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願いの魔法

作者: 雨足怜
掲載日:2022/09/14

 もしも、一つだけ魔法が使えたら。


 もしも、奇跡なんてものがあるのなら——


 ◆


『わたしね、いろんなばしょを見て回りたい。世界を、世界にくらす人たちを見て、だれも知らない場所に行って、誰も見たことがないぜっけい?を見るの!』


 大きな、大きな木の下。丘の上にそびえる巨木、その木漏れ日の下で、少年少女の会話が響く。両手を広げ、天を見上げる少女は、満面の笑みでくるりと体を回す。

 片手に握られたスケッチブックには、これまでの冒険で見た景色が描かれていた。


『一緒だぞ?連れてってくれないとイヤだからな?』


『うん、やくそく、だよ!』


 小指を絡めて、少女が笑う。照れたように視線を足元へと向ける少年の手が上下に大きく揺れ、すぐに手の中から熱が遠ざかる。

 にぱっと笑う少女が、駆け出す。その後を追って、少年も走り出す。


 二人の顔は未来への希望に満ちていた。


 ◆


「余命半年といったところでしょう。手は尽くしますが、現在この病気の明確な治療方法は存在しておりません。唯一、魔法により病を克服した症例はありますが、その術者も一度きりの奇跡の行使に留まりました。残念ですが——」


 扉に耳を押し当てて、一人の少年が大人たちの話を聞いていた。ツンと鼻につく苦手な刺激臭すら意識から抜け落ちて、少年は震える膝に手をついて、体が床に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。


 清潔感漂う純白の廊下。病院の診察室外、扉に張り付いて少年は聞き続ける。幼馴染の少女、その病状を。


(フィリーが、死ぬ?だって、あんなに元気で、それに一緒に世界を旅してまわろうって、約束したのに)


 大好きな少女が死ぬかもしれない恐怖と、フィリーが死ぬはずがないという医者の判断ミスを願う気持ちと、そしてそれ以上に少年の中には、フィリーが世界を一緒に旅しようという約束を守ってくれないことに対する怒りがあった。


(イヤだ、嫌だ!フィリーが死ぬなんて、そんなこと……ッ。約束しただろ⁉一緒に海を見に行くって、森の中に湧く秘密の泉を見るって、空を舞うドラゴンを見るって、世界一高いところに登るって)


 穏やかな陽気の下、風に揺れる草原に寝そべって二人で立てた計画。その全てが、崩れ落ちようとしていた。

 やり場のない怒りを、少年はぎゅっと心の奥に押し込める。フィリーが約束を破るかもしれない怒りよりも、フィリーを失うかもしれないという悲しみが、少年の心の中で上回っていた。

 激情に体を任せてこぶしをふるう。古びた木の壁にぶつかったこぶしがじんじんと痛んだ。けれど、それだけ。


 何も解決はしなくて、そして痛みはかえって、これは現実なのだと少年に突きつける。


 つぅ、と頬を涙が伝う。頬を袖で乱雑に握り、少年はその場から駆け出した。もうこれ以上、フィリーの両親と、医者の話を聞きたくなかったのだ。うそつきの医者と、うそつきに言い返さない二人の話を、少年は聞こうと思わなかった。


(そうだ、魔法!魔法ならフィリーだって助かるかも……)


 あふれ出す涙を、のどからこみ上げる叫びを、少年は押し殺して廊下を賭ける。走らないで下さいという大人の注意など、少年の耳には届いていなかった。

 少年の心によぎるのはうそつきの医者が告げた、魔法ならフィリーが治るかもしれないという言葉。


 息を切らしながらたどり着いた病室の扉を乱雑に開き、少年は中へと一歩を踏み出した。


 むせかえるような消毒液の匂いと、それをごまかすように香る、ベッドの脇の花瓶に生けられた花々の甘い匂い。開いた扉から風が吹き込み、カーテンが大きく揺れる。

 差し込んだ光が、ベッドに眠る一人の少女の顔を照らし出す。少年の知る、フィリーの顔だった。


 いつもコロコロと表情を変えるフィリーだが、ベッドに眠る彼女は安らかに寝息を立てるばかりだった。その顔が喜色に満ちることも、驚きに染まることも、興奮に朱が差すことも、もう二度とない——。

 静寂が病室を満たす。世界から部屋が切り取られたような寂しさが、少年を襲う。今にも足場が崩れてしまいそうな、そんな気がしていた。


「フィリー?」


 少年の脳裏によぎるのは、数日前、口から血を吐いたフィリーの姿だった。真っ赤に濡れる手のひらを見て、困ったように少年に顔を向けたフィリーは、次の瞬間には操り人形の糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。

