まるで夫婦のような
「田端ーっ! しっかり走れぇー! モタモタするなぁ!」
周回遅れになりそうな俺へ、林原軍曹殿は容赦なく怒号を叩きつけて来る。
軍曹殿は綺麗な人だが、少々きつめの顔立ちをしているので、怒鳴られるととても萎縮をしてしまう俺だった。
(元の世界じゃ凄く人気のある優しい先生なのに……っと、また女の子に追い抜かれてしまった…………)
俺は懸命に足を前に出すも、同期の女子訓練兵たちにどんどん追い抜かれてゆく。
「大丈夫か、シュウ?」
そんな俺へ並んできてくれたのは、第256訓練隊に所属する男子訓練兵の【貝塚 蒼太】
「お前もすぐに喋れるようになるって!」
「ぜ、全然、そんな姿想像できない……はぁ、はぁ……」
「そうら、あと少し! あと少し! ファイトだシュウ!」
「くっそぉぉぉーー!」
俺は最後の力を振り絞って、蒼太と共に走り出す。
(異世界転移ってこういうのじゃないだろ!? 俺が最強になったり、一方的にマウント取って、相手をボコボコにするのが異世界転移の王道だろ!?)
出鱈目で、ご都合主義で、しかし平和な世界出身の俺や、人類だけにはめっぽう厳しいーーそれがこの異世界なのだ。
きっと、同期の中に蒼太がいなかったから、俺はとっくの昔に心が折れて、名もなきモブとして異世界で終わりを告げていたに違いない。
それにーー
「はぁ……はぁ……はぁあぁ……って、冷たっ!」
ようやく走り終え、息を整えていた俺の頬へ冷たい水の入ったステンカップが押し当てられる。
「水……今日は凄く暑いから、飲まないの、よくないです……!」
俺の頬へ、カップを当てて来たのは異世界でも一目置かれる存在の【橘 恵】だった。
「あ、ありがとうございます……」
「もっと鍛えて。それじゃ、みんなの迷惑」
「はい、頑張ります……」
「でも……田端くんが……努力しているのは……し、知ってるからっ……!」
そう言って、橘 恵は走り去ってゆく。
(こっちの世界じゃ、あの橘さんとまともに話ができるんだ。頑張らないと!)
★★★
「また異世界のことを夢に……」
ベッドから起き上がると、脇の窓には穏やかな街並みが一望できた。
元の世界は今日も平和そのものであり、異世界での出来事は全て、俺の妄想だったのではと思わせるほどだった。
と、そんな中、インターフォンが鳴り響く。
こんな朝早くに誰だ? と思う反面、予想ができなくもないような……
「お、おはようございます!」
やっぱり朝からインターフォンを鳴らして来たのは、お隣さんの"元の世界の橘さん"だった。
彼女はすでにきっちり制服を着こなしていて、手には大きな包みを抱えている。
「おはよう。その包みは……?」
「今日のお弁当ですっ!」
契約した翌日から実行してくれるとは、さすがきちんとしている橘さんらしい。
「に、二百円……」
「二百円? ……ああ、お弁当の材料代か?」
こくりと、橘さんは小さく頷く。
そういえ次回の材料費は全額俺持ちって約束したと思い出す。
「随分、格安だな?」
「今日は有り合わせだから……ちなみに卵焼きは朝焼いた、自信作!」
「了解。楽しみにしている。支払いは電子で?」
「うんっ! その前に、えっとぉ……」
橘さんの視線は俺を通り越して、背後に見える台所へ向けられていた。
「ご覧の通り寝起きで、朝食はこれからだが」
「じゃあ……上がっても?」
橘さんは指先で亜麻色をした長い髪の先端を弄りつつ、しかしこちらの目をしっかり見ながら言って来た。
こうして恥ずかしがるめぐ……もとい、橘さんは新鮮で本当に可愛い。
「橘さんさえ良ければどうぞ。冷蔵の中身は好きに使って大丈夫だから」
そう伝えると、彼女は「お邪魔します」と告げて、迷うことなくリビングへ進んでいった。
そしてブレザーの上着脱ぎ、代わりにエプロンを巻いて、長い髪を赤いヘアゴムで結べば、バトルスタイルの橘さんが完成する。
「10分! その間に身支度を!」
「了解。10分後の朝ごはん楽しみにしている」
俺は懐かしさを覚えつつ、顔を洗ったり、寝癖を治すために洗面所へ向かってゆく。
異世界生活の末期、俺とめぐは奴らとの戦争から少し距離を置いていた時期があった。
俺とめぐは、戦災孤児を集め、北海道の小樽でしばらくの間、まるで夫婦のような生活を送っていたのだ。
あの時に生活は、俺にとって異世界での最後の平和な時で、とても思い出深い時期である。
(なんだかこうして朝から料理をしている彼女をみると、あの日々のことを思い出すな……で、おそらく……)
顔を洗い終え、後ろへ手を伸ばす。
「ありがとう」
「ーーっ!? よく、分かりましたね……!?」
橘さんは差し出したハンドタオルをタイミングよく受け取られたことに、とても驚いいた様子を見せていた。
「た、たまたまだ……」
「またそれ……たまたまにしては、多すぎ……」
「ほ、本当にたまたまだから……」
「なんか……」
「ん?」
「な、なんか、こういう気持ちが通じ合ってるのって……夫婦みたい、ですね……!?」
そう言った橘さんに、俺は既視感を覚え、あまりの懐かしさに胸が熱くなった。
「朝ごはん、できてます、からっ!」
顔を真っ赤にした橘さんはそう言うと洗面所を慌ただしい様子で出ていった。
小樽で生活をしていた時も、彼女はたびたび……というか、ほぼ毎回、今のようにタオルを差し出してくれた。
その時の癖で、さらりとタオルを受け取ってしまっていた。
(でもいくら橘さんの行動パターンがわかるとはいえ、少し不気味な気もするな。これからは多少自重をしないと……)