橘 恵のみる不思議な夢(恵視点)
……その夢はいつも、降り頻る白い雪から始まる。
見るからに寒そうな環境なのは間違いない。
しかし、夢だからなのか、はたまた他の何かが原因なのか、恵は雪の冷たさを全く感じてはいなかった。
やがて、雪を覆うように、彼が不安げな顔を向けてくる。
彼はとても精悍な顔立ちで、普段はきっと素敵な笑顔を見せてくれるはず。
でも夢の中の大人な彼は、目にたくさんの涙を浮かべながら、怒りとも悲しみとも取れる表情で、恵のことを見下ろしている。
恵は何度も彼へ「どうしてそんな顔をしているの?」と問いかけた。
だけど、彼は恵の放った声に、一切反応を示さず、泣きじゃくるばかり。
そんな彼の表情を見つめ続けているのは、とても辛いものがあった。
だから恵は、ダメだと思っても何度も叫び続ける。
"泣かないで!"
"大丈夫だから!"
何度も、何度も、無駄だと分かっていても、声を放つ。
しかし、いくら叫んでも、彼女の言葉は彼に届いてはいないらしい。
そしてーー
『ごめん、なさい……もう、忘れて……私のことは……しゅう、ちゃん……』
決まって恵の声に似た誰かが、そう口にする。
すると"しゅうちゃん"の顔が絶望に染まり、そこでいつも夢は終了するのだった。
★★★
恵は幼い頃から、ずっとこの夢を見続けていた。
当初は訳が分からなかった。
でも、繰り返し、この不思議な夢を見続けたことによって"しゅうちゃん"という存在が気になり始めた。
かた時も頭から離れなくなったのだ。
そして恵が成長し、物事の判断がつくようになり……夢の中の彼が、自分のこと、とても気にかけているのだと理解し始めた。
だからこそ余計に気になった。
("しゅうちゃん"って一体誰なんだろう……?)
どうして、自分は小さい頃から、あんな夢ばかりを見てしまうのかと。
そんなことを考えつつ、恵は幼少の時期を過ごしてゆく。
『橘さん……す、好きですっ! 俺と付き合ってくださいっ!』
『あ、あうっ、そ、その……ご、ごめんなさいっ!!』
小学校高学年になり、体つきがだんだんと"女性"になり始めてからというもの、恵の日常には、頻繁にこのような場面が現れるようになっていた。
その度に、恵は申し訳ないと思いつつも、断り続けていた。
何故ならば、恵の中には常に"しゅうちゃん"という存在が居たからだった。
"不思議としゅうちゃん"以外の男性に、心が惹かれなかったからだ。
『ねぇ、橘さん、また告白断ったんだってぇ』
『お高く止まっちゃって! なにあの子?』
『あーあー、美人は楽できて良いなぁ〜』
そんな声がちらほらと聞こえる時期もあった。
もっともめぐみはとても品行方正で、更に人気も高かったので、虐めという事態に陥ることはなかった。
しかし影で色々と言われるのは辛いものがあった。
そうした背景が、元々もの静かだった彼女へ拍車をかけた。
そのため、恵は極力男性を避け、皆の輪へは加わるものの、一歩引いた態度を取る羽目となってしまった。
それでも相変わらず、男子は恵の容姿目当てに近づき、告白の言葉を投げかけ続ける。
しかし彼女の気持ちは、皆が噂するように"難攻不落"であった。
どんなに甘い言葉を囁かれても、幼い頃から、夢にみている"しゅうちゃん"の存在が、彼女の気持ちをずっと捉えて離さなかったからだ。
だがーーそんな自分を恵は妙に思うことがあった。
まるでお伽話のお姫様のように、白馬の王子様のような"しゅうちゃん"が現れるのを待っている自分を……。
自分は妄想が過ぎる、少々頭のおかしな人間では無いのかと……
(もう、良い歳だし、そんなことばかり考えるのはやめようかな……)
ーーそしてそうした想いを抱き続けて、迎えた15歳の春。
高校進学のために一人暮らしをし始めた、最初の日。
彼女はようやく"しゅうちゃん"に出会う。
しかし夢の中の彼と、現実の彼は雰囲気が大きく異なった。
出会ったばかりの頃の"田端 宗兵"は、夢の中とは違い、いつも暗い表情をしていた。
お世辞にも体格も良いとは思えなかった。
でも、滲み出る雰囲気は、間違いなく夢の中で見ていた"しゅうちゃん"そのものだった。
しかし、恵は彼へなかなか声をかけることができなった。
長年、人と距離を置いていたため、どうファーストコンタクトを取って良いのかわからなかったのだ。
ーー急に話しかけて、変なやつだと思われないだろうか?