 駆け寄る少年が肩を揺らしてもフィリーは起きなくて、叫ぶ声で喉が痛いばかりで。鬼気迫るその声を聞いた近くの人がフィリーの異常に気付き、フィリーはそのまま病院へと運ばれた。


 それから、三日。フィリーは目を覚まさず、うそつきはフィリーが死ぬという。


 ベッドに横たわる少女へと、少年は近づいていく。振れるその手には確かな温もりがあって、少年が振れると共にフィリーは軽く身じろぎする。


「フィリー?」


 生きてると、安堵が心を満たす。それから、目を覚ましてと、懇願の色を帯びた声が、少年の口から零れ落ちる。また前みたいに一緒に遊ぼうと、旅の計画を立てようと、一緒に、世界を旅しようと。

 少年の願いに答えるように、少女が薄目を開ける。


「……ルーク?」


 ゆっくりと周囲へと視線を巡らせた少女は少年の姿を瞳の中にとらえて、へらりと笑った。

 少年の眼には、フィリーの笑みがひどく薄っぺらく見えた。その笑顔は安心しているようなそれで、けれどどこか、何かを諦めたような笑みだった。


「わたしね、小さいころから体が弱かったの」


 話し始めるフィリーを止めようと、聞きたくなどないと、少年は——ルークは、フィリーの腕を握る手に力を籠める。痛そうに眉間にしわを寄せるフィリーに気が付き、ルークは手から力を抜く。けれど、フィリーの手を離そうとはしなかった。

 今ここで手を離せば、フィリーが消えてしまうような、そんな気がしていた。


「パパもママも、病気にかからないように気をつけなさいって、病気が悪くならないように体を丈夫にしなさいって、いつも言ってたの。だからわたし、ルークと一緒に運動したんだ。原っぱを走って、木に登って、森を探検して、体をきたえたの。……ああ、すごく、すごく楽しかったなぁ」


 湧き上がる沢山の思い出を、一つ一つ、フィリーは数え上げていく。震えた指が、思い出を刻む。日常の何気ない会話から、二人にとっての冒険話まで、たくさんのことを。

 気が付けば涙を流していたルークの頬に、フィリーの手が振れる。困ったように笑うフィリーは、けれど体に走る痛みに小さく悲鳴を上げて、手は力なくベッドの上へと落ちていった。


「ごめんね、ルーク。約束、守れそうにないや」


 フィリーは、自分の体の状態を完全には把握していない。けれど川の中にいるような重さと、絶えることのない痛みが、現実を突き付けていた。きっと自分は約束を守れないと、ルークと一緒に世界を旅してまわることはできないのだと、そういう直感があった。


「な、んでだよ。守れよ、約束……」


 ごめんね、ごめんねと、フィリーは涙を流しながら繰り返す。ルークの声も嗚咽交じりのもので、言葉の中に怒りなどなかった。約束を破るフィリーを、ルークはもう叱ろうなどと思えなかった。


 さみしい、一緒にいたい、一緒に世界を旅したい、いろんなものを見て回りたい——

 西日差す病室で、ルークは神に祈った。フィリーの手を取って、その沈みゆく太陽に、ひたすらに願った。どうか、フィリーの病を癒してくださいと。


 泣きつかれたのか、病によるだるさが限界に来たのか、フィリーは苦しそうにうめきながらも眠りに落ちていった。


 日が、沈んで行く。黄昏の世界は次第に闇に染まり、夜の冷気が開けっ放しの窓から入り込む。


「面会の時間は終了ですよ」


 奇跡は、起こらなかった。

 神はルークの願いには答えず、魔法という奇跡がフィリーを癒すことはなかった。


 それが、現実だった。


 ◆


「お願い、神様。どうか、フィリーを、フィリーを助けて……」


 一週間、外に出て遊びに行くこともなく、ルークは一心不乱に祈りをささげた。いるかもどうかも分からない神に祈った。魔法という奇跡を授けてくれることを、フィリーを癒してくれることを求めて。


 はぁ、重い息を吐いて、ルークはベッドに倒れ込んだ。藁の上に毛皮を乗せたチクチクするベッド。使い古してつぶれたそれに背中から倒れ込み、ルークは天井を見上げる。食事もほとんどとらず一心不乱に願ったルークは、力なく両手を投げ出して、涙でにじんだ視界の先をにらんだ。空高く、そこにいるであろう神へと、恨みのこもった視線を向けた。


