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夢の中の少女?

暗い闇が目の前に広がると、ぼんやりと橙色の色味が増す。これは、間違いない。あの夢だ。私は夢を見ている。視線が右に反れ、少女を捉えた。けれど、前回同様、その目顔が白いベールで隠されている。どんな顔なんだ。ここぞとばかりに覗き込もうとするが、身体と映像がリンクしない。完全に自然なVR映像だ。寝ながら首を伸ばしている感覚だけが伝わる。ああ、もどかしい。そう思っていると。

『……ちゃん。……は……あげる』

 えっ、何を。その言葉が聞こえただけで、あとから先の少女の声はオフレコとなる。ちょうどテレビの消音ボタンを押したかのように、口元だけが笑っていた。一体、当時の私達は何を話していたのだろうか。彼女の言葉の前後の話が、とても気になる。映像が霞んで闇の世界に戻ると、頭上からアラームの音が脳を叩いた。出社だ。今日も、どうせ遅刻だろう。まあ、人事部から広報部に移動したから、山澤部長に怒られることもないはず。

 眼鏡をかけてからスマホに視線を向けると、時刻は八時を過ぎていた。うん、遅刻だ。とりあえず会社に電話して遅れることを伝えなくては。その電話が終わったら、あと一時間だけ二度寝してしまおう。あの少女の夢を見られたのだ。もしかすると夢の続きを見られるかもしれない。何かをあげる、と言っていたな。その不明瞭な部分を知ることができるのなら、遅刻してでも見たい。これだけが、今の私の楽しみなのだから。

 結局、続きを見ることはできなかった。残念でならない。重い身体を起こして事務服に着替える。洗顔と歯磨きをしてから化粧もせず、玄関へ向かう。朝食をとるのも面倒なので何も食べない。肩を落として玄関を抜けた。

出社してオフィス内に入る。まず驚いたのは、人事部にいるであろう山澤部長が、広報部内にいたことだ。なんでいるの? 驚いて目を瞠っていると、山澤部長の怒声が室内に響き、私はコテンパンに絞られた。廊下まで連れ出され、恐喝のような怒られ方に泣いてしまう。叱責は一時間ほど続き、お昼の予鈴と共にお叱りは終わった。

そんな午前を思い出しながら、裏庭のベンチに座ったまま空を眺める。青々とした空が羨ましい。私の心も、こんなに澄んで綺麗だったら、毎日が楽しいだろうに。そう胸中に呟き、自販機で買った焼きそばパンと缶コーヒーを食べ始める。裏庭で摂る食事は、ほんの一時だ。気休め程度の休み。やはり、あの夢を見ているときと比べれば、幸福感が足りない。クソみたいな人生だ。そう腐っていた。その時。

「あの、お隣いいですか?」

 唐突だった。後方から声が降り注ぎ、驚愕から身体が反応する。一瞬ビクっとして振り返れば、その見上げた先には、快活な笑顔があった。この人は確か……。

「えっ、ええ。どうぞ」

 半分、頭が混乱したまま隣のスペースへ手を差し伸べる。なんだか女子高生のように、はしゃぐ彼女を見て、私はドキドキしていた。悪いが、このような陽キャは苦手なのだ。隣に彼女が座り、視線が合う。間違いなく、この人は移動初日の挨拶の際に目が合った女性だ。名前は、何だったか。

「えっと、すみません。自己紹介が、まだでしたね。昨日、人事部に配属となりました山本佳奈です」

「知ってるよ。山本さんだよね。あたしは北島です」

 この方は北島さんというのか。なるほど。口振りから陽キャな性格が丸出しだ。すごい。私とは真逆だ。この蒼穹に映える太陽のような輝かしい笑顔を見せている。男子受けも良さそうだな。

「すみません。先ほどは、お見苦しいと言いますか、聞き苦しいものをお聞かせしてしまったみたいでして」

 私が頭を下げると、北島さんは手を左右に振って。

「いやいや。いいよ。なんか山本さんのことは部長から聞かされていたから、あたしは気にしてないよ」

 部長め。どこまで私の身上を吹聴したんだ。まさかあることないこと面白おかしく、囃し立てて喧伝したのではあるまいな。

「いえっ、すみません」

「そんなに謝らなくても。だって、心の病気なんでしょう? きっと朝、起きれないのも病気のせいだと、あたしは思ってるし。だいたい、部長も言い過ぎだって。お前が山本さんの立場なら、そんなこと言えるはずないって。たくっ、あの人、偉そうな感じで嫌い」

 この人。私のことを気遣ってくれている。なんで。分からない。まさか、まさかだとは思うが、この人が夢の中であった少女なのでは? いや、それは早計すぎるぞ。何を考えているんだ、私は。

「山本さん、大丈夫?」

「あっ、すみません。私、自分の世界に閉じこもってしまう癖があるみたいでして」

「いいの、いいの。気にしないで。あっ、因みに、あたし役職はSVだから。何か悩み事があったら相談して」

 スーパーバイザーだったのか。同輩だと思っていたが、自分の上司に当たるとは。年齢は同じそうなのだが。

「ありがとうございます。あのっ、つかぬ事をお聞きしますが」

「ああん。堅苦しい! そんなガチガチにしなくていいから。もっとラフに話そうよ」

 いきなり肩に手をかけられて、私は身を縮めた。でも、いやじゃない。こんなに気さくな感じで話しかけられたのが、嬉しくて。

「すっ、すみません。こんな性分で」

「にひ。まあ仲良くしよう。それで、聞きたいことって?」

 聞こうかと思った矢先、肩に回す彼女の腕が気になった。妙に質感が固い気がする。いや、それじゃなくて。

「その、なんで私みたいな陰キャに話かけてきたのか……」

 俯き加減で問うと、右隣りから北島さんの爆笑する声が耳に飛んでくる。なんだろう。私まで、おかしく感じる。

「いや、だって、あんだけ怒られていたら、普通に心配するじゃん。なんだか可哀想に思えてさ。それでほっとけなくて。あっ、仕事以外の時はタメでいいよ」

 そうだったのか。優しいな、北島さんは。ただ、大雑把な性格でもありそうだ。いきなりタメ口で話していいと言われても、無理。陰キャには無理です。

「あっ、あはは。少しずつ」

「よしよし。それじゃあ、あたしは先に戻るね。もし岡田さんが不在の際は、質問とか相談とか何でも聞いて。あたしも以前、ネットショップを担当したことがあるから。だから、遠慮しなくていいからね」

 そう言って北島さんは立ち上がる。その佇まいに神々しいオーラを感じた。感謝の意を込めて頭を下げる。顔を上げると、彼女は手を振って屋内に消えていった。なんだろう。この懐かしい感じは。竹迫君に告白される前は、こんな感じでバレー部の皆が接してくれた。多分だけど。それで最後に手を振って応えてくれたのが、もう十年も前。そうか。

私は、自分が思っている以上に、人と接していなかったのか。それもそうだ。職場の人間には必要な業務内容を話すだけで、帰宅すればいつも一人。休日も誰かと一緒に出掛けることもない。意外にも、人とふれあった時間が、久々だったのだと気付いた。

 午後からの仕事ということもあり、岡田先輩に先ずは謝罪する。彼は「身体、大丈夫っすか?」と身を心配してくれた。怒っている様子は感じられない。ああ、良かった。山澤部長なら憤懣をぶつけてくるから、凄く安心する。岡田先輩に再び業務を教わる為、私は机に座りパソコンを開いた。

 ネットショップ運営に必要な作業を幾つか教わる。毎月五の付く日はイベント日として、セールを行っていた。その情報をユーザーに届ける為に、メルマガを作製している。今日は、そのメルマガの作り方を教わった。岡田先輩が作ったメルマガ定型文を自分のフォルダにコピーし、今度の十五日に配信するメルマガを作る。配信日は明後日。初めて知ったが、メルマガはパソコン用とモバイル用と二種類があるようだ。パソコン用はHTMLやCSSといわれるプログラムを使うらしい。正直、よくわからないので、先ずはテキスト文だけで作るそうだ。明日、岡田先輩と一緒に作る。

 そうして今日の業務が終わった。頭が爆発しそうだ。色んな聞き慣れない言葉を聞かされたので、脳の情報がショートしかけている。岡田先輩に、お疲れと言われ、退社する準備をした。とにかく疲れたので、早く帰宅してシャワーを浴びよう。パソコンで勤怠を入力して、立ち上がる。その時だった。

「北島さん、今日もジムなの?」

 同僚の岩倉さんが彼女に話しかけている。ジム? 北島さんは、ジムに通っているのか。

「うん。やっぱり楽しいからね。あっ、そろそろいくね。じゃあね」

 彼女は急ぎ足で部屋を出ていこうとする。私と目が合うと、軽く手を振って笑顔を振舞ってくれた。私が手を振り返そうとすると、殆ど駆け足で出て行ってしまう。この恥ずかしい行動は無下に終わった。まるで思春期の男子が、好きな女子にとるような態度ではないか。まったく。同性なのに、何なのだろう。


 会社を出て、国道四百十五号線を走る。殆ど、頭の中は北島さんのことでいっぱいだった。彼女の明るい笑顔が頭から離れない。なんて魅力溢れる人なんだろう。あんなに優しくしてくれた人は、あの夢の少女くらいだろうか。そう考えながら運転する。すると、帰宅ラッシュに引っ掛かり、仕方なくアクセルを落とす。エコモードでエンジンが停止すると、流していた樺沢先生の声が良く聞こえた。内容は、この前と同じような動画で、抑うつには運動が大事とのこと。内心、うんざりだなと思い、なんとなく左へ顔を向ける。環水公園が見えて、オレンジ色の水面を眺めていた。すると、その近場の歩道を女性が歩いている。ショートの茶髪に、事務服を着ていた。あれ? もしかして、北島さん。

 そういえば、環水公園の敷地内には、筋トレのジムがあることを思い出した。なるほど。北島さんは、この公園内のジムに通っているのか。確かに会社から歩いて五分ほどだし、通う環境を考えてもメリットだな。

 前の車のブレーキランプが解除され、前進する。続いて車を走らせて信号の近くまできた。そして、私は何を思ったのか右へ車線変更して、左横手のファミマに入る。買い物をせず、来た道に戻り、踵を返した。ああ、馬鹿じゃないのか。どうしてジムに行こうとしているのだ。そんなことをすれば、優しい彼女だってドン引きするだろうに。けれど、私の暴走は止まらない。

 環水公園に進入し、適当な空車スペースを見つけて駐車させる。北島さんを見かけた噴水広場まで歩いた。辺りを見回して、ジムの看板がないか探す。スマホでジムの名前を調べると、どうやらゴールデンジムというらしい。似たようなジムの名前でゴールドジムやシルバージムというのもあるそうだ。ひとまず、ゴールデンジムと書かれた看板がないか見渡す。

 噴水広場に沿って道を歩むと、ジムの看板が目に入った。遠目からでも分かるほど、建屋の入り口の上に黄金文字でジムの名前が書かれている。英文字で書かれていて、夕日に反射しているせいか、キラキラと輝いていた。ここか。北島さんが通っているのは。自動ドアの前までくると、緊張と不安から立ち止まってしまう。

 一歩踏み出す勇気がほしい。どうしよう。私のような陰キャが中に入ってもいいのだろうか。場違いな気がする。北島さんのような陽キャが行くようなところなのかも。うん、帰ろう。私には無理だ。諦念から引き返そうとした時だった。後ろから男性の「どうしたの?」という声が聞こえる。えっ、私か。驚いて振り返ると、うわっ! 凄いマッチョだ!

「もしかして入会希望者かい? それなら大歓迎だ。さあ、勇気を踏み出して」

「えっ、あのっ」

 なんだ。何が起きているんだ。誰なんだ、このマッチョは。色白の肌で大柄な男性だった。身長は一七〇センチくらいあると思う。黒い短髪。そして、白いタンクトップからはみ出る胸や肩の筋肉が、とんでもなく発達している。まるでアメコミのハルクやスーパーマンみたいじゃないか。

 彼に案内されるまま、扉の向こう側へ入る。中は意外と普通だ。受付も女性が担当している。ゴリゴリのマッチョばかりだと思った。

「ちょっとジムの見学と、せっかくだから筋トレの体験もしよう」

「あっ、は、はい」

 この人に気圧されてしまって、つい肯じてしまう。うーん、私は北島さんがいるのかどうか、ただ気になって来ただけなのだが。こんなことなら外から中の様子が見えるようにしてほしいものだ。

「あっ、自己紹介がまだだったね。僕は中山翔二。なかやまトレーナーです。みんなからは、きんにさんと呼ばれているよ」

「きっ、きんにさん、ですか」

 うわっ。ダメだ。この明るい感じ。暑苦しいを通りこして、ちょっとうざい。岡田先輩とは違って、なんだろう。爽やかだけれど、なんだか生理的に無理な感じだ。決して、悪い人ではないのだろうけれど。

「うん。あっ、それじゃあ案内するからついてきて」

 言われるがまま私は彼の後ろについていく。それにしても、背中もデカい。人間、こんなに大きくなるものなのだな。などと心中に呟いていると、白くて広いスペースに出た。なんとなくドラマや映画で見た事のある、トレーニング器具が置かれている。ダンベルがずらりと並んでいて、ベンチプレスまであった。突き当りは鏡張りになっている。その鏡の前で、ダンベルを持ってトレーニングしている女性がいた。

 白い帽子を被っていて、茶髪のショートカットだ。肩が丸出しの白いスポーツブラを着ている。さらにピンク色のスパッツを履いていた。雰囲気からして間違いない。北島さんだ。どうも、私に気付いたらしく驚愕した表情のまま振り返った。頭を下げて、彼女に会釈する。

「山本さん、どうしたの! なんで」

「あっ、いや」

 額から汗を流す北島さんを見て、私は息を飲んだ。すっごく爽やか。生き生きとしている。一目見て、私の胸がドクンと鳴った。この感覚。そうだ。私は彼女に心底、憧れている。北島さんみたいに生き生きとしたいんだと。改めて気付かされた。

それにしても同性の私から見ても、凄く良い身体をしている。引き締まったくびれ。余分な脂肪のない二の腕。上から下に見下ろしても全体のシルエットが素晴らしい。加えて、この笑顔。きっと男の人なら彼女に惚れるだろう。

