喪失の星
喪失の星
少年法六一条・「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」
これがこの国の法律である。つまりは20歳以下の犯罪者を世間にさらすことをしない、ということである。
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今日、アイツの審判が下された。
アイツが再び、私たちと同じこの世界の空気を吸うのかと思うと自らの肺を潰してやりたい気持ちに駆られる。
何故奪った者が何一つ奪われず、奪われた者がまた奪われ続けるのだろうか。
目の前には「代理人」を名乗る人間が何度か尋ねてきた末、置いて行った数通の封書が置かれている。封書の封はどれも未開のままである。所詮開いたところで何一つ解決しないだろう。
窓際の棚の上には今となっては動く影もない姿が微笑む写真が飾られている。
事件はおよそ半年前程、その日は進行中のプロジェクトが佳境に差し掛かっており、私自身残業なんて当たり前の日々を過ごしていた中にあった。珍しく仕事中に美保から電話がかかってきて、「誰かに後を付けられている。」と、迎えに来てほしい、出来れば電話をし続けてほしい。そう言う美保に私は「表通りを帰りなさい。今兄ちゃん、忙しくて手が離さないんだ。」と、淡白に返し一方的に電話を切ってしまった。
日を跨ごうかという時間にやっと帰宅した私は何も不思議に思わず、帰り際買ってきたコンビニ弁当を頬張りながら何気なくニュースを見ていた。そんな私は深夜にも関わらず無遠慮に鳴る固定電話を無造作に取り、不機嫌に用件を尋ねた。
電話の向こうからは私の全てを奪う声が聞こえた。
刑事が言うには遺体は廣江川の河原に倒れているのを帰宅中の酔っ払いが発見したらしい。遺体には殴られた痕はあったが性的暴行を受けた様子はなかったそうだ。強く抵抗されたから最終的な目的を果たす前に川に突き落として彼女を殺害してしまったらしい。
それ以降はほとんど何も覚えていない。気がついたら、通夜や荷物の整理なども終えていた様で私は生前彼女のいた時と同じような生活を送り始めていた。
その後すぐに犯人が逮捕された。17歳の少女に暴行を働こうとして、逮捕されたのは16歳の少年だった。彼は逮捕以前に複数の少女に暴行を働いたことをほのめかし、容疑がかけられ、その中で妹の亡くなった現場に残されていた指紋や足跡から彼が重要参考人として挙げられた。
しかしながら、彼に関する報道は’’少年法六一条’’により、報道規制がかけられた。そして、我々当事者に対してもその情報は徹底的に伏せられ、私は私から妹を奪った人間に関して何も知ることが出来なかった。
テレビでは淡々とこの審判に関する報道が流れていたが、私の耳にはすべて戯言にしか聞こえない。テレビでは逮捕のきっかけとなった暴行事件は当事者同士の痴情の縺れの結果であり、二人は以前から知り合いであった、という点から少年に対しては保護処分が妥当であろうと専門家が訳知り顔で話している。マスメディアでは以前からこの事件に対し、少年を擁護するような報道が多かった。そもそも彼が逮捕された事件以外、つまりは発覚していなかった暴行事件に関して報道されないどころか、表沙汰にすらなっていない。
何故こんなことになったのか。彼が犯した罪を知るのは当事者とその家族以外にはほとんど知られていない。皆口を噤んだのだ。目の前に庶民が一生かけても見ることが出来ないであろう金額を積まれ、更に自らの事―家族、会社、友人あらゆることを徹底的に調べられている。止めには某巨大政党の関係者の名前を出されては自殺願望でもない限り、口を紡ぐ他あるまい。
私自身もその口を噤んだ人間の一人でもある。最後に残っていた意地が働き、〈お詫び〉を受け取る事だけはしなかった。しかしながら、結局何も口にする事無く今日ここまできた。
その結果奴はその大きな力の庇護の下、太陽の下を闊歩している。
私はくだらないニュースを流し続けるテレビを消し、会社に向かう為に家を出る。もうこの感じにも慣れたものだ。美保が生まれてから18年間彼女がこの世に存在しない瞬間などアリはしなかったのに、この半年でそれが変わってしまってもこうして何も変わらずにいる自分自身に自らが最も驚いている。これからもこうして今迄通りの生活を送り続けていくのだろうか。
そうして今日も一日が過ぎ去っていく。失ったものなど気にかけない様な生活に。
