飯田小波の前日
飯田小波がポストを覗くと、珍しく郵便が届いていた。
送り主は、兄の里見であった。
オーストラリアから発送されたエアメールの封筒を開けると、小さなブレスレットが出てきた。
木製のブレスレットには、うずまきなどの奇妙な柄が描かれていた。
手紙も入っていたが、無頓着な里見らしく、広告の端をちぎったものに走り書きをしたものだった。
相変わらず、漢字が少ない上に句読点がない文章である。
遠い外国のバーのカウンターで肩肘をついて、ペンを動かす兄の姿を想像した小波は、自然と笑みをこぼしながら、素っ気ない文章を眺めた。
元気か
きのう変なばあさんからおもしろいうでわをもらった
こちらの夜空はすごい星だ
おれはひつようないからお前にやる
ねむれない夜につけると良いことが起きるらしい
気がむいたらつけてみろ
夜は、早くねろよ
じゃあな
手紙を読み終えた小波は、ブレスレットを手の上に乗せると、じっくりと観察した。
水色の中に黒いうずまきとオレンジ色の大きい円と小さい円が並べられていた。
これは、いわゆるアボリジニアートではないだろうか。
兄にしては、小洒落た品を送ってきたものだ。
小波は、もらったばかりのブレスレットを腕に通すと、夕飯のミートソースを作り始めた。
小波は、夢を見た。
そこは、夜だった。
とても静かな、静か過ぎるほどの夜だった。
漆黒の闇の中に響く声は、しわがれていた。
しわがれているが、悪意は感じられなかった。
「お前さんは、誰だい。」
小波が名前を名乗ると、しわがれた声は、笑い声に変わった。
「あたしは、若い男にあげたはずだったんだがね。」
しわがれた声には、少し落胆のような響きがあった。
小波は、少し躊躇ってから、闇に話しかけた。
「あなたが、お兄ちゃんにブレスレットあげたおばあさんなの。」
しわがれた声が唸ると同時にどうと風が吹き抜けた。
「お兄ちゃんは、必要ないと言っていたわ。夜空は、星でいっぱいだからって。」
足元が揺れた。
地響きのような笑い声が、小波の体を揺さぶった。
「見込み違いだったか。あたしも老いたものだね。」
何がおかしいのか、地響きと笑い声は、なかなか止まなかった。
ようやく、揺れがおさまった時、小波は、その場に腰を下ろした。
胡坐をかいたのは、どうやら話が長引く予感がしたからだった。
「おばあさんは、お兄ちゃんに何をしてほしかったの。良いことが起きるなんて、嘘でしょ。お兄ちゃんてば、単純だから、すぐ騙されるのよね。」
小波は、胡坐をかいた膝に頬づえをついて、闇を睨んだ。
すると、闇は、身を竦めた・・・ような気がした。
「ドリーミング。」
しわがれた声は、小波の右耳の後ろで囁くように響いた。
返事を聞いた小波は、少々呆れ気味の表情を作った。
「夢なら、誰でも見るでしょう。」
「ちがう。夢を見ることではない。」
闇は、責めるような口調で小波に詰め寄った。
「じゃあ、何よ。」
小波は、うんざりしたようにぼやいた。
明日の朝は、早く起きなければならないのだ。
こんな話に一晩中付き合っていたら、寝坊してしまう。
小波の非協力的な姿勢に危機感を感じたのか、しわがれた声は、渋々口を割った。
「探し物をしているのだ。」
「そうなら、そうと早く言ってよ。探すの手伝うくらいなら、協力してあげてもいいよ。」
とうとう、寝転がる体勢になった小波は、肘で頭を支えながら、気のない声で言った。
「本当か。」
しわがれた声は、明るい調子で響いた。
小波は、片目を開けて、ちらりと闇を見た。
「でも、海外に行くとかいう話だったら、なしだよ。」
「人がいれば、どこでも探すことはできる。」
闇は、嬉しさを抑えきれない声で言った。
小波は、それならいいけどと呟くと寝返りを打った。
「いつから、どうやって、始めるの。」
「その時が来ればわかる。」
「いいかげんだね。」
馬鹿馬鹿しくなった小波は、両眼を閉じた。