「山本さーん。おーい」

「ああっ、すみません。実は、北島さんがジムに行っていると聞きまして。それで私も興味があったものですから」

 引かれたか。もう少し曖昧に言えばよかったのかもしれない。そう悔やんだが、意外にも彼女は晴れやかな顔で「そっかあ」と応えた。筋トレ仲間が増えて嬉しそうな様子だ。まあ、ほぼ、きんにさんのせいで半ば強制だが。閉口していると、きんにさんが間に入って話しかけてきた。

「よし! それじゃあ、まずは簡単な筋トレからレクチャーしマッスル!」

 まっ、マッスルか。このノリが好きじゃない。

「それじゃあ、山本さん。筋トレとかって、どのくらいしていますか?」

 きんにさんに問われるも、全くしていないとしか言えなかった。

「なるほど。となると筋トレ初心者なわけだね。大丈夫。筋トレは筋肉を貯蓄する、いわば貯筋。少しずつやれば、マッチョになれるよ」

 いや、私はマッチョになりたいんじゃないんですが。

「まずは山本さん。三キロのダンベルから始めましょうか」

 聞いていない。まあ言われるままに、ダンベルを持つか。近場にあったダンベルコーナーへ向かい、三キロと書かれた黒いダンベルを両手にとる。うぐっ、意外と重く感じるぞ。

「顔が引き攣ってるね。これは筋力も筋肉量も少ないからだね。よし、それじゃあ、ダンベルカールと言う種目から説明しマッスル!」

 どこに向かってポーズをとっているのだろう。彼の目線の先は壁なのだが。

「それじゃあ、山本さん。僕の動きを見ていてください」

 そう言って彼は近場のダンベルを手に取った。うわ、かなり大きい。私の持っているダンベルの四倍はあるんじゃないか。横面に記載された重さを確認する。なっ! 片手二〇キロだと。重さでは六倍ではないか。そのダンベルを逆手に持ち、肘を固定したまま片方ずつ上げていく。上げた後は、ゆっくりと下げていき、四五度の角度で保っていた。この動きを眺めていると、彼の力こぶが漫画みたいに盛り上がったりして、伸展の動きを繰り返す。あんな重さを持つだけでも凄いのに、それでトレーニングするとは、私には無理だ。そう思っていると、きんにさんが苦悶の表情を浮かべていることに気付く。

「あっ、あの、だいじょ……」

「パワー!」

 顔が真っ赤になった。それだけではない。彼の上腕から血管が疎らに浮き出てきた。大丈夫なのか。もう見ていて血管が切れそうで怖い。けれども、彼は、このダンベルの伸展を十回ほど繰り返して。

「ぐああああ!」

 もう二回ずつ行うと、ダンベルを元の位置に戻した。室内は有線や他のお客さんの声も溢れているのに、置いた途端、凄まじい金属音が響く。その重さを物語っていた。ところで、きんにさん、めちゃくちゃ息が切れているけれど。本当に大丈夫か?

「はあ、これが、ダンベルカール、だよ。見て、この力こぶ。ここは、はあ、上腕二頭筋という筋肉で、長頭、短頭。このダンベルカールは二頭筋の短頭を主に鍛えるよ。あと、この上腕筋も鍛えられる。頑張れば、ここまで持てるよ」

 いや、二〇キロも持つ日はこないと思うので。大丈夫です。半分、冷笑ともいえる作り笑顔を見せていると、きんにさんのトレーニングを眺めていた北島さんが口を開いた。

「きんにさん、凄いです! 流石です」

「とんでもないでスクワット」

 わざわざ本当にスクワットしなくても。疲れているだろうに。

「あたしも、ムキムキになれるように、頑張ります」

 ええっ。北島さん、マッチョになりたいのか。ついつい目の前の汗だくの彼と北島さんを見比べる。彼女の可愛らしい顔と、ゴリマッチョのきんにさんの身体。それらを頭の中で入れ替える。まるでコラージュだ。あまりにもミスマッチ過ぎて、頭を左右に振った。そんな北島さん、嫌だ。気付くと、中山トレーナーが口を開いていた。

「北島さんもだいぶ、筋肉ついてきたよね。継続は力なり。大丈夫だから」

 確かに北島さんの身体つきはモデルのようで、締まるところは締まり、腕の筋肉も発達している。やっぱり、かっこいい。彼女を観察していると、きんにさんに名前を呼ばれた。

「着替えとか持ってきてないよね。あんまりすると汗をかくから、それで風邪を引くと大変なので、今日の体験はここまで。あとは、僕と北島さんのワンツーマンの指導を見て、どんなことをするか漠然と知ってもらえればと思いマッスル!」

 なんのポーズだ、それは。なんとなく昔、テレビの特集で見たボディビルダーのポーズだったはずだが。

 それから北島さんのトレーニングを見学した。正直、何の何というとレーニングだったのかは分からない。ただ、さっきのダンベルカールを九キロの重さで十回やって、それを三回繰り返していた。どうも、この十回を一セットと呼び、それを三セット行う。つまり、

全部で三〇回繰り返していた。一セットと一セットの間に休憩を二〇秒ほど入れて、トレーニングを再開する。この短い休憩をインターバルというらしく、長すぎると筋肉が休みすぎてよくないらしい。北島さんも、かなり息が上がっているが、すごく楽しそうだ。汗を拭う笑顔が輝いている。

ダンベルを元の位置に戻した後、きんにさんはスクワットを行うように指示した。ここで彼が私の名前を呼ぶ。

「スクワットはバーベルを担ぐバーベルスクワットと、ダンベルを持って行うブラジリアンスクワットと、自重で行うスクワットがあるよ。今から北島さんが行うスクワットは、ノーマルな自重スクワットになるね。よく見てて」

 北島さんが行うスクワットは、肩幅に足を開いて、腰を下ろしていくスクワットだった。これはバレー部にいた時に行っていたタイプだ。ただし、私が行っていた時のものとは少し違う。臀部を後ろに突き出して、膝を前に出さない形だった。私がしていたスクワットは、手を頭に回して、深く腰を下ろす方法だ。それを連続で三〇回ほどしていた。

 北島さんは一〇回一セットの三セットを行う。二セット目から、かなりキツイ表情をしていた。何度も悲痛な声を上げて、きんにさんがパワーと声援を送る。それは声援なのか。見ていた私も気付けば、北島さんを応援していた。いや、きんにさんほどではないが。小声で頑張れとしか言えない。スクワットを始めて、三セットを北島さんはやりきった。そして、その場に倒れこんだ。

「足イタイ、あはは」

 引き締まった足を投げ出す。ぶらぶらと両足を動かして、天を仰いでいた。不思議だ。自分の身体を疲れさせて、痛めつけているのに、凄く楽しそうだ。――私もしたい。そう自然と心に呟いていた。口元も緩んでいる。ああ、これだ。私が求めていたのは、これだったのかもしれない。この生き生きしている北島さんや、きんにさんを見ていると、元気が湧いてくる。

「山本さん、明日も来られる?」

 きんにさんに話しかけられて、即答で「はい」と答えた。

「よし! 明日も僕がレクチャーするからね。多分、汗かくと思うから、北島さんが着ているようなスポーツウェアとタオルを持ってきて。飲み物はジム内で販売しているから。持ってきてもいいけどね」

「分かりました。明日から、よろしくお願いします」

「山本さん、お願いしマッスル! ハっ」

 再び白い歯を見せる彼に、私もつられて、はにかんだ。


 見学が終わり、一八時半に北島さんと一緒にジムを出た。外は暗くなり星空が広がっている。彼女は徒歩でジムや仕事場に来ているらしく、帰りに自宅まで送るよと誘った。

「とても助かるー。山本さん、ありがとう。あっ、せっかくだから、山ちゃんって呼んでいい?」

 山ちゃんか。どこかの某大物声優さんみたいだなと思いつつ、そこは了承した。嫌ではないが、あだ名で呼ばれたのは中学以降なので恥ずかしい。当時は、佳奈のヨッシーだった。これはこれでハズイな。ユニフォームも緑色だったし、あだ名のまんまだよな。

 昔を思いだしながら、助手席まで向かいドアを開ける。北島さんが乗車して、自分も運転席に乗り込む。くそ、こんなことなら車内をもっと、こまめに掃除しておけばよかった。後悔するも、噯にも出さずに車を走らせた。

 公園を出てから会社に戻る形で国道に出る。この時間帯も渋滞が酷く、思うように進まない。そうなれば、彼女との会話は必然的に発生する。いや、単に私が北島さんに興味があるだけなのだが。

けれども、二人きりだから、何を話せばいいのか。沈黙していると、窓越しから景色を覗いていた北島さんが、こちらへ頭の向きを変えて話かけてくれた。

「山ちゃんは昔、運動とかしてたの?」

「昔、中学時代にバレーをしてましたね」

 内心、夢の中の少女と北島さんが同一人物になる手がかりが、引き出せるかもと思案している。幾つかの質問をこちらでも心積もりして、会話を切り出す。

「北島さんは何かされていたんですか?」

「あたしは陸上をしていたよ。今は筋トレがメインだね」

 陸上か。夢の中では、そんな陸上の恰好をしていなかったと思う。体操着だったような。私と似た服装だと思う。

「そうだったんですね。筋トレは、いつから」

「うーん、去年くらいかな。最初はダイエットしたくて始めたんだけど、次第に筋トレ事態が楽しくなってきて。身体つきも変わるし、トレーニングが終わった後って、すっごい爽快感なんだよ。それで頭もスッキリするから、仕事もできるようになって、気付いたらSVになったって感じ」

 なるほど。筋トレの効果は先生の動画で知っていたが、本当だったのか。これも動画で知ったのだが、アメリカのビジネスマンは出社前の朝五時頃にジムへ行き、筋トレに励んでいるそうだ。特に営業成績や役職のついた社員が多いとのこと。となれば、私も筋トレを頑張れば、会社で仕事ができるようになるのかも。加えて、人生が好転するのなら喜んでやりたい。彼女と話を続けていて驚いたのは、入社したての頃の思い出話だった。

「実は、あたし会社に入った頃はダメダメウーマンで。遅刻はする、発注ミスして何百万の赤字を出す。営業で取引先の方に商品説明できなくて怒らせる。挙句の果てには当時のお局様に辞めてしまえと罵られたのね」

 信じられない。SVまで上りつめた人間だから、仕事ができないということはあり得ないはずだ。役職に就くには入社して十年は経過しないと出世できない。社員の数も百人以上いるので、仮にSV候補だとしても、年功序列形式で年嵩の人間が出世する。なので、彼女みたいに若い女性がSVに就くのは、早すぎるのだ。入社五年ほどと考えれば、異例の出世スピードに改めて驚かされる。

「信じられないですよ。私みたいな状態だっただなんて」

「マジマジ、ホントだって。もう何度も辞めようと思ったもん。ああ、あたしには無理だ。もう転職しようって。そう思ってた時に環水公園にジムができたって聞いて。行ってみたくなったんだ。そしたら、きんにさんと出会って、人生変わった。本当に感謝してる」

 そうか。彼女には彼女なりの氷河期があったのだ。その凍てつく氷が解けて、春が訪れたのだと悟る。今の彼女が生き生きしているのは、そうした辛い過去があったからなのだろう。

 緩々と車の列は進み、交差点を左に反れる。北島さん曰く自宅は近いとのことなのだが、こんな街中に一軒家や借家などはない。もしかして、実家が飲食店とか。それなら街中にも自宅があるといえる。

「山ちゃん、ここに入って」

「ここっ、ええ!」

 我が目を疑うとは、まさにこのことだろう。彼女の言う自宅とは、サーパス下新町というマンションだった。超高級マンションではないが、地下駐車場が完備されている少しだけリッチなマンションである。以前、地元テレビの特集コーナーでも紹介されたことがあった。記憶が正しければ、確か家賃は私の給料の半分くらいなはず。北島さん。あなたは幾ら毎月、稼いでいるの! 言われるがまま、地下に車を進入させて二〇九と書かれた空車スペースに駐車する。北島さんは車の免許を持っていないので、探すのに手間取った。一回、スペースを見逃してしまい、誤って更に下の階へ進んでしまう。引き返した際に見つけたというわけだ。

 見つかって良かったね、とお互いに話し合ってから、北島さんは下車した。

「山ちゃん、ありがとう。また明日ね」

 この明日というのは仕事とジムで、という意味だろう。なんだか、私だけが知る北島さんという感じで、妙な背徳感を覚えた。

「はい、また明日です」

 どうしても頬が緩む。こんなに人とふれあい、楽しい一時を過ごしたのは何年ぶりだろうか。それ故に、彼女と別れるのは、少し寂しいという気持ちに駆られた。なんなんだろうな、この気持ちは。

 フロントへ消えていく背中を見届けて、車を発進させる。胸の中に渦巻くのは、誰もいない部屋まで帰らねば、という寂しさだけだった。まるで、あの時のようだ。竹迫君に告白されて、学校内で幸せだと感じてから帰宅した時の寂しさ。あれに似ている。ああ、嫌だ、嫌だ。もう思い出したくもない。今の私は少しずつ、良くなるきっかけを掴み始めている。不安に負けるな。

 帰り道、筋トレでエネルギーを消費したからか吉野家を見つけて寄り道する。普段なら牛丼小で足りるのだが、豚汁サラダセットにしてしまった。いや、大した筋トレもしていない。ただ、北島さんのトレーニング姿を見ていただけなのだが、何だが自分がスクワットやダンベルカールをしていた感覚に陥っている。そのせいでいつもより多めに頼んだ。明日からジムに通うのに、間違いなく明日の帰りは並盛になるだろう。

 食事を済ませてからドン・キホーテ円山店に寄り道する。そこで必要であろうタオルと下着を購入した。どうもジム内にシャワールームがあるらしいので、トレーニング後にそこで浴びてよいそうだ。ありがたい。流石に汗かいたまま帰るのは嫌だからな。風邪ひくだろうし。それとフィットネスが流行っているからなのか、スポーツコーナーがあった。タオルや北島さんが着ていた感じの服もある。それとうちの会社で取り扱っているようなプロテインも置いてあった。ひとまず、一通り買うか。それにしても、かなりお金かかるな。全部で合わせて六千円くらいか。まあ、初期投資だと思って使おう。

ドンキで買い物をしてからアパートに帰宅。服も適当に脱ぎ捨て、直ぐシャワーを浴びた。今日は早めに寝たい。明日の仕事や筋トレもある。無駄に体力を消耗させたくなかったからだ。現に、部署移動による精神的疲労も拭い去ったわけじゃない。なんだかんだ、仲良くなれた部署の人間は北島さんだけなのだから。

 寝間着に着替え、部屋の明かりを消灯させる。直ぐに眠気が襲ってきて、まどろみの世界へ誘われた。すると、またしても少女と話し合う夢を見る。場所は同じ、県立体育館前だった。彼女の顔は光で見えないし、着ている体操着も一緒だ。そうなると、やっぱり北島さんではないのか。もし、この女性が北島さんならば着ている服は、体操着でなくて陸上の恰好だろう。わざわざ陸上競技が終わった後、体操着に着替えるだろうか。しかも季節は春頃。厚着をして冷気から身を守る必要性もない。

 そうなると、この人は何の部活をしていたのだろうか。気になる。同じバレーではない。となれば、一体。そこまで考えていると、頭上からアラーム音がする。意外と自分自身は冷静な状態だった。また遅刻だろう。そう覚悟してから、眼鏡をかけてスマホを手にして画面を覗き込む。時刻は七時一〇分。ほら、七時……。えっ?

