兵を惑わせながらワイズポーシャの町を後にした。どうしてそんなことができるのだろうと不思議だったが、ノアに問うと「幻覚作用の薬だよ」とにやにやと笑った。
「二人はきたかい」
背後から声が届いて、ノアがウィーンの隣に立った。ウィーンはふるふると首を振る。二人の姿はまだ確認できていない。するとノアが静かな声でそっとこぼす。
「もうじき嫌なことが起きる」
「嫌なこと?」
「戦争さ」
戦争、と呟いてウィーンは荒野を見た。ノアは昨日、二国は戦争しているといっていた。戦争しているのに戦争が起きる。なんだか、よく分からなかった。
「どうして、そんなことが分かるの」
「ボクは夢でお告げを聞いたんだ」
お告げなんてまるでノアらしい。そう、といいながら再び荒野を見た。見つめる先は静か、今のところなんの兆候もないけれど。彼のレッドエデンは、やっぱりそれほどまでに憎むべき国なのだろうか。
* * *
「くそっ、このガキ手ごわいぞ」
アーサーとエドの二人はワイズポーシャ側から離れた町の入り口で憲兵と剣を交えていた。争いは避けたかったが、ここを通過しなくては国外に抜けられない。
敵の隙をつき腰元の剣を一本奪ったけれど、相手は大人だ。いかに剣技に自信のあるアーサーといえど、さすがに三人の大人となると苦戦する。
さらに敵の隙をつき、今度はエドが相手の予備の剣を奪った。形勢は少し楽になった。これで三対二だ。
「くそっ、奪われたか」
悔しそうにする憲兵を見て、エドはにやりと笑う。
「お前当てにしていいのか」
敵の剣先を弾きながらアーサーは荒々しく問いかける、彼に剣の心得はないはずだ。
勿論といってエドはアーサーが相対していた敵一人に同時攻撃を仕掛けた。明らかに無粋であるが、それは向こうもいえた口ではない。
「お前穢いぞ!」
叫びながら怯んだ敵の隙を突いて、アーサーは剣を力いっぱい跳ねあげた。剣は空に舞い、くるくると回転して土にだんっと突き刺さる。
調子づいたエドはさらに威嚇しようと、剣を失ったその兵士に向けて自らの剣を突いた。明らかに手ぶらの剣士に剣を突きつけるという咎であるが。
直後ぎゃっと叫び声があがる。
兵士の腹にエドの剣が勢いよく突き刺さり、鮮やかな血が溢れでた。
「えっ」
エドは思わぬ出来事に全身の血が冷めていった。
自身は決して害するつもりなどなかった。腹に突き刺さったままの剣を手放し呆然とする。相手は苦しそうに崩れ落ち、呻いている。
手に残るにぶい感触がエドの純な心を蝕んでいく。
肉を突き刺した。人の肉を突き刺した――
「いくぞ、エド!」
憲兵の連携が崩れた隙をつきアーサーが委縮するエドの腕を引いて走りだした。戸惑いを振り切り、全速力で逃げる。そのまま、二人は町を出て荒野へと駆けだした。
星が消えて、もうじき夜明けがやってくる。茫洋な荒野を朝焼けが焼き始めた頃、人影が二つ見えた。ウィーンは船縁へと身を乗りだして叫ぶ。
「ノア! 兄さんたちだよ」
レッドエデンから、二人が息を切らしながら駆けてくる。とても疲れきっていて、それでも足は止めずに走っている。
「急いで!」
ウィーンの声に二人が振り向くと背後から迫る数多の軍勢が見えた。二人に差し向けられた追跡者ではなく、レッドエデンの大軍だ。朝やけに姿を真っ赤に染めながら大地を駆けてくる。いよいよこれから戦いが始まるというのだ。
悔しい思いを振り切りながら、アーサーは唇を噛みしめた。
どうして、戦うというのだろう。どうして、奪い合うのだろう。
船の架橋を駆けあがる、少しして遅れたエドも船に乗りこんだ。