 視界の中の木の天井が揺らぐ。それは、鎧戸の隙間から差し込んでいた日差しが遮られ、部屋の中が一層薄暗くなったがための変化だった。

 奇跡などでは、なかった。


「どうして、どうしてだよ……」


 なんで、フィリーが死ななくちゃいけないだと、ルークはもう何度目になるか分からない呪いの言葉を口にする。恨む先などなくて、本当は神だって恨むつもりはなくて、それでもルークは、身の内に燻る怒りを、口にせずにはいられなかった。

 そうでもしなければ、行き場のない怒りは、無力感は、ルーク自身の身を焼き滅ぼしてしまいそうだったから。


「ずっと病室じゃあ、世界を旅なんてできないだろ。見たことない景色を見ることだって、山や海に行くことだってできないだろ。ずっと同じ窓から、同じ景色を見るだけで……」


 そんなの、耐えられるわけがない。フィリーが、それで満足するはずがない。

 けれど自分にできることはなくて、ルークはただ無力感に打ちひしがれる。


「……せめて、フィリーが世界を旅できたら。ううん、フィリーが、見たことない景色を見ることができたら」


 ルークの頭の中に、イメージが浮かぶ。フィリーが寝そべる病室、その中いっぱいに、たくさんの絵が飾られている。迫ってくる海、葉っぱが赤く染まった山、上から下に落ちる大量の水、見たことのないカラフルな動物や不思議な生き物、変わった服装で暮らす人たち、見たこともない形の食べ物、船という水の上を旅する乗り物、空を飛ぶドラゴン——


 ブン、低い音が響いた。夜の部屋に、明かりが灯る。否、それは明かりでなかった。

 ルークの目の前に、絵が浮かんでいた。青々とした草原の丘、中央にそびえる大樹、広がる枝葉を包み込むような青い空、前を駆けていく少女——


 彼が願った、せめてもと願った、過ぎ去った元気なフィリーの姿がそこにあった。


「……フィリー?」


 それは、絵ではなかった。動く絵。

 その景色に、振り返ったフィリーが舌を出して笑う光景に、再び前を向いて駆けだしたフィリーが転ぶ様子に、駆け寄って差し出す誰かの手に、そして、泣きそうになりながらも涙をこらえて気丈に笑って見せるフィリーの表情に、ルークは見覚えがあった。


 手を伸ばす。空中に生じた動く絵に、ルークの手が突き刺さり、通り抜ける。動き続ける絵の中から、フィリーの姿が消える。たまに現れる絵いっぱいのフィリーの顔と、はにかんだ笑みから、どうやらフィリーは誰かと手をつないで歩いているらしいとわかった。まるでその誰かになったように——過去の自分になったように——ルークは遠き日を思い出しながら涙した。

 目の前には変わらず、誰かが見た光景が動く絵となってルークの前に広がっていた。


 ルークの思考が、現実に追いついた。

 慌ててベッドから飛び起きれば、動く絵はルークの顔からに十センチあたりの距離をキープして動く。ルークが首を左に回せば左に、右に回せば右に、常にルークの顔の真正面に、その動く絵は移動した。


 狭い部屋を、ルークが走る。壁にぶつかりながらも木製の窓へとたどり着き、思い切り窓を開け放つ。外の世界を見る。多くの星と月に照らされたそこにはもう夜が顔をのぞかせていた。気が付けばルークの顔の横、壁に垂直に突き刺さるように存在する動く絵では、フィリーが草原に寝そべって空へと手を伸ばしていた。


 絵が変わる。

 小さなフィリーと積み木をして遊ぶ光景。フィリーと川で互いに水を掛け合う光景。

 移りこむ手は——ルークの手。


 フィリーが消える。

 そこには、フィリーのいない大樹の丘があった。


 行かないでくれ、フィリー。

 ルークの願いにこたえるように、絵の中にフィリーの姿が戻る。


 呆然と立ち尽くしていたルークは、すとんと地面に座り込み、つぶやいた。


「ま、さか……魔法?」


 奇跡と呼ぶにはいささか不思議な、そしてフィリーを癒すことなどできるはずもない、役立たずな力。それが、ルークが手にした奇跡だった。


 動く絵に対する既視感に、ルークは答えを得る。

 これは、自分が見た光景を映し出す魔法なのだと。


 直感的に理解したその先で、動く絵の内容が移り変わる。世話をしている牛が映り、父親が映り、兄が映り、母が映り、フィリーが映り——コロコロと移り変わっていく光景は誰かが見た景色。