「遅刻じゃない!」

 いや、遅刻しないのが普通なのだが。何故か今回はアラーム通りに目が覚めた。そうか、いつもより早めに寝たからか。小学生でも分かるような理屈だ。とはいえ、こんなシンプルな理屈で起きられたことにビックリしている。

 いつもなら慌ただしく寝間着を投げ捨て、床に散らばった事務服をかき集めるのだが、寝間着を折り畳んでベッドに置く。事務服を着る前に何となく嗅いでみると酸っぱい臭いがした。これはまずい。今までこんな汗くさい悪臭を振りまいていたのか。後悔しながらファブリーズで消臭する。

 時間に余裕があると、気付かなかったことに気付けるのだと悟った。だから、休日の時にしか飲まないインスタントコーヒーを沸かして、トーストでパンを焼いている。スマホでスマートニュースを覗きながら淹れたコーヒーを一口啜った。凄く心が穏やかだ。忙殺された毎朝と違い、何だか心が軽やかに感じる。

 歯を磨き、何年ぶりか髪の毛をアイロンで整えた。その後、アパートを出て車に乗り込む。エンジンをかけて時刻を確認すると七時四〇分と表示された。凄い。いつもなら、この時間は寝ているのに。新鮮な気持ちを抱えたまま車を発進した。

 会社には、あっさりと到着する。時刻は八時。いつもこの時間に目覚める。今となって思うのは、朝早く起きることは気持ちよいということだ。とても清々しく、なんだが仕事ができる人間のような、自信を持っている。意気揚々にオフィスに向かう。

 二階の廊下を歩いていると黒いスーツを着た男性が見える。ああ、山澤部長だ。いやだな。とりあえず、すれ違い様。

「おはようございます」

 一礼して、彼に挨拶する。部長は「おはよう」とだけ言って視界から消えた。なんだ。早く来たから褒めてもらえるのかと思ったのに。と見返りを期待していると、後ろから部長の叫び声が聞こえてきた。

「なっ、山本! お前、どうした」

 振り返ると、彼は目を見開いて信じられないと言わんばかりの顔をして、こちらを凝視している。そんなに驚かなくても。踵を返して山澤部長の元まで歩む。

「いえ。目が覚めたので」

 見上げながら話すと、彼は「そうか」と微笑んだ。あっ、この人、こうやって笑うこともあるんだ。

「やればできるじゃないか。明日も、ちゃんと遅刻しないで来るんだぞ。言っとくが、これは当たり前のことなんだからな」

「はっ、はい。ありがとうございます」

 ちょっと意外だった。血も涙もない冷徹人間だと思っていただけに、この人が私を褒めてくれただなんて。こっちもビックリだ。ただ、嬉しい。部長に褒められたのは入社して初めてだと思う。だからこそ、その嬉しさが一入強く、頬を弛緩させる。

 オフィスに入ると北島さんと目が合った。彼女も驚いた様子でいたが、直ぐに笑顔を浮かべて近づいてくる。自分の机に鞄を置くと、北島さんが肩を叩いて、おはようと挨拶してくれた。なんだろう。学生時代を思い出す。教室に入った時も、こんな感じでクラスメイトが話してくれたっけ。懐かしい。

「山ちゃん、早いね。どうしたの?」

「今日は何故かアラーム通りに目が覚めまして」

 そう話すと北島さんは、にひっと笑みを零した。

「昨日のジムのおかげじゃない? きっと疲労がたまって睡眠の質が高まったんだよ。ほら、よく新しい職場とか環境が変わると疲れるじゃない。多分それだよ。まあ人事部に移動したのもあると思うけど」

 北島さんの言う通り、人事部に移動して気疲れしているのはある。しかし、ゴールデンジムで見た北島さんのトレーニング内容や、きんにさんのオーラに疲れたのもあるだろう。となれば、今日から筋トレを本格的に行うから、もっと疲れる。覚悟しなくては。


 今日は朝礼がなく、そのまま岡田先輩に指導してもらう。そして、今日はミスもなく仕事が終わった。配信するメルマガも先輩に見せたところ、何の指摘もなく、この内容でいこうと言われ予約配信する。先輩にも「初めてにしては上出来だ」と褒められた。ジムに体験で行っただけなのに、なんか身の回りがドラマチックに変わり始めている。

 終業のチャイムが鳴り、勤怠入力をしてパソコンを閉じた。近づく北島さんが行こうと声をかけてくれる。今から私の車で一緒にジムへ行く。久々に身体を使うし、汗も大量にかくだろう。昨日のドンキで買った一式をリュックに詰めて後部座席に積んである。北島さんが下に履いていたレギンスは買ってないが、あれは何の意味があるんだろう。あれも買った方がいいのか。それと、プロテインは買ったのだが、弊社で扱っているグルタミン? とか他の食品も用意した方がいいのだろうか。うーん、きんにさんに相談しよう。

 北島さんを乗せて、環水公園に向かう。会社からジムまでの距離は近く、自家用車で五分くらい。ただし、渋滞で捕まるので、国道にいる滞在時間は増える。そうなれば、北島さんと話すことになるのだが、本当に話題が見つからない。昨日と同じく、助手席側の窓からぼんやりと眺める彼女に、話かけていいのか分からない。陰キャだから。人付き合いも殆ど何年もしていないので、こういうのは凄く苦手だ。その時。

「山ちゃんは、さ」

 突然、話しかけられて思わず「ひょ」と素っ頓狂な声を上げてしまった。しかし、彼女は笑うこともせず、話を続ける。妙に緊張が高まった。

「なんで筋トレしようと思ったの?」

 あなたについていっただけです。なんて言えない。言えばキモがられて終わりだ。お釈迦ポンになる。ここは……。

「じっ、実はyoutubeで見ている精神科医のチャンネルがあって。樺沢紫苑先生っていうんだけど。その先生の動画に人生を変えたければ筋トレをしろって言葉を聞いて。ほら、私って陰キャだし会社のお荷物だから。それで少しでも自分を、人生を変えたくて」

 すらすらと言葉を紡いだが、これは本心だ。筋トレをはじめたきっかけは北島さんだが、目的は変わりたいから。一度しかない人生なのに、ずっと諦めてばかりいた。私の人生は整備されていない線路を歩くだけの苦行だと。明るい人生なんて頑張ったって歩めない。でも、今日の出来事で考えが変わり始めている。もしかしたらもしかして、筋トレで本当に変わるのかもしれない。騙されたと思って、やってみよう。そうした気持ちは本当だ。

 私が話し終えると、北島さんは窓を眺めたまま。

「山ちゃんはお荷物じゃない。陰キャじゃない」

 意外な言葉だった。私が? そんな馬鹿な。

「本当に会社のお荷物なら山澤部長だって怒らないし関わってこない。とっくにクビになってる。それと陰キャは筋トレなんてしない。やらない理由を理路整然に言い唱えて屁理屈を作る」

 何も言えなくなった。彼女の分かったような言い方に、少しだけカチンとくる。あなたは私の何が分かるというのだ。父親に愛されず、逆に愛してくれた母親は、どこにいるのか分からない。その辛さを分かって彼女は言っているのか。ましてや、父が私を大事に想っているわけがない。大事に想っているのなら、こんな関係になるまで私を放ることなんてしないはずだ。私に関心なんて、毛頭もあるわけない。

「山ちゃんは自分の事を低く見すぎ。もっと自分の可能性を信じようよ。大丈夫だって。昨日から変わり始めているから。それに」

 横目で窺うと彼女は窓から私の方へ顔を向けていた。にへっ、と笑う。そして、左頬を細くて長い指で突っつかれた。

「笑顔が増えたよ」

 彼女に言われてミラーで顔を一瞥する。どうやら無意識の内に頬が緩んでいたらしい。昨日も弛緩していたっけ。そういえば、自然と笑顔になることなんて殆どなかった。常に私なんて、とマイナスに考えていたからだと思う。そんな私が笑顔を浮かべていたなんて、それだけ心も変わり始めているのか。

「山ちゃんも結構、可愛い顔してるんだから、もっと笑顔でいたほうがいいよ。勿体ないよ。イメチェンしたら大変身しそう」

 可愛いと言われたのは後にも先にも、竹迫君だけだった。正直、自分で可愛い顔だなんて思えない。クラスにいる地味で根暗な眼鏡っ娘が自分のポジションだと自覚している。流石に、北島さんのお世辞だと思う。でも、悔しいな。女の可能性を捨てていない自分がいる。筋トレと同じく、もしかしてと思ってしまっているのだ。

 話込んでいるうちに環水公園の駐車場に着いた。黒いリュックは私で、赤いリュックが北島さんだ。取り出して背負うと、思った以上の重さで辟易する。三キロはあると思う。何せ一キロのプロテインも入っているからね。よく筋トレ後の三〇分以内にプロテインを飲めと深夜でやってたアニメでも言ってたから。軽々と北島さんはリュックを担ぐが、重くないのだろうか。

 ゴールデンジムの中に入り、受付で必要な手続きを済ませる。終わると会員カードが手渡された。ゴールデンの名にふさわしい黄色の背景に金文字でジムの名前が刻まれている。

「山ちゃんも、これでゴールデンジムの会員だね。いやー、嬉しいよ! 筋友だね、筋友」

 聞き慣れない言葉だが、恐らく筋肉友達の略称だろう。苦笑しながら「うん」と答える。そんなに筋肉に興味がないからな。

 北島さんの後ろに付いていってトレーニングルームまで案内される。場所は昨日のところ。そこには、昨日に見た会員の方だけでなく、明らかにボディビルダーの方もトレーニングされていた。デカい。同じ女性とは思えないほどだ。足も私の三倍以上ある。腕も、胸も、肩もそこら辺の男子よりある。それなのにウエストはくびれて、綺麗な身体つきをしていた。

 まるで格闘ゲームに出てくるキャラみたいだと思って、傍観していると、きんにさんが近づいてくる。今日は黒のタンクトップか。そして、爽やかな笑顔で話しかけてきた。

「山本さん、昨日はありがとうございマッスル! 今日から本格的に僕が指導しますので、よろしくお願いしマッスルパワー!」

 もう熱い。なんだろう。アニメなら彼の後ろから炎が出ている感じだろうか。話を聞いていると、今日は北島さんと一緒に行うみたいだ。

 二人共、事務服なので着替えにロッカールームまで行く。スパのように番号の書かれたロッカーに鍵が刺さっている。この鍵を腕に巻くタイプだ。よし、着替えようと思うが、北島さんがいると恥ずかしく思う。いや、同性なのに、何を恥ずかしがることがある。そう思っていると、北島さんが事務服のズボンを脱いだ。一瞬、ドキンと心臓が鳴る。そこに表れたのは素肌ではなく、ピンク色のスパッツだった。なるほど。最初から下着を晒さないように事前に履いていたのか。もしかして、スパッツってその為のもの?

 北島さんの着替えを眺めていると、どうも私の気持ちを察したらしく、笑ってから部屋を出て行った。生憎、室内は誰もいない。直ぐに着替えよう。

 スポーツウェアに着替えたが、なかなか恥ずかしい。黒いスポーツブラと黒のショートパンツ。額の汗を吸わせる為に、赤いバンダナを巻いて気合を入れる。靴はバレー部で使っていたスニーカーを履いた。

 更衣室を出て、北島さんと合流する。事務服姿しか見たことないからか、目を丸くしていた。似合わないか。

「似合ってるじゃん!」

 逆だった。似合うのか。何だか自分の思ったことと逆のことばかり起きている。素直に今は喜ぼう。

「ありがとうございます」

「山ちゃん、かたい、かたーい。今は仕事中じゃないんだから。もうあたし達、友達だよ。だから、ね」

「北島さん……。うん、そうだね」

 常体で話すと北島さんは「おおっ」と驚きを隠せないでいた。そんなに珍しいのか。

「うーん。クールビューティ―というか、アニメでいうミステリアスキャラみたいな、冷静さのあるカッコいいキャラのようで、うん。いいね、いいね!」

「そんなに? なんだか、恥ずかしいな」

「凄く新鮮な感じだよ。山ちゃんは、こっちの口調が似合うよ」

 こんなにわちゃわちゃできて、とても幸せだ。懐かしいよ。童心に戻ったみたいだ。いや、子供じゃないけれど、学生気分だな。ふふっ、とても心が生き生きしている。気が早いかもしれないが、北島さんと出会えてよかった。楽しい。

 談笑しながらトレーニングルーム行く。彼も私の姿を見て。

「おっ、気合入ってるね! いいね」

 皆からいいねと言われて恥ずかしさに俯いてしまう。隣から北島さんの笑う声が聞こえる。すると、唐突に手を叩く音がして、さあ始めようと言うきんにさんの声で私は顔を上げた。

