表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

底辺すぎる日常

第11回アガサクリスティー賞落選作品

 朦朧とする頭の中で、女性の声が聞こえた。声は若い。その女の子が私の名前を呼んでいる。闇の広がる視界の中で、彼女の声だけが響いていた。

 ……ちゃん。……ちゃん。

 誰だろう? 若い女性なのは間違いない。間違いないのだろうけれど、私の名前を呼んだ後、何かに対して話す、その内容は分からなかった。

 段々と暗夜のような世界から、夕焼け空の光景が見えてくる。そして、薄っすらと自動車の走行音が頭に轟き、アスファルトの上を走る車が通り過ぎた。右へ頭を向けると、先ほどから語りかけてくる声の主が目に入る。彼女の顔を注視しようとするも、夢の中だからか、全く目顔が写らない。まるで写真の上から白いチョークでも引いたように、光のベールで表情は塗りつぶされていた。

 少しずつ過去が蘇る。そうだ。私は石段に座っている。そこで彼女と二人で談話をしていたんだ。これは、その記憶。昔の自分自身の光景を思い出しているんだ。でも、どうして? なぜ、このタイミングで? 疑問に思っていると、まどろみの世界は、再び闇夜に覆われてしまった。


 頭上から聞き慣れたメロディーが聞こえてくる。抜けた魂が身体に戻ってきたように、意識が、はっきりとしてきた。ああ、もう出社の時間か。

 うーん、と両腕を天井に伸ばす。身体を横にして目の前の眼鏡をかける。鉛のような重い身体を無理に起し、枕元で鳴り響くスマホを手に取った。呆ける頭が先ほどの少女の正体を探るように、顔を思い出そうとする。誰だったのだろうと思いながらアラーム画面を覗くと、時刻は午前八時を示していた。八時……。八時!

「やばい! 遅刻だ」

 真上から冷水を浴びたように、正気を取り戻した。夢の中の彼女が飛んでいく。代わりに頭の中を支配する顔は、山澤部長の顔面凶器だ。また怒られてしまう。

 そう考えながら洗面所へ向かい、無意識のまま蛇口をひねっていた。今度は本当に冷たい水を顔に浴びせ、洗顔する。乾いたタオルで顔を拭くこともせず、濡れたままで歯ブラシを取り、歯磨き粉をブラシにつけた。ありゃ、出しすぎたぞ。

 しっかり歯を磨いたと言えるのかどうか、自分では分からないが済ませた。ともかく、すぐに着替えないと間に合わない。フローリングに散在している事務服をかき集める。それからパジャマを脱ぎ、ベッドに放り投げた。

 時刻は八時十分。もう、ご飯を食べる暇などない。部長の顔を思い浮かべてしまい、身震いする。着替え終えて、玄関へ駆け足で向かった。化粧どころじゃない。寝ぐせのついた黒髪も整えず、ドアを開けた。駐車場まで走る。一階に続く階段を駆け下りて、自分の車まで疾走した。ああ、ダメだ。頭がくらくらする。酸欠だろうか。見慣れたはずの白いフロントが、歪んで見える。黄色いナンバープレートに刻まれた黒文字は、確実に躍っていた。

 乗車する為、ドアを開ける。起動音がして、座席に身を委ねた。そして、スマホを手にしてyoutubuを開く。毎朝、楽しみにしている精神科医のチャンネルを確認する。どうして動画を見るのか。遅刻して慌てなくてはいけない状態なのに、無音のまま運転するのは癪だからだ。時刻は八時十五分。どうせ怒られるのは目に見えている。だったら事故らず、安全第一に会社へ向かうのがベストだろう。

 発進して国道四一五号線に向かう。流れる街路樹の葉は青く、春風に戦いでいる。代り映えしない景色だった。退屈を覚えて、ラジオ感覚で動画音声に耳を傾ける。

『痩せる為には睡眠が重要?』

 中年のおじさんの声音が、変に気持ちを落ち着かせてくれた。私のように精神的な病を持つ者にとって、このチャンネルの情報は貴重な内容だ。先生のアドバイスに沿って、行動すれば心の重荷が減少する。しかも無料で知ることができるのだ。とてもありがたい。ありがたいのだが、なぜか助言通りにできない。睡眠時間を八時間にしよう。薬に頼ってはいけない。午後二時以降のカフェインの摂取は、やめましょう。そうした健康知識を先生から吸収させて頂いても、頭と身体と心が、まるでリンクしない。やる気が出ず、改善しなくちゃと思っても、なかなか行動できないでいた。結局、仕事でもミスして、今みたいに遅刻して自己嫌悪に陥る。これの無限ループ。私は、ごみクズだ。

 ぼんやりと先生の話を聞いていると、右横手に冠水公園が見えてきた。白い的皪とした水面は川のように流れて水平線まで続く。そして、まるで花を咲かせたように川面から噴き出る噴水が、蕾の形を作っていた。

 転落防止柵の近くには、手を繋ぐ母娘の姿が見える。何のありきたりもない光景だが、正直、羨ましく思えた。白い日差し帽を被る母親が、麦わら帽子を被る子供の手を引く。私も、きっとあの娘と同じ年の頃は、さっきのような笑顔を振りまいていたのだろう。けれど、いつから私は、こんな性格になったのか。二十四年間、歩いてきた軌跡を振り返っても、残る風景は何れも黒い闇夜だった。

