1 飛空艇の中
飛空艇の甲板は驚くほど広かった。ずっと先に空と船の境目が見えて、遠景に白い雲が浮いている。空は地上で見るよりも遥か濃く、目の覚めるような青さだった。
はためく音に視線をあげて各々の帆の微妙な違いに気づく。全部同色だと思っていたけれど実際は薄紫の物と白い物が入り混じっている。十枚全てが上空の風を受けて前方に大きく張りだしていた。
甲板を見渡すが余計なものはなくとても綺麗だった。目につくのはせいぜいロープや樽くらい。後部を確認すると石造りの尖塔が全部で3本、船尾には褐色の巨大なプロペラがいくつもついてがんがん回っている。ウィーンはほうっと吐息する。なんと豪勢な船なのだろう。
プロペラの回転音が響く中でノアは澄ましてお辞儀をした。
「ようこそ、ガリバルダ号へ」
そういって手を優雅に広げるさまはまるでこれからショーを始める大道芸人のようだった。大道芸人は城にも招いたことがあるから、その細かな所作を知っている。
華やかな衣装と弾ける笑顔はノアの武器なのかもしれない。
「荷物を置きたい、寝室へ案内してくれ」
毅然としたアーサーの言葉にノアはつまらなさそうな表情を浮かべた。
「せっかく飛空艇に乗ったんだよ。王子さまってのはみんなこうなのかい」
アーサーはその嘆きを無視して甲板を歩く。その背中にノアは言葉を投げかけた。
「キミたちさえ良ければガリバルダ号の中を案内させて貰うよ。さっそく休みたいなんていいだす王子さえいなければ、だけれど」
ノアの皮肉にアーサーは振り向いてため息を吐くと、勝手にしてくれとジェスチャーして黙った。エドとウィーンは顔を見合わせ、わくわくとした表情でリュックの肩ひもを握りしめた。
巨大なガリバルダ号の船室に入ると臨場感たっぷりに聞こえていたプロペラの回転音が遠くなった。代わりに全周を覆う木の床と木の壁から柔らかな木材の芳香がする。とても心安らぐ穏やかな造りだ。荘厳な石造りのセシルブリュネ城の内装とは大きく違っていて、でもウィーンはこういうのもとても素敵だなと思う。
清潔さは城に引けを取らず、長い廊下は丹念に掃き清められて通っている人は一人もいないかった。時折飾られたテーマのつかみづらい前衛的な絵を見ながら、延々と続く木の廊下を進むと天井の高い大きなホールへ突き当たった。
時間外だからだろうか。その場所には誰もいなかったけれど、数えるだけで骨が折れるほどたくさんの丸テーブルがあって、その上には全部違う派手なキルトのテーブルクロス、その上に揃いの燭台があって白いロウソク、テーブルの周りにはそれよりさらに多い数の丸イスがあった。天井や床のいたる所に飾られた深緑の植物の多さなど見ているとまるでジャングルだ。
「ここは食堂だよ。人生で一番大事な時間を過ごす。イスがたくさんあるでしょ。これから動物をたくさん乗せなくちゃならないから」
テーブルもイスも人のためだという概念があったウィーンはひどく驚く。
「動物も一緒にここでご飯食べるの」
「そうだよ」
動物がテーブルについて食事をする、想像しただけでなんと奇怪だ。考えこんでいるとノアがウィンクして「ついてきて」と短く促した。
食堂を出て船の後部に向けて移動する。あちこちの階段を上り、恐らく向かっているのは船後部についた大きな尖塔の一つだ。くるくると回る石の螺旋階段を登りきってたどり着いた部屋は食堂ほどの広さはないけれど、小窓から雄大な景色が拝める絶景の場所だった。
「ここは図書室、ボクの好きな本ばかりを集めたんだよ。もちろん借りてくれていいけれど、元の場所に戻してね。無くなって良い本は一冊もないんだ」
ウィーンは瞳を輝かせた。天上まで作りつけの本棚にいっぱいの本が並んでいる。『蛇の大脱走』、『気球に乗って世界を巡って』、『お父さんとライオンのケンカ』……なんて面白そうな蔵書なのだろう。背表紙を見るに興味ある物語の本ばかりだった。
「本は好きかい?」
「うん、大好きだよ」
「それは嬉しい、機遇だ。ボクは読まないけれど。あとでキミにはおすすめの本を紹介するよ」
いっている意味が分からなくてウィーンは少し考える。小さな頭では整理しきれない彼の言動は意味があるかもしれないし、はたまた意味がないかもしれない。
窓辺からの景色も見たかったけれど、ノアが急いだのでそれは今度見ることにした。
続いてノアが案内しかけたのは動力室だった。船の最奥で、木の扉に仕切られた向こう側に船の重要機関があるという。なにやら機械音が聞こえてきて興味もあった。だが、ノアはその扉を開けなかった。
「ここは……まあ、いいや。つまらないし。入るのはいつもボクだけだから。あちこち探していないときは甲板の船長室、それでも見つからなければ大体ここにいるよ。用事があればいつでもおいで」
その後、船の後方に向かってたくさんの船室の前を通り過ぎながらノアはするすると話を続けた。
「下はいいでしょ。宝物の部屋なんかあるけれども、ボクは興味ないし」
「えっ、宝物」
食いついたエドにノアは思案する。
「がらくたばかりだよ」
宝物だけれど、がらくた。真実はいったいどっちなのだろう。
廊下の両側に並んだ船室を横目に見ながら問いかける。
「たくさん部屋があるんだね」
「ここはぜーんぶ生き物たちの部屋だよ。ああ、ノックはしないで。結構機嫌の悪い子たちもいるから」
「生き物が乗っているの」
「ううん。まだだよ。これから乗せるんだ」
ノアと真面目に会話していると頭がとても混乱する。ヘンテコで可笑しすぎる彼の日常はいったいどうなっているのだろう。