本格的に筋トレの指導が始まる。まずはストレッチから始めましょうとなった。きんにさんが説明を始める。

「最初はストレッチから始めます。ストレッチには動的と静的の二種類があります。筋トレには動的ストレッチがおススメです。このストレッチを行う理由は、ずばり怪我予防です。僕たちのようなビルダーは特にストレッチが大事で、ストレッチをしないでハードな筋トレをすると、身体が柔軟していないので怪我をしやすくやります。なので、怪我防止の為にストレッチしまーす!」

 この真面目なテンションから意味の分からないテンションになるのが、面白い。きんにさんの動きを真似して身体を捻る。

「捻った時に息をふーっと吐いてください。そうすると、身体がより捻りやすくなります」

 最初はボキボキと言っていた背中の骨も、今では竹がしなるように反れた。普段、使わない背中の筋肉に意識が働く。ああ、背中にもこんなに筋肉はあったのだなと気付いた。

 他にもラジオ体操に近い動きでストレッチを幾つかする。そして、身体も筋肉も温かくなったところで、筋トレが始まった。

「山本さんは最初、ダンベルと自重トレでいこうと思います。山本さんの身体を拝見すると、筋肉量が一般的な女性と比べて、かなり少ないと見受けました。なので筋肉量を増やして、見栄えも良くしたいと思います」

 なるほど。今日から私の身体が変わるのか。そういうのをボディメイクと聞く。ムキムキまでとはいかないが、北島さんのようなメリハリのある身体にはなりたいからね。

 最初のトレーニングは腕から始まった。昨日と同じくダンベルから始まる。

「では昨日より二キロ重い五キロで一〇回いきましょう」

 五キロ。これは重い。一〇回もできるだろうか。最初の一〇回目はできた。しかし。

「では、後二セット頑張りましょう!」

 ということは、あと二〇回しないといけないのか。というわけで二セット目。五回目から腕が疲れ始めてきた。そして、痛い。

「ぐうう、きっ、つい」

「山本さん、パワー! はっ!」

 九回目あたりから叫んでいた。途中で「できる!」「諦めない!」と辛くなったら言えと、きんにさんから言われ、今も声に出している。これが効果てきめんだった。声に出していると、脳からアドレナリンが出ているのだろう。苦しみが緩和され、二セット目を乗り越えた。

 三セット目を迎えると、腕が震え始める。北島さんやきんにさんにとっては、大した重さではないかもしれない。でも、私にとっては苦行だ。筋肉に痛みが走る。額から汗をかいているであろう、そのくらい身体が熱い。よく樺沢先生の動画で、自分の世界に意識が入ることをゾーンというらしいが、それを初めて体感した。途中で筋肉の痛みもダンベルの重さも何も感じない一瞬がある。それがゾーンだと悟った。

 最後の伸展を行ってダンベルを元の位置に戻す。すると、今まで感じたことのない爽快感が身体を駆け巡った。凄く気持ちがいい。心が軽くなったようだ。恐らくストレスが発散したのもあるだろうけれど、集中して筋トレしていたからか、嫌なことを忘れられた。その行っている間だけでも、ネガティブなことは考えていない。山澤部長や父のことも、先行き見えぬ不安も何も頭の中にはなくて、あるのは「やりきってやる!」というポジティブな思考だけだ。今まで、こんな瞬間になることはなかった。息せき切っていると、きんにさんに話かけられる。

「山本さん、どうですか? 筋トレが終わった瞬間、気持ちよくないですか?」

「はっ、はい。はあ、なんだか爽快感が、駆け巡っていますね」

「そうなんです。今、山本さんの脳内で報酬ホルモンが出ているんです。幸福ホルモンと言われるセロトニン。ポジティブ思考になれる幸福物質のドーパミン。そしてランナーズハイのように気分が向上するエンドルフィン。これらが今、頭の中で出ているんですよ」

 なるほど。樺沢先生の動画で言っていたことは本当だったのか。筋肉が熱く痛い。これが気持ちよくなるだなんて、やってみるまでは信じられなかったから。呼吸を整えながら北島さんを窺う。やはり余裕の表情だった。肩で息をしている自分が、なんだか情けない。そう思っていると、北島さんが声をかけてくれた。

「山ちゃん、大丈夫? 少し休む?」

ここで「うん」と肯じてしまえば、私はくそ雑魚メンタルですと言っているようなもんだ。それは悔しい。彼女の問いかけに首を横に振って。

「いや、大丈夫。頑張りたい」

 せっかくやる気になっているんだ。もう少し頑張ってみよう。きんにさんに視線を向けると、彼は爽やかな顔をして話し始めた。

「山本さん、エクセレント! 多分、筋トレ初心者だから、あの三セットは、きつかったはずなんですよ。でも、今こうして頑張ろうとしている姿勢が大切なんですよ。筋トレは限界だー、と思ったところからが本当の勝負なんです」

 きんにさんの筋肉愛に火が付いたのか、そこから流暢に語り始める。いや、語るのは後からでも。せっかく、やる気になっているのに。ああ、今は勢いのままに筋トレしたいのですが。

「筋トレは筋肉を大きくするのが目的なので、その大きくすることを筋肥大と言います。その筋肥大をするには筋肉にストレスを与えてから栄養を与えることで大きくなるんです。ざっくりいうとですよ。それで、さっきのように上腕二頭筋にストレスを与えるのですが、ここで人間には限界が訪れるんですよね。それが心理的限界と生理的限界というものです。例えばさっきのダンベルを三セット目でやっていた際に、もう無理だ。できない。と思ったんじゃないかと。その、もう無理というのが心理的限界です。

 次の生理的限界というのが、所謂、身体の限界です。さっきの心理的限界を超えないと、この生理的限界まで達しないです。そして、この生理的限界を超えると怪我をするので危険なんです。なので筋肥大を目指す場合は、この心理的限界を超えて、生理的限界を超えない、中間を目指してトレーニングする。これが筋トレを行う上で大事な点なんです。あっ、なんでストレッチパワー」

 大事な説明のままで終わればいいのに、なんで無理して笑いを取ろうとするのか。次いで、その両腕を天に伸ばす背伸びのようなストレッチに意味があるのだろうか。そう思っていると、北島さんが突然、大爆笑した。

「あははは! きんにさん、ストレッチパワーって。ウケる!」

 いや、ウケんだろう。全然、笑えない。なんなんだ、ストレッチパワーって。ここに溜まってきただろうとでも言うのかと思ったぞ。いや、そう言った方が面白かったのに。もったいない。

 きんにさんを見る私の視線が訝しげだったのか、分からないが北島さんと目が合うと、彼女はにこっと笑ってから口を開く。

「きんにさんはyoutuberでもあるんですよ」

 なんで北島さん、敬語にしたのだろう。と思うくらいに私には、どうでもいい情報だった。ああそうですか。と心の中で呟いてから。

「そうだったんですか! 凄いですね」

「いやー、登録者数は三〇人ですが、好評でして」

 自分で好評と言うな。それに三〇人ですって、そんな胸を張って言えることじゃないだろうに。ダメだ。彼はポジティブすぎる。ある意味、自分に過信なだけではないだろうか。ああ、いかん。今は筋トレに専念しよう。


 それから、きんにさんの筋トレ指導に私は耐えた。ダンベルカールの次はアームカールという、これもダンベルを使った筋トレだ。上腕二頭筋の短頭か長頭か、そこを鍛える内容だという。それを一〇回、三セット。因みに一〇回を筋トレでは一〇レップスという。つまり三〇レップス行った。その後に腕立て伏せを一〇レップス三セット。この腕立て伏せはプッシュアップという胸のトレーニングだそうだ。ヨガマットの上で、初心者の私は両膝を地面につけて行った。正直、三回目で崩れそうになったが、きんにさんがサポートに入る。胸を地面ギリギリまで伏せてから、身体を上げる際に、きんにさんが肩を下から上に押し出してくれた。それの繰り返しで、なんとか三セット終えたが、もう腕に力が残っていない。マットの上に腹這いとなって、ダウンする。

心臓が早鐘を打ち、意識も遠のきそうになるが、人間とは不思議なものだ。それが最高だと思える。ランナーズハイに近いもので、この状態が気持ちいい。最高です。生きている。そう心から思える幸せを噛みしめていた。

五分ほど休憩してから、背中のトレーニングに入る。これもマットの上で行うのだが、想像以上にきつかった。腹這いの状態でスポーツタオルを、まず両腕に持ったまま前に突き出す。タオルを持ったまま万歳の状態でいるのだが、そこからタオルを胸元まで引き寄せる。その引き寄せる時に状態を反らして、再び前に両腕を突き出す。この動作を一〇レップス、三セットやる。普段から背中の筋肉なんて使っていないから、途中で左側の筋肉が攣った。痛かったが、やり通した。きんにさんの「あと三回!」「自分に負けないで」と送る声援に背中を押されたのだ。実際は背中を押されず、死に物狂いで腕を伸ばしていたのだが。きんにさんも一緒にトレーニングをしてくれたので、苦しいのは私だけじゃない。北島さんも、きんにさんも一緒だという、この一人じゃない感じが嬉しい。妙な仲間意識が芽生えるのだと悟った。

上半身、疲労が溜まりまくっている。きんにさん曰く、乳酸が筋肉に蓄積されているそうだ。この乳酸というのは疲労物質らしく、この疲労を回復させる際に、筋肉が大きくなるとのこと。この回復させるのも筋肥大には大事なのだという。

「よし、それじゃあ筋トレ後のストレッチをしましょう」

 きんにさんがストレッチの見本を見せてくれる。

「筋トレの後はストレッチが大事です。ストレッチには動的ストレッチと静的ストレッチがあり、筋トレの前は動的ストレッチをします。これはラジオ体操が動的ストレッチになりますね。そして、今から行う性的、あっ、静的ストレッチというのは」

 なんで言い直したと思ったが、そういうことか。きんにさんも男だな。まあ九割の世の男はエロいと聞くが、あながちそれも間違いではないだろう。現に女性もエロい女はエロいというし。うん、私もそうだしな。どうも自分は、筋肉フェチなのだと気づいた。きんにさんの太ももの太さや腕の太さが、セクシーだ。北島さんの体つきもエロい。触りたい衝動が身体を巡る。ああ、何を言っているんだ私は。欲求不満すぎるだろ。二十四年も処女だと、こうも悶々としてしまうのか。

「山ちゃん、どうしたの。なんだかモジモジしてるけど。トイレ?」

「あっ、いや! 大丈夫」

 本当のこと言えない。まさか二人の筋肉を見て少しばかり発情しておりました。だなんて。きんにさんは変わらない爽やかさのまま、説明を続けた。

「それで、筋トレ後のストレッチで大事なのは、筋肉をゆーっくり伸ばすことなんです。筋肉は硬いイメージがあると思いますが、実際は柔らかいです。もし触ってみて硬い場合は、それはむくんでいる可能性があります。結構、ストレッチをしないと怪我に繋がる恐れがあるので、必ずと言っていいほど筋トレ後にはストレッチしましょう」

 きんにさんの真似をして先ずはマットの上で四つん這いになる。両腕を前に伸ばして背中の筋肉をストレッチさせた。その状態を一〇秒ほどキープする。おお、これは猫が昼寝から目覚めて伸びをするポーズだな。でも、確かに背中が伸びている体感が凄い。ストレッチされていると強く感じる。その後、状態を起こして膝立ちとなった。左手で右ひじを掴んで、上体を左に傾ける。こうすると右脇の筋肉が伸びた。これも一〇秒キープ。あんまり強く引っ張ると脇が攣りそうになる。それだけ疲労しているのだろう。終われば反対側を行う。それにしても、きんにさんも北島さんも楽しそうにストレッチをしている。私自信、今になってもっと早くから筋トレと出会っていればと思ってしまう。いや、バレー部の時から筋トレはしていたが。もしかすると、私はバレーよりも筋トレの方が好きかもしれない。

 ストレッチが終わり、きんにさんは立ち上がって額の汗を拭う。北島さんもタオルで汗を拭いていた。もちろん、私も汗まみれだ。マットの近くに置いてあるタオルを、うわっ、目に入った。久々の運動で、滝のように汗が出ている。両頬やこめかみを伝って顎先から落ちているのを感じた。

 目を開けてタオルを手にして、眼鏡をはずす。片手で顔や額を拭いてから眼鏡をかけた。うーん、なかなか面倒くさい。コンタクトに変えようかな。

 きんにさんは腰に手を当てて、にっと笑っていた。

「二人とも今日はお疲れさまでした。今日は、ゆっくり休んでください。山本さん、今日はよく頑張りました! 初めてにしては良いですよ」

「えっ、ありがとうございます。その、何が良いのか分からないのですが」

 突然、褒められて狼狽えてしまう。すると、北島さんが「それはね」ときんにさんの代わりに答え始める。

「山ちゃんのフォームが綺麗だってことだよ。ねっ、きんにさん」

「フォーム?」

「イエス! 筋肉に刺激を与える為に筋トレをするのですが、例えばダンベルカールも動作がおろそかだと、しっかり筋肉に刺激が与えられないんです。でも、さっきの山本さんのダンベルカールも、しっかり筋肉を最大に伸ばして、最大に収縮させていました」

 なるほど。筋トレにも、そうした効かせ方があるのか。

「えっと、きんにさん。つまり、筋トレで大事なのは伸展させる範囲をしっかりと広げて筋トレを行う。ということですかね」

「まさにエクセレント! 例えばダンベルを持って伸ばして縮めてって動作も、動線が短いとあんまり刺激が入らないんです。なので、刺激を入れるにはしっかり最大に伸ばす。最大に縮める。これのフォームが山本さんは特に綺麗でした。今から楽しみですね」

 私としてはダンベルを落とさないように、必死だっただけなのだが、それでも褒められて嬉しい。認められるというのは、こうも気持ちが良いものなのだな。

 きんにさんに頭を下げて礼を伝えると、北島さんにプロテインを飲もうと誘われた。なんでも、ゴールデンジムの中にはプロテインバーという、お酒の代わりのバーがあるのだという。そんな。だったらリュックの中にプロテインなんかもってこなかったのに。プロテインバーまで案内してもらっている間、北島さんにプロテインを持参したことを伝えると。

「持ってきてたの? だから、あんなにリュックパンパンだったんだ。うける。あはは」

 爆笑された。なんか馬鹿にされたみたいで少しムッとしたが、それでも、友達と話せることの嬉しさが勝る。

「山ちゃん、怒ってるの? でも、ハムスターみたいに頬を膨らませた人、初めて見た。あはは!」

 なんてことだ。無意識の内にそんなことをしていたのか。無意識と言うのは怖いな。もし、また筋トレ中に再度、発情したら? いや、いくらなんでも無意識に付け根なんか触らんさ。多分。自信ないけど。