気付いたら見知らぬ建物の前に立っていた。そもそも自分が何故ここにいるのか、今まで何をしていたのか、会社を出たところまでは記憶に残っているのだが、それ以降の記憶が曖昧になっている。建物の入り口には
「代行屋」
特に目立った装飾もなく、全く派手さ・華やかさがないともすれば誰にも気づかれないのではないかと疑いたくなるような看板がそこにはあった。
私はその看板を訝しみながらもなぜか無視することが出来ず、自然と足が屋内へ向いていた。
階段を二階分上がると目の前にまたしてもあの文字が
「代行屋」
こちらは部屋の扉などにかけるような表札サイズで質素な色合いで古びた扉と調和している。
私の中で開けてはいけないという理性をこの先にあるものが今私が求めているものだと本能が押しのける。私は扉に手をかけて
その《境界》をくぐる
そこはいくつかの棚に囲まれ、中央には応接用の机と椅子が置かれ、その向こうには書斎にありがちなデスクが置かれている。
そんな部屋には三人の人間がいた。一人は私の二メートルほど前にいるスーツを着込んだ30代ほどのガタイのいい男。応接椅子と書斎デスクの間に立っているのが20代中頃のブラウスにタイトスカート、そして眼鏡の奥の涼しい瞳が印象的な秘書風の女性が。
そして、部屋の最奥書斎デスクの向うに腰かけているのが20代半ばから前半、いや下手したら10代といっても過言ではない青年が何の感情も感じさせない目で此方を見つめている。
まるで異世界に飛び込んだようだった。彼らが纏う雰囲気は普段私が接触するような人々とはどこか違ったもので、普通の人間であれば萎縮してしまうかここを飛び出して逃げ出してしまうだろう。しかし、私はなぜか彼ら、いや部屋の奥にいる彼の眼を見つめ返した。
「どうぞ、こちらへおかけください。飯田隆之様。」
秘書風の女性が応接机の手前の椅子を勧める。私は一呼吸おいてから足を椅子へとすすめた。椅子に腰かけると秘書風の女性とガタイのいい男が私と相対するように向かい側の椅子に座った。初めに口を開いたのは秘書女性だった。
「初めまして、私は当事務所の事務担当霧島愛海です。」
彼女の言葉に私の中ある一点が引っ掛かった。
「当、事務所?」
「ハイ、ここは通称「代行屋」、正式には『速見諸事代行事務所』という代行事務所を行っています。こちらが遊撃担当の三國玄播。そして後ろにいるのが当事務所の所長で「代行屋」の速見綺聖。飯田様、お望みの代行はどのようなものですか?」
唐突に話を振られた私は当然の質問とその質問内容の不可解さに眉をしかめる。お望みの、代行…?看板にもあったが一体「代行屋」とは何なのか。そもそも、彼女(彼ら)はどうして私の名前を知っているのだろうか。
私は彼らの顔に見覚えがないし、実際にあったのもこれが初めてだろう。
しかし、彼らはそれ以来私に話しかけるわけでもなく、互いに会話を交わすこともなくただ私が口を開くのを待っている。
そこで私は先の質問に答え得る、彼らが聞きたいことであろう私の中の唯一の事を口にすることにした。
「私には歳の離れた妹が居ました。美保という名前の優しい子でした。彼女が幼い時に両親が事故で亡くなり、両親には交流のある親類もなく私達兄妹は養護施設でしばらく暮らした後、私が高校を卒業したのを契機に二人で暮らし始めました。裕福ではありませんでしたが、二人で慎ましく生活していました。」
私はここまで一気に言いきるといつの間にか目の前に出されていたお茶に手をかける。
お茶でのどを潤すと私は再び口を開く。
「それが、当然半年前に変わりました。奴が、ヤツが私からすべてを奪ったっ。それなのに誰も何もヤツに罰を与えなかった。なんであんなヤツが?どうして・・・。」
私は話している内に徐々に顔も知らない誰かの姿を頭の中に浮かぶ。そんな考えが頭を巡ると自然と背筋に汗を流し、両手が拳を作っていた。更に先ほど潤したのどが渇き始めているどうやら自分でも気付かなかったが声が大きく、激しくなっていったようだ。
「それで、飯田様はどのようになさりたいのですか。」
タイトスカートの女性―霧島が問いかける。
どうしたい…?彼女の言っている意味が分からない。私が先ほど話した話は確かに私自身の中にある壊せない何かを吐き出すように喋り続けた。彼らに話したところでどの程度伝わったのか、そもどうして私はあの事をこんな見知らぬ怪しげな人間たちに話してしまったのだろう。
そんなことで逡巡していると、ガタイのいい男―確か三國といったかーがここにきて初めて口を開いた。