 お母さんは、もういない。私が十四歳の時に父との不仲で蒸発し離婚したそうだ。件の母娘のような思い出は浮かばない。でも、私を大事にしてくれたはずだ。中学生の頃、帰宅すれば母は私の「ただいま」に笑顔で「おかえり」と返してくれた。三人で食事を囲んで食べていた時は、重い空気の中で食べていたけれど、私に「美味しい?」と聞いてくれたことは何度もあった。きっと母なりに親の愛を与えてくれていたのだろう。そう信じている。

 お母さんに対する気持ちはマイナスな感情でない。父は、別だけれど。家庭内暴力や浮気をしていたような父親ではなかった。ただ、絵にかいたような仕事人間である。休日でもパソコンを広げて、誰かと電話で話していた。父に学校のことや相談したいことを話そうとしても「あっちにいってなさい」と聞いてもらえない。そんなことが、なんと多かったことだろう。それから、父は家庭よりも仕事が一番なんだと思い、私は心を閉ざすようになった。もう父の顔を見て父親ではなく社長……。

 ああダメだ、ダメだ。考えれば考えるほど、もう会社に行きたくない。そんな嫌悪感を抱きながらハンドルを握り直す。


 黒い渦潮を胸に抱きながら、左側へハンドルを切る。会社の駐車場は静かだった。玄関まで歩く社員の姿は見当たらず、陽に照らされて反射する車の列が、陳列している。何となく空いていた駐車スペースに愛車を停めた。

 下車してドアを閉めると、胸の中で渦巻いていた重い鉛のような塊が、ゴロゴロと転がり出す。行きたくない。帰りたい。怒られるのは間違いないので、半ば泣きだしたくなった。

 重い足取りで三階まで階段を上る。廊下に出て、人事部のオフィスドアを手前に引いた。既に朝礼は開始されていて、八人全員が薄板の前に参集している。山澤部長の野太い声が室内に響く。私は小声で「おはようございます」と頭を下げながら、その人垣の中を割いていった。黒マーカーを手にする山澤部長と視線が合う。彼は呆れた表情を浮かべてから「朝礼が終わったら残れ」と、怒りの籠った声で指示をした。無論、私は首を縦にして応える。何の話をしていたのか説明もないまま、朝礼は続行された。

 結局、どのように一日の流れを進めていけばいいのか。それが分からずじまいで終わる。何の話だったのか分からない。

 終礼してから部長に手招きされ、来いと言われてオフィスの外へ出た。廊下で佇立して部長と向かい合う。頭を下げて遅刻したことを謝罪するが、低い声音で「いい加減にしろ、お前」と叱責の雨が降り出した。

「山本、お前入社して何年目だ?」

 浅黒い肌。ヤクザのような目顔。黒いスーツ姿。刈り上げた短髪。そして、一八〇センチほどの長身。私との身長差は三〇センチもある。下げた頭を擡げて見上げると、彼は腕を組み、目を三角にしていた。

「にっ、二年目になります」

「二年目で、このザマか。お前、なめてんのか?」

 恐怖で声が震えてしまう。部長に顔を向けるのが怖い。私は平身低頭に、ただただ謝ることしかできなかった。

「なめてんだろ。お前よ、社会人として遅刻とか恥ずかしくないのか?」

「恥ずかしいです」

 私だって、好きで遅刻したわけじゃない。どうしてか、今日は起きられなかったのだ。嘘じゃない。心当たりがあるのなら、処方された睡眠薬が効きすぎたのかも。

「はっきり言うぞ。他の会社なら、お前は直ぐクビだ。お父さんが会社にいるから、お前は守られているんだぞ。父さんに……山本社長に感謝しろよ」

 穏やかな表情と声音で、父のことを言われた。その口振りが、娘を諭す父親のようで、何だかむず痒い。それにしても、感謝か。確かに山澤部長の言う通りかもしれない。私みたいなポンコツをコネでいれてくれたのだから。でも、私は父が嫌いだ。不愛想で、冷たくて、私が精神的な病で苦しくても甘えていると叱るばかりで。私のことを分かってくれない。嫌いだ。父なんて……。

 山澤部長からの許しを得たわけではなかったが、仕事に戻れと指示を受けたので、頭を下げて持ち場に戻る。どうしても、父や中学時代のこともあり、男性が苦手だ。というよりも、怖い。身体も大きくて、声も低くて太いから、男の人が怖かった。とても逆らえない。それも、暴力なんて振るわれたら。

 私が精神疾患や睡眠障害に陥ったのは、遡ると中学時代のせいだと思う。一四歳時、クラスの男子から愛の告白をされた。生まれて初めて「好きです」と言われた衝撃は、今でも覚えている。顔から火が出るほど恥ずかしく、心臓が早鐘を打つように、せわしなく鳴り続けていた。クラスの中でイケメングループ五人のうちの一人だった竹迫君から、夢じゃないかと疑った記憶がある。ウルフカットの整った顔立ちで、陽キャの女子達から絶大な人気を誇っていた。勿論、私だって例外じゃない。内心、かっこいいと惹かれていた。だから、私みたいな三つ編み眼鏡の地味女が、告白されるだなんて信じられなかったのだ。

