9 広き世界へ
いよいよ旅立つ日の前日、ノアがセシルブリュネを訪れてから六日目。
国王と王妃の計らいで、三人の王子たちの戴冠式が行われた。幼く手元を離れる息子たちへのせめてもの施しだ。成人となる十五歳には満たないけれど、国を代表し大使として神の御前に赴くにはそれなりの地位が必要だと配慮したからだった。
式典の間で王の目前に並んだ三人の兄弟が呼ばれて順に立ちあがり金の冠を頂く。息子たちの頭上に王冠を乗せながら、国王はそれぞれに向けて人生の導となる言葉を授けた。
「長男アーサーには『勇気の王子』の称号を――」
アーサーは気概に満ちた表情を浮かべた。
「次男エドアルドには『慈愛の王子』の称号を――」
エドは少し面倒くさげで。
「三男ウィーンには『知恵の王子』の称号を与える」
小さなウィーンは涙目だ。
王冠を戴いたばかりの三人の王子が揃い踏みすると家臣たちの拍手が高い空間に反響した。世界を背負うにはあまりに若すぎる王子たちを見すえて、国王は自らの宿願を深く告げる。
「自らを誇れる良き大人になりなさい」
それは国王としてではなく、一人の親としての望みだったかもしれない。二度と見えることのできぬかもしれぬ大切な息子たちへ贈る最後の言葉。再会は望むけれど、埋めようのない歳月が経つのも事実だ。幸運に再会できたとしても愛する息子たちはおそらく成人している。その成長の全てを見届けられないのだ。だからこそ、この願いだけは抱きしめて大人になって欲しい。
言葉に含まれたその温かみを心の奥で噛みしめながら、どんなに遠い国に旅立とうとも、どんな困難に襲われようとも、その父の想いだけは忘れまいと三人はそれぞれの胸に言葉を刻みつけた。
* * *
出発当日となり、早起きしてウィーンは城の全てをまわった。これまで見てきた大好きな景色にしばらくのお別れを告げるように。兄弟で遊んだ庭、大好きな図書室、召使いの行き交う廊下。調度品を壊して叱られたこともある。今は目に映る思い出の全てが名残惜しい。
家族で最後の食事のとき、気丈な母がそっと涙をこぼした。でもウィーンは泣かなかった。泣けば旅立ちの決意そのものが瓦解してしまいそうだったから。
別れの時までもうすぐ。刻一刻と失われていく時間を握りしめるように母もまたウィーンのそばから離れなかった。
出立の時刻がきて何台もの馬車で町はずれの森へと向かった。
近づいて見る飛空艇は度肝を抜かれるほど大きく、城から見えていたのはほんの一部なのだと知る。
推進力を担う一番大きな白い帆とその周囲のいくつもの小さな白い帆は全部で十はある。その後方に立派な石造りの尖塔がいくつかついていて、それを下支えする大きな本体はまるで絵本で見た外国の船舶のよう。目前の舟底だけで背高い針葉樹と同じくらいの高さがあり、まるで空飛ぶ城だった。
望む兄たちの表情を見ていると、アーサーは勇んだ様子で、エドは期待に胸をふくらました表情で。それと比べて自分はいったい何なのだろうとウィーンは思う。
本で何度も心の冒険をしたのに、いざ旅立つとなると怖かった。両親が見送りに来てくれて、そのいつもと違う表情を見ているとやっぱりお別れなのかと辛くなる。馬車の中でずっと王妃にくっついて、手には『うさぎの冒険』が入ったリュックを握りしめて。
国務大臣たちはたくさんの品を用意した。空の旅で大切な王子たちが困らぬようにと。これほどに必要だろうかと思う調度品、食料、洋服。さすがに乗らないだろうなと思っていたけれど。乗らなければ冒険には旅立てないだろうなと思っていたけれど、全て軽々と積みこめてしまった。
「ようこそおいで下さいました」
飛空艇の前で出迎えたノアは惑星人のように、足を曲げて優雅にお辞儀をした。
「ノア、頼みますよ」
心配する王妃のドレスに隠れながらウィーンはノアを見た。大きな青の帽子には鮮やかな新しいピンクの羽がついていた。
「さあ、長い空の旅です。王子さま、お別れを」
「お父さま、お母さま。いってまいります」
アーサーが拝礼した。
「いってくるからな」
鼻をこすりながらエドは照れたようにいう。
いよいよウィーンの番というとき、心の中に大きな波が打ち寄せた。喉がつんとして、泣かないと決めたのにもう泣きたくなる。
彷徨う視線をあげると不安げな母の視線とぶつかった。
「やめますか、ウィーン」
あまりに心細そうな声。その声に、はっとする。自分は母を守らなければならないのだ。世界を守らなければならないのだ。
ぐっと拳を握りしめ、そして心を奮い立たせるとひと際大きな声でいった。
「お父さま、お母さま。ボクいってきます」
「ウィーン……」
両親が感激したような様子を浮かべた。
「セシルブリュネの為に、世界の皆のために。ちゃんとお願いしてくるから。だから泣かないで待っていて」
そう一気にいい終えるとぐっと顔を上げて両親を見た。王妃を悲しませないための精一杯の強がり。でも成し遂げ守りたいという気持ちは本物だった。王妃はしゃがむとウィーンの両手を握りしめ「大人になりましたね」と涙ぐんだ。
船へかかる橋を渡り、飛空艇へと乗り込む。船縁からセシルブリュネの皆に向け、懸命に手を振った。
「さようなら、いってきます」
「頑張ってくるよ」
「気をつけてくださいね」
「御兄弟仲良くなさってくださいね」
「みんなさようなら」
大小様々な言葉が飛び交うなか、橋を回収して飛空艇がいよいよ地上を離れていく。初めての浮遊感はどこか心地よく高揚感に満ちていた。ぐんと勢いよく地を蹴り、重力に逆らいながらその船は遥か天を目指す。直後、森の深緑が揺らいだ。船の巨体が作る風圧が針葉樹の葉先を煽り立てる。気持ちいいほどの晴れ空で頭上の太陽は燦然と輝いていた。
目下に広がる豊麗の国セシルブリュネ、生まれてからずっと暮らしてきた故郷よ、さようなら。
――ボクらは今、世界を巡る冒険へと旅立つ。