「飯田殿がお話になられた事が何の事かは我々は存じ上げませぬ。されども如何様な事であれ、それが現実に起こったことで生きている人間が起こした現状であるなら、我々は必ずその事について【何を】【どうすれば】、飯田殿の望みに叶得るかを判断いたします。」
三國や霧島の意図するところがどこにあるのか未だに分からないが、彼が今言ったことは今の私が抱えている思いに対して何か切り込んでくるものあった。そんな胸中だからか、私の口からは自然と次の言葉がついて出た。
「私の妹はある少年に殺されました。しかし、少年法の規制で未成年だった彼には報道規制が敷かれ、私は妹を殺した男の顔を見る事すら出来ませんでした。それどころか、彼の親が相当な権力者のようで私や何人かの他の家族に対して圧力をかけ事件を揉消し、犯行すら発覚しない様に手を回されました。情けないとお思いでしょうが、それは自分が一番よく解っております。でも、でも私一人が騒いだところで誰も気に留めてくれず、反対に私や私の周りに圧力をかけ、容赦なく潰してくるでしょう。そんなことになれば、私や妹を支えてくれた人々に申し訳が立ちません。そんな言い訳で自分を納得させました。
でも、やはりどうしても許すことなど出来ない。彼がやったことはけして許されるものでなく、私以外の被害者やその家族もきっと許すことなど出来ないハズです。」
こんなに話したのはいつ振りだろう。私は心中抱えていた怒りや悲しみが吐き出したつもりだが胸の奥に何かまだ残っているような気がする。しかし、それが何かも分からずに分からずにただソコにあることに嫌悪感を覚えるだけである。
「それで、飯田様はどうされたいのですか?」
再び霧島が質問を投げかけてくる。そう、先ほども聞かれたがやはり彼女の言っていることを理解することが出来ない。いや、言葉としてはこの上なく理解している。
彼女は私に『何を代行してほしいのか』、それを尋ねようとしているのだ。
しかし、私は何をしてほしいのか、私自身が何をしたいのかが分からない。代行をして貰いたくても何をお願いしたのかが分からないのだ。
いや、違う。
私は私自身で気付いているのだ。ただ、気付きたくなかった、気付くことを避けていたのだろう。そうだ、私の中にあった嫌悪感はここにきて予感となって出てきていたのだ。
霧島、三國、そして速見の三人が私を静かに見つめ続けている。あたかも、私の中の葛藤を見透かしたように次の私の言葉を待っている。ああ、認めよう。
「私はあの男を苦しめたい。痛めつけたい。殺したい。」
私は半年間、絶対に口にしなかった言葉を初めて世界へ発した。
私の中にあった何かは言葉にした途端、どす黒い波となって私の中に満ち溢れてきた。
しかし、その言葉を聞いた彼ら三人は心なしか満足そうな顔をしている。
「それが、あなたの望みだな。飯田さん。」
速見が初めて口を開いた。感情が見えないその瞳と同様、その声もどこか無機質で冷めたような、しかいどこか哀しみを含んだような声をしていた。
彼は立ち上がるとこちらに向かって歩き出した。その姿は相手を威圧しないが圧倒的な存在感を有しながらも、吹けば霞んで消えてしまいそうなそんな雰囲気も醸し出していた。
「我々ならばあなたの望むことをやり遂げる事が出来る。例えそれが現実的に困難であっても、だ。」
速見は淡々とした口調で告げた。
彼はこう言いたいのだ。「ただ我々に任せればよい。」と。
私は大きな恐怖と不安に押し潰されそうになりながらも一抹の興奮がどこからか湧いて出てきた。
「でも、お願いするわけには…。それに依頼料?そういうのがあるのでしょう?申し訳ないが今の私には大した額は払えません・・・。」
私はどこかにあった最後の理性で答えが分かっている最後の可能性に賭けた。
しかし、帰ってきた答えは当然の応えで分かりきったことだった。
「我が事務所では金銭の類を請求致しません。」
そう答えたのは霧島だった。ただ、この応えには続きがある。それこそが私がこの事務所に入ってからずっと感じていた。陽の光が射しているにもかかわらず、私を捉えて離さない独特の空気の正体なのだ。
「お金は戴かない。その代りあなたと私たち、正確にはこの私速見綺聖とある契約をしていただく。」
「契約…?」
私の中の感覚が徐々に私の身体から離れていくような錯覚に襲われた。きっと、この先を聞いてはいけない。頭ではそう思いながら、どこにあるのかは分からない心と呼ばれる部分が私にこの先へ行けと急かしている。ここを開けたら最後。私はその扉を開けるのか?