 告白された、その日は頭の中は竹迫君のことでいっぱいだった。デートなんてしたこともない地味女が、考える妄想は汚れた内容だ。発情期を迎えた、飢えた雌猫のように身体を重ねる愛欲を浮かべていた。彼が激しく私を求め、互いを貪るような、愛を渇望していたのだ。きっとそれは、母を失い、父性さえ注がれなかった愛を彼に期待していたのだろう。寂しい。愛されたくて、そんな性に溢れた妄想を私は欲していた。

 それは、大人になった今でも一緒だ。男の人は怖い。けれど、愛だけは人一倍に求めている。それが矛盾していることだと分かっていた。分かっていても、愛されたいから、その矛盾に私は苦しんでいる。あの日から、ずっと、いつまでも。

 現実というのは冷酷で、その懐疑は正しかった。愛の言葉を告げられてから翌日、教室に入るとクラスメイト達の視線が集まる。女子達のひそひそ話や、男子達が軽薄に笑う姿が目に入った。一体、何なのだろう。当初の私は全く知らなかったのだ。

 気のせいだろう、と自分に言い聞かせて、授業の準備に鞄から教科書を取り出す。その際、竹迫君が私の名前を呼びながら机に来てくれた。しかし、彼の後ろにはイケメングループの全員がついている。彼に挨拶を返しても、にたにたと心地悪い笑顔を浮かべていた。直感して、私は、嫌な予感を覚えたのだ。竹迫君が次に口を開いた言葉は。

 ――キモイんだよ。ブス!

 大声で彼が叫ぶとイケメン達は、どっと哄笑した。その時の私の顔は、きっと絶望に染まった表情だったのだろう。竹迫君は指を突き刺して馬鹿、馬鹿と罵ってきた。胸の中で幸せいっぱいに満ちていた、ときめきの海は、煤煙で臭い廃屑を投げ込んだように淀んでいく。予想外の出来事に色情の欲望は消し飛び、頭の中は前代未聞の混乱で働かなかった。

「何言ってるの、竹迫君。だって」

 私が問い詰めても、彼は、あっけらかんとしている。その悪魔のような笑みが竹迫君の強いイメージに変わった。そこからは、ひたすら罵倒や悪口にまみれて終わる。言われる度にクラスの四方から軽く笑う声や、見世物小屋で稀有なものを見るような眼差しが集まっていた。これが中学時代のトラウマである。未だに夢に出てくるし、こうして思い出すだけでも胸が苦しい。過呼吸まではいかないけれど、憂鬱になる。

 そんな忘れたいのに忘れられない思い出を、私は誤魔化すように仕事をしていた。山澤部長に謝ってから、自分のデスクで資料作成を行っている。と言っても、人事部のお荷物扱いである私は、軽作業しか任されない。今行っている仕事も、今月の入退社した社員の名簿リストを作る、所謂データ入力だった。こんなのは、派遣でもできる。私は派遣と同じか、それ以下の扱いだった。


 午後五時に就業の予鈴が鳴る。なんとなく学校みたいだ。仕事の終わった各々が各自のパソコンを消す。お先ですと五人ほど帰っていった。私も帰ろう。居心地が悪い。そう胸中に呟き、パソコンを消してから仕事中の山澤部長に挨拶をした。すると。

「山本。話がある。こっちに来い」

 まだ何かあるのか。今朝のパワハラまがいの叱責を思い出し、悪心が起きそうだった。彼のデスクの前まで近寄り、頭を下げる。

「部長、お呼びでしょうか?」

 山澤部長はパソコンの画面から顔を離し、いつも通りの真剣な表情を向けた。

「唐突で申し訳ないのだが、明日から広報部に移ってくれ」

「なっ! 広報部ですか」

 完全に寝耳に水だ。なぜ、広報部に。しかも明日から。

「どうしてですか?」

「山本社長が、お前さんを人事部に置くのは不適切だと判断されたからだ。遅刻は多い。派遣と同じ仕事しかしない……。お前さんも薄々、気付いていただろう。お荷物だって」

 反論できなかった。派遣と同じ仕事しかしないのではなくて、任されないからだ。私のせいじゃない。それだけは言いたいのに、委縮して何も言い返せなかった。怒っているのか、違うのか分からない物言いと態度に、口を噤むばかり。

「とにかく、明日からお前は広報部に移動だ。お父さんが判断したんだから、お前さんは、そっちの方が向いているのかもしれない。明日、遅刻せずに人事部に顔を出してから、一緒に広報部に行くぞ」

 聴従するより他はない。私は俯き加減に「はい」と肯じた。左遷だ。会社からお前は、ゴミカスだと言われているように感じた。

 人事部を出て、駐車場まで向かう間、目の奥が熱くなる。視界が歪み始め、鼻を啜った。こんな現実が、今までの軌跡が嫌になる。幸せと感じたことは殆どない。いっそのこと死んでしまいたくなった。けれど、死ぬ勇気なんてない。何の為に私は生まれ、何のために生きるのか。そんな誰もが一度は考えるようなことを、私は当たり前のように分からないでいた。もう嫌だ。とにかく家に帰って眠りたい。悪夢も見ず、安らかに。夢の中で、今だけは、お母さんに会いたい……。