 学生に戻った感覚のまま談笑していると、そのプロテインバーに到着した。バーと言っても本当のバーみたいな店舗があるわけではなく、イオンモールのイートインコーナーを彷彿とさせる店舗が設立している。店先には白い丸テーブルと椅子が四脚ほどあった。プロテインバーと書かれた木製の吊り看板の下に、プロテインが何種類も陳列している。どうもプロテインの販売もしているらしい。さらにプロテインのお菓子や、高タンパク質の弁当まで売られていた。食事にも力を入れている。

「うわっ、すごいな」

「でしょう? プロテインの種類は豊富だから。ざっと二〇種類くらいあるのかな? ちなみにウチの会社のプロテインも置いてあるよ」

「へえ、それはすごい」

 机上にメニューがあり、手に取って観察していると、確かにバルクス社のブランド名が書かれていた。さらに、あれこれとプロテインをシェイクしてカクテルのように提供してくれるとのこと。

「そこまでするんだ。へえ。それなら、このバルクススペシャル

を飲んでみようかな」

「ああ、いいね! それ美味しいよ。チョコとストロベリー、それとオレオクッキーも入っていて、めっちゃ上手かったから」

 北島さんのお墨付きなら、それを頂こう。

「ちなみに、そのオレオクッキーも脂質が少なく、高タンパク質だから、減量にもいいよ」

「そうなんだ。北島さん、詳しいね」

 えっへん、と言わんばかりに胸を張って、彼女は答えた。

「なんせ、あたしがきんにさんに、商品を置いてもらえないか商談したんだからね」

「ええ! じゃあ、北島さんがジムに通う前は、なかったんだ」

「そうそう。バルクスのプロテインはタンパク質の含有量が九〇パーセントなんだよって、きんにさんに伝えたらさ。目の色変えて、置こう。て即答で言われて。それで採用になったんだよね。ただ、きんにさんのようなプロの方が認めてくれたから、なんか嬉しいね」

 なるほどなー。北島さん、まさかきんにさんに営業をしていたとは。彼女は、やはり侮れないな。

 北島さんもバルクススペシャルを飲むらしく、バーにいるお姉さんに二杯頼んだ。出来上がるまでの間、カウンターの前で作る工程を眺める。材料をミキサーに入れてかき混ぜているだけだったので、意外と簡単にできそうだ。私でも作れると思う。

 ミキサーの蓋を開けてグラスに並々と注ぐ様を眺める。色は茶色でゴロゴロとしたクッキーが見えた。銀のスプーンが突き刺された状態でお姉さんがカウンター越しから手渡ししてくれる。それを受け取った。うん、匂いは良い。

「今日は山ちゃんの筋トレデビューを祝って、あたしが出すよ」

「北島さん……。えへっ、ありがとう」

 つい、自分らしくない笑顔を浮かべてしまった。口元が、にやついてしまう。

「あっ! 山ちゃんがデレた」

「いや、これはそうではなくて」

「あはは。良いもの見れた。じゃあ、乾杯!」

 そんなに良い笑顔でもないだろうと思いつつも、グラスを軽くぶつけた。そして、スプーンですくって一口。うん!

「美味しい。プロテインって、こんなに美味しいんだ」

 北島さんも美味しそうに笑みを零していた。

「でしょう! ホントにこれ美味いのよ」

「これならいくらでも食べれそう」

「あっ、でも山ちゃん。プロテインは一応、脂質や糖質も含んでいるから、摂りすぎは注意。いくらタンパク質の補給だって言って、ばかすか飲んでたら逆に太るからね」

 そうなのか。プロテインはドリンクだから、そんなに太らないだろうと思っていたのだが、飲みすぎは良くないのか。覚えておこう。とはいえ、これは美味いから、つい食べ過ぎちゃいそうだな。


 汗まみれの身体なので、リュックを持って更衣室まで戻る。ドアを開けて更衣室に入ると、これまた誰もいない。

北島さん曰く、この更衣室内にシャワールームがあるらしい。あんまり室内を見ていなかったので分からなかった。確かに更衣室のドアを開けて突き当りまで行くと、五つ扉が並んでいる。ドアの真ん中に一から五の番号が刻まれていて、その先が個室シャワー室らしい。流石に、この部屋で全裸になるのは恥ずかしいので、着替えや衣服を脱ぐのはシャワー室に入ってからだ。うん、ここで脱いだら変態だよ。

「じゃあ、山ちゃん。あたしこっちで浴びてくるから」

 そう言って北島さんは一と書かれたドアまで向かう。私は、その隣の二に行こうか。

 部屋に入り施錠を行う。入口右横手に洗面所があり、その下にカゴがある。どうやらここに衣類を入れるらしい。着替えは、洗面所の脇に置いておくか。

 蛇口を捻り温かい雨を全身に浴びる。湯気が室内に籠り、汗で冷えていた身体を温めてくれた。すっごく気持ちいい。運動後のシャワーがこんなに気持ちいいとは、改めて感動する。今まで、あの汚い浴室で湯加減の調整が、難しいシャワーを浴びていたせいだろう。有難いことに、ボディソープやシャンプーまで用意されていた。流石ゴールデンジム。至れり尽くせりだ。

 ああ、幸せ。筋トレに出会えてよかった。そう思いながら頭をシャンプーで洗う。その時に無意識で考えが浮かぶ。あの少女のことだ。やっぱり気になる。うーん、さらっと北島さんに聞いてみようかな。一〇年前、県立体育館で会わなかったって。筋トレ友達だから、このくらい別に大丈夫だろう。聞いたって。


 この日は聞くことが出来なかった。ゴールデンジムを出てから北島さんに「環水公園内にさ。ラ・ロカンダってイタリア料理屋さんがあって。そこに行こう?」と誘われてホイホイ行ってしまう。室内は高級感溢れる内装だった。白い壁にキャンドルが灯されていて、山小屋のような雰囲気もある。白いテーブルクロスの敷かれた机に座るだけでも、異世界に来たような感覚であった。こんな高級店、人生で初めて入ったのだから。そして、メニューを開いて、価格体に度肝を抜かれた。ピザ一枚三四〇〇円。一番安いピザでも一五〇〇円。ひええ、私の給料では痛い値段だ。北島さんはSVだから、お金持ってるんだもんな。だから、あんなアパートに暮らせるんだろうけれど。

「山ちゃんの筋トレデビューだから、好きなの頼んでいいよ!」

「いや、でも。さっきプロテインごちそうになりましたし」

「ああ、いいの。気にしないで。一杯三〇〇円くらいだから、大したことないよ。さあさ、筋肉つけたけりゃ食べること。食べるのもトレーニングの一つだから」

 なんだか、きんにさんみたいなことを言うな。と思いながら、二〇〇〇円くらいのナポリピザを頼んだ。その後は料理が来るまで北島さんの仕事の愚痴や筋肉の話を沢山聞いた。だから、自分の話は、あんまりしていない。いや、全くと言っていいかも。

 ウエーターがテーブルまで近づいて「お待たせしました」と注文したピザを置く。実物を見て、さらに驚愕する。大きさはドミノピザのLサイズを超えるほどの大きさだった。表面のチーズがパチパチと踊り、香ばしい匂いも脳を焼くように刺激してくる。これはやばい。高級ピザだ。デリバリーのピザとは違うリッチさが漂っている。

「うーん、美味しそう! 山ちゃん、食べよう」

「うっ、うん」

 本当に私みたいな貧乏人が食べていいのだろうか? 罪悪感が湧いてくる。北島さんはナイフとフォークを使って、ピザをカットしてくれた。脇に置かれた白い皿に乗せてくれる。ああ、皿からはみ出す姿が、たまらない。北島さん、いただきます。

口に入れた時、かなり料理が美味しくて、泣きそうになった。普段はコンビニ飯かカップラーメンばかりの不摂生な食事なので、この味とチーズの触感や風味は二度と味わえないだろう。最高だった。

 退店してから彼女の家まで送り、帰宅して歯を磨き、ベッドに横たわる。かなり身体が疲れている状態で、いつもより眠い。ダメだ。部屋を暗くして目をつぶる。直ぐに意識が遠くなった。最後にスマホを見た時の時刻は二十二時頃。こんな時間帯に眠るのは久方だ。中学時代ぶり……。


 自然と目が覚めてしまった。カーテンの隙間からは光が差し込んでいない。となると、まだ夜明け前か。そう思って上体を起こそうと腕をマットレスにつけた。その時。

「いった!」

 二の腕に痛みが生じて、そのまま飛び起きる。

「いたたた」

 背中も痛い。間違いなく、これは筋肉痛だ。昨日の筋トレの効果が出始めたのだろう。が、こうも痛いと仕事にも私生活にも差し障りがある。背伸びしようにも痛くて伸ばせない。まさか、こんなにも筋肉痛が酷いとは。私の身体は、だいぶ退化していたのか。

「今何時?」

 痛みに耐えながら振り返って眼鏡をとる。耳にかけてから、スマホを手にして画面を見た。

「えっ! まだ六時?」

 昨日より、一時間半も早く目覚める。しかし、眠気は全くない。八時間も寝たからか、筋肉痛はあるも、身体は快調だ。寝起きの時は貧血気味で、頭がボーっとしているのだが、今日は不調を感じない。やっぱり、これも筋トレの効果なのだろうか。

 そういえば、今日は夢を見なかった。ここのところ連日、少女の夢を見ていたのに。確か、以前に樺沢先生の動画で夢を見ると言うことは、睡眠の質が悪いという証拠だと聞いたことがある。そうなれば質の良い睡眠をとれたということか。

 ひとまずベッドから出よう。足を伸ばして立ち上がる。上半身は思うように動かせないが、下半身には痛みがないので、すんなり歩ける。洗面所で洗顔して、それからキッチンに立つ。うん、久々に目玉焼きとウインナーでも焼くか。まだ、冷蔵庫の中にあるはず。そして、コーヒーも淹れよう。朝食作り。やっぱり気分が良くなる。

 朝食を済ませて、朝のニュースを漫然と眺めていた。ネスカフェのインスタントコーヒーを啜る。ああ、すっごく優雅。今日も仕事、頑張れそう。

 今日の特集としてフィットネスの内容が放映されていた。このご時世、家の中で筋トレやヨガ、エクササイズをしている人が多いらしい。家での筋トレか。ダンベル買おうかな。確かに自宅でも筋トレしたら、ストレス発散にもなるだろうし、身体も変われそう。流石に、きんにさんみたいなゴリゴリマッチョは目指していないけれど、北島さんみたいなスレンダーボディにはなりたい。今日の帰りに、またドンキ行こう。

 昨日は流石に疲れすぎて、事務服を机の上に固めて置いた。前みたいに床に放ることは、もうしたくない。探すのも面倒くさいし、時間もかかる。

かなり内面も良い方向に変わってきている気がするな。良いことだ。さて、着替えも終えたので出社しよう。

 車で国道を走っていると、振動が背中や腰にくる。いっそのこと休んでしまおうかとも思ったが、生活がかかっているので、休むわけにもいかない。それに、筋肉痛で休むのも、なんか悔しいし。

 会社に到着。広報部に続く階段を上るが、めちゃくちゃしんどい。手すりに掴まる腕も、伸ばす背中も、上半身が痛む。でも、不思議なのは胸のトレーニングをしたのに、そこは痛くない。なんでだろう。どうせなら胸も痛くなってほしいのに。ちょっとでも、私も大きくなりたいのに。もう。

 オフィスに入ると北島さんがいた。他の社員は、まだ来ていない様子だ。近くの掛け時計に目を向けると、時刻は七時。この時間帯は、まだ皆、出社していないのだと初めて知った。北島さんだげが早々と会社に来て、そして、既に仕事の前準備をしている。流石。出来る女は違う。

「北島さん、おはようございます」

 挨拶すると彼女は顔を上げて、にっこりと微笑んだ。

「おおっ、山ちゃん。おはよう」

「はい。おはよ……。いったた」

 頭を下げようと前に屈んだ瞬間、背中に痛みが。

「山ちゃん、大丈夫? 筋肉痛?」

 顔に出ていたらしい。大丈夫と答えると、北島さんが苦笑いで心配してくれた。

「私も最初は痛くて大変だったけど、まあ、慣れよ。慣れ。段々、その筋肉痛にも慣れてくるけれど、今度は鍛えすぎるとあんまり筋肉痛にならなくなるのよ。身体が慣れるからねー。それって、まあ、進化もしていないってことだから、寂しいことでもあるけどね。だから、今はその筋肉痛を楽しむことだね」

 なるほど。次第に痛みが生じなくなるのか。とはいえ、これだけ痛い日々が続くのはキツイ。私はマゾでもなんでもないし。

 自分の机に戻り、パソコンを立ち上げる。フォルダ内に岡田先輩が作ってくれたネットショップの業務マニュアルがあるので、それに目を通す。もうメルマガは配信したから、今日はセールの特集ページ作りになるのかな。それならau marketのアプリを立ち上げてセールで売るアイテムの特集ページを作らないと。そうだ。昨日の飲んだバルクススペシャルの作り方をページに載せて、それを特集にしよう。それと、今度メルマガ作るときは、筋トレ始めたということで日記みたいなのを書こう。よし、これで仕事の幅が広がるぞ。

 始業前だが、少し自分なりに企画書を作ってみる。岡田先輩にこんな感じでどうですかと提案しようと思って、エクセルでなんとなく作る。商品のリストアップ。価格帯。コンセプト。とりあえず作っていると、後ろから気配がしたと思うと、至近距離で岡田先輩の顔が近づく。

「うわ! 岡田先輩」

「おはよう、山本さん。今日も遅刻せずに偉いですよ。それと、もしかして、これはセールの企画書ですか?」

 岡田先輩に、そうですと伝える。彼は素晴らしい、と私の肩を叩いて褒めてくれた。

「やりますね、山本さん。これだけやる気があれば、何とかなりますよ。サポートしますから、一緒に頑張って売り出しましょう」

 普通に嬉しい。まさか、思い付きで作った企画が、そのまま通るだなんて。不思議と頭が冴えている感じがする。コーヒーを飲んだのもあるかもしれないが、筋トレによるホルモンが影響していると思う。いや、そう信じている。