自分の中の衝動を止めきれない。彼に呑まれたらイケナイ。
「それはどんな契約ですか?」
私はその一歩を踏み出した。
「我々は飯田さんの望み、今回は『妹・飯田美保を殺害した人間を苦しめ、殺害する。』それが今回の“代行”。その代行を遂行する。もちろんその過程で飯田さんに影響が及ぶこともないし、前提として我々の存在が表に出る事すらない。あなたが望めば、途中経過を報告する事も出来る。結果もきちんと連絡する。それが我々の仕事だ。」
その内容は魅力的だ。しかし、彼らのやろうとしていることはどうしても犯罪となる。それなのに私や自分たちが捕まらない様にすることなど可能なのだろうか。
そして、三國が私の不安を予想していたように、
「我々はその道のプロです。調査、実技、隠ぺい。ありとあらゆる点で間違いはありませぬ。もちろん、各所への根回しなども様々な方面で可能です。飯田殿の懸念される事柄については心配いりませぬ。」
三國の発言に私の中に彼らに対しての恐怖心が増幅していくのを感じた。
しかし、その恐怖はまだ終わらなかった。いや、恐怖というのなら既に私はそれ以上に彼らの提案について関心を惹き付けられていた。
「そう、飯田さんは契約を結んだら、日常生活に戻ってただ待っていればいいだけ。それであなたの望みは成就される。その代償に・・・。」
そして彼は最後の決定的な一言を投げかけてくる。
「貴方の一番大事な者を頂戴いたします。」
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結局私は彼、速見綺聖と契約を結んだ。あの後彼らに何を代償とすればいいのか、自分の『一番大事なもの』とは何なのか、幾度か尋ねたが三人とも「それはお客様の中でしか分かりませんから。」と口を揃えて答えられた。そのため、私は何を代償とすればいいのか分からなかった。しかし、例えそれが私の命だとしても私は後悔しない。彼に奴を殺してやると言われ、私は私の全てをかけてヤツを葬り去ってやると決意した。そうして私は彼と契約を結んだのだ。
「それでは、一定の段階までご依頼が進展いたしましたら連絡差し上げます。」
そう言われ私は「代行屋」の事務所を後にしたのだった。
今振り返るとあの事務所に入ってから30分から1時間弱しか居なかったハズなのだが、あの中に居たのが3時間も4時間も居たような気がする。こうして我が家に帰り、一息つくとすべてが夢か幻だったのではないかと錯覚してしまいそうだ。いや、実際に私の周りには何の変化もなく、私自身も特に気にするとこもない。もしかしたら本当にアレは私の精神が見せた幻覚だったのだと思えてくる。そんな時だ。突然鞄から携帯電話の震える音が聞こえた。時計は間もなく日付をまたぐかという時間帯だ。私の知人にこんな時間に連絡してくる夜型人間がいただろうか。私は携帯を取り出し、表示された電話番号を確認する。表示されている番号は私が見知らぬ番号で私は不審に思いながらも、通話のボタンを押した。電話の向こう側から聞こえてきたのは、幻でもなく確かな現実の声だった。
「夜分に失礼いたします。霧島でございます。」
その声は私の精神の正常性をこの上なく証明してくれた。
「き、霧島さん?どうしたんですか?」
彼女が連絡してきたのにも驚いたが、こんなにすぐに連絡が来るとは思わなかった。
「申し訳ありません。至急飯田様にお伝えしたいことがございまして・・・。確認にもなるのですが本日飯田様が当事務所の看板をご覧になってから事務所をお出になるまでの間に起きたこと、見聞きしたことは他言無用にお願いします。もちろん、今後も私どもとの間に起きたことも他言無用でお願いいたします。こちらの事に関しても契約の一部として扱わせていただきますがよろしいですね?」
文章は下手に出てお願いしているようだが、その実有無を言わせぬ意思が彼女の言葉の節々から感じ取れる。それは彼女の未熟さでなく、あえて私に感じ取らせている。つまり彼女は帰ってくる答えを知りながら、私に決定権があるように感じせるため、私に質問したのだ。
「はい、わかりました。大丈夫です。」
私は与えられた答えを応える。この展開は決まっていいたものであった。彼女はすかさず次の話に移る。
「それでは、今度は飯田様の望みが一歩進んだら連絡を差し上げます。」
そう言って、彼女は一方的に電話を切った。これでは、行儀が成っているのかいないのかよく分からない。しかしながらこれであの『契約』が現実であったと改めて認識できた。
あまりにも馬鹿馬鹿しい話過ぎて、他人に話すことなどできない。そもそも未だに自分の身に起こった事なのに自身が完全に信じ切れていないのだからそういう発想に至るまでもなかった。
そして私は不思議な確信と微かな不安を抱えながら、微睡の淵より深き眠りに落ちて行った。
それから数日、何ら起こることなく私はいつも通り生活していた。相も変わらず喪失感を心のどこかに抱え、日々の生活に追われてしまっていた。半年以上経ち、周りの人々も私への同情や哀れも徐々に薄くなっていき、アレ以前の世界と同様になっていた。