 玄関を抜けて駐車場に出る。空は黄金色に染まっていた。綺麗だ。こんな風に空を見て綺麗と思ったのは、いつぶりだろう。それだけ私は、追い詰められていたのか。野暮なことを考えながらタントのドアを開ける。ドアを開けて乗車して、エンジンをかけた。帰宅する際も無音は嫌なので、動画を開く。精神科医の先生のチャンネルは、沢山の動画があるので、ランダム再生にしている。スマホを把手の窪みに入れてから、車を走らせた。ラジオ感覚で先生の声を聞いていると、気になるフレーズが耳に飛んでくる。

『抑うつには、運動が特効薬』

 運動か……。再び中学時代の記憶が蘇ってくる。元々、私は運動が好きだった。勉強も嫌いじゃないから、小説なんかもよく読んだ。でも、身体を動かすことが楽しくて、入学してからバレー部に入部した。竹迫君に告白される前までは、楽しかったのだ。間違いなく楽しかった。部員のみんなとレシーブの練習や、筋トレもして汗を沢山かいたっけ。その一致団結している仲間意識が、私の飢えた愛を埋めてくれていた。けれど、竹迫君に告白されて、嘘でしたと心を汚されてから部活内は変わる。みんな、私から距離を置くようになった。いや、明白なほどではない。なんとなくよそよそしい感じだった。部活が終わり、みんなでケーキを食べに行こうと誘われていたのに、その事件から誘われなくなる。段々、みんなと自分から距離を置くようにもなった。私は竹迫君に、トラウマを植え付けられただけでなく、居場所まで奪われたのだ。

 そこからは暗黒残酷冷酷時代だった。生きている心地がない。クラスにいけば笑われ者。竹迫君の告白を真に受けた大馬鹿者と噂されていた。もともと、バレー部員以外の生徒で仲良しの人物など、根暗の私には皆無である。助けてくれる人はいないのだ。

 でも、どん底の私に唯一、光を灯してくれた人がいる。それが今日、夢の中で見た少女だった。ただ、顔が全く思い出せない。声も特徴的じゃないから、うろ覚え程度である。快活な声音としか言いようがない。確か場所は……。思い出そうとしていると、先生の言葉が再び耳を突く。

『運動するだけで、人生は好転する。マラソンでも筋トレでもいいから、とにかく身体を動かすことで脳内疲労がリセットされて、幸せホルモンのセロトニンが分泌されます。だから……』

「もう無理だって」

 それからの先生の言葉は、無意識のうちに遮っていた。運動は好きだ。それは今も変わらないかもしれない。一度、またバレーを始めれば気持ちも前向きになって、人生が変わるかも。けれど、今の私には、そんなことさえ億劫に思えた。いや、億劫と言うよりも、諦念観念に縛られているのだろう。今更、走り出したりバレーしたりして、それで人生が変わらなかったら惨めなだけだ。運動に費やした時間が無駄になる。それに、私はバレー部を辞めずに続けていたけれど、何も良くはならなかった。卒業するまで、ひとりぼっちだ。教室に入れば、遠巻きに闖入者でも見るかのような、一瞬だけ静まる瞬間が苦痛だった。大人になった今でも、それを悪夢として見てしまう。


 陽も暮れて、ヘッドライトを灯したまま国道四一五号線を走る。脇道に反れ、自宅マンションの駐車場に進入した。駐車スペースに白ペンキで二〇三と書かれた駐車スペースに停める。溜息をつきながら、下車して階段まで向かう。二〇三号室のドアに鍵を差し込んで、ドアを開けた。眼前には私の心模様と同じ暗夜が広がる。電気のスイッチを押して、点灯させると「ただいま」と誰に言うわけでもなく呟く。この瞬間が、たまらなく寂しい。山澤部長に叱責され、心の闇を抱えたまま疲れて帰宅しても、温かく出迎えてくれる人は誰一人としていないのだ。家族も友達も恋人もいない。心細い六畳間だ。家賃が月三万ほどで安いから四年も住んでいるけれど、代わり映えのない部屋に呆れてくる。いけない。口を開けば不平不満ばかりだ。とりあえず、疲れを落とす為にシャワーを浴びよう。自分で自分が、めんどくさい。

 事務服を投げ捨て、脱いだ下着だけを携えながら脱衣場に向かう。別に誰かと同居しているわけじゃない。どうせ見られる当てもない身体なのだ。カゴに下着を入れてから、浴室に入る。タイルは水色で昭和臭い。滑りやすいので気を付けないと転倒してしまう。溜息をついて、蛇口を捻り、お湯加減を調整する。今時、珍しいかもしれないお湯と水の二種類の蛇口を捻るタイプだ。月二万の家賃の安さは、こういう不便さ故かもしれない。そう考えながら頭からシャワーを被る。

