林原先生と林原軍曹殿
過酷な異世界から、元の世界に帰還し、1ヶ月程度が経過した。
この間に、俺自身へ劇的な変化が現れていた。
――なんと勉強をすることを、とても楽しく感じているのだ。
(異世界での勉強は将来のためというよりも、最悪な現状の中で、どう生き残るのかを最優先に考えたものだった。今を生きるために、学ばざるを得なかった……)
でも、元の世界の学びは未来を描くためのもの。
望む未来を勝ち得るために学び、未来へ向けて進むためのものと気がついたのだ。
これは転移前の、なんとなく生きていた俺では、気づけない感覚だった。
(勉強を頑張ろう。そして描くんだ、明るい未来を。できれば、橘さんと一緒に……!)
そして幸いなことに、その成果を確かめることのできる"中間試験"が週明けに迫っている。
ここで好成績を出して、更にやる気を高めたい。
だから少しでも早く家へ帰りたいのだが……俺は放課後に屋上へ向かっていた。
今日の昼に、ついうっかり箸箱だけを、屋上へ置いて忘れてしまったためだ。
「あら、田端くん。まだ帰ってなかったの?」
屋上に着くと、そこベンチには缶コーヒーを手にしている林原先生の姿があった。
帰還してすでに1ヶ月が経ってはいるが、俺は未だに元気な林原先生を見ると、喜びで胸が震えてしまっている。
「はっ! 昼にここへ箸箱を忘れてしまいまして……」
「ああ、これのこと?」
と、先生は箸箱を差し出してきた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
「休憩中ですか?」
「ええ、まぁ。試験前だから結構忙しくてね。だからちょっと一息ってところよ」
「お疲れ様です」
「ありがと。さっ、早く帰って勉強なさい」
「はっ!」
しかし不思議と足が地面へ張り付いたように、なかなか動き出さない。
「どうかしたの?」
「あ、いえ……」
特に用があるわけではなかった。
だけど、どことなく俺の中で、先生ともう少し話がしたいと思う自分がいることに気がつく。
「こっち来る?」
林原先生は優しげにそう問いかけてきた。
「よろしいので?」
「どうぞ。学校の施設はみんなのものなんだからね」
ならばと、遠慮なく先生の隣へ座らせて貰った。
「なにか話したいことでもあるの?」
「え?」
「なんとなく相談したさそうな雰囲気だったから。もしも、私で力になれることがあったら遠慮なく言ってね」
やはり元の世界の林原先生は、林原軍曹殿の優しい面のみを抽出して凝縮したような人だと思った。
怒らせたらたぶん、軍曹殿のようになるのだろうが……
「でも試験のことは教えられないからね」
「そんなこと伺いません。フェアじゃありませんし、それでは試験の意味がありません。だって試験は己の実力を客観的に評価し、弱点を見極めるためのものですから……」
「ーー!」
「せ、先生? どうかしましたか……?」
少し驚いた表情をしていた林原先生は、すぐさま表情を引き締め直す。
「ご、ごめんなさいね。ちょっと生徒から、そんな言葉を聞けるだなんて驚いちゃって……」
「……そう教えてくれた人がいまして……」
教えてくれた人……その人物とは林原軍曹殿だった。
だからきっと、同じ性格の人間だから、俺の今の言葉を上手に理解してくれたのだろう。
「田端くんは……本当にいい意味で変わったわね」
不意に先生がそう言ってきて、驚きで心臓が跳ね上がる。
「そ、そうですか?」
「ええ。2年になってからは副委員長に立候補するような積極性も生まれたし、勉強だって前よりすごく頑張っているじゃない。本当にいい傾向だと思ってるわ」
ーーこういう風になれたのも、異世界の貴方が時に厳しく、時に優しく導いてくれたおかげです。
と、そんなことを言っても信じては貰えないだろうが……
「正直、1年の頃のあなたのことは心配していたのよ。いじめを受けている、なんて噂も聞いてて……でも担任じゃないし、学年も違っていたから、私がどうこうするのも、なかなか難しくてね……」
確かに俺は一年の頃……異世界へ転移するまで、山碕らからいじめを受けていた。
当時の俺は軟弱で、何も言い返すことややり返すことができず、やられるがままだった。
まぁ、クラス替え初日に撃退して以来、あいつらが俺に絡んでくることはなくなったのだが。
「ご心配ありがとうございます。もう大丈夫になりましたし、これからもそういう状況になることはないかと思います。先生のお手を煩わせたりはしません」
「本当、田端くんは頼もしくなったわね。これからも橘さんと一緒に、副委員長としてクラスのことをよろしくお願いね!」
「はっ! 全力を尽くします!」
思わず起立し、ピシッと敬礼をしてしまう俺だった。
先生が苦笑いを浮かべたのはいうまでもない。
「あ、あのさ、田端くん……ちょっと何かにかぶれてるのかもしれないけど、そういうのは学校ではね……?」
「す、すみません……気をつけます……」
もうここは元の世界で、俺はMOAのパイロットでも、兵士でもない。
だからいい加減、この敬礼をしてしまう癖はなんとかしなければならないと切に思う。
「そろそろ先生も行くから、貴方も帰りなさい。勉強しっかりね!」
「ありがとうございます。失礼します」
先生のご期待に添えられるよう、中間試験を頑張ろうと思いつつ、屋上を跡にする。
「田端くん……」
「ーーッ!?」
屋上からの階段を降り終えるや否や、物陰からぬっと橘さんが姿を表し、素っ頓狂な声をあげてしまった俺だった。
「ど、どうしたの? そんなところで1人……?」
「一緒に帰ろうと思って……そしたら、屋上へ行く田端くんを見かけて……」
「そうだったのか。すまない。実は箸箱を忘れて取り屋上に向かっていた」
「……」
橘さんの様子がおかしい。
俯いたまま、なかなか言葉を発しようとしない。
「大丈夫か?」
「あの、えっと……私も今帰るところだから……えっと……一緒に帰り、ませんか……!?」
わりとおどおどしていることの多い橘さんなのだが、今の言葉は一際、狼狽しているように思われた。