貴方と過ごせる最後の夜に
人柱ノ巫女となった者は千夜と一夜しか生きられぬ。
その運命から逃れられた者は未だいない。
ゆえに、今代の人柱ノ巫女である彼女も、今宵が最期の夜なのであった。
「…………」
燭台の炎が揺らめいている。
ゆらりゆらりとカタチを変えながら、闇夜に沈む神殿の回廊を怪しげに照らしている。
此処は世界樹の神殿。
忌むべき世界蛇の上に根を張る世界樹の麓にある神殿だ。
今代の人柱ノ巫女は、先日の夜で巫女としての責務を全うし終え、残された一夜を神殿で静かに過ごしていた。
「巫女よ」
護衛である騎士が口を開いた。
「本当に、何かしたいことはないのか? 今夜は、お前にとって最後の夜なのだぞ」
最後。そう、今夜が最期なのだ。
夜が明ければ、目の前にいる女は死ぬ運命にある。
認めたくないが、騎士にはどうしてやることも出来ない。
ならば、せめて最後に何か特別なことをしてあげたいと男は思っていたのだ。それが直属の護衛である己に出来る唯一の手向けだった。
「したいことなら」
と言葉を区切り、巫女は騎士を見た。
「今朝からずっとしているではありませんか。私は今日という人生最後の一日を、貴方と一緒に過ごしたいのです、騎士さま」
「バカな……。それでは、いつもと変わらぬではないか。もっと特別なことをすべきだ」
「その変わらない日々こそが、私にとって特別な日々だったのです」
「異なことを……」
心底分かりかねるといった風に騎士が顔をしかめる。
神殿の飾柱に手を触れて巫女は困ったように笑った。
「三年前……、私は世界樹の神託によって人柱ノ巫女として人柱に選ばれ、まつろわぬ蛇の封印を任されました」
「……」
知っている。そう言わんばかりの表情で騎士が頷く。
「かの災厄の蛇は今も、この世界樹の根元に縛り付けられ、眠りについています。私たち、人柱ノ巫女が眠らせているのです」
「……」
それも知っている。
この世界において、まつろわぬ蛇と人柱の巫女の関係は、子供ですら知っている常識だ。
「まつろわぬ蛇の封印が解かれれば、世界は神話にも記されている『滅亡の日』を再び迎えることになりましょう。そうなれば多くの民草が無残な死を遂げることになる。ゆえに、私たち人柱ノ巫女は、世界を守るために責務を全うしているのです」
「ああ、知っている。その封印の責務によって、お前たち人柱ノ巫女が千夜と一夜しか生きられぬこともな。だから俺は憂いているのだ。今夜が、お前にとっての千一夜目なのだから」
「……」
今度は巫女が口を閉じて騎士の言葉に耳を傾けた。
「忌まわしき世界蛇を眠らせ続けるには、巫女の生命と祈りが必要だ。人柱ノ巫女の魂を、千分割にして世界樹に捧げることでしか、蛇を封印し続けることは出来ない。この世界の平和は、お前たち人柱ノ巫女を犠牲にすることで成り立っている」
そうやって人類は世界を保ってきた。
そうすることでしか人類は厄災を封じることが出来なかった。
永遠に蛇を眠らせるために、自らの魂を切り分け、世界樹の養分にする。それこそが人柱ノ巫女の役目。
「世界樹の神託、人柱の巫女、世界を守るための責務。確かにどれも神々しく感じる。だが、結局はただの生贄だ。千の夜しか保たない消耗品として、巫女は世界平和のために使い潰されていく」
「……騎士さま、御言葉が過ぎますよ。誰かに聞かれてはならぬ言の葉です、それは。評議会の方々の耳に入れば、御身に危機が迫ることでしょう」
「分かっている。人払いは済ませてある」
「そういう問題では……」
「そういう問題なのだ」
ぴしゃりと騎士は言い放つ。
「巫女よ、俺はな……悔しいのだ。命を削り世界を守ろうとするオマエの命を、救ってやれぬ我が身が憎くてたまらない」
「貴方のせいではありませんよ、騎士さま。初めて会った時から、いえ……初めて会う前から決まってたことです」
「そういう問題では……」
「そういう問題なんです」
意趣返しのように、ニコリと巫女は微笑んだ。
「人柱ノ巫女となった者は千夜と一夜しか生きられません。その運命から逃れられた者は未だいない。ゆえに、今代の人柱ノ巫女である私も、今宵が最期の夜なのです。どれだけ騎士さまが強かろうと、この運命だけは変えられないのです」
「……イヤな運命だ」
「ふふっ。ですが私は、この運命に感謝する時があるのですよ」
「なに?」
生贄としての運命に感謝だと?