 目をつぶると浮かんでくるのは山澤部長のムスッとした顔。そして、父の姿。憂鬱な気持ちになる。毎日、遅刻して、怒られて。私が悪いのは分かっているけれど、朝が弱くて起きられない。心と身体が上手く結びついていないのだ。このままだと、私は間違いなく解雇になる。そうなれば、私は、この社会で生きていけようか。四年大学を卒業してから、今のバルクス商事以外の会社で働いたことがない。まして、高校生の頃からバイトさえしたことがないのに。そう考えると、頭に降り注ぐシャワーの温度が、真水のように感じられる。背中がゾッとして、震えてきた。決して浴室が冷えているからじゃない。先見えぬ不安から、慄いているのだ。こんな人生でいいのだろうか。私の人生は、これでいいのか……。

 ――ちゃん。

 あの声だ。あの少女の声が頭に響いた。誰? どうして、私の名前を呼ぶの。一体、あの生徒は誰だったのだろう。思い出せない。少女と私がいた場所は、恐らく高玉市内になる県立

 体育館の玄関先だったはず。あそこでバレーの県大会があって、私は県予選で行ったはずだ。そこで、負けたのか、部員との不仲からか泣いていたのだと思う。そこで、彼女が現れた。私に、優しく接してくれたのだろう。そこから、よく覚えていない。彼女がどこの学校の生徒で、どんな名前だったのか。そして、何を話していたのか、残念なことに記憶が抜けている。

「誰だったろう」

 シャワーの音に声は、かき消された。暫く思い出そうと呆然とする。けれど、記憶の断片を拾い上げることはできなかった。


 ベッドに横たわり、まどろみの世界に意識が入り浸る。昨日の夢の続きを見ることはなく、ただひたすらに黒洞々たる視界が際限なく広がっていた。今、私は、あの少女のことが気になっている。きっと、私の人生の中で彼女と話せたことは、大きな喜びだったのだろう。

 私が思う以上に。これまで歩んだ人生は整備されていない荒涼な砂利道だったと思う。歩きにくく、転びやすい道だ。誰もが憧れて歩きたがる道ではないはず。そんな道を私は嫌々歩いてきた。しかし、そんな砂利道の路傍に一輪の花を見つける。それが彼女だったのだろう。心を潤す唯一の喜びだったのではないか。後にも先にも、心を開いて話せた人は彼女だけだった。それなのに、顔も名前も思い出せない。とても矛盾している。誰だったろう。

 半分寝ている頭でいると、アラームの音が耳の奥を突く。ああ、もうこんな時間か。今度こそ遅刻せず会社に行こう。半分冴えている状態なのだ。そう思い眼鏡に手を伸ばし、装着させてからスマホを手にする。画面を覗くと、八時五分。五分!

「うそでしょう!」

 やってしまった。昨日より五分も遅れている。また山澤部長に怒られてしまう! ああ、でも、いいや。もう間に合わない。急いで事故を起こしてしまうくらいなら、遅刻しますと一報入れてしまおう。その方が、まだマシだ。変に冷静な対応で私は会社に遅刻する旨を連絡した。電話口の相手は同僚の北村さんだ。彼女は事務的な口調で部長に伝えると約束してくれた。これでいい。どうせ私は会社のお荷物でゴミクズな底辺なのだから。


 オフィスに到着すると、山澤部長は私の顔を見るなり溜息を吐いた。まあ、そうだろう。遅刻の常習犯なのだから。

「山本、こんな人事異動の日だというのに遅刻するとは、社会人としての自覚がないな」

 冷え冷えとしたような声音に、彼の酷薄な性格が窺える。父が彼を可愛がるのも、なんとなく分かる気がした。波長の法則。類は友を呼ぶということだろう。それは、ある意味、私にも当てはまる。人生を諦念し、努力することを放棄した堕落人間が私だ。マイナスな人間にはマイナスな人間が集まる。これは運命、いや宿命なのだろう。

「おい、聞いているのか!」

「すっ、すみません」

「しっかりしろよ、たく」

 怖い。いきなり怒鳴られると委縮してしまう。幼少期の頃、父に叱られた記憶が掘り起こされる。殴られたりしたことはないけれど、大声を出されると、私は身体が動けなくなるのだ。そして、思考が停止する。自分の殻に閉じこもってしまう。最近、それが顕著に現れて私生活に影響している。だから、今日も仕事が終わったら、木澤さんのところで受診してもらうのだけど。

「勘違いしてもらいたくないのは、俺はお前のことが嫌いで叱っているんじゃない。それに、お前が精神的に弱いのも分かっている。だからと言って、お前を特別に甘やかすようなことはしてほしくないと社長から言われているんだ。俺だって好きで言っているんじゃない。分かるな?」

 そんな言葉は保身からくる口実だ。私には分かる。ただ、憂さ晴らしを兼ねたパワハラだと。ボイスレコーダーに吹き込んで、労基に訴えれば彼の立場は脆く崩れる。でも、部長は父の実質的な右腕だ。付き合いだって私の入社前から長いはず。私を不利な立場に情報を捏造して、泣き寝入りすることも可能だ。だから、私は訴えることなんてできない。我慢だ。我慢するしかない。この会社以外に働けるところなんてないのだから。

