1 初上陸計画
――オドネルは母ウサギと父ウサギといつまでも幸せに暮らしました。
最後のページを読み終えたウィーンはぱたりとうさぎの冒険を閉じた。すでに三度は繰り返し読んで、さすがに頭に焼きついてしまった。大切な宝物と引き換えに手に入れた大事な本だから、たぶんこの先も繰り返し読んでいくことになるのだろう。
窓の外に目をやると空が夕暮れに染まっている。この空をもう一カ月以上見続けている。図書室の小窓からは外の景色が良く見えて、ここは船内で一番のお気に入りの場所となった。
誰も来ることのない図書室で、ウィーンは時折セシルブリュネを思いだす。もう二度と戻ることの無い彼の地には大切な家族がいる。大切な人たちがいる。
世界が失われようとしているのに、なにもできずに日々は過ぎていく。
ノアと約束をしてしまった以上、下船したい、帰国したいという望みはもう叶えることができないのだから。
そろそろ食事時だ。ウィーンは立ちあがるとベッドルームに本を戻すために図書室のある塔を静かに後にした。
「あれ、アーサー兄さんは」
戻ったベッドルームにはエドしかいなかった。
「稽古してんじゃね」
そう答える食いしん坊のエドは運動不足のためか、このひと月で少し丸くなった。今もベッドに寝そべりキャンディを食べている。
「エド兄さん丸くなるよ」
「失礼だな。全然スリムさ」
ウィーンはそんな会話を交わしながら、枕元に本を置く。ベッドサイドの棚に片づけることもできるけれど、こうして目に留まるところに置いておくのは安心して眠るためのおまじないなのだ。
食べきれなかったキャンディを舐めるエドと二人で兄のいるだろう甲板へと向かった。
「アーサー兄さん、ご飯だよ」
アーサーはグリフォンと剣の稽古の最中で、大きなグリフォンを相手に鮮やかな剣技を舞っていた。
声に気がつくと汗いっぱいの顔を向けて、ふううっと深呼吸する。時間も忘れて特訓していたに違いない。
「もう、こんな時間か。ありがとうグリフォン」
そういって毛並みを撫でる。幻獣にこちらの言葉は相変わらず通じないから、そうした仕草で伝える必要性があった。
アーサーがこうして剣術の訓練に取り組むのはノアに負けた日からだ。もう訓練を繰り返したとしても約束を反故にすることはできないけれど、負けたという事実が本人にとっても耐えがたい屈辱であることは変わりない。
より強くと願うのは一つには父の贈った言葉があるだろう。ウィーンが『知恵』という言葉に忠実に従っているようにまたアーサーも『勇気』という言葉をなにより大事にしているのだ。
タオルで汗をぬぐうとグリフォンと一緒に三人と一匹で、そのまま食堂へと向かった。
「やあ、皆揃ったね。嬉しいよ。今日も誰ひとり欠けることなく食事ができる」
ノアは相変わらずの派手な燕尾服で手を広げて大袈裟に誰かに感謝する。
「欠けるはずないだろ。ずっと船の上なんだ」
吐き捨てるようなアーサーの言葉にノアは「おや」と呟く。
「分からないよ。運命の別れはいつやってくるか分からない。今日隣にいたキミが明日はいない。そういうことだって十分あり得る」
そういって隣のグリフォンの羽毛へ触れる。それを受けてグリフォンがきゅおおと寂しげに鳴いた。
「ああ、グリフォン悲しまないで。さあ、冗談は置いておいて座って。お腹がぺこぺこだ」
三人は呆れながらいつもの席、幻獣たちに囲まれたノアとは向かいの席に座る。
今日のシェフは羽の生えた妖精のような幻獣たちだ。小さな仲間が寄り集まって、大皿を懸命に運んでくる。
「ねえ、気になっているんだけれど食事、本当は誰が作っているの」
ウィーンの問いかけにノアはにやにやと笑う。
「世の中には知らない方がいいこともあるのさ」
世の中をいかにも知らなさそうな人間がいうのでなんだかすっきりしない。いったいどんな秘密があるというのだろう。
「フェアリーの皆、ありがとう。席に着いて」
皆がテーブルに揃ったのを見てノアはお祈りを始めた。
「ああ、神さま今日も恵みに感謝します」
そういって黙るのでエドが突っこむ。
「今日短くね?」
「お腹が減ってるから急いでるんだよ、さあいって」
「恵みに感謝します」
「ヒポポータマス」
「ヒポポータマス」
食事をしながら、他愛もない会話をして。一か月も過ごしているとノアが朝夕の食事の時間をなによりも大事にしている理由がなんとなく分かってきた。こうして船の仲間が集うときが皆揃っての唯一のコミュニケーションの時間なのだ。これじゃまるで家族――
そう思いかけたとき、アーサーがスプーンを置いて問いかけた。
「ノア、お前の考えに賛同した訳じゃないけれど。お前はあらゆる生物種を集めるために世界を巡るといっていただろう。それはいつ始めるつもりなんだ」
確かにとウィーンは頷く。ノアの本来の目的はあらゆる生物種を世界の終わりから救済すること、八年という期限つきの活動であるにも関わらず、まったく動きだす気配すらないのだ。
「八年だよ、お茶する時間くらいある」
エドがぶっと吹きだす。ウィーンもそんな時間があるのならセシルブリュネに帰ってほしいと思う。
「冗談さ、そろそろ始めようと思っていたところ」
そういってノアは食卓の大皿を横に避けると地図を広げた。
「今飛んでいるのがここ、でセシルブリュネはここ」
差し示した二地点はずいぶんと離れていた。
「ここはラマリエという大陸だよ」
「聞いたことがない」
アーサーが顔をしかめた。
「ラマリエには二つの大国があって、ワイズポーシャとレッドエデン。その国境付近で動物たちを集める」
「お前は頭がおかしいのか」
アーサーが問いかけた。その言葉の意味をウィーンは量りかねた。
「国境付近でそんな活動をすれば両国から侵犯者扱いされて、お鉢が回らなくなる」
「水晶が告げているんだよ、そこで正しい」
水晶が告げている。時折ノアはそう述べることがあった。恐らく動力室の巨大な水晶のことだ。もしかすると奇妙なノアのこと、自分たちの知らないところで彼は水晶と会話しているのかもしれない。
「動物を集めたあとでせっかくだから、両国を散策していこう」
アーサーはくいっと眉をあげる。エドが「えっ、観光かよ」と喜んだ。
「ボクたちはアーサーとエド、ボクとウィーンの二組に分かれてそれぞれの国を目指す」
「どうしてそんなことをするの」
ウィーンが問いかけるとノアはにやにやと笑った。
「それぞれの国主に動物を少し拝借することを告げるんだ。勝手に持ち去るのは泥棒だからね」
ああ、なるほど、ノアがセシルブリュネでやったようなことを今度は皆でするのかと理解する。
「ただし正直に説明するのは賢くないよ。覚えていて。我々は慈善活動で生物種を集めていますと。説明するのはそれだけ。間違っても世界の崩壊が云々は伝えてはならない」
「どうしてだよ」
エドが食欲を止めずに問いかけた。
「彼らは助けられないからね。ボクと一緒のウィーンはいいけれど、二人はくれぐれも振る舞いに気をつけるんだよ。エドは頼りにならないだろうからアーサー任せるよ」
アーサーは怪訝な顔をして「分かった」と答えた。