 ルークが見て来た景色が、そこにあった。


 気が付けば夜が明けていた。若干血走った眼で動く絵を見続けたルークは、再度ベッドに倒れこむなり深い眠りに入った。

 起こしに来た母親の叱責も、今日のルークには何の意味も持たなかった。


 ◆


 その晩、ルークは家を飛び出した。


 世界を見て回り、フィリーが見たことのない景色を、フィリーが望んだ世界を、ルークしか見たことがない光景を、魔法によって病室のフィリーに届けるために。

 フィリーと一緒に旅ができないのなら、せめて自分がフィリーに旅を届けようと。ルークは自分が手に入れた奇跡の使いみちを、フィリーへと旅先のすべてを見せることだと定義した。


 長く険しいルークの旅は、こうして始まった。


 ひたすらに街道を歩き、魔物の襲撃から命からがら逃げきって街にたどり着いた。

 家からくすねた持ち金を、騙され奪われかけた。

 何度も死にかけて、その度に泥水を啜ってでも生き延びた。

 生傷は絶えず、全身が痛くて眠れない日もあった。

 路銀が尽きて奴隷に等しい待遇で雇われたこともあった。

 生きてフィリーの元に帰って、素晴らしい世界を、美しい光景を見せると、その思いだけでルークは血反吐を吐きながらも強くなり、歩き続けた。世界を旅した。


 まるで映像みたいだと、知り合った一人の男がルークの魔法を見てそう言った。その日から、ルークの中で自分の魔法により映し出される動く絵は「映像」となった。


 山に登り、海を見て、色とりどりの植物や動物を見て、おかしな姿をした魔物という化け物と戦って、秘宝を得て、滝という大量の水が落ちる光景を見て、砂漠を見て、海みたいな湖を船で渡って、ドラゴンの背に乗って空を飛んだ。


 ◆


「それから、ガイアス——そう名付けたドラゴンの背に乗って、ここまで送ってもらったんだ。フィリーがいる、この病院まで」


 色とりどりな美しい光景が、映像という形で狭い病室を埋め尽くす。数十の映像がフィリーの眠るベッドの周囲に広がり、ルークはその一つ一つを、面白おかしく語っていく。


 その冒険譚に、美しい絶景に、相槌を打つ声はなかった。

 成長したフィリーは、ベッドの中で目をつむる。少女から女性へと成長した美しい、けれどひどくやせた女性。落ち込んだ眼窩、つやのない髪、生気のない青白い肌。フィリーは静かに、眠っていた。けれどまだ、生きていた。


『寝たきりになってから半年——生きていることが奇跡だよ』


 今この時間は、「奇跡」なんだと。

 医者の言葉を噛みしめながら、ルークは空元気で話し続ける。


 少年の面影を失った、精悍な顔立ちのルークは、フィリーへと笑う。笑っている、つもりだった。


 ルークが家を飛び出してから四年。余命半年未満と言われていたフィリーは、奇跡的に生きていた。

 病的に白く、骨と皮だけのような躰。腕に刺さる点滴、無機質に心音を刻む音が響く、静寂に満ちた病室。


 フィリーは生きていて、けれど死んでいるようなものだった。


 泣き笑い、それが、ルークにできる限界だった。

 つぅと、涙が頬を伝わる。決壊した涙腺によって景色が滲む。


 だめだ、泣くなと、ルークは己に言い聞かせる。


 面白おかしく旅を語ろうと、そう決意したじゃないか。

 間に合うことだけを求めて、必死に歩を進めたじゃないか。

 つらいのはフィリーだ。旅をできず、たった一人、冒険の旅を誓った幼馴染は裏切るように姿を消して。


 辛かったのは、フィリーだ。


 だから、自分が泣いちゃいけないんだ————


 ルークは眠り続けるフィリーの体を抱きしめる。そこには確かな温もりがあって、けれどフィリーは目を覚まさない。好奇心に輝く紫の瞳が、ルークを捉えることはない。


 目じりににじむ涙をこぼさないように胸の奥にこらえながら、ルークは叫ぶ。

 虚無が、心をいざなう。

 見て見ぬふりをしてきた無力感が牙をむく。


「うぁ、ああああああああぁぁぁぁああああッ」


 腕の中の女性は、何の反応も返さない。眠り続ける彼女はおそらくもう、目を覚まさない。


 血がにじむような思いをして集めて来た景色は、フィリーには、届かなかった。


 ぽたり。

 決壊した涙腺は、もはやとどまるところを知らなかった。


 ◆


 少女の頬を涙が照らす。西日が、部屋を包み込む。


 もう一度、とルークは願う。

 もう一度、奇跡を起こしてくれと。魔法を、授けてくれと。


 けれど、どれだけ敬虔な神の信者であれど、二つ目の魔法を授かった例などなくて。ルークの祈りもむなしく、あの日のように夜のとばりが落ちる。


 四年前、フィリーの死を実感して絶望した時とは違い、夜が訪れた病室に面会終了を告げる声が届くことはなく、そして部屋には無数の光が灯っていた。


 いくつもの映像が、変わらずそこで流れ続ける。美しい光景が、人の営みが、大自然の神秘が、移り変わっていく。


 制御されぬルークの魔法は、辛い日々をも映し出す。


 食糧不足に喘いだ日々。魔物の攻撃で傷つき、激痛に悶え続けた夜。盗賊団に狙われた際の逃走劇。美しい眼下の世界を見るための、数週間以上にわたる苦難に満ちた登山。山の中で迷いさまよい続けた恐怖の日々。