 山澤部長の後に続いて、私は広報部の入り口まで来た。部長が扉を開けて入室する。私も頭を下げながら室内に入った。パッと見では人事部と変わらない内装で、パソコンが陳列している。突き当りの壁際に置かれているホワイトボードの前まで山澤部長は歩き、そこで足を止めた。

「一同、作業をやめて集まるように」

 部長が大声で集合をかけると、慌ただしく社員達がボードの前に集う。まるで、体育会系のノリみたいだと内心うんざりした。こういうところがブラックぽくって好きじゃない。ざっと十人ほどだろうか。人事部と違い、わりかし年齢層が低い。みんな二十代、三十代といったところだろう。

「今日から配属となる山本佳奈君だ。おい、挨拶しろ」

「はっ、はい。やっ、山本です。宜しくお願いします」

 今更ながら遅刻したことが恥ずかしい。その為、言葉尻がぼそぼそと小さくなる。それが癪に障ったのか、部長は舌打ちして「彼女をよろしく頼む」と締め括った。

「山本の教育担当は、岡田。お前に頼んだ。しっかり教えてやってくれ」

 前列にいた三十前半くらいの男性に山澤部長は指をさす。岡田という男性は、腕まくりのワイシャツに浅黒い肌をしていた。黒い短髪で一重瞼の塩顔だ。こんなことを言うのはよくないと思うが、あまりタイプの男ではない。

「分かりました。お任せください」

 声音も見た目通りの男らしい声だった。彼も体育会系の上がりなのかは知らないが、俊敏な動作で頭を下げる。こんな暑苦しい感じの先輩と組むとなると、正直、良い気はしない。いやだなあ、と思っていると、頭を下げた彼の向かう側に若い女性社員がいた。何となく目が合う。その方は軽く微笑んでくれた気がした。気付いてくれるか分からないが、こちらも微動ながら会釈する。

「おい、山本! ぼさっとするな。挨拶は」

「はっ、すっ、すみません。岡田先輩、よろしくお願いします」

 委縮したまま岡田先輩に頭を下げると、彼は「ははっ」と白い歯を見せた。私の態度に憤りを見せることはなく、山澤部長に「まあいいじゃないですか」と諭す。なんとなく優しくて爽やかな先輩に思えた。どうも悪い人ではなさそうだ。ただ、男性なので苦手意識は働くが。

 挨拶回りが終わると、山澤部長に付き従い、デスクまで案内された。今日から、この机を使って仕事をするのか。

「じゃあ、山本。ここで頑張るんだぞ」

 そう言う彼に頭を下げると、山澤部長は何も言わず退室した。何をしたらよいのか分からないので、机に座って指示を待つ。勝手に何でもするのは、逆に他の社員の手を止めることになるし、メリットが一つもないだろう。じっ、としていると岡田先輩が近づいてきた。爽快感MAXと言えるような笑顔で私の名前を呼んだ。

「それじゃあ、パソコン立ち上げて。使うIDの登録からいこうか」

 先輩の言われる通り、ID登録から進める。広報では、よく使う画像編集アプリの登録からサイトの登録まで、一人一人の登録が必要らしい。先輩の指示に従いながら六つほど登録を行った。その後にアプリやサイトの使う用途を教えてもらい、気付くとお昼時間の予鈴が鳴り響く。先輩から休憩に入れと言われ、私はお昼を買いに行くことにした。自販機でサンドイッチとコーヒーを購入し、会社の裏庭まで向かう。

 ビルの後ろにある庭は、学校のグラウンドほどの広さがあり、整然とされた芝生が広がっている。今日も、この白いベンチに腰をかけた。右側に聳え立つ桜の木陰が、日差しから守ってくれるので、ここでの食事は心地よい。人間関係で心苦しい会社内では、心を癒してくれる唯一の場所だ。

 人事部から広報部に移り正直に思うことは、まだこっちのほうが、過ごしやすいということだ。当たり前か。広報部の人達は私が会社のお荷物になるほど低能で使えない人材だということを、知らないのだから。ただ、きっと山澤部長から幾らかの話は聞かされているはず。ましてや、初日から遅刻してしまった以上、良い目で見られるはずがない。けれども、岡田先輩は優しく教えてくれた。内心は、どう思っているのかは知る由もないが。とにかく、今は人事部より過ごしやすくて、嬉しい。

 卵サンドイッチを食べ終えて、ブラックコーヒーのペットボトルを飲む。眼前に映る光景を漠然と眺める。息抜きの為に、一部の男性社員はキャッチボールをしていた。また別の女性社員は、ヨガマットレスを広げて柔軟やストレッチをしている。ふと、自分が、その光景を見て口元を緩めていることに気付いた。なんで、微笑んでいるのだろう。自分が昔、バレーをしていたからかも。何かが潜在意識に感化されているのだろうか。分からない。

 ふと、さらに自分でも不思議なことに、今朝の挨拶で目と目が合った社員を思い浮かべる。あの子は、いや、私と同じ年齢かもしれない。けれど、年下のように見えたが。ショートカットで、茶髪の可愛らしい人だった。快活そうで、私とは真逆の性格なんだと思う。まさか、そんなことはないと思うけれど、最近になってよく見る夢の中の彼女? いや、そんなわけないか。いくら何でも、過剰になりすぎている。夢の中で会った少女が気になるからといって、何の根拠もないのに結びつけるのは、ただの妄想に過ぎない。馬鹿馬鹿しいよ。