 アプリを立ち上げて特集ページを作っていると、気付けば広報部の全員が出社していた。もうそろそろで朝礼が始まると思うと、予鈴が鳴る。八時二十五分。始業五分前の予鈴だ。全員が席を立ち、ホワイトボードの前に横一列に並ぶ。私は北島さんの隣に立った。そういえば、広報部に異動してから初めて朝礼を受ける。

ボードの近くにある扉が開き、スーツを着た男女が入室してくる。山澤部長と、誰だ? あの女の人は。艶のある黒髪で、私から見て左の前髪が目元を隠している。なんか、ちょっとカッコイイ。オフィスレディ感というか、クールな感じ。何かしらの役職の人なんだと思う。

そんな彼女の隣に山澤部長が立ち、一礼してきた。こちらも頭を下げる。すると、北島さんが私に小声で。

「山ちゃん、まだ頭下げなくていいよ」

そうだったのか。少し恥ずかしい。どこに視線を向ければいいのか目が泳いでしまう。すると、つい山澤部長の顔が目に入る。彼は私を驚きの表情で眺めていた。いや、そんなに驚かなくても。

「それでは朝礼を。皆さん、おはようございます」

彼女が挨拶をすると、全員が「おはようございます」と声を揃えて頭を下げた。なるほど。このタイミングか。

「五月のセールに向けて……」

 おや、私の目を見ている。何か悪いことをしたわけではないが、心臓が鷲掴みされたような、嫌な感覚を覚えた。緊張する。同じく山澤部長も決まりの悪い顔をしていた。

「あなたは、配属されてきた山本さんですね」

「はっ、はい!」

「はじめまして。広報部長の鈴木です。多忙で席を外していることが多いから、あんまり顔を合わせることはないかもしれないけれど、どうかよろしく」

 童顔ではあるものの、彼女から放たれ美しさに気圧され、無言のまま頭を下げてしまう。薄く笑う声が頭上から聞こえてきて、頭を上げる。そのまま朝礼の話へと流れた。これが不思議と、内容が頭に入ってくる。五月中旬は商品セールの宣伝を行い、ネット販売に力をいれること。そして、月間ボディビルディングや他の雑誌に商品の掲載確約の営業を行うこと。そうした内容だった。多分、前の私なら右から左に話が流れていたと思う。

 朝礼が終わり、岡田先輩の指示を受けて五月セールの特集ページを作成する。先輩のチェックが入るも、殆ど手直しすることなく、私の好きなように作ることができた。進捗としては四割できている。ページレイアウトから商品の画像の添付まで、あとは価格帯の入力とセール開催告知のメルマガ作成となった。かなり良い具合に事が進んでいる。

 お昼の予鈴が鳴り、私は机回りを片付けてから裏庭に向かう。ああ、しまった。せっかく早起きしたんだから、弁当くらい作ってこればよかったのに。何をしているんだろう、私は。明日は作ろう。結局、またセブンイレブンの自販機でサンドイッチとコーヒーを購入する。自己嫌悪感に苛まれるが、仕方ない。そうだ。次いでに北島さんの分も作ろうかな。彼女には沢山お世話になっている。その恩は返さないとね。

 いつものベンチに座って、食後にキャッチボールをする男性社員を眺めていた。その時、背後から肩を叩かれ、振り返る。見上げると北島さんが「やっほー」と手を上げて、隣に座った。

「あっ、お疲れ様です。どうぞ」

「サンキュー」

 一応、彼女は上司なので丁寧に空いたスペースを差し伸べる。そこまでしなくていいよ、と軽く笑われた。

「山ちゃんさ。良い意味でだけど。どうしちゃったの?」

「えっ? 何がですか」

 多分、今までの私の勤務態度についてなのだろうと直感したが、念の為に尋ねておく。

「いやいや。分かってるくせにー。無遅刻だしセールの企画書も作ってたし。仕事に精が出ているなーって」

 うーん。筋友とは言え、上司だから褒められた場合、お礼を伝えるのが良いのかな。人付き合いの少ない身上なので、こういうときどうしたらいいのか分からない。ひとまず。

「北島さん、ありがとうございます。恐れ入ります」

「だから固いっての。それに、友達なのに北島さんって、なんか距離感があるというか」

 なるほど。このくらいが程よい距離感だと思っていたが、北島さんから見れば違うらしい。そうか。もっと距離を縮めてもいいんだ。

「確かに、そうですね。えっと、北島さんの下の名前って?」

「巽だよ。なんか男っぽい名前でしょう? だから、幼少期は男の子に間違えられたんだ。髪の毛も短髪だったし」

 北島さん、たつみと言うのか。サバサバした性格だから、名前に合っていると思う。

「そうなんですか。かっこいい名前だと思いますよ。因みに私は佳奈です」

 名前を伝えると北島さんは顔を晴れやかにして話す。

「そうだった! 佳奈って言うんだったよね。うん、良い名前だね。よし! じゃあ、山ちゃんからヨッシーって言おうかな」

 ヨッシーか。中学時代のあだ名、再来だな。それに、ヨッシーって、ゲームのキャラじゃないか。私は卵を投げつけたり、舌を伸ばしたりしないぞ。

「あっ、でもヨッシーだと女の子らしくないな。やっぱり山ちゃんにしよう」

「あはは。では、私は、巽さんで……」

「巽さん、か。なんか下の名前で呼ぶのって恋人みたいなイメ―ジ」

 ヤバい、地雷踏んだか。もしかして、巽さんって言うのは、昔の恋人に呼ばれていた呼称だったのかも。

「ああ、すみません」

「ううん。むしろ、巽で良いよ。そのっ、あたしさ。堅苦しい感じなの苦手でさ。むず痒くなるんだよね。だから、気軽に絡んでくれた方が嬉しいんだ」

 そうだったのか。何だか、そこまで私に心を開いてくれているのかと思うと、こちらまで嬉しい。筋トレは、こうした絆まで作ってくれるのか。本当に感謝だな。

「そう、なんだ。分かったよ、巽さん」

「あっ……」

「うん?」

 巽さん、どうしたんだろう。俯いて。

「そうだ! ねえ、山ちゃん。今日、仕事終わったら、予定何かある?」

 顔を上げた彼女に突然、予定を尋ねられた。

「えっ? 特に、ないよ」

「よし! じゃあ仕事終わったらイオンに行こう。山ちゃん、イメチェンしようよ。イメチェン。絶対、良くなるから」

 ええっ! イメチェン? 私なんかが、何をどう良くなるのか想像が付かない。

「いや、私なんて……」

「大丈夫! 絶対、良くなるから。あたしに任せて」

 巽さん、めっちゃ乗り気だ。彼女には恩があるし、断るのもなんだかな。まあ、良い機会だと思って。

「わっ、わかったよ。それじゃあ、仕事終わりに」

「うん! じゃあ決まりね。絶対にイメージ変わるから」

 ちょっと不安だ。どうなるんだろう。この眼鏡姿や、おかっぱに近い髪形をずっと変えていないから、それ意外の姿が浮かばない。いや、イメチェンと言っても、服装を変えるドレスアップくらいだろう。そうだ。そこまで気張る必要性もないはず。

「じゃあ、決まりね。楽しみー」

 巽さんの目が笑っているが、多分、私は不安な顔をしているだろう。若干、自分の頬が引きつっているのを感じる。ともかく、今日の仕事終わりには巽さんとイオンに行く。そういえば、他の人とイオンに行くのも何年ぶりだろう。何もかもが中学ぶりだ。


 仕事が終わり、巽さんと会社を出た。車に彼女を乗せて、イオンに向かう。走っている間、巽さんと雑談をするが、殆どが筋トレについてだ。どうも彼女もyoutubeは見ているらしく、筋トレ系youtuberを見ているとのこと。ただ、私は見ていないので、よく分からなかった。聞き役に徹するばかり。巽さんともっと親睦は深めたいけれど、他に趣味はあるのだろうか。少し探そう。

「巽さんは、他に趣味はある?」

 最初は敬語で話がちだったけれど、今は普通に話せる。こんなふうにタメで話せる自分がいるのだと思い、ちょっと自分自身が意外だった。巽さんは考える素振りを見せて。

「うん、実はね。イラストを描くのが好きなんだ」

 それは意外だった。陸上をしていた彼女だから、てっきり運動以外の趣味はないものだろうと思い込んでいたのだが。

「そうなんだ。どんなイラストを描くの?」

「えっとね。まあ、ちょっちい恥ずかしいけど、二次創作の漫画とか、立ち絵とか。あとは練習でデッサンとかも」

「へえ。意外だ。巽さんもアニメや漫画、好きなの?」

 質問を投げかけると、彼女の裏返った声が耳に入る。ふふっ、恥ずかしがる巽さんって、なんか新鮮だな。

「べっ、べべつにオタクとか、そんなんじゃ」

「オタクなんだ」

「だああ! 違う、断じて違う!」

 面白い。彼女の違った一面を知れて、楽しく思う。

「いや、いいよ。私は、どっちかと言うとそっち系だから、巽さんもアニメとか好きだと、話し合うかなって」

「本当! じゃあ、ダンベル何キロとか、刃牙とか見てる?」

 まさかとは思ったが、ここでも筋肉系とは思わなかった。内心、ビックリしたが見ていると答える。そこからイオンに到着するまでの間、アニメや漫画の話で盛り上がった。

 話している間にイオンの駐車場に到着。車から降りて入口を抜ける。花金も相まってイオンモール内は多くの人で参集していた。彼女の隣を歩く。ああ、こうして友達と歩くのも久しいな。

「山ちゃん、先ずはカットから行こう」

「うん、えっ? ええっ!」

 マジか! 髪の毛、今から切るの?

「いや、でも予約とかも何もしていないのに」

「大丈夫。あたしの友達が働いている、行きつけのところに行くから」

 大丈夫かよ。とんでもない不安に駆られる。筋トレもしていないのに、額から汗が噴き出してきた。

「ほら、行くよ」

「あっ、ちょっと!」

 突然、彼女に手を取られて、引っ張られる。そのまま速足で目的の美容室まで歩く。こんな無邪気な巽さん、どこか子供ぽくって魅力的だな。一緒にいて楽しいもん。

 イオンモールの二階に辿り着き、連れていかれた場所を確認する。間違いなく、普段は素通りしている店舗だった。こじんまりとしているが、白い煉瓦調の外壁がオシャレで、入り口前のガラスドアにラ・ソラと書かれている。緊張するな。普段は小学生の頃から行っている一〇〇〇円カットのところだから、こんなところに入るのは初めてだ。大丈夫かな。

「じゃあ、入ろう!」

「うっ、うん」

 いざ、意を決して入店する。室内に入ると柑橘系のような、心地よい香りに包まれた。店内に流れている音楽は、今流行りのEDMだ。やっぱり私みたいな陰キャには場違いな気がしてならない。そう思っていると、巽さんがモデル体型の店員さんに話しかけた。軽く挨拶すると、彼女もジムに通っているらしい。そこから、イメチェンの話になり、私はパーマをかけることとなった。

「じゃあ、山ちゃん。二時間後にまた来るね」

「えっ、一人?」

そのまま巽さんは店外に出て、横に反れる。何だか心細い。不安な状態で案内された椅子に座って、鏡の中の自分を見つめる。やはり、イケてないダサい自分だ。眼鏡を外して、ポケットに入れる。そして、白いシートを首に巻かれた。ああ、髪をカットされるんだな。まるで想像がつかない。店員さんに世間話を話しかけられて、何となく話をする。そこからジムの話となり、店員さんもゴールデンジムに通っていると知った。当然、きんにさんのことも知っていて、凄い筋肉だと褒める。やはり筋肉が好きな人は、筋肉の話しかしないんだろうなと思った。

 カットが終了して、眼鏡をかけてから鏡の自分を見ると、かなりさっぱりした印象を受ける。この時点で、もうおかっぱの自分ではない。ショートカットの女性が映る。これから、さらにパーマをかけるのか。もっと印象が変わるだろう。

 パーマをかけている間、店員さんが雑誌を持ってきてくれた。そのどれもがボディビルや筋トレ関係の雑誌だ。表紙には筋骨隆々の化け物みたいな男性が写っている。海外のビルダーらしく、ハンクみたいな筋肉だ。こんなに筋肉がついていたら、服も着られないだろうし、私生活も大変だろう。興味半分で雑誌を手にして、開いてみる。よく見るポージング写真が掲載されていた。次のページは筋肉についての栄養学記事が記載されている。最近では、タンパク質のほかにビタミンDも筋肉の合成に必要な栄養素だと書かれていた。なるほど。タンパク質を摂るだけではダメなんだな。他の人達も、こうして雑誌から情報を吸収しているのだろう。そして、今気づいたが、この雑誌が月刊ボディビルだった。鈴木部長が話していた雑誌だ。これにうちの商品が載っていると聞いたが、最後まで読んだが掲載されていない。新商品が発売された際、載せているのだろうか。

 パーマが終了し、店員さんが機械を取り外す。眼鏡をかけて確認をすると。

「全然違う!」

 もう陰キャの自分ではなかった。鏡の中の少女は可愛らしく、とても垢抜けている。これでコンタクトに変えれば、きっと誰もが私だと気づかないだろう。それだけガラリと見た目が変貌した。

「山本さん、せっかくだからメイクもしますよ。かなりイメチェンしますから、ね?」

「あっ、はい。お願いします」

 久々にメイクしてもらう。これもバレー部の時にノリでしてもらった時以来だな。さて、どうなることやら……。

 メイクも終わり、店内で彼女が来るまでの間、月間ボディビルを読む。すると、二時間が経過したのだろう。カランと扉を開ける鈴の音がして、巽さんが入店した。私と視線が合うと、驚嘆の声と共に目を丸くする。

「うそっ。山ちゃん?」

「うん。一応、眼鏡からコンタクトにしたんだ。似合うかな?」

 問いかけると、巽さんは「もちろんだよ!」と声を上げた。なぜか私以上にテンションが高い。

「可愛いよ、って山ちゃん! 化粧してなかったよね! マジで。びっくり。こんなに人って変わるの?」

 まあ巽さんが驚くのも無理はないか。目尻にはチョークを引いてもらい、アイシャドウ、ファンデーションまで行う。軽く桃色のリップも塗り、だいぶ若返った気がする。いや、もともと若いけどさ。二十四歳だからね。でも、ここまでくれば別人レベルだろう。