妹の事件も事故死として扱われており、誰一人私たち兄妹に関心を示す者は居なかった。だからだろうか、私自身もそんな環境に身も心も埋もれていくようだった。
埋もれていく私に形を再び与えたのはそろそろ床に就こうかとしていた夜半過ぎだった。
表示されるのは見覚えのない番号。私は妙な既視感を覚えながら電話の着信ボタンを押す。
「夜分遅くに失礼いたします。霧島でございます。飯田様にお伝えしたいことがございますので明日の午後いつでも構いませんので当事務所までお越しください。」
そう一息に告げると霧島は再び一方的に通話を終了させた。私は呆気にとられしばらくの間携帯を耳に当てたまま、茫然としていた。そして忘れていたあの感覚が徐々に身体に浸透するのを感じた。何か進展があったのだろうか。そういえば、前回もだが私は彼らに連絡先を教えた覚えがないにも関わらず、携帯に連絡がかかってきた。更に今回と前回とでは発信元の番号も全く違う。私はあらゆる点で正体の見えない相手に私の望みを叶えてくれるのではないかという期待と関わってよいのかという不安が共に膨らみつつあるのを感じていた。
翌日、仕事をいつもより早く切り上げて、早々に「代行屋」の事務所に向かった。
実は初めてこの事務所に来た翌日、私は前日の出来事が信じられず、この事務所に足を運んだ。しかし、記憶を探りながら事務所を目指していたのだが何度思い返そうとしても『事務所がどこにあるのか』『事務所にどのように行ったのか』が記憶にないのである。結局私は二時間ほどさ迷い歩いた揚句、疲れ切って路肩のカフェに避難するという、無駄な時を過ごしたのであった。
しかし、今日こうしてこの事務所に向かっている時はそんな時間も忘れてしまい、まるで何かにトリツカレタようにここに足を向けていたのであった。
私は再びその扉を開いた。この日中に居たのは電話をかけてきた霧島と相変わらずスーツをキッチリ着込んでいる三國だけで、所長の速見の姿は見えない。
「ようこそいらっしゃいました飯田様。どうぞこちらにおかけください。」
勧められたのは前回腰掛けた椅子と同じ椅子だった。違うのは私の目の前に座ったのがスーツ姿の三國だった事であった。
「申し訳ございませぬ。速見は本日席を外しておりまして、手前の方から報告させていただき申す。まず、飯田殿の妹御を手にかけた罪人について分かったのでそちらをお教えいたす。」
三國の口から出たのは私が最も知りたい事、言ってしまえば【本命】だった。
私は興奮と緊張からか、続きを促す言葉を紡ぐことが出来ず、のどを目の前に出されたお茶で潤す他なかった。そんな私の様子を見た三國が言葉を続ける。
「その者の名は藤堂勇二。16歳の高校2年生。高校生といっても実際にはほとんど学校には行っておらず、知人の不良やゴロツキ達とつるんでよく悪さを働いているようです。
所属する高校は県内でも屈指の進学校の様ですが授業に全く出ていないにもかかわらず、書類上は優秀な成績を記録しております。このような生活を送っているのに藤堂は警察や役所の世話になったことがなく実際にはどうであっても形式上は全く真っ当な人間として扱われております。」
報告内容が進むごとに私の中で下火になっていた憎悪の炎が再び燃え上ってくるのが分かる。関係ないのを分かっているのだが、つい目の前にいる人物たちにキツイ視線を送ってしまう。しかし、彼らはどこ吹く風か報告を再開する。次に彼らのした報告は私の手には余るものだった。
「どうして、ここまで彼が傍若無人に振舞えるのかは彼の家族構成にあります。彼の祖父はかつての内閣総理大臣・藤堂啓二郎。大叔父は経済界きっての重鎮・三船征二郎。そして実父は衆議院議員で現在の与党・民議党政調会長、藤堂元三郎。次期首相候補の筆頭人物です。」
彼が口にした内容はあまりにも驚くべきものであった。藤堂元三郎、父親から受け継いだ地盤とその卓越した話術で地元で強い後押しを受け、国政に挑戦。その類稀なるリーダーシップを発揮し、瞬く間に党内でも指折りの実力者に昇り詰めた、現在ではこの国屈指の権力者である。つまり、私たちが敵に回すのは国内最高権力者の一人なのである。
「更に勇二は元三郎の一人息子で家庭的・社会的な立場から息子を擁護し続けている。故に先ほどのように学校でも地域でも藤堂議員の圧力で常に守られてきたようです。」
ここまで話し終え、三國は持っていたファイルを閉じ、机の上においた。
それを合図にしたかのように霧島が口を開く。
「ここまでが今現在までで判明した情報です。」
これだけいうと霧島は黙り込んでしまう。さっきの報告を終えた直後から黙っている三國と合わせ、4つの視線が私に突き刺さる。何を待っているか、彼らは黙って次の時を待つ。
私は常識的な考えから、
「分かりました。ありがとうございました。」
私は意を決して次の言葉を吐き出す。
「ここまでで充分です。犯人が、妹を殺した相手が誰か分かれば大丈夫です。後は自分でやります。」
私は彼らに対して終わりを告げた。速見以外の二人であれば、意見を言うのには苦労しない。しかしあの所長に対してだけはきっと何も言えずにうなずいてしまうだろう。この二人ならあっさりと引き下がってくれるだろう。しかし、私の予想外に霧島が私に応える。