 あまりに無意味なことばかり考えていると、気付けば始業五分前の予鈴が鳴り響く。そろそろ仕事場に戻ろう。そう考えて私は重い腰を上げた。正直、仕事は楽しくないし、やりたくない。生きる為に仕事をしているだけ。それだけなのだ。

 終業になるまで岡田先輩は懇切丁寧に業務内容を教えてくれた。弊社の利益や一部の社員にフォーカスを当てて記事にする社内報を作る担当と、他社に弊社をPRする為に取材や宣伝をする営業担当や、会社のサイトを編集して何の会社なのかを伝えるネット運営担当など。広報部とはいえ、色んな仕事内容があり、それぞれが担当者となって責任の重い仕事をしているのだと知った。そして、私はネットショップの運営担当を予定とされている。バルクス商事のオリジナルブランド「バルクス」のオンラインショップの運営だ。

 バルクスは運動を愛する全てのみんなの為に、をモットーとしている。その為、扱う商品はスポーツ関係の食品が多い。プロテイン、HMB、EAA、クレアチン、グルタミンなどなど。正直、今の私には何なのか分からない。プロテインは、何となく分かる。コンビニの棚に並んでいるのを見たことがあった。あとのアルファベットの横文字は何に使う物なのか、さっぱりだ。また、スポーツを頑張る女性の向けのサプリメントにも力を入れているらしい。マルチビタミンとミネラル。コラーゲン配合の栄養ドリンク。ホルモン剤まで出していた。これらの情報は、岡田先輩から頂いたマニュアルで知る。人事部にいたから、こんな商品を取り扱っていたのかと、改めて知り驚いた。意外にも購入者が多く、今月のオンラインショップの売り上げだけでも、三百万以上の利益を出している。そんな責任重大な仕事を、果たして私は全うできるだろうか。自信はない。むしろミスをして倒産にまで没落させてしまうかも。

 勤怠アプリに退社時間を入力して、帰宅準備をする。さて、帰ろう。そう胸中に呟き、席を立つ。すると、斜向かいの席に座る女性社員も同時に立ち上がり、視線が合わさる。今日の朝、目が合った、あの子だ。再び彼女は微笑みを浮かべて会釈する。私は挨拶しようと思い声をかけようとしたが、彼女は急いでいたのか、ささっと退室してしまった。お先です、という快活な声を残し、消えていく。あの人、なんて名前なんだろう。

 駐車場まで歩き、乗車する。エンジンをかけた後youtubeを開き、先生のチャンネルを開く。適当に動画が再生されたのを確認して、車を走らせた。さて、木澤先生のところに行かなくては。今日は何と言われるのだろうか。

 仕事場から発車して約十分ほどで、木澤クリニックに到着した。今日は通院患者も少なく、直ぐにカウンセリングに入れそうだ。せっかくだから、最近見る夢のことも話しておこう。

 玄関ドアを抜けて、受付口まで向かい、診察券を渡して受付を済ませる。十人座れるほどのロビーへ行き、適当な椅子に座った。流れているテレビに視線を向けて、今日一日に起きた出来事を知る。あまり良いニュースではなかった。気分が塞ぎこむ。その時、看護師さんが私の近くまで来て、診察室まで案内すると話しかけてきた。慌てて立ち上がり、第一診察室まで歩く。ドアの前に立ち、失礼しますとノックして入室した。

「先生、こんばんは。今日はよろしくお願いします」

 木澤先生は水色の医療服を着ていて、カルテに目を通している。私の声に反応したらしく、頭を上げて一礼した。先生も岡田先輩のように、日焼けした肌で、爽やかな笑顔を浮かべる人だ。年齢は四十前半くらいだろう。

 木澤先生も男性だが、彼については極度に怖い感じはない。初めて会った時は雄々しい風体なので、恐怖を抱いた。私がうじうじしていたら怒鳴りつける先生なのではかと思い、委縮しながら話した記憶がある。けれども、全然違った。私の話に頷きながら最後まで聞いてくれるし、大変でしたねと同情もしてくれる。父や竹迫君とは違う誠実な男性だと感じて、この人を信じた。だから、今も通っている。優しい先生だ。

「山本さん、どうぞ」

 差し伸べられた椅子に腰をかけて、カウンセリングが始まる。先生から最近眠れているか、不安に心が押しつぶされる感覚があるか、処方された薬を飲んでいるか。いつもと変わらない質問をされる。身辺報告では、広報部から人事部に移動したこと。そして、中学時代の記憶が夢に現れたことを話した。いつも通りのカウンセリングだったが、夢の件を伝えると先生は、もう少し聞かせてほしいと詳細を尋ねてくる。