 店員さんにお礼を伝えて会計を済ませようとすると、巽さんが「良いもの見せてもらったから全額出す!」と暴走気味に清算をした。無論、私は申し訳ないからと伝えたのだが、気前よく断られる。少しおっさん臭い所も彼女の魅力かもしれない。本当に良い人だ。

 美容院を出てから、巽さんと服を見て周った。普段、服屋になんて入らないから何を見ればいいのか分からない。買うとすればリサイクルショップで古着を買うくらいだ。流行やコーデにも疎いので、ネットでよく見るようなものを、なんとなく選んで着ている程度である。だから、今の自分は事務服だからいいけれど、私服の時に巽さんの前で何を着たらいいんだ。いや、彼女でなくても、きんにさんの前でもそうだし。

 これがいいんじゃないか、あれもいいと、巽さんが色々と選んでくれた。普段、地味な色合いのものしか着ていないから、彼女のチョイスした服は新鮮に映る。赤いワンピースや、対照的な紺のショートパンツと黒白のパーカー。試着室で着替えると、もっと若々しく見えた。

髪型も相まって、自分で言うのもなんだが、凄く女の子っぽい。私って、こんなに女の子だったんだ。とても今、輝いている。眼も顔も雰囲気も、何もかもが以前と比べて明るい。夜の帳の下りた街に光が差したかのようだ。赤く染まる頬を押さえる。

「うーん。山ちゃん、可愛い。何だか、あたし……」

「えっ?」

「うん? いやっ、何でもないよ。すっごく似合ってる!」

 なんだか巽さんも照れていたように見えたが、気のせいだろう。でも、似合ってるか。他の人から見て、そう思われるということは、本当なんだろうな。見た目にも自信が湧いてくる。嬉しい。

 それから、イートインコーナーで筋肉に良いからとステーキを頼んだ。というか、殆ど強制的にステーキだったのだが。

 時に、このままでいいのかと考えてしまう。巽さんに美容院代や服代まで頂いて、さらに、ステーキまでごちそうになっている。流石に、これは申し訳ない。でも、どうしてもここまで私のこと?

「巽さん、あの、質問を一つ」

「うん? どうしたの」

 涼しい表情でタピオカジュースを飲んでいる。本当に、お金で困ることはないんだろう。

「あの。美容院からステーキまでごちそうになっちゃって。すみません。必ず、いつか返しますから」

「いいんだって。それに恩を返すなら仕事で成果出してくれたら、それが恩返しだからさ」

「ありがとうございます……。それで質問なんですが。いやっ、友達として聞きたくて。質問があってね。どうして、私のこと、ここまで気に掛けれくれるんだろうと思って」

 苦笑いして巽さんは、実はと話してくれた。

「流石に筋友だからって理由でここまでするわけないか。あはは、バレたか。実はさ。山ちゃんを初めて見た時に、昔の恩人を思い出してね」

 恩人? そんな人がいたのか。

「うん。あたし、昔さ。信じてもらえないかもしれないけれど、陸上でコーチから虐められてたんだ」

「イジメ! しかもコーチから」

 そんな。巽さんも私と同じ、あんな暗い世界を体験していたのか。

「陸上に入った頃は、他の部員と比べてスコアが良かったんだ。トラック競技でも、砲丸投げとかのフィールド競技でも、成績良かったんだ。女子四種競技ではポイント合わせて二〇〇〇を超えていたんだ。だから、全国のランキングで一〇〇位内にいたの」

 凄い。何の協議なのかよく分からないが、とにかく全国レベルの実力者だったのは分かった。

「県内でも上位に食い込んでいて、凄く皆から褒められたし称えられたよ。でも、そこからが大変だった」

 そう言って、巽さんは顔を曇らせる。いつも明るい笑顔の彼女からは、想像できない暗い表情だった。それだけ、辛い過去なのだろう。

「どれだけ頑張っても、全国ランキングで上昇することが出来なかった。順位を維持するだけで精一杯で。それなのに、ハードな練習をコーチから強要させられて。グラウンドを三〇周した後に、へとへとで四つん這いになったら、罵られて」

 いや、三〇週の時点でおかしいよ。よくそんな体力あったね。

「でも、足裏も痛いし力が入らなくて、立てなかった。そうしたら、コーチから蹴り飛ばされて」

 絶句してしまった。それは指導じゃない。体罰だ。

「泣きながら次の練習もしたよ。けれど、足が痛いからふらつくし、意識も朦朧としていたから、上手く走り幅跳び出来なくて。それで、飛ぶ手前で転倒しちゃってね。そうしたら、コーチが大丈夫か、じゃなくて出来損ない、と怒られて」

 酷い。いくら巽さんを育てようとは言え、度が過ぎている。

「立て、立て、って何度も足で突かれた。それで泣きながら見上げたら、コーチ笑ってたんだよね。もう嫌だ。辞めたいって、本当に思った」

 過ぎ去った過去とは言え、もし目の前にそいつがいたら、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。こんなに優しくて素敵な人を、そいつは……。

「山ちゃん、顔が怖いよ。ああっ、そうそう。それでね。いつだったかは忘れたんだけど、私――泣いてたんだ」

 巽さんは作り笑顔と分かる表情で話してくれた。

「陸上の大会で、あたしが中学の代表で参加した時にね。前日、コーチの特訓が酷くて全然、実力が出せなかったの。足も痛いし、身体も疲れていて、心も疲弊していた。だから、まともな結果が出せなかった。部員の皆は、あたしを励ましてくれた。あんなコーチについていたら、誰だってダメになるって。そう、支えてくれた。でも、コーチに怒られるのが分かっていたから、涙が止まらなくて。

その後、呼び出されてから説教という名のいじめが始まった。いや、パワハラっていうのかな。今で言えば。何を言われたのかは詳しくは覚えていないけど、生きる価値なしとか。学校の皆に申し訳ないと思わないのかとか。そこらへんだったと思う。そんな言葉の暴力に、もう死んでしまいたい。そう思ったんだ」

 彼女の心の苦しみは、身を切られたように、酷く伝わった。私も中学時代は生きた心地がしなくて、心の病気になったんだ。今、生きているのは木澤先生のカウンセリングのおかげだと思っている。

先生のところに行くまでの八年間は死んだような人生だった。高校の頃も、結局は友達ができず、クラスの中で目立たないようにしていたっけ。幸いなことに虐めはなかった。クラスの女子達とも必要なこと以上は喋らないでいたし、男子とは殆ど話せないでいた。怖かったからね。大学は、もっと楽だった。講義だけ出ればよかったから。父の会社に入社して、保険証をもらってから、ようやく医者に行けた。どこがいいのかネットで調べて、口コミの良さで木澤先生を知る。本当に長かった。初めて先生に診察してもらった時は、号泣しながら話したよ。それだけでも、あの時は心が軽くなった。そうか。巽さんも、苦しかったんだね。

「身も心もボロボロで、泣くことしかできなかった。それで、どこかの階段で座って泣き伏していた時に、ある人に声をかけられたんだ。どうしたのって」

 なるほど。何となく、私がバレー部に経験したような出来事と似ているな。

「あたし、その人に何故かコーチの事を話したんだ。彼女は、うんうんと話を聞いてくれて、辛かったねって背中を撫でてくれたんだ。その時の温もりは、今も覚えてる」

 彼女? えっ、まさか。いや、まさか私が夢で見た女性と、北島さんが話す女性は同一人物なのか!

「色々話して、心が軽くなった時にね。その人が、私に言ってくれたんだ。あなたは愛される為に生まれてきたんだって。だから、死ぬなんてことはしちゃダメだって。同じ年代の子にそんなこと言われるなんて思わなかったから、びっくりしたよ。凄く大人なこと言うよね。今になって思うと」

 同じ年代。やはり、私が夢で見た女性と同じ人なのでは。となれば、北島さんが夢の女性という説はなくなるのか。そうなると、一体あの女性は誰なんだ?

「それでも、あたしは誰にも愛されていないって伝えたんだ。両親は小さい頃に交通事故で死んで、父の叔母さんに引き取られた。けれど、あたしは養子だから、食事も義姉妹と比べておかずも少ない。洗濯したものもあたしだけアイロンかけてもらえない。あたしは愛されていないって伝えた。だから死んでもいいんだって。そしたら、その人、じゃあ私が――愛してあげる。って言ってくれたんだ」

 凄いな。そんなことサラっと言えるとは。

「これであなたは愛されている。だから、死んじゃダメ。そう言われて、おかしくなって笑っちゃった。今でも、ホントおかしい。あはは」

 誰なんだ。その人。落ち込んでいる私にも、きっと似たような言葉をかけたのだと思う。でも、どうして顔も声も覚えていないんだ。全然、思い出せない。この事を巽さんにも言うべきか。

「その一言で救われたんだ。あたしが死んだら、この人が悲しむ。それに、陸上の皆だって、きっとそうだって思って。それから、あたしは陸上を辞めて、イラストを頑張ったんだ。本当に、今あたしが生きているのは、その人のおかげなんだ。凄く感謝してる」

 なるほどな。巽さんも苦労してきたんだ。

「あっ、そうそう。でね。山ちゃんを初めて見た時に、何かその恩人のことを思い出して。だから最初はもしかして、と思ったんだけど、別人だって思ったの」

「どうして、そう思ったの?」

「あの人は、山ちゃんみたいに眼鏡をかけていなかったし、おかっぱの髪でもなかった。もっとクールな感じって言えばいいのかな。でも、気になって山ちゃんに声をかけたんだ」

 そう言うことだったのか。私に声をかけたのは、恩人かどうか確かめる為だったと。

「ただ、山ちゃんと話していると楽しいし、礼儀正しいし。今では筋友だし! それで、たまにその人と被っちゃって、奢ったりしたというか。多分、あたしさ。その人のことを、えっと」

「その人のことが、何なの?」

 彼女の目を見て、私には分かった。悲しい色を含んだ瞳をしている。そして、無理して目元を笑わせている。

「笑わないでね。あたし、その人のこと、好きなんだ。ずっと、今でも」

「好きってどういう?」

「たぶん、ライクじゃなくてラブ、なんだと思う。でも、おかしいよね。同性が好きだなんて。しかも、一〇年も前の人のことを。しっかり覚えてもいないのに。馬鹿だよ、あたし」

 そんな悲しいこと、言わないでほしい。巽さんらしくないじゃないか。

「そんなことない」

「えっ、でも……」

「そんなことない!」

 気付けば声を大きくして、彼女の目を見据えていた。

「巽さんは、その人を思い続けてきた。一〇年も思い続けているだなんて、凄いことだよ。普通は出来ないよ。それって、とても素晴らしいことじゃないか。同性とか、そんなの関係ないよ。人が人を愛するのに、性別なんて関係ない。それとも、北島さんの思う気持ちって、そんな性別なんかで簡単に捨てきれるようなものなの?」

 ここまで言って、自分がとんでもないことを言ったことに気付く。彼女の気持ちを推し量りもせず、自分の考えを述べてしまった。巽さんを怒らせたかも。

「あっ、ごめんなさい。私、北島さんの気持ちも考えず、つい」

 直ぐに頭を下げる。私は彼女に助けてもらったのに、どうしてこんな恩を仇で返すようなことを。そう思っていると、頭上から笑い声が降り注いだ。

「山ちゃん、最高。あたしのこと、思って話してくれたんだよね。ありがとう」

 予想外の展開に固まってしまう。てっきり巽さんを泣かせてしまうことを言ったと思い、心が痛くなったのだが。

「巽さん、上手く言えないですが、その、再会できればいいですね。お話を聞いているだけでも、素敵な方だと思います」

「うん。ありがとう。また会いたいな……」

「会えますよ。きっと」

 少し頬を染めて乙女のような目顔になる巽さんが可愛かった。彼女の恋を応援したい。何か私に出来ることがあれば、喜んで協力したいと思う。その半分、女性の正体を掴みたいという気持ちもある。夢の中の少女と同一人物かもしれないから。

 イオンで時間を過ごしてから、巽さんを乗せて、自宅アパートの地下駐車場まで送る。そこで彼女と別れる前に。

「山ちゃん、連絡先まで交換してなかったよね?」

 ここで、まだ巽さんと連絡先を交換していないことに気付く。電話番号とLineを交換する。人生初めて、フリフリして交換した。なるほど、こうやって連絡を交換するのか。文明の変遷を感じる。

 地下から地上に出て、国道に向かって走った。その間、巽さんも苦しい中学時代を過ごしていたこと、好きな人がいたこと。それらを振り返っていた。明朗快活な彼女だけれど、その辛さを乗り越えたから、明るいのだと思う。彼女は元々強い人間ではなかった。その恩人に助けられ、少しずつ強くなったんだと。そう思うと、私も強くなれる気がした。巽さんみたいになれるはずだ。明るくて、優しくて、魅力的な彼女と同じように。


 帰宅してシャワーを浴びてから、テレビを眺める。面白そうな番組もないので、どうしようか考えた。こんな時に、筋トレグッズがあればと思う。明日は土曜日なので、ダンベルをドンキで買おうか。

 ベッドに寝転がってスマホをいじっていると、気付けば夜の十一時を迎えていた。そろそろ寝ようと思い、電気を消して目をつぶる。

最近は寝ることも楽しみの一つ。あの女性について思い出せることがあれば思い出したいから。

 再び私は、あの場所に座っていた。夕空の下で少女と話している。やはり顔が光で見えない。ただ一つ気付いたのは、私と同じくらいの背丈なのだと思う。並ぶ肩先が同じで、座高も足の長さも同等と言える。そしてもう一つ気付いたのは、私の服装についてだ。

 目の前の彼女は半袖、半ズボン。私は半袖に長ズボンだった。色は両方とも紺色で、生地も違いが見えない。どこかに校章が刻まれていればいいのにと思い観察したが、見つけることが出来なかった。彼女の声音だが、聞いたことあるような、ないような。抽象的な声音だった。むしろ、夢の中だから、巽さんを意識すれば巽さんの声にもなる。無意識に、無意識に、と思うほど夢の世界は正確さを失う。段々、脚色された内容になりそうだ。白いベールが薄れていき目顔が見えたと思えば、今の巽さんの顔が映し出される。いけない、これは妄想だ。思い出した内容じゃない。と思うと、巽さんの顔が変形していき、渦を巻く。渦中から浮かび上がったのは、やっ、山澤部長! 華奢な少女の身体に、渋いおじさんの顔。気持ち悪い!

