第7話 公爵令嬢 モフラと名付ける
『ここから出たら……死ぬぞ。だから……行くな』
その言葉を聞いてもまだ、調査を強行するほどリリアは馬鹿ではない。
素直に調査を中止して話を聞いてみようかという気になる。
「わかりました。行きませんから教えてください。貴方は一体……?」
最初は気がおかしくなって幻聴が聞こえるようになったのかと困惑したが、最初カタコトだった言葉が、発せられるたびに流暢になってゆくと、話が出来る嬉しさがあふれてくる。
自分で思っていた以上に不安で心細く思っていたのだと今更気付く。
『……うむ、お前の中にあるものでは上手く説明できないが……お前が食べた魚から引っ越してきたのだ』
「ええっと……まったく意味がわからないのですが……」
言語明瞭意味不明とはこういうことを言うのだろう。魚から引っ越してきたと言われても困惑しかない。
『そうだな……お前たちのような身体を持たない存在だということだ。だから肉体から肉体へ自由に移動できる』
「精霊やゴーストのようなものでしょうか?」
肉体を持たない存在……たしかにリリアの知っている範囲でもそのような存在はいる。それゆえ、そういうものなのかと、それほど抵抗感はなくあっさりと受け入れてしまう。
『まったく違う。ゴーストや精霊はたしかに肉体を持たないが、あくまでもゴーストであり精霊だ。私は最初から何ものでもなく、ゆえに何ものにもなれる。だからこそお前とこうして話も出来る』
色々説明を聞いたものの、リリアは言っている事の半分も理解することができない。
しかし状況を受け入れる柔軟性と知性は彼女の得意とするところ。理解は出来ずとも合理的に判断することは出来る。
「話はわかりましたけれど、貴方にお名前が無いのはとっても問題だと思いますのよ?」
『……絶対にわかっていないだろう? まあ人間にとって名が重要なのは理解しているが』
問題はそこなのかと、若干困惑気味の声が聞こえてくる。
「そうですよ、お名前はとても大切なのです。お名前が無いなら私がつけますね。いいですよね?」
『あ、ああ……そんなに付けたいのなら付ければ良い』
よくわからないが、リリアの圧に負けて了承してしまう声の主。
「わあ、嬉しいです。私、昔から名前を付けてみたかったのです。そうですね……モフラはいかがでしょう?」
リリアはいつかペットを飼ったら付けようと温めていた名前を提案する。若干鼻息は荒く瞳はキラキラ輝いている。
『……ふむ、モフラか……なにやら気持ちが高揚する名前ではある。いいだろうお前の好きに呼ぶがいい』
どうやらリリアの付けた名前が気に入った様子のモフラ。満更でもなさそうだ。
「まあモフラ、私のことはお前ではなく、リリアと呼んでくださいませ」
頬をふくらませるリリア。
『なぜだ? 同じ3文字ではないか?』
これまで名前という概念を知らなかったモフラにとっては、その辺りの感覚はよくわからない。
「気持ちの問題です」
『気持ちの……ふむ、わかった……ではリリア、話を戻すぞ?』
「はい、何の話でしたでしょうか?」
『……ここから出たら死ぬという話だ』
話し相手が出来たことですっかり浮かれていたリリアも現実に引き戻される。モフラの言う通り、ここは自宅ではなく、魔境の奥深く、どこか知らない場所なのだ。
『最初にはっきり言っておくが、リリアは弱過ぎる。生物としてあまりに脆弱過ぎて、逆に興味を惹かれたくらいだ。この場所に存在しているのがおかしいレベルでな。今のお前がこの場所から一歩でも外に出たら……その瞬間即死亡することになるぞ』
モフラは脅すわけでもなく、誇張するわけでもない。ただ淡々と事実を語る。
リリアもまた、自分のことを強いとは全く思っていないので、特に反論もせず真剣に話を聴いている。
「あの……ここって、そんなに恐ろしいところなのでしょうか?」
リリアも魔境に国境を接する王国の貴族だ。魔境がいかに恐ろしい場所なのかもちろん良く知っている。
ただし、あくまで知識としてだけなので、もちろん実際に魔境に足を踏み入れたこともないし、辺境へ来たのも今回が初めてだったのだ。
『ああ、ここは魔境の最深部。ガイアの懐だ。この聖域には魔物は入ってこれないが、一歩外に出れば最強クラスの化け物がゴロゴロしている』
「まあ……ガイア? 聖域とはなんですの?」
『この大樹のことだよ。聖域とはガイアの内側、いわば懐だな。どんな強力な生物も、入れば消化されて養分となってしまう。だから普通は入れないんだがな……』
モフラに目は無いが、なんとなくジト目をしている空気を醸し出す。
「よくわかりませんが、生きているということは、私は運が良かったのでしょうか?」
『いいや、リリアが寝ている間にすべての記憶を共有させてもらったが、運とかそういうレベルの話じゃないな。普通ならもう100回は死んでいるはずだ。非常に興味深い』
何はともあれ、モフラの説明でわかったのは、ここがとんでもなく危険な場所だということ。
「困りましたわね……私は帰りたいのですよモフラ」
リリアの望みは生き残ることではなく、国へ戻ってイデアと再会を果たすこと。それがいかに困難な事であるかを知ったリリアは悲しみに暮れる。
『……人間というのは面白い生き物だな。個体は脆弱だが、群れを作り役割を分担することで全体として強固な社会を築いている。まるで魔境アリのようだが、連中にリリアのような個体ごとの意識は無い。ここで気の遠くなるような時間を過ごしてきたが、人間のような生物に出会ったのは初めてだ』
「まあ……モフラは年上だったのですね!!」
すっかりモフラのママという謎ポジションを想定していたリリアは、急いで脳内設定を変更する。
『……私に年齢や寿命という概念はない。宿主が死ねば次に移るだけの存在だ……なあリリア、元居た場所へ帰りたいのか?』
「はい、命ある限り諦めることはありません。一歩でも……半歩でも進むつもりです」
リリアの想いは真っ直ぐでぶれることは無い。
『……だろうな。リリアはそういう奴だ。ふふ、安心しろ、私も人間の世界に興味が湧いた。付き合ってやろう』
「本当ですか!! ありがとうございますモフラ。では出発しましょう!!」
『待て待て待て待て、やはり分かっていないではないか!!』
喜び勇むリリアを慌てて止めるモフラ。
「なぜですか……? モフラが居れば大丈夫なのかと」
『その根拠のない信頼はどこから出てきた!? ま、まあ、私が居れば大抵何とかなるのはその通りだが……』
「やっぱり!! じゃあ出発……」
『だから待てええええっ!?』
「どうしたのですか? いきなり興奮すると冷静な判断ができなくなりますよモフラ」
『くっ……誰のせいでこうなったと……いいかリリア、外の世界では、今のお前はアリ以下だ。そして私は直接戦うことは出来ない』
「まあ、アリさんよりも……?」
『そうだ……だからリリア、お前自身が強くなるしかないんだよ、国へ帰るためにはな』
「わかりました。私、強くなります!! では修行へ出発……」
『だから待てええええ!! 行ったら死ぬと言っているだろうが!!』
「……声が大きいですわよ、モフラ。大丈夫ですか?」
『……うん、少し疲れたかもしれない』
マイペースなリリアに早くも疲れを感じるモフラであった。