騎士は巫女の発言の意図が読めず、眉根を寄せた。
すると巫女は、まるでイタズラっ子のような表情を浮かべながら、こう言った。
「だって……人柱ノ巫女にならなければ、私は騎士さまと出会えなかったのですから」
「――――」
「世界樹の神託は、人柱ノ巫女を護衛する者も選びます。その巫女の心に、寄り添える者を」
「……寄り添えていた気はしない」
「いいえ、私の心は確かに貴方に救われていました。世界樹の神殿に招かれ、死に逝く運命を突きつけられて怯えるだけだった村娘の私に、貴方は寄り添ってくれていましたもの」
「…………」
「この三年間、貴方と過ごした日々は間違いなく私にとって希望の時間でした。貴方が傍にいてくれるだけで、私の心は恐怖を忘れ、明日への活力を得ていったのです」
眼を閉じ、過ぎ去りし日々に想いを馳せながら巫女は言葉を続ける。
「最初の一年は、習わしとして二人で巡礼の旅に出ましたね。二人きりで世界を見て回り、時に苦難こそあれど、私は幸せでした。ぶっきらぼうで不器用な貴方は、私にどう接すれば良いのか分からずに困っていたようでしたが……。それでも私は、貴方なりの不器用な優しさを感じ取れていたつもりです」
「そうか……」
「次の一年は、共に、この世界樹の神殿に戻りました。そして、祭事を執り行う日々……。世界樹の恵みを皆に分け与えるための大切な儀式です。世を巡り、救うべき民たちの顔を直接見たことで、祈りは、より色鮮やかに奇跡として世界樹へと奉納することができました」
「ああ、そうだな」
「祭事の合間に、二人で色々と遊びましたね。手鞠に、裁縫、詩吟に料理、ときおり神殿に住まう童たちと追いかけっこや隠れんぼもしましたね。……どれもこれも、私にとっては大切な思い出です」
「……裁縫は苦手だった」
「ふふっ、よく針で指先を傷つけていらしたものね。でも、そんな貴方が縫って贈ってくれたフェルトの人形は、今でも私の部屋の枕元に大事に飾ってありますよ。触れていると気持ちがポワポワして、とても安心して眠れるんです」
「……」
「最後の一年は、魂を切り分け過ぎた反動で、私が体調を崩すことが多くなったので、あまり外出や遊び戯れることは出来ませんでしたけど……騎士さまは毎日一緒にいてくださりました」
「巫女の傍から片時も離れない。それが直属の護衛である俺の役目だ」
「はい、存じております。初めてお会いした時から、口癖のように仰られてましたもの」
懐かしむように巫女は目を細めた。彼女の瞳には、在りし日の情景が映っているのだろう。
木漏れ日が射す参道、天高くそびえる世界樹の麓、澄んだ空気に満ちた神殿、そこで初めて出逢った時のことを。
「あの日のことは今でも鮮明に思い起こせます。あの頃から、ずっと、私は……」
記憶の中の青年よりも少しだけ歳を重ねた男を巫女は郷愁の眼差しで見つめた。
実直そうだが仏頂面な武人。それが彼への第一印象だった。その印象は三年経った今も覆ることはない。
生真面目で融通がきかず、感情表現も不器用。けれど、随所に垣間見える優しさは、とても温かく、まるで春の陽だまりのよう。
「……私にとって、騎士さまは憧れであり、愛しい人でした」
「巫女よ、その発言は誤解を招く」
「あら、照れてらっしゃいます? 誤解していただいてもいいんですよ?」
「茶化すな」
「ふふっ、ごめんなさい」
クスリと微笑んでから、巫女は言葉を続けた。
「……騎士さま。貴方が傍に居てくれた三年間は、本当に幸せでした。貴方に救ってもらわなければ、私の心は人柱ノ巫女の責務の重さで、とうの昔に折れていたことでしょう。騎士さまと過ごす千の日々はとても楽しく、人生で最も幸福な時間でありました」
最期の夜まで祈りを捧げられたのは、貴方がいたから。
貴方がいたからこそ、私は世界を守る為に命を捨てられたのだ。
「こんな時間がいつまでも続けばよいのに……そう何度願ったことでしょうか。ですが、時間というものは無情なものですね。過ぎ行く星々に願いを込めても月日は進み、あっという間に千夜と一夜を費やして、今宵が終われば私も終わる」
時よ止まれ。どうか、この幸福を永遠のものとして、とこしえに。
だが、その願いは叶わない。こうしている間にも時計の針は秒針を刻み続けている。
「万物は流転し、何者も時間の流れには逆らえない。あらゆるものが、いつかは滅んでしまう。そのいつかが、私にとって今夜だった。それだけの話なんです。ええ、ただそれだけ」
巫女は空を見上げた。
吹き抜けの回廊から見える夜空は、雲のように広がる巨大な世界樹の樹冠で半分以上を覆い隠されている。
それは己の行く末を暗示するかのようで、どこか物悲しい。
遥か遠方にしか見えない星の海。矮小な自分には高嶺の花のように感じる星たちだが、あの星々ですら、いずれは燃え尽きる。
―――永遠なんてものは存在しない。
終幕の時が早いか遅いか。ただそれだけの話なのだ。だから自分も、滅びを受け入れなければならない。
「それにしても、本当に今夜で最後なんですね……。実感があるようでいて、やはり実感が湧かないものです」
樹皮の香り、葉擦れの音、慰めるように吹く夜風、神殿を照らす燭台の火。
この世界を感じる感覚器官は未だに健在だ。五感で感じるそれら全てが、まだ自分が生きているのだと教えてくれている。
しかし、それもあと少しで終わる。魂を切り分け過ぎた代償で、自分の身体はすでに限界を迎えているのだ。もうあと数刻で、やがて何も感じられぬ骸になるだろう。
今ここにいる自分は、搾りかすに過ぎない。人柱ノ巫女としての千日行を終えて、ほぼ全ての魂を使い尽くした抜け殻。もはや残存する魂は破片程度。世界樹に捧げれるほどの量も残っていない。
もう巫女としての役に立てない彼女は、死を待つばかりの存在として、人生最後の余暇を楽しんでいた。最愛の人との語らいが、彼女にとっての最後の娯楽だった。
「ねえ、騎士さま」
「なんだ?」
「もし、このまま……私が本当に死ぬとして。私が死んだら、騎士さまは悲しんでくれますか?」
「……野暮なことを言うな。今の時点で充分に悲しんでいる。これ以上、俺を悲しませないでくれ」
騎士は悲痛な表情を浮かべた。
目の前にいる巫女の命は、もうすぐ消える。残された時間は、ほんの僅かだ。
たまたま今日は体調が良く、神殿の自室から出ることができた。それで神殿の回廊まで一緒に歩いてきたのだけれど、彼女の見た目は昔と比べて酷く憔悴している。
かつての溌溂とした活力は面影もなく消え去っており、やつれた体躯は病人のそれだ。顔も、理知性は変わらずとも生気はなく、死相が浮かんでいる。巫女が衰弱しきっていることは一目瞭然であった。
「申し訳ありません。今の質問は、忘れてください」
巫女は小さく謝った。そして、視線を夜空から騎士へと戻す。
「なんだかいけませんね、今日は。もっと明るい話をしたいのに……」
余命幾許とも分からぬ、明日を許されぬ我が身。
ゆえに発言が後ろ向きなことばかりになってしまう。
巫女は、そのことを自覚しながら自己嫌悪に浸った。
「だから俺は言ったのだ。もう祈るのをやめろと、何度も言い続けた」
自嘲する巫女に、騎士は言葉をかけた。
その口調は悲しげで、己の無力感に苛まれた者が発する嘆きが込められていた。
「巫女の役目など投げ棄て、ただの村娘に戻って平和に生きろと。評議会も、まつろわぬ蛇も、後のことは俺が全部なんとかするから気にするなと言ったのに。だが、お前は聞き入れなかった。俺の願いを、聞き入れてくれなかった」
「騎士さま……」
「俺は、お前に死など選んでほしくなかった。何故オマエがそこまでして、人柱ノ巫女として世界の為に命を捧げ続けたのか、俺にはどうしても理解できない」
自己犠牲などクソ喰らえだ。
他人の為に己を犠牲にするなど愚か者のすることだ。
そんなものは美談でもなんでもない。ただ哀れな生贄が一人、世界存続の為に死んで逝ったというだけの話でしかない。
「……すまない、言い過ぎた」
騎士は謝罪の言葉を口にすると、顔を俯かせた。
巫女が選んだ道は、彼女自身が望んだことだ。説得しても頑なに首を縦に振らず、彼女は最後まで世界の為に命を賭して祈り続けたのだ。
その意志の強さや高潔さに敬意を払えども恨み言を述べるのは筋違いだ。多くの人命を守る為に、最小限の犠牲で済むように、彼女は決断したのだから。
(くそ……っ)
やるせなさに、騎士は拳を強く握り締めた。
分かっている。これは単なる八つ当たりだと。
彼女の選択を咎める権利は、自分にはない。
だがしかし、それでも彼は彼女に生きていてほしいと思っていた。
(もっと早く、祈らせるのを止めるべきだった)
それこそ巡礼の旅の時点で役目を放棄させるべきだった。
彼女が人柱ノ巫女としての責任感に芽生える前に、『世界よりも自分自身の命を優先しろ』と言ってやるべきだったのだ。
(いや、その頃の俺では無理か。あの時まで俺は、巫女よりも世界を優先していた。一人と大勢を天秤にかけ、彼女ではなく世界を選んでいたのだから……)
世界樹の神託により護衛として選ばれた当時の自分を振り返る。
歴代の護衛では珍しく、神殿騎士として既に働いていた自分。ゆえに評議会から人柱ノ巫女の護衛として任命された時も、特に思うところはなかった。
むしろ使命感に燃えたものだ。自分は選ばれし人間なのだと。――愚かしくも、そう信じ込んでいた。
『騎士よ、心して拝聴せよ。人柱ノ巫女は世界の礎となる尊き存在。故に決して死なせてはならぬ。故に決して祈りは止めさせてはならぬ。彼女たちの魂は、この世界樹にのみ捧げられるべきものである。他の何者にもくれてやってよいものではない。先に散って逝った彼女たちの為にも、我々は……いや、貴様は、絶対に当代の巫女を殺させてはならない。その身に代えてでも守り通せ。いいか? 神託の加護も万能ではない。万が一にも、巫女を千一夜の献身以外で死なせるようなことはあってはならぬ。蛇を眠らせ続けることこそが、我らの悲願、我らの約束』
世界樹の神殿。その意思決定機関である評議会メンバーに言われた言葉がフラッシュバックする。
彼らの多くは、歴代人柱ノ巫女の元護衛たちだ。例外はあるが、元護衛たちは千夜一夜の任務が終わると同時に、世界樹の神殿の中枢組織の一員として選出される。
彼らは、巫女たちの死を無駄にしないためにも、永遠に同じ過ちを繰り返すことを選んだ者たちだ。
当時は先達の激励としてありがたく頂戴したが、今にして思えばあれは呪縛の言葉であったのだろう。
(結局のところ、全ては手遅れになってしまったのだ……。今更、祈りを止めさせたところで意味もない)
そうだ。後悔しても、もう遅いのだ。
巫女に情が湧いた頃には、巫女への想いを自覚した頃には、何もかもが手遅れだった。
気が付けば魂の摩耗により、巫女は寝込むことが多くなってしまっていた。
「……本当に、すまない」
今度の謝罪は失言に対してではなく、巫女を救ってやれなかった無力さに対するものだった。
何もかもが遅すぎた。あの時点で祈りを止めさせることに成功しても、寿命が僅かに延びる程度だっただろう。それでも、少しでも長く、巫女には生きて欲しかったのだが……。全ては後の祭りでしかない。
「お顔を上げてください、騎士さま」
俯く騎士に対して、巫女は優しい口調で語り掛ける。
彼女は、いつものように穏やかで、優しげな表情をしていた。たまに見せる、少し困ったような笑顔で、彼女は騎士を見つめていた。
「騎士さまが謝ることなんてありませんよ。全ては、私が決めたことですので」
「いや……俺は……」
「貴方は最善を尽くしてくれました。貴方のおかげで私は救われ、貴方に救われた私は、世界を救える覚悟を持てたのです」
「その救世で、お前が死ぬのなら、俺は……」
「もしも私が祈りを止めたとしたら、かの邪悪な蛇が目覚めてしまいます。そうなれば、多くの災いが世界に撒き散らされることとなります」
「そうなる前に、俺が災厄の蛇を殺そう」
「また、そのお話ですか。……無理ですよ。神殿の最下層で、共に見たではありませんか。あれは、あまりにも巨大で、あまりにも強すぎる存在です」
三年前、巡礼の旅に出る前に。
評議会の案内で見せられた、世界に終焉をもたらす蛇の姿。
その身体を例えるならば、曲線的に横たわる巨大な古塔。あの白き大蛇が動き出せば、瞬く間に天地は焦土に変えられてしまうだろう。
「一目見ただけで、決して起こしてはならない存在だと魂で理解しました。あの怪物は、人の手には負えません。如何な武具も、あの白き鱗を切り裂くことはできないでしょう」
「蛇を傷つけることが出来ないのは、人柱ノ巫女が眠りの加護を与え続けているからに過ぎん。起こせば、不滅ではなくなる」
「もし目覚めたら……きっとこの世界は終わりです」
「……しかし、殺すしかない」
「いいえ、殺せません。殺せないからこそ、伝説の邪悪として、今も神殿の地下深くに封印されているのです」
「昔の人間たちは挑まなかっただけだ。殺そうと思えば、殺せるはずだ」
「まつろわぬ蛇に挑もうとした人間たちがどうなったかは、騎士さまもご存知でしょう?」
「…………」
「大丈夫です。私が、私たち人柱ノ巫女が、全てを守ります。たとえ、この身が朽ち果てようとも」
決意の籠った眼差しで、巫女は言い切った。
その立ち姿は、死にかけの痩せ細った虚弱な女性とは思えぬほどに毅然としており、気高さに満ち溢れている。
「私の祈りで世界が一日でも平和になるならば、私は喜んで祈りましょう。世界の為に、人々の為に、騎士さまの為に、私は祈り続けましょう。私は、貴方たちに死んでほしくない」
そう言って、彼女は微笑む。
騎士は何も言うことが出来ずに黙り込んだ。
これが、人柱ノ巫女という生贄制度が今日まで続いてきた理由の一つだ。
世界樹は、責任感の強い女性を巫女として選ぶ。
我が身可愛さで祈りを止めるような巫女は、歴代で一人もいない。
彼女たちは自身の命で世界が救われるならば、それで良いと思える精神性の持ち主ばかりだった。
「……それでも、やはり俺はオマエに死んでほしくない」
やがて、騎士が口にしたのは、そんなどうしようもない言葉だった。
諦めの悪い駄々っ子のような発言であり、千夜一夜の献身が終わった今では手遅れにもほどがあった。だが、どうしても言わずにはいられなかった。
巫女の意思は曲げられない。そもそもにして、この問答自体が以前から騎士と巫女の間で繰り返されてきたことだ。何度説得を繰り返しても、結末は同じだった。
「ありがとうございます。ふふっ、この押し問答も出来なくなると思うと寂しくなりますね」
巫女は微笑みながら言った。
数か月前から散々ことあるごとに騎士から言われ続けたが、巫女は頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
自分が祈りを止めてしまえば、蛇が起きるだけではなく、多くの不利益が騎士に襲い掛かる。それが嫌だった。
―――父母もなく、孤児院育ちの村娘でしかなかった私に優しくしてくれた貴方。
貴方を守る為ならば、私は己の命ですら投げ捨てられる。他の誰よりも貴方の為に。
これは、きっと恋だ。
初めて会った時からずっと、
一緒に旅をしてからずっと、
神殿で共に住んでからずっと、
私の心は貴方に囚われ続けていたのだ。
「最後まで、とことん頑固なヤツだ」
「それが取柄ですので」
「最後ぐらい、嘘でもいいから祈りを止めて生きると言ってほしかった」
「嘘でも、そのようなことは申せません」
この信念を曲げてしまえば、自分は自分でなくなってしまう。
彼女はそれを理解していた。だからこそ、最期の最後まで、自分の意思を貫くつもりだった。
「なあ、巫女よ」
「はい、なんでしょう」
改まった表情で騎士は巫女を見つめ、巫女は不思議そうに見つめ返した。
そして、騎士は言葉を紡ぐ。
「お前の決意が固いことは、充分に分かった。もう祈りを止めろなどとは言わない。どうせ、もはや何の意味もない願いだからな」
「騎士さま……」
「だが、ならばせめて……俺に、お前の願いを叶えさせてくれないか? 何の役にも立たない俺に、せめて巫女の為に出来る何かをさせて欲しいのだ」
冒頭と同じような台詞を騎士は言った。
せめて最後に、何か特別なことをしてあげたい。少しでも彼女が喜ぶことをしてあげたい。
最早それぐらいしか騎士には出来ない。しかし彼女の返答も、先程と似たような言葉となった。
「願いなら……、既に叶えてくださっているではありませんか。こうして最後の夜を貴方と一緒に過ごせている。それだけで、私は幸せなんです」
これ以上を高望みしては罰が当たってしまう。そう言わんばかりなほどに謙虚な態度だった。
そんな巫女の答えに、騎士は首を横に振る。
「……その願いは、妥協に満ちすぎている。もっと、幸せを追求してくれ。俺に出来ることならば、なんでもするから。今宵死に逝くオマエの為にも、俺は何かしてやりたいんだ」
「いけませんよ、騎士さま。そのようなことを気軽に言われてしまっては。私のような卑しい女は勘違いして甘えたくなってしまいます」
「甘えてくれて構わない」
「……本当に?」
「本当だとも」
「…………」
巫女は何も言わず黙り込んだ。石畳で出来た回廊を、数秒ほど沈黙が支配する。
やがて巫女は上目遣いに騎士を見つめ、口を開いた。
「でしたら……、その、申し上げてもよろしいでしょうか?」
「ああ、好きなだけ望みを言ってくれ」
「では、申し上げますが、ですがその前に。私のこと……、はしたない女だとは、思わないでくださいね?」
「思うはずがないだろ」
予防線を張った巫女に騎士は即答する。
そんな騎士の態度を見て安心したのか、ほっと息を吐き、そして願い事を口にし始めた。
「そ、それでは、最後に一度だけ……」
小さく、ぽつりと。
おそるおそる、躊躇いがちに。
「私のことを、その……」
震える声で、頬を赤らめながら。
騎士の顔を見つめ、勇気を振り絞って、彼女は言った。
「―――抱きしめては、いただけないでしょうか?」
瞬間、世界が静止したかのような錯覚に陥る。
告げられた想い。放たれた願いは、騎士の心を激しく揺さぶった。
巫女は騎士の動揺に気づかぬまま、瞳を潤ませながら、恋文でも朗読するかのように、熱を帯びた声色で続ける。
「ずっと、貴方を、お慕いしておりました」
初めて出会ったあの日から。
「優しい貴方が好きです。愛しております」
一緒に巡礼の旅をして、貴方のことを知っていった時から。
「貴方と過ごした幾星霜は、とても、幸せでした」
共に神殿で暮らすようになってからも、ずっと。
何度も、伝えたかった。死ぬ運命にあるからと、言わずに秘めていた恋慕の情が、今際の際に溢れ出す。
「心の底から、貴方を愛しています。ですから……、一度だけで構いませんから……、抱擁を、お願いできませんか?」
本当は死ぬことが今でも怖い。まだ沢山したいことはあった。
死ぬしか他に道は無いから死ぬのであって、死にたいから死ぬわけではないのだ。
「それが、私のたった一つの願いです。最期は……貴方の腕の中で眠りたいのです」
貴方に抱かれて死ねるならば、それは本望だ。
「ダメ、でしたでしょうか? それとも……やはり、こんなやつれた女を抱くのは、お嫌でしたか?」
不安げに見上げる巫女に対し、騎士は言葉ではなく行動で答えを示した。
彼は彼女に近づくと、その身体を優しく抱き締めた。
「無粋なことを言わせてしまったな。―――お前がそれを望むのであれば、俺はいくらでも叶えよう。今も昔も、お前は変わらず美しい」
強く、優しく。包み込むように、抱きしめられる。
涙が出そうになった。求め続けた理想が今、ここにあった。
「――嗚呼。ずっと、こうされていたかったのです」
泣きそうな表情と声音で、巫女は騎士の背中に手を回した。
暖かな温もりが巫女にも伝わってくる。重なる鼓動。命の灯火を、互いに感じ合う。
「これが、私にとっての一番の幸せです。どうか、このまま……眠りにつく時まで、このまま抱きしめてください」
巫女は目を瞑り、騎士の抱擁に身を任せる。騎士もそれに応えるように強く彼女を包み込む。
神殿の回廊を照らす燭台の灯りは、重なり合う二人の影をユラユラと長く伸ばし続けていた。