そもそも、今目の前にいるこの人は、本当に"しゅうちゃん"なのだろうか……?
更に田端 宗兵が、山碕という同級生からいじめを受けていると知り、更に気持ちが竦んでしまった。
恵自身、山碕という同級生はとても暴力的で、好ましい人間とは思っていなかった。
できれば関わりたくない人間の筆頭に数えられるほどだった。
しかし山碕も恵の魅力に惹かれ、交際をしつこく迫ってきたことがあった。
彼の告白を断るのに、とても難儀した経験があった。
だから田端 宗兵と関わりがあると知り、どうしても勇気が湧かなかった。
(でも、しゅうちゃんが……田端くんが、困ってる……なんとかしないと……! ようやく出会えたのに……! 勇気を出すんだ、私っ……!)
そういう気持ちは確かにあった。なんども行動に出ようと試みた。
しかし、隣人であるにもかかわらず、色々とタイミングがずれ、恵と田端宗兵はすれ違いを繰り返してしまっていた。
何度も、勇気を出して、彼の住まいの扉を叩こうとした。
だがやはり勇気がわかず、いつもため息を吐いては、おとなしく部屋へ戻る日々を繰り返す。
そうして戸惑っている間に、一年もの日々が過ぎてしまった。
(いい加減、勇気を出さないと……このままじゃ、終われない……!)
そして迎えた高校2年の春。
意図せず、最高の瞬間が訪れた。
その日は、ちょうどカレーに使うスパイスが切れて、買い出しへ行こうとしていた。
すると、マンションの廊下で、田端 宗兵と鉢合うことができた。
一瞬、いつものように逃げ出そうとする弱い自分が姿を見せた。
こうして田端宗兵と真正面から向き合うのは、ほとんど初めてに近かった。
もしも、マンションの廊下がもっと明るく、彼の姿がはっきりと認識できたのなら、恥ずかしさのあまりいつも通りの展開になっていただろう。
「あ、あのっ……!」
だが、今日の恵は勇気を振り絞り、声を上げた。
もうこれ以上、すれ違うのは嫌だ。
もしも、今目の前にいる彼が本当に"しゅうちゃん"であるのなら、話をしたい。
仲良くなりたい。その一心で。
しかしーー
「ーーっ!!」
しかし田端 宗兵は恵の前から走り去ってしまった。
おそらく、また山碕らに嫌な目に遭わされてしまったのだろう。
(もしかすると、ずっと見て見ぬふりをしてた私を、軽蔑しているのかな……今更過ぎたのかな……)
もはや何もかもが遅過ぎたのではないかと恵は思った。
これは困っている田端 宗兵へ、勇気を出さずに、踏み込まなかった自分への罰なのではないかと思った。
(もう諦めよう……"しゅうちゃん"は居ないんだ……頭がちょっとおかしい私が作り出した、架空の人なんだ……)
恵は暗澹たる気持ちを抱きつつ、買い物のため駅前へ歩み出してゆく。
そのため、いつもは通らない道を使ってしまい、怖そうな男の人たちに捕まり、西口公園へ連れ込まれ……
「んぐぅっ!? むぅー!!」
「さぁて、へへ……どう楽しませて貰うかなぁ……?」
これも罰なのだろうか。
困っている宗兵へ手を差し伸べなかった自分への。
だが、唐突にその時が訪れる。
「ああん!? なんだてめぇは!」
「彼女を離せ」
まさかと思った。
しかし同時に、ずっと胸の内で燻っていた気持ちが一気に燃え上がる。
目の前には今田端 宗兵が、しかも"いつも夢の中に現れていた"自信に満ちた姿で、現れてくれたのだから。