幕間 林原先生の思うところ
「お疲れ! 翠ちゃん!」
翠が残業を終えて馴染みの店の暖簾を潜ると、公私ともに支えてくれている親友の真白 雪がカウンター席で人懐っこい笑顔を浮かべる。
「あら、いらっしゃい。ユキちゃんの隣へどうぞ」
店主の真珠もまた嬉しそうな笑みを浮かべつつ、席を薦めてくる。
地元である北海道を離れ、本州のここへやってきてはや十数年。
その間、翠と雪はずっと、この"かいづか"というお店にお世話になっている。
「ほい、じゃあ今日も担任業務おつかれ!」
「ありがと。ユキもね!」
二人で地元に根付いた有名ビールメーカーのジョッキを打ち合い、生ビールをごくりと飲み干す。
教師という責任ある立場から、ただの林原 翠へ戻れる、至福の時間であった。
「で、最近どーよ?」
相変わらずのユキ節だった。
だけど、今の"どーよ?"には、あらゆる意味が込められていると、翠自身はきちんとわかっている。
「まぁ、いろいろと慣れたかな。おかげさまで」
「私の?」
「はいはい、ユキのおかげよ」
「ふふん! じゃあ、そのお礼に今夜は翠ちゃんの奢りってことで!」
「なんでそうなるのよ、バカ……まぁ、1杯ぐらいは奢るわ」
そう辛辣な言葉をさらりと吐けるのも、幼馴染だからだった。
そして事実、翠はユキの存在をとても頼りにしていた。
教師で、さらに担任という激務も、雪がそばで支えてくれれているからこそ全うできている。
もしも彼女の存在がなければ激務と、昨年突然訪れた、最愛の人との別れの板挟みにあって、身も心もボロボロになっていただろう。
それに今は、ユキといった頼りになる親友の存在に加えてーー
「あら、いらっしゃい。今夜もお食事?」
気配だけで誰が来たのかわかった翠は思わず、店の入り口へ振り向いてしまう。
「はい。お世話になります」
店先に立っていた"田端 宗兵"は、カウンターにいた翠と目が合うなり、笑みを浮かべてくれた。
「軍曹……コホン! 先生! こんばんは! 真白先生も!」
翠はここ最近、この"田端 宗兵"という男子生徒のことが気になって仕方がなかった。
だけどその感情は、好きとか、恋とか、そういった下世話な感情ではない。
「おー! 田端くん! よく来たねぇ! まぁまぁ、こちらへ座りたまえ!」
いつの間にか席を一つ離した雪は、彼女と翠の間の席を宗兵へ進めている。
「よ、よろしいので?」
「もっちろん! まあぁ、みどりちゃんが"絶対に嫌だっ!"ていうなら無理強いはしないけど?」
「別に嫌じゃないわ。むしろ田端くんさえ良ければだけど……」
「で、では……お邪魔します」
宗兵は少々戸惑いつつ、それでも嬉しそうに翠とユキの間へ腰を据える。
教師生活を始めて、はや数年。
ここ最近は、いろいろと教師としての制約が多い。
だから翠は自分の身を守るためにも、教師と生徒といった距離感に細心の注意を払うよう心がけていた。
本来はそんなことなどせず、昔よくみた学園ドラマよろしく、真正面からぶつかり合う担任の先生になりたいという気持ちを堪えつつ……。
「先生はこのお店の馴染みで?」
「ええ。大学の時からお世話になっててね。もちろんおすすめは……」
「生姜焼きですよね。わかります。俺もその定食をいただくつもりです」
「わかってるじゃない!」
翠とて人間だ。
誰かに慕われて、嬉しくないはずがない。
それに、彼女自身、なぜか不思議と田端宗兵に、強い親しみを覚えているといった自覚がある。
「夏休みの宿題はもう終わった?」
「はい、既に。ただその……」
「どうかしたの?」
「いえ……先生もオフの時間ですし、勉強のことを聞くのはどうかと思って……」
「わからないところでもあったの? だったら遠慮なく聞いて!」
「よ、よろしいのですか?」
「良いわよ、全然。むしろ嬉しいわ」
「で、でしたら!」
親しみを覚える生徒が、こうして教師としての自分を頼ってくれている。
距離感とか、接し方とか、コンプライアンスとか。
そうしたことを気にせず、教える立場・教えられる立場で、真正面から向き合える。
そんな喜びを翠は感じている。
それに……
(なぜか、最近この子の変な夢をみるのよね……)
時々、まるで国防隊の人のような言動をする田端 宗兵と親身に接しているためなのか。
夢の中の翠は、軍服を着ていて、今と同じような子供教える立場で。
そこには今よりも少々頼りない"田端 宗兵"がいて。
今、隣にいる彼ほど優秀ではないないけれど、一生懸命努力をしていて、そこでも自分のことを頼りにしてくれて。
そして最後は彼らを守るために、自分が大きな鉄の箱の中で死亡する。
そんな不思議な夢を……
「先生? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ! なんでもないわ……ねぇ、田端くん」
「はい」
「いつも、頼ってくれてありがとうね」
酔いの影響でうっかり漏れ出てしまった一言に、彼は恥ずかしそうに俯きつつ「恐縮です」と控えめに返してくれた。
一人の生徒に肩入れをし過ぎるのはよくないと思っている。
頭でそうだとは思っていても、やはり彼女は、田端宗兵という生徒の行く末に凄く興味があったのだった。
「翠ちゃんのエッチ!」
突然、ユキがにんまり笑顔を浮かべつつ、そう言ってくる。
「エ、エッチってなんでそうなるのよ!」
だけどユキの誤解したツッコミはどうにかならないものか。
翠は頭を抱えてしまうのだった。