「いいえ、飯田様。それは承諾いたしかねます。我々は、特に所長は一度契約を結んだら、ホントに依頼者が自ら依頼内容を遂行できると確定できるまで決して契約を破ることを良しとしません。それは依頼者からの申し入れであっても同様です。
当方では今の飯田様には飯田様自身の望みを自力で叶える事が出来ないと判断しております。」
霧島の発言に私はのどまで出かかった言葉を飲み込むことになった。それは自分自身の矮小さを知っている己が一番知っている。それを何の婉曲もなくただひたすら真実を突き付けられた。だからだろう、何一つ彼女に言い返すことが出来ない。
きっと、命を賭しても私は願望を成就出来ないだろう。
そんなこと当たり前なのだ。私は自分に命かけてもいい、と言いつつ、代行成就の果てにある代償『一番大切なもの=命』を失うのを心の底から恐れていたのである。そして、【対象者】である藤堂勇二が分かった途端、わが身愛しさが先に立ち、確実な復讐を捨て自らで消化しようとしているのだ。もちろん自分の命と刺し違えてもヤツの命を狙うこともできるだろう。その成功確率が低くても、だ。だけど私はきっとそんな事しない。そんな困難な成功に命をかける事は私は出来ない。だからきっと私は藤堂への恨みを持ち続け、それを彼に向け続け、そして彼に囚われながら老いて死んでいくだろう。
彼女らはそれを分かっている。私がどこまでも保身的でどこまでも小さな人間であることを理解している。だからこそ、彼らは易々と代行のミソともいえる【対象者】のパーソナルデータを惜しみなく公開したのである。だから、私が回答する内容は決まっている。
「分かりました。スイマセンでした我儘を言って。以後もよろしくお願いします。」
そう、私はあの契約を結んだ時からもはや彼らと共に終わりまで行くしかなくなったのだ。
結果として私は私の欲望を彼らに託すしかなくなったのである。
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そうして、自分を定義づけられた事務所から自宅に帰ると美保の写真が目に付いた。
彼女は生前と同じように暖かく微笑んでいた。それはまるで私の今を許すような優しい微笑みのようだ。私は頭を振るとくだらない自己陶酔から脳を抜け出し、テレビをつける。
ネクタイを緩め、耳だけでテレビに注意を向ける。コップに水を汲み、のどを潤し一息つく。テレビではニュース番組が流れ出していて、ここ数日世間を賑わしている芸能人夫婦の離婚騒動について様々な種類の人間たちが意見を述べている。私は早々に床に就こうと思い、風呂場に足を向けた。その時だったテレビから私の意識を奪うニュースが聞こえてきた。
「本日夕方6時頃、仙栄市秋葉区の工場跡地で10代から20代の男性5人が意識不明の状態で発見されました。発見されたのは・・・。」
そこから述べられた名前はつい数時間ほど前に目にした名前と全く一緒だった。
『それからこちらはさっきほど申し上げた藤堂勇二の取り巻きの者たちの名簿です。
彼らは直接犯行に及んでおらずとも間接的に藤堂の犯行を幇助しているようですので一応、飯田様にもお教えいたします。』
そう言って、霧島が差し出してきた紙には10人弱の顔写真と個人情報が掲載されていた。
そして今、ニュースから流れ出ているのはその内の5人のことであった。
「・・・5人には外傷はなく、意識不明に陥った原因は判明しておらず、警察では何らかの集団的ショックによって意識を失ったものとみて、捜査を続けております。続いては市内の動物園からリスが逃げ出し…。」
原因不明の意識不明…、私の頭には思わずあの男速見綺聖の顔が即座に浮かんできた。そういえば、私が夕刻事務所を訪ねた時には彼は居なかった。不在の理由はハッキリしていなかったが、もし私が事務所で自分虚しさを痛感している時に彼がその公園に居たなら…。
そう思うと他に誰も居ない筈のこの部屋に何か得体のしれないモノが漂っているような薄気味悪い気がした。
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次に連絡が来たのは、雨が降り注ぎ、空気がジメジメする嫌な空気の土曜の深夜だった。私の携帯を震わせていたのはまたしても知った覚えのない電話番号だった。しかし、私の中は確信的にその電話を鳴らしている人物を思い描いた。
「こんばんは、飯田様。霧島でございます。」
いつも通り涼しげな声が電話の回線を通じても耳に入ってくる。
「あっ、どーも霧島さん。また報告ですか?今すぐにでもそちらに行けますよ?」
私はこないだの事件における期待からかあの事務所に行くことに対する強い願望が生まれていた。そう、あの速見という男の言動が謎に包まれている今、その不審と期待を抱いているのだ。
「いいえ、本日は電話で充分な話なのでこのままで失礼いたします。しかしながら重要な事項ですのでしっかりとお聞きください。」
私の携帯を持つ手に力が入った。予め重要な事項と前置きするのだ、余程のことであろう。