三人で急いで橋を引きあげ回収して、ウィーンはノアにいわれていた通り、帆柱の釣鐘をリンゴーンと鳴らした。それが動力室で待機しているノアへの離陸の合図だ。
ゆっくりとガリバルダ号が浮上を始める。砂埃を巻きあげながら、重たい船体を引きずるように空へ空へあがっていく。これだけの重量を浮上させるのにはさすがに時間がかかり、その間にも戦火はどんどん迫っている。
「ノア、急いで!」
ウィーンが動力室のノアへ向けて届かぬ声を言葉を放った。
アーサーはふいに視界の対極を見た。逃げるときには船体が遮り気づかなかったのだが、ワイズポーシャ側からもまた、洪水のような軍勢が押し寄せていた。
ガリバルダ号は奇跡のような日の出を浴び重力に逆らいながら、勢いを増してぐんっと空へ飛び立つ。
縁に乗り出して兄弟は真下の地上を見た。東から押し寄せる大きな波と西から押し寄せる大きな波が弾けるようにぶつかり合う。
まもなく両軍は入り乱れ、ラマリエ荒野全てを巻き込んでの戦闘行動が始まった。
兵士の誰もかれもが武器を手に目を血走らせて狂気を振るう。
アーサーは縁に置いたままの手を震わせ、遥か遠くの地上へ向けて言葉を絞りだした。
「やめろよ、戦争なんて! どうして戦うのさ」
この嘆きの声はもう、両国に届かない。傾ける耳さえ戦争を始めた大人たちは持ち合わせていないのだ。
狂気を振り払いながら、次第にガリバルダ号は雲の中へと消えた。
「なぜこの場所にきたんだ!」
アーサーは怒りの声をノアへとぶつけた。甲板にノアの薄い体を叩きつけ馬乗りになり殴る。エドとウィーンが止めたが聞かなかった。これほど怒ったのも人を殴ったのも初めてだった。
「ボクたちがこなくてもいずれ起きていた戦争さ」
ノアは鼻血を流しながら声を張りあげる。
「こなければ戦争は起きていなかった!」
苛立ちと行き場のない後悔が甲板へと広がる。
「いいや、起きていた。それをキミはあの国で学んだんじゃないか!」
「国同士のいさかいが起きて! それでも戦いを踏みとどまろうとする人々の気持ちが! 戦争だけはダメだと思う人々の気持ちが! お前には分からないのか!」
アーサーは悔し涙を流しながら、猛る怒りの矛先を探しているようだった。
「世界中にそう思う人がどれだけいる! 一人か、二人か!」
珍しくノアも対抗した。目を丸くするほどの本気の叫びだった。
「もっといる! 数え切れないほど、もっといるはずだ! 世界をバカにするな! 国をバカにするな!」
首を押さえつけられたノアはきっと睨みつけながら苦しげに声を絞りだす。
「膿を絞りだすいい機会さ」
アーサーは殴ろうと振りあげた手をはたと止めた。
「キミはこの言葉を聞いたはずだ。それが戦争の真実なんだよ」
ノアは血だらけの顔でにやりと笑う。
「黙れ!」
再び怒鳴るとノアの顔を殴りつけた。
戦争の始まった国土に救われるものはない。どちらが勝っても相手を殺したという禍根だけが残る。
世界中で起きている戦争のこれはほんの一部で、それを止めたいと願うのはノアがいうように愚かなことなのだろうか。
ゆっくり浮上を続け、雲の上に出たガリバルダ号は極光を見た。輝く雲海は皮肉なほどに神々しく船を迎え入れている。その光を見て、アーサーはこれ以上殴るのをやめた。
立ちあがり朝日に向き合う。拳は血に汚れ、悔しい感触だけが残っている。
「大丈夫?」
ウィーンがノアの頬に触れる。ノアはなにもいわず、アーサーの赤に照らされた後ろ姿を見ていた。
「皆生きたいくせに、死ぬのが嫌なくせに」
とめどなく涙が溢れた。伝った涙が甲板を濡らす。
「くっそおおお、畜生おおお」
アーサーは渾身の力で朝日に向かって叫んだ。