「その生徒さんのことは、まるで覚えていない?」

「そうですね。顔も光で遮られていて、全然、思い出せないです。場所は多分、県立体育館のはずです。そこで彼女に過去のトラウマのことを話して、励まされて……」

「そのトラウマというのは以前話された、男子生徒から告白されて、嘘だったと言われた内容ですよね」

 カルテにペンを走らせながら先生は問いかけてきた。嫌な過去が頭に浮かんでくるが、堪えて私は「はい」と答える。先生は「なるほど」と言い、カルテに書き込んでいく。うーん、と唸ってから先生は私の名前を呼んだ。

「もしかしてという可能性ですが、その夢の中の少女は、山本さんが作り上げた妄想かもしれません」

 予想斜め上の発言に、私は目を瞠った。

「えっ、妄想、ですか?」

「可能性ですよ。ただ、お話を聞いていると、今もお父さんの会社に勤めていていますよね。そこで部長さんに怒られて、強いストレスを抱えている。山本さんの精神状態や、こうして通院されている現状を理解していないというか、理解されていない状態で。結局、その強いストレスから逃れたくて、山本さんがこれまで、歩まれてきた人生の中で一番楽しかった記憶が不完全な形で呼び起こされた。と考えられるわけです」

 先生に言われると、確かにそんな気がしてくる。本当は、夢の中で会った少女は存在せず、現実逃避から作り上げられた存在なのかもしれない。けれど、私は当時、確かに誰かと体育館まで話をした記憶がある。それが誰なのかが分からない。もしかすると記憶違いで、男性だったのかも。考え込んでいると、先生が話を続ける。

「まあ、ぶっちゃけて言うと、山本さんの適応障害は、今のままでは治らないです。夢に出てくると言うことは、かなり精神的に疲弊していると考えられます。ちょっと、言い方悪いですけれど、山本さんは、どうしたいんですか? 今の会社で頑張りたいんですか? それとも、別の会社で頑張りたいんですか? ここがあやふやだと、私達も、どうしたらいいのか分からないんですよ」

 先生から問い詰められ、私は閉口した。自分で、どうしたらいいのか分からない。私は、どういう生き方が合っているのだろう。

「その様子ですと、ご自身でも、どうしたらいいのか分からない状態なんだと察します。ただ、このまま何もしないでいると、当然、この苦しい状態がずっと続きます。一つ提案なんですが、このストレスをなくす努力をされては、どうですか? 例えば一生懸命に打ち込める趣味を一つ持つ。マラソンとかゴルフとか」

 趣味か。これと言った趣味は確かになかった。たまに美術館に赴き、絵画を眺めることはあるが、完全な趣味でない。そういえば、中学の頃、バレー部を退部した後は文芸部に入っていた。あの頃は随筆や短編小説を書いて、色んなコンテストに応募していたっけ。全然、入賞もできなかったけど。今は、全く書いていない。それどころか、読書さえ皆無状態だ。本なんて何年も読んでいない。

「ひとまず山本さん、また来週、来てください。できれば身体を動かす趣味を一つ持つと良いと思います。ストレス解消効果が期待できますから」

 先生に頭を下げて、礼を伝える。ただ、最近になって思うのは、この通院に意味があるのだろうかと。入社したての時に木澤さんのところで、お世話になってから既に二年が経っている。正直、何も変わっていない。寝つきが良くなったわけでもなく、男性に対する恐怖も不安も取り除かれず。ただただ、通院に時間と金と割いて、無駄遣いしているだけのように思える。この通院に、カウンセリングに意味があるだろうか。

 待合室に戻り、支払いと処方箋を貰うべく待機する。テレビを眺めながら木澤先生の言葉を思い出す。趣味を持つか。そういえば、今日の樺沢先生の動画でも運動が良いと話していたな。

 ――抑うつには、運動が特効薬。

 やっぱりバレーかな。マラソンとかもいいかも。でも、今更、身体を動かそうという気にならない。それは動くのが面倒だからという、なまくらな理由ではなくて、動いたって治らないだろう。というネガティブな思考が支配しているからだ。もしかすると、私は、このマイナスな現状に満足しているのかもしれない。自己憐憫に陥り、私なんて……って自分自身に酔っているのではないか。悲劇のヒロインを演じていることに、楽しみを見出しているのかも。そう考えると、ますます身体を動かす気になれなかった。

 帰宅してシャワーを浴びてから、リビングに戻る。クッションの上に座り、テレビをつけた。全く面白くないバラエティばかりが流れ、溜息をつく。そういえば最近、笑っていないな。最後にお腹の底から笑ったのは、いつだったのだろう。それさえ覚えていない。馬鹿馬鹿しい番組を消して、壁に背中を預ける。何もかもが虚しい。こんな人生でいいのだろうか。いつまでも、この無限ループから抜け出せない。幸せになりたい自分と諦めている自分が、中途半端に滞在している。だから、何もかもが、曖昧になっていた。

 起きていても、楽しくない。夜の十時だが、ベッドの中へ入り込む。唯一、少しだけ人生が変わってきているかもと思えたのは、あの夢を見た事だと言える。記憶の中の彼女。その少女を思い出せた時が、きっと快感に変わると思う。その時が楽しみだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] スタートの夢から始めるところから、 このあとどうなるのだろう!と気になりました。 また、主人公のキャラ付けも良くできており、 確かに過去にこうだったならここまで鬱々しくなってしまうなあと納…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