「私どもの調査の結果、飯田様のご依頼の遂行に関して完全実行が可能な状態まで進みましたので、飯田様のご依頼を本格的に開始いたします。そして、・・・。」
この今、掌に汗が滲んでいる。私の待ち望んでいた時に・・・。
「1週間以内に全ての依頼が終了する事となります。」
それがこの契約の終わりであり、同時に私の余命を告げるものであった。
そんな電話から三日が経ち、私の命の残時制限が刻一刻と減っていく中で彼らの動きが全く垣間見えない状況が続いていた。私は週初めの昨日から徐々に手元の仕事・作業を片付けたり、引継をしたりとしていた。周りからは不思議がられていたが、私は出来る限りに他人に迷惑をかけないように消えていこうと決意し、そうしようと決めたのだ。
勿論、仕事だけでなくあらゆるところで少しずつ身辺整理を始めていた。
そんな日々を過ごし始めていた私に契機が音連れたのは気怠い時間が流れ始めていた木曜の午後であった。私は少し遅めの昼食を会社の近所の行きつけの定食屋で採っていた。食事をしながらふと、店に備え付けてあるテレビに目を向けると先日の集団意識不明事件の続報が流れている。
「・・・警察はこの事件に関わりがあるとして知人の16歳の少年を参考人として任意同行しました。この少年は近時、傷害事件に関して少年審判にかけられていましたが、過失による事故として保護処分の決定を受けた少年で・・・。」
私の耳は驚きにとられ、そのニュースに聞き入ってしまった。
知人の少年・・・といえば、藤堂か?私は思わず大きな音を立てて立ち上がってしまった。周囲の客が驚いてこちらを向いたが、私は気にせずテレビに近づいてそのニュースに聞き入った。
「・・・この少年は傷害事件を起こしたとはいえ、平時では真面目な普通の少年なのに審判にかけられたからといって、すぐに関係していると決めつけるのは警察の横暴ではないでしょうか。恐らく警察は何回かに分けて事情聴取をすると思いますよ。」
澄ました顔で専門家が解説している。確かに今回は藤堂は関係していない。それ故この警察の動きは無駄だと言わざるを得ないだろう。
そしてこの報道は夜になり次の展開を迎えた。私は夕食を採りながらそのニュースを目にした。私は昼間以上の驚きを以ってこのニュースを見ることになった。
「本日警察で事情聴取を受けていた少年が午後6時頃、警察署を後にしたところを報道陣が質問しました。」
そういうアナウンサーの声に続き、インタビュー画像が流れる。
『僕は先日、僕自身の過ちにより他人を傷付けてしまいました。審判によりこうして社会生活の中に戻って来れましたが、自分の犯した罪を一生をかけてでも償おうと思っています。しかし、警察はその過ちを理由に僕が友人を傷付けたのではないかと疑ってきました。
僕は友人があんな目に逢い、とてもショックを受けているのにどうして彼らを傷付けることが出来るのでしょうか。警察の皆さんには一刻も早く真犯人の足取りを掴んでつかまえてほしいと思います。』
それはモザイクがかけられていたが、醸し出す雰囲気は霧島や三國に見せてもらったあの藤堂勇二のものであった。そしてタクシーに乗ろうとした藤堂に記者の
『今後、警察に対しての動きなどはありますか?』
という質問に対し、
『また、明後日来てほしいと言われたのでまた来るつもりです。僕は無実なので何の後ろめたさもなく彼らと話をしたいと思います。』
そういう藤堂の声はまるで聖者の祈りのように聞こえた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
このニュースは翌日も大きく取り上げられ、世間を大いに賑わせた。普段強く言えないことに対して堂々とカメラの前で述べた彼の発言はマスメディアの公権力批判とも相まって世間の人々に大いに支持された。これも恐らく彼の父親の影響が大きいのだろう。しかし、そんな世論をあえて無視するように警察は彼をとことん取り調べる気らしい。私の周りでも警察の態度を批判し、この少年を擁護するような言葉があちらこちらで飛び交っている。
「代行屋」が提示した期限日程まで2日を切った今、私にとってはそれらは雑音に聞こえてきて、関心を持つことが出来ない。私は花金という事で同僚たちに飲みに誘われたが、どうにもそのような気分になれず、彼らの好意を無駄にしてしまった。そんな後悔を抱きながら自宅に戻り、部屋に座り、ふと部屋を見回す。さまざまな記憶が詰まっているこの部屋は私が今の仕事に就き、3年ほど経ちようやく社会人として一人前になった時に美保も成長し、少し手狭になった前の部屋から引っ越してきた。それから3年、この部屋で過ごした日々を全て覚えているかと問われても、YESと答えることは出来ないだろう。それだけこの3年間の出来事は濃厚であり、劇的だったのだろう。しかし、この半年間のことはほとんど思い出せない。ただここ数週間の出来事はあまりにも現実離れしていた。果たしてこの記憶が他の記憶を霞ませたのか?それとも妹の死を突き付けられ続けたからだろうか?ともかく明日ですべて終わるハズだ。だから、今晩でこの部屋で過ごす夜は最後になる。そうなると誘いを断った罪悪感も少しは薄れてくれるだろう。
