幕間 俺は初めてめぐの部屋へ上がらせてもらう。
「お、お邪魔します……」
「ど、どうぞっ!」
同じマンションのお隣さん同士。
だから開く玄関の扉の形は全く同じなのは当たり前のこと。
しかし、今の俺にとって、この扉は異世界の門であった。
(同じ形の玄関なのに、ここが別世界だって感じるのは多分……)
ーー匂い、のためだ。
ここにはいつもはふわりとした香ってこない、めぐの……めぐの家庭の匂いが充満している。
まるで身体中がめぐに包まれているような。
そんな不思議で、恥ずかしく、そしてとても嬉しい感覚だった。
「また、なにか思い出したの……?」
気がつくと、めぐが不安そうな視線を向けている。
どうやらぼぉっとしている俺を見ると、彼女は自動的に俺が"異世界のことを思い出している"と考えるようになってしまったらしい。
「も、問題ない。大丈夫だ……」
「ほんと? ほんとにほんと?」
めぐはもう、俺の"大丈夫"という言葉を簡単には納得してくれない。
ならば仕方ないと、俺はめぐからやや視線を逸らしつつ、
「その、匂いが……」
「匂い?」
「なんだか、ここはめぐの匂いが一杯だなって……そうしたら嬉しくなって、ぼぉーっとしてしまって、だから……」
頬に熱を感じつつ、ちらりとめぐを盗み見る。
彼女もまた耳まで真っ赤に染めて、俯いている。
「な、なんか、変なこと無理やり言わせてごめんね……?」
「あ、いや、今までの俺が悪かったんだ。これぐらい……」
「は、早く上がってっ!」
「あ、ああ!」
俺はめぐに導かれ、彼女の家へ初めて上がり込む。
リビングはより密度の濃いめぐの匂いが充満していて、頭がクラクラしてしまう。
このまま立っていると、色々な意味でまずいことになりそうだったので、うちのものよりも遥に立派な作りのソファーへ腰を据えた。
「じゃ、じゃあお料理始めるね。ゆっくり寛いでて! ちなみに今日はたんぽぽオムライス、です!」
めぐはいつものように、同じ作りのキッチンで調理を始める。
匂いや家具には違いがある。
しかし、部屋の構造は一切変わらないし、めぐが台所に立っているのもいつものこと。
だからこそ、不思議に思うことがある。
(めぐはなんで、俺を部屋へ招いたんだろうか……?)
いつものことを、なんで今日はわざわざ、めぐは自分の部屋で行っているのだろうか。別に俺の家でも良かったんじゃないか。そう思えてならず、
「めぐ、一つ聞いてもいいか?」
めぐが包丁を使っていないタイミングで問いかける。
「なに?」
「その……なんで今日は、めぐの家で夕飯を?」
「ん?」
「いや、やっていることがいつもと同じだからと思って……だったら、いつものように俺の部屋でも良かったんじゃないかと……」
俺の質問にめぐは苦笑いを浮かべるのだった。
「そうだよね。しゅうちゃんにとっては何も変わらないよね。でも、この状況って私にとってはすごく特別なことだから……」
「特別?」
「私ね、朝起きたら、まずここに立ってお茶を淹れるんだ。でね、静かな、誰もいない部屋を見て思うの……ここで私は一人で暮らしてるんだなぁって……一人なんだなぁって……」
「……」
「だからね、今日は違う風景を見てみたくなったの。いつも誰もいないこの部屋に、大好きなしゅうちゃんがいる風景を……そんな、特別な風景を、ここからいつものことをしながら……」
めぐの言葉聞いて、俺はハッと気付かされた。
以前の俺も、同じような思いを抱いていた。
一人暮らしは気ままだ。しかしふとした瞬間、誰もいないことに気づき、寂しさを覚える。
でも、そうした思いは、この春先から一切抱くことがなくなっていた。
なぜなら、ほぼ毎日、めぐが俺の部屋に通ってくれていたからだ。
めぐのおかげで俺は一人暮らしの寂しさを紛らわすことができていた。
めぐが俺の日常に溶け込んでくれていたから、気ままに過ごすことができていた。
たぶん、俺がそうできたのは、優しくて、気遣い屋なめぐのおかげだ。
だから、この状況を彼女は"特別"と表現したのだろう。
普段はめぐしかいない、この部屋に“俺”がいることは、とても特別なことなのだ。
でも、それは良くないことだと思った。
だって、これではフェアじゃないから。
俺はめぐと並び、手を取り合って歩んでゆこうと決めたのだから!
「なら……これも日常にしないか?」
「え?」
めぐは卵を溶く手を止め、驚いた様子を見せる。
「俺も通うよ。こうしてめぐの部屋に。実はいつも来て貰ってばかりで、申し訳ないと思っていたし……」
「良いの? 本当に良いの!?」
「ああ。だから、特別は今日で終わりにしよう。こうして俺がめぐの部屋へ来ることも日常にしよう。だって俺たちは……付き合ってるんだから……」
恥ずかしがながらそう言ってみると、
「ありがとっ! 嬉しいっ! しゅうちゃん、大好きっ!」
そういう彼女が思わずとても愛おしくなり、ソファーから立ち上がり、台所へ向かってゆく。
「ひゃっ!? きゅ、急にどうしたの……?」
背中からめぐをぎゅっと抱きしめ、彼女の柔らかさや、体温、匂いを十分に堪能する。
「も、もぉ! お料理できないよぉ!」
「すまない。でも、もうちょっとだけ……」
「……すごく特別……」
「え?」
「いつものところで、いつものことをしてるけど、今はしゅうちゃんがそんな私を背中からぎゅっとしてくれてる。だから、すごく特別! えへへ!」
やはりめぐはこうして喜んでいる顔が1番よく似合っていると思うのだった。
俺たちは夕飯を忘れて、しばし台所でイチャイチャしたのは言うまでもない。