 集めた美しい景色の裏には、多くの試練があって、苦難があって。フィリーに見せるつもりがなかった光景が、ひとりでに病室に流れる。それに気がついたルークが、魔法を操作し、美しい世界を見せようと映像を変えようとして——


 ジジジ、と異質な音が病室に響く。断続的に続くそれは宙に広がるいくつもの映像から響くもので、やがて映像そのものが揺らぎ、景色が捻じ曲がる。


「どう、して———」


 のどからせり上がった驚愕に、ルークはフィリーを掻き抱いたまま一つの映像に見入った。視線の先、にじんだ映像の中で、一人の少女が笑っていた。他の場所にはない、深い青の葉を茂らせた森の中で、旅先の森の景色の中で、成長途中の少女が目を輝かせていた。

 フィリーが、病室で寝ていたはずの大切な人の姿が、そこにあった。


 映像に呼応するように、ルークの頭に記憶が流れ込む。

 フィリーと旅立ち、世界を巡った記憶。

 金銭を奪われ、街を飛び出して草原で野宿したこと。魔物に襲われ逃げたこと。薬草を拾い集めてお金を稼いだこと。生きるために戦いの訓練をしたこと。森で迷った先で、高くから飛沫を上げて流れ落ちる滝と、それにかかる虹を見たこと。辛い登山を、お互いに励まし合いながら達成したこと。湖を渡る中で船が襲われ、投げ出され溺れかけた自分を、フィリーが助けてくれたこと。漂着した先の砂浜を二人で歩いたこと。砂漠の先にあるという伝説にフィリーが目を輝かせ、広大な砂漠を彷徨い、水不足に喘いで、その果てに秘宝と呼ばれるアイテムを入手したこと。秘宝を望むドラゴンに、それを対価に背に乗せてもらって空を飛んだこと。


 様々な記憶に、冒険に、フィリーがいた。フィリーと過ごした記憶が、日々がそこにあった———そんなはずがないのに。そんな事実は、なかったのに。

 笑う顔、困ったように眉を下げる顔、唇を尖らせて拗ねる顔、泣く顔、怒る顔、寂しがる顔、照れる顔——表情を二転三転させるフィリーが、その全ての表情が愛しいフィリーが、確かにそこにいた。


「フィ、リー?」


 淡い輝きが、腕の中で生じる。春の陽気のような温もりを帯びた金色の光が、ルークが抱くフィリーの体から立ち昇っていた。


『楽しい思い出を、ありがとう——』


 ルークの頭の中に、声が聞こえた。待ち望んだ、懐かしい声。少し大人びた、落ち着いた響きのある声は、聴き間違えるはずのないフィリーの声。


「フィリー、フィリーッ!いくな、置いて、いくなよ——」


 ルークの腕の中から、重さが消える。強く抱きしめた手が、空を切る。淡い光となって、フィリーの体は消えていった。


 ピー、と心拍の停止を意味する音が響く。


 慟哭が、病室に轟いた。


 ◆


 あの日、病室で起こった奇跡は、きっとフィリーの魔法。


 四年という日々を生き続けるだけでなく、フィリーはルークの魔法に干渉するという二つ目の奇跡すら起こして見せたのだ。


 畑に鍬を振るルークの中には、記憶がある。フィリーと一緒に、四年という日々を過ごした冒険の記憶が。


 その記憶が、事実なのか、現実にあったことなのか、ルークには分からない。けれどわかろうとも、真実を見出そうとも、思わなかった。

 ルークの中にはその愛おしい記憶があって、そして魔法を発動すれば、まばゆいほどの笑みを浮かべるフィリーが、美しい光景の中に、確かにいた。


 過去に、その旅路に、きっと少女はいたのだ。それが事実でなくとも、ルークにとってはその奇跡だけで、生きていく理由になった。


 新しい景色が映し出されることのない魔法の映像の中で、今日も少女は笑っている。





 少年はもう世界を記録に残さず、その奇跡の光景を胸に、今日も世界を生きていく。


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