「あなたを愛している」

 部長、それだけは嫌だ!

「うわああああ!」

 気付くと、私は無意識に起き上がっていた。寝汗だろうか。身体中が汗まみれで、額から粒が流れ落ちる。

「夢か。しかし、私は、なんて夢を……」

 山澤部長に愛しているだなんて言われたら、私は会社を辞めるだろう。そのくらい、嫌悪感が凄まじい。

 眼鏡をかけてスマホを覗くと、時間は朝四時だ。四時間半くらいは寝ただろう。しかし、もう一度寝ることにした。今度こそ、無意識に。改変しないように、自然なままで。

 結局、もう一度、夢の続きを見ることはなかった。七時起床のアラームで目を覚ます。歯磨きをしてから、昨日買ったピンクのワンピースを着て身繕いする。そして、洗面所に向かい、髪型を店員さんから教えてもらったワックスで整えた。うーん、上手くはできないが、ふんわりとした印象にはなったと思う。でも、明らかに今までの自分じゃない。若い女性らしさを取り戻している。鏡の中で笑う少女の顔は、とても輝いているのだから。


 車を走らせ、ドンキに到着した。車から降りて、店内の入り口自動ドアを抜ける。お店の中は沢山の人で溢れていて、私のような身なりの女性もいた。なんとなく、今の自分が他の人と比べて、変な恰好に見えないか不安になる。だっ、大丈夫だろう。

 やはり女性一人で筋トレコーナーにいるのは、ちょっと浮いている気がする。周囲の目が、なんとなく痛い。いや、気のせいだと思うが。その時。

「あれ、山ちゃん?」

 この声は、巽さん? 振り返ってみると、彼女と目が合った。

「あっ、やっぱり山ちゃんだ。奇遇だね」

巽さんに挨拶する。今日のコーデは、白ティーにジーパン姿という、ちょっとカッコイイ感じだ。スレンダー体系だと、様になるな。

「巽さんは、今日は何を買いに?」

「午後からジムに行くから、とりあえず着替えとタオルを買おうかなって。洗濯したばかりだったから、ちょっと乾くのに間に合わなさそうでさ。それで買っちゃえって思って」

 今日もジムに行くのか。努力家だな、巽さんは。そうだ。私も一緒に行こうかな。一人で家にいても退屈だし。

「せっかくだから私も一緒に行っていいかな?」

「おっ、乗り気だね。いいよ。合同トレーニングだ!」

 にひっと笑う巽さんの表情に、心が弾む。友達と過ごせるというのは、こんなにも楽しいものだと再認識した。

「ところで山ちゃんは何しに?」

 これはチャンス。巽さんに家で出来るトレーニングを教えてもらおう。ということで、彼女にダンベルを買いに来たことを伝えて、おススメの家トレグッズを教えてもらった。

「山ちゃんの買おうとしていたダンベルも、もちろん大事だけれど、個人的にはゴムチューブと筋膜リリースローラーも欲しいね」

「ゴムチューブと筋膜リリース?」

 巽さんはゴムチューブの入った箱を手にして説明する。

「そう。ゴムチューブは自重トレの一つだね。で、使い方も色々あるんだ。例えば、自分の足で踏んで、手にしたゴムを真横に上げる。そうすれば肩の横を鍛えるサイドレイズになるし、ドアにチューブを挟んで、手前に引っ張れば広背筋を鍛えることができる。チューブは鍛えたい部位によって使い方が異なるよ。そして、筋膜リリースなんだけど、これは筋トレというよりはストレッチね。きんにさんに教えてもらった静的ストレッチで使えるよ。マットの上にローラーを置いて、その上から寝転がって背中を刺激すれば、筋肉の柔軟になるの。ローラーもたくさんの筋肉をストレッチ出来るから便利だよ。ストレッチしないと、後々、怪我に繋がるからね」

 やっぱり経験者に聞いて良かった。凄く熱弁していたな。巽さんのアドバイス通り、ひとまず五キロのダンベルとローラーを購入する為に箱に入ったダンベルを手にする。巽さんが筋膜ローラーを持ってレジに並ぶ。とても助かる。

会計を済ませてから車まで運び、巽さんも乗車した。ジムへ行くまでには時間があるのでランチを食べようと、国道を走る。話し合いの末、ファミレス「デルーズ」に行くこととなった。車内では彼女と自重トレの続きを話す。

「最初は重すぎるダンベルよりも、自分が扱える重さを購入した方が良いよ。今は可変式ダンベルと言って、つまみによって重さを調整できるダンベルがあるから、プレートの交換をしなくていいという時短のメリットがあるよ。だから、ぶっちゃけ人気で高額だけど、余裕が出来たら買った方が良いね。まずは扱える重量で、綺麗なフォームでトレーニングすること。これを目標にやってみて」

「巽さん、ありがとう。うん、まずはフォームを意識して頑張ってみるよ」

「まあ山ちゃんはフォーム綺麗だからね。なんとかなるさー」

 ありがとうと伝えて、彼女の笑みを見る。うん、私は巽さんと頑張りたい。今は一生懸命に打ち込める筋トレに集中しよう。


 デルーズで食事を済ませてから、一度、自宅に向かう。巽さんを本当は家へ招きたかったのだが、人様を入れるのには、まだ掃除しないといけないレベルなので車内で待ってもらった。リュックに着替えを詰めて、直ぐに車まで戻り乗り込む。そのままゴールデンジムへ向かった。

「もう、別に気にしないから。あたしの部屋だって、そんな綺麗じゃないからさ」

 いやいや、そんなご謙遜を。私の場合、事務服を床に巻き散らかすのは辞めたが、掃除機は月に一回程度でかけているからヤバい。間違いなくアレルギー体質の人なら、反応を起こすだろう。一応、それも頭にあったので入れたくなかったのだ。

 ゴールデンジムに到着して、リュックを背負って入口ドアを抜ける。受付で会員証を提示して、入場許可を得た。着替えの為に更衣室へ向かう。入室してロッカーの前に立ち、上着を脱いでから気付いた。一度、自宅に帰ったのだから、スポーツウェアを事前に着ればよかったと。またやってしまったと思うと、それが顔に出ていたらしく、着替えを済ませた巽さんは外で待つと言って出て行った。

 着替えを終えてから巽さんと合流し、トレーニングルームまで歩く。到着すると、遠目から見ても分かるほどのダンベルを持つ男性が唸り声を上げていた。うん、きんにさんだ。

「パワーっ、ぐあああ」

 彼に近づいて挨拶すると、きんにさんは鬼の形相で挨拶を返す。腕には血管がバチバチに走っていて、ぶちぎれてしまうのではないかと思うほどに、浮き上がっていた。その腕を巽さんは目を輝かせて眺めている。

「うわっ! 凄いね。山ちゃん、因みにあんなふうに血管が浮かび上がることをバスキュラリティっていうんだよ」

 なるほど。筋トレには、そんな用語もあるのか。そういえば、巽さんが筋トレについて話している際、結構な用語が飛び交っていることに気付く。正直、マッチョになりたいわけではないから、そこまでしっかりと聞いてはなかったのだが。そう思っていると、巽さんはトレーニング中の彼に話しかける。

「きんにさん、かなり追い込んでいますね」

「そう、だね。一ヵ月後には、七〇キロ級の大会が控えているからね」

「あっ、大会に出られるんですね!」

 大会? ボディビルの大会のことだろうか。なるほど。彼はボディビルダーでもあったのか。

「凄いですね。一ヵ月後か……。よし、だったら四か月後の大会に、あたしは出よう!」

 えっ! 巽さんも出るの? ボディビルの大会に? そう思うと、頭の中に筋骨隆々の巽さんが、ステージの上でポーズする姿が浮かんだ。テレビで見たような、あの雄々しいポーズを、巽さんも? マジか。

「おっ、北島さんも、出るのかい?」

 そう言って、きんにさんはダンベルを元の位置に戻した。すると、とんでもない轟音が響く。鉄筋を扱う建築現場にいるかのような感覚だった。

「いいね! 北島さんも出るのなら、エントリー用紙を用意しないとね。一応、あそこに大会ポスターがあるから、確認したほうがいいね」

 きんにさんの指さす方を見ると、パンツ姿の男性、水着姿の女性がポーズをとるポスターが貼り出されている。興味が湧き、近づいてみてみると、女性と男性のポーズが違うことに気付く。眺めていると、巽さんの顔が横に並んだ。

「安井さんのポーズ、優雅だな。うーん、あたしもどうしたら、こんな感じにできるのか」

「えっ? 巽さん、ボディビルって、こう筋肉をもりもりに見せるポーズをとるのでは?」

 そう質問を投げかけると、巽さんは、これまで見せたことのない大爆笑をした。お腹を抱えて、遂には壁に凭れ始める。そんなに、変なことを聞いたのだろうか。

「山ちゃん、全然ちがうよ。女性のボディビル大会は今、女子フィジークという名前になって、男性とは違うポーズをとるんだよ」

 フィジーク? はじめて聞いた。ということは巽さんはフィジークという大会に出て、きんにさんはボディビルに参加か。

「このポスターに出ている安井さんのポーズはフロントダブルバイセップスポーズといって、前の筋肉を強調させる為のポーズなんだよ。意外と難しんだよね、ポージングって」

「へえー。詳しいですね。巽さん、昔は出てたの?」

「うん。何回も出てるよ。ただ、大会一ヵ月前の減量がきっついんだよね。脂質も抑えないといけないし、カタボリックにならないようにトレーニングも追い込まないといけないし」

 カタボリック? 追い込みっていうのは、ハードなトレーニングのことなのだろうか。

「そうなんだ。えっと、そのカタ……」

「カタボリックね。意味は筋肉が減っちゃう状態のことよ。どうしても減量に入ると、体脂肪を落とさないといけないから。でないとどれだけ筋肉を丹念に鍛えても、その形が浮かび上がらないのよ。脂肪に覆われていると腹筋って見えないじゃない? それと同じで、身体についた余分な脂肪を落とすの。ただ、減量は食べ物も変えないといけなし、食べる時間も変えないといけない。それで段々とストレスが溜まってドカ喰いとかキレ喰いをして、結局は痩せられないと言う人も多いよ。それと、動物は食べ物からエネルギーを摂取しているでしょう? それなのに、意図的に食べる量を減らすから、エネルギーが身体に溜まらなくなる。だから、すごくやる気が落ちるの。それで、筋トレのモチベも下がって、全く筋トレをしなくなったり、今まで持ち上げていた重量も扱えなくなったりすることもある。減量はビルダーにとって、メンタルまで試される行為なの」

 話を聞いているだけでも、過酷なんだと思った。ハードな筋トレをしているのに、さらに、食べる量や質まで制限しないといけないのか。うん、私には無理っぽいな。そう思いながら巽さんの横顔を眺める。彼女は嬉々とした表情で。

「はあ、いいな。あたしも負けてられない」

 巽さんにはフィジークに出ると言う目標がある。それがあるから、仕事も頑張れるのかもしれない。もちろん、恩人の存在もあって、今の彼女がいるのだろうが。ところで、巽さんは本当に筋トレというか、こういうのが好きなんだなーと思った。筋肉に関すること、身体に関すること、それらを公私共に頑張っている。好きって気持ちは、これほどまでに人を突き動かすものなんだな。そう思っていると。

「そうだ。山ちゃんも一緒に出ようよ」

「えっ? 出るって、大会に?」

「うん! ホント楽しいよ」

 いや、むりむりむり。私なんて始めたばかりだし。全然、お腹だって脂肪がついているから。巽さんみたいに、くびれがあるわけでもないからね。ここは丁重に断ろう。そう思っていると。

「おっ、山本さんも大会に出るのかい?」

 きんにさんまで会話に加わってきた。めっちゃ汗かいてる。タンクトップに染みついた汗の量が凄い。

「ぜえ、それなら、最初はベストボディ大会に出た方が良いね。はあ、女子フィジークはJBBFという団体に選手登録して、かつジムの所属歴が三か月以上ないと出られないんだ。一応、四か月後の大会だから、女子フィジーク大会には出られるけれど、こっちは出場者のレベルも高いから正直、厳しい。参加費も一万以上するからね。それなら先ずは参加条件不要のベストボディ大会がいいよ。山本さんなら年齢別のガールズクラスに出場できるよ。そっちは初心者もたくさん出場しているから、おすすめかな」

 ベストボディ大会か。でも、フィジークと何が違うんだろう。その質問をきんにさんに投げかけると、巽さんが教えてくれた。

「フィジークは日本ボディビル・フィットネス連盟が主催の大会で、選手登録をしないと出場できないよ。ベストボディ大会、通称ベスボは誰でも参加ができる大会で、選手登録は不要なんだ。でも、決定的な違いは、ベスボには人間性も審査対象になって、出場選手のSNSまでチェックされるの」

「そこまで見るんだ!」

「うん。ファイナルまでいくと、スピーチもあるね。それで、両大会の共通する点は肉体美の美しさだね。筋肉も大きいだけでなくて、バランスよくついているか。溝が深く刻まれているか。審査基準は似ているところもあるよ。あっ、あと大会で優勝すると全国大会のカードが貰えるから、参加するユーザーも多いね。山ちゃんみたいな初心者もたくさん出場しているから、大丈夫だよ」

 そうか。全部同じかと思ったけれど、全然違うんだな。よし、緊張するし不安もあるけれど。

「分かった。巽さん、きんにさん、私も出ます。ベスボに」

 出場の旨を伝えると、二人とも嬉しそうに「おおう」と感嘆の声を揃えた。私自身、何か目標を持っているわけではない。だから、ベスボに出ることを目標に筋トレを頑張りたい。そうすれば、巽さんのような生き生きとした人生を送れるかも。私は、もっと輝きたい。もう二度と、あんな黒洞々たるトンネル内の道を、歩きたくないから。


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