(ありがとうございます、騎士さま。これで……思い残すことはありません)
月が綺麗だ。今宵は満月である。
こんな夜になら、私は死んでもいい。
(ああ、本当に……、世界は美しいですね。騎士さま)
貴方の生きているこの世界を守って逝ける。惜しむらくは、このまま眠りにつけば二度と目覚めることはないということだけだ。
埋めきれない寂しさを紛らわすように、彼女は就寝の供として愛用している物をポケットから取り出した。
「それは……」
巫女が取り出したものを横目に見て、騎士は少しだけ目を見開く。
「……部屋の枕元に飾ってあるのではなかったのか?」
巫女が取り出したのは、茶色いフェルトの人形だった。
手のひらサイズの、熊なのか猫なのか良く分からない縫いぐるみ。
昨年の春に、騎士が手縫いして巫女に贈った物だ。
「今夜は特別です。今夜は、いつ何処で寝てしまうかも分かりませんから、肌身離さず持って来てるんです。握っていると、とても安心して眠れますから」
下手くそな笑顔を浮かべている縫いぐるみを見ながら巫女は言う。お世辞にも出来映えは良いとは言えない代物だが、愛情が込められている。持っていて、これほど心が満たされる物を巫女は他に知らない。
「そう、か……」
フェルトの人形と瓜二つな下手くそな笑みで、騎士は涙を堪えながら微笑む。
そして巫女を抱き寄せ、優しく巫女の後頭部と背中を撫でた。いつもならば恥ずかしくて決してしない行為だが、今に限っては自然と身体が動いてしまった。
「――ッ、巫女よ。俺は……っ、お前を、喪いたくなどない……っ。本当は、いつまでも一緒に、生き続けたかった……!」
涙腺が崩壊し、目から大粒の涙が零れ落ちた。
抑えていた気持ちが、嗚咽混じりの言葉となって溢れ出す。
今この時だけは、世界で誰よりも正直な人間であれる気がした。
「片時も、そばから離れたくない……っ。巫女が死ぬなど、俺には到底耐えられない……!」
「それは、直属の護衛として?」
真意を確かめようとする巫女に、騎士は首を横に振る。
そして落ち着きを取り戻そうと深呼吸をして、彼は静かに口を開いた。
「違う。お前を愛した、一人の男としてだ」
「……その言葉を、誤解しても?」
「茶化すな。……誤解しようも、ないだろ?」
「ふふっ、嬉しいです」
最後の夜に成就した恋心を抱きながら、巫女は嬉しそうに笑った。
―――今宵、私は貴方に抱かれて死ぬのだ。貴方に抱かれて死にたいのだ。
この想いを無視する事など、もはや不可能に近かった。
そして、そのささやかな願いは叶っている。叶い続けている。
愛した貴方の腕の中で、貴方に看取られて死んで逝けるのだ。
楽園は此処にあった。最初から、ずっと此処にあったのだ。
願わくば、永遠に……ずっと二人で過ごしていたかった。
◆
「ああ、もうすぐ……朝ですね」
どれほど時間が過ぎただろうか。視界の片隅で闇が薄れていくのが見えた。夜明けが近づいてきている。終わりの時間が差し迫っている。
おぼろげな身体の感覚。まどろみの中のような、不思議な心地。怖かった死も、今ではまるで怖くない。
「ねえ、騎士さま」
「なんだ?」
「わたし、しあわせでした」
「……ッ」
霞む彼女の声に、騎士は歯噛みした。
こんなのが幸せなはずがない。もっと、もっと何か、特別なことがあるはずなのに。
もし神が実在するならば、どんな代償でも払うから、どうか彼女を生かしてほしい。
彼は彼女の為だけに祈ることしか出来なかった。
「俺も……、お前と過ごせて幸せだった」
騎士は巫女を抱きしめる力を少しだけ強め、自身の想いを口にする。
巫女は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに満たされた表情へと変わり、弱々しく抱きしめ返す。
そして―――……、
「おやすみなさい、騎士さま」
最後に一瞬、彼女は微笑んでから、瞼を閉じた。
そして朝が来て、彼女は死んだ。
夜明けを見ることなく、巫女は騎士の腕の中で幸せそうに息を引き取った。




