3 船の動力室
ベッドに寝そべり、延々と続く空の景色を右手にウィーンはうさぎの冒険を読んだ。不安なとき、泣きそうなとき、本を読んでいると悲しい気持ちが静まって心が落ち着く。けれど、このときばかりは集中できなかった。
アーサーはベッドに寝転がり足を組んで天井を見つめ、エドは座って窓ばかり見ている。会話もなく静かな部屋だ。ちらと目をやると窓の外の青空を渡り鳥の群れが飛んでいた。なんという鳥なんだろう。どこへいくんだろう。
ウィーンは本をぱたりと閉じるとベッドから起きあがった。
「ボク、ノアと話してくる」
兄たちの返事はない。誰も止めないのでウィーンは部屋を出てノアを探すことにした。
誰もいない木の廊下を進みながら、色々なことを考えた。ノアを説得して、セシルブリュネに戻って。いいや、そんなことはできないと思い直す。自分たちは神さまを説得するために旅に出たのだと。待っている人々のためにも志半ばで帰ることなどできないのだ。
前方を見ると真っ直ぐな廊下の先が揺らいでいる。船内を案内されたときは気に留めなかったのだが、飛空艇は時折、微妙に右に左に傾いている。航路に合わせて進行方向を変更しているようだった。
ちなみに自身は飛空艇で無いけれど、国の所有する船に乗ったことがある。ずっと小さなときに一度きり。記憶にはないけれど周囲の者が思い出深そうによく聞かせてくれた。
物語で船酔いする海の男を知っているものだから心配したが、案外平気なものだなとウィーンは思った。
たくさんの動物たちの船室の前を通り過ぎながら、考えるのはどうやって彼と話すかということばかり。部屋をのぞいてみたいという衝動もなく、一心にそのことを考えた。
延々と続いた廊下が終わり、短い階段をのぼって甲板に出ると黄金の髪を風が吹き流した。
全天の真っ青な景色、ここは空の上なのだ。目下には雲の海が広がる。ガリバルダ号は波を切って進む海上の船舶のように雲の海を航海している。
甲板の縁から身を乗り出して、舞いあがった雲に触れようと手を伸ばした。つかもうとこぶしを握りしめたけれど、相手は水蒸気だ。手の中で形もなく、くしゃっと潰れてひんやりと冷たい感触だけが手のひらに残った。
ウィーンは甲板の中央部にある船長室へと向かった。ドアにはプレートがかかって下手な文字で『せんちょうのへや』と書かれている。
こんこんとノックをして、けれど返事はない。もう一度ノックをしたけれど反応がなかったので勝手に開けた。恐る恐るドアを開いていくと、これまたたくさんの悪趣味な人形が飾られた小さな部屋がのぞく。
「ノア、いるの。ノア」
ウィーンはゆっくりと船長室へと侵入した。
操舵室も兼ねているようで、左には外を目視できる窓と大きな木製の舵があり、右の見えづらい奥にはふかふかのベッドがあってここで仮眠でもするのかもしれない。
船に他の人がいない様子をみると、おそらくノアはこの船を一人で取り仕切っているのだ。ふと目を向けると誰もいないというのに、舵がひとりでに右へ左へとくるくるとまわっていた。
この船は驚くべきことばかりだ。触れてもいないのに舵が勝手に動いている。そもそも空飛ぶ船自体が不思議だという事実を思い出す。ウィーンは絵本で読んだ『魔法』という言葉を頭に浮かべた。
船長室にいなければ動力室にいるとノアはいっていた。ウィーンはその足で動力室へと向かう。さすがに歩くのに疲れて、どうしてこれほど大事な場所を離して置くのだろうと考えた。
船の深部の動力室。ここは丁度、操舵の真下だ。中からは何かが蠢くような音がギイギイとしている。覚悟してドアをノックした。
「どうぞ」
深刻なウィーンが気抜けするような明るい返事が帰ってきた。
入っていいのだろうかと思いながら、扉を押しあける。建てつけの悪そうな扉がきいとゆっくりと開いた。
「ノア」
「やあ、ウィーン。いらっしゃい」
ノアは立ったまま両手を伸ばしにやにやと笑っていた。
「なにしてるの」
ノアはまるで暖炉にでも当たるように手を目前の巨大な透明の宝石へとかざしている。宝石はほうっと吐息するほど美しく、虹色の光を湛えながら穏やかに発光していた。
「それなあに」
「水晶さ」
「これが水晶?」
ウィーンは不思議な気持ちになった。水晶はもちろん知っている。セシルブリュネにも宝石商はいたし、城の調度品の中にもいくつかあった。でも、これほどに巨大な、ウィーンの背丈以上の物は見たことがない。原石なのだろうか。
「ただの水晶じゃない。ブルーローザの大事な水晶を取りつけたんだ」
「へええ」
「これに手をかざして、力を送ることでこの船の浮力を保っているんだ」
「ノアは魔法が使えるの」
「そうさ」
この部屋の設備は巨大な水晶だけで他になにもない。相変わらずギイギイと機械音が聞こえているがもしかすると連動した地下の設備からなのかもしれなかった。
「この船って不思議なことばかりなんだね」
「そうさ」
ノアは意味もなくにやにやと笑っていた。彼の屈託のない横顔を見ると大事なものばかりの自分が悔しくなる。
「ノアに家族はいないの」
「いないよ」
「大事な人はいないの」
「いないよ」
なんだかますます悔しくて涙が出そうになった。心情を理解してくれない者をどうやって説得するというのだろう。良心に縋るつもりで問いかけたのに拒絶され、その先を無理に口にしようと思うと堪らない気持ちになった。
「ねえ、ノア。神さまにお願いできないかな。世界を滅ぼすなんてやめてほしいって」
悲壮なウィーンの言葉にノアは優しく微笑んだ。
「ウィーンは優しいね」
「悲しいよ。大事な国なんだ。大事な人たちなんだ」
ウィーンの目じりに滲んだ涙に道化の手が触れる。絹の手袋の滑らかな心地がした。
「神さまに世界を救いたいって伝えるのがどうしていけないことなの」
「いけないとはいってないよ。それを拒否するほど神さまは横暴じゃない」
「だったら」
「神さまに救済を頼むのは個人の自由だけれど、もちろん断るのも神さまの自由。そして、キミたちは二度とセシルブリュネには帰れない。これも理解すべき大事な真実さ」
「故郷に帰りたい気持ちが分からないの」
糾弾するように訴えかけたウィーンの言葉を一刻ノアは考えた様子だった。そしてにやにやと笑う。言葉はふざけていないのに、表情と声音がまるでふざけている。
ノアは指を一本立てた。
「どうして神さまはせっかく作った地上を滅ぼされるのだろうね」
「分からないよ。どうして」
我慢できなかった涙がとうとうとこぼれてきた。手で懸命に涙をぬぐっても止めどなくあふれる。ノアは泣きじゃくるウィーンを見ると表情を一転させ冷めた顔でゆっくりと言葉を滑らせた。
「キミたちはそれをこれから学ぶことになる」