土曜の午前は私の思いに反するように何事もなく過ぎていった。私はその日静かに最期を過ごそうと自宅で過ごしていたのだった。変化が訪れたのは出前をとった昼食を終えた頃だった。見ていたお昼のバラエティを遮ったのがそのニュースだった。
「本日、検察は政治資金規正法違反の疑いで衆議院議員・藤堂元三郎氏の事務所に強制捜査に着手しました。検察では・・・。」
私はそのニュースを他の人々とは別の驚きを以って見ていた。そう、今まで最大のネックであり障壁であった藤堂元三郎が失脚したのである。さらにニュースは続けた。
「また、この強制捜査に伴い先日の発言で話題のこの16歳の少年ですが、この藤堂議員の長男であることが分かりました。警察ではこの少年の事件に藤堂議員も関わっていると見て、この少年の言動について調べなおす姿勢を見せています。」
崩れていく、藤堂勇二を守ってきた城壁が次々と滑り落ちるように簡単に崩れていく。まるですべてが川が流れるように。
しかしながら、私は一つの懸念に思い至って愕然とする。
もし、警察が藤堂の身柄を拘束してしまったら、逆にコチラ側が手を出せなくなってしまう…。そんな事態になれば私は、私は・・・・。
警察署の前はちょっとしたイベント会場になっていた。黒塗りの車から降りてきたのはスーツを着込んだ強面の男たちと彼らに連れられた藤堂勇二だった。彼の周りは黒い人だかりなっている。つい数時間前まで彼に同情の言葉を寄せていた連中が今や聞くに堪えぬ罵詈雑言を彼に投げつけている。そして、その人だかりはとうとう男たちと藤堂を囲み揉みくちゃにし始めてしまった。
彼らの口々から零れる言葉から推測すると、どうやらネットや一部のメディアで藤堂の過去に揉み消された事件が一般社会に浸透し始めてしまっているようだ。そのため、彼らは藤堂の先日の言葉の薄っぺらさ、悪意の濃さ、そういったものを感じ、それを糾弾するためにここに来た。【善人】達の様だった。
混乱するその場から黒い影がぬくっと顔を出し、素早く一群から抜きん出て距離をとる。
それに気づいた一団がそちらへ意識を向ける。そこで初めて抜け出した人物は己自身の言葉で話し始めた。
「何なんだよ?俺が何したっていうんだよ!あいつらの意識が戻らないからって俺が何かしたってのかよ!第一あいつらとは審判以来逢ってねぇのに何が出来るっていうんだよ?
大体、女どもだってそうだ。露出の高い服着てるくせにして、声をかけると興味がない、厭そうな顔しやがって!俺を誰だと思ってんだよ。地位も金もルックスも何もかも揃っている上等な人間だぜ!それをどいつもこいつも訳分かんねぇよ。何なんだよ?」
そう喚く、藤堂勇二はこれまでの好青年然とした態度から一変して、まるで狂人のように同じような事を喚き始める。私は手に汗を滲ませ、徐々にその集団、そして藤堂勇二にゆっくりと歩いて近づく。そんな中、藤堂はなおも喚き続けている。
そして、彼の次の言葉が私の最後の理性を切り裂いた。
「大体にして、皆五月蠅いんだよ!女の一人や二人居なくなったって誰も困りゃしねぇだろうが?」
その瞬間私は私を殺した。私という人格が完全に潰えた瞬間だった。
私は汗で濡れる手のひらで手に持っていたものを握りなおした。
私はじっとりとする掌で自宅から持ち出した包丁を強く握りしめた。
藤堂に近づく私の足は徐々に歩速を強め、ほとんど駆け足の状態までになった。
一週間の期間の限度である今日、彼らが藤堂に制裁を加えるその時が近づいているのだったが、ヤツがこうして未だノウノウと生きている、もしかしたら、このまま塀という楯に守られてしまう。そう思った途端、私はキッチンの棚から包丁を取り出し、駆けだしていた。
そうして、今、私の包丁は藤堂を穿つ。
その瞬間だった。私が藤堂から2〜3mの距離に迫った時、それまでただ喚き続けていた藤堂が突然一際高い声で叫び始めた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁありゃぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁ…」
それは奇声を上げているというよりも断末魔のよう悲壮感を激しく含んだ、聞くに堪えない声だった。あまりの叫び声に藤堂を非難していた連中はもちろん奴の最も傍にいた私は思わず耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。
どれ位藤堂が叫んでいたのだろう。私には二十分も三十分も叫び続けていたような気がしたが、実際は数秒間だけの様だった。気付いた時には藤堂の悲鳴が止み、辺りは静寂に包まれていた。私はゆっくりと頭を上げ、藤堂の立っていた場所を見た。そこには先ほどまで奇声をあげ、立ちつくしていた男が身じろぎひとつせず、その場に倒れ伏していた。
その場の誰もがその光景を認識し、その状況を飲み込めずにいた。私は立ち上がり、藤堂の伏すところへ足を向ける。彼の傍らに寄ると状況は明白で私の中の最悪の結果と同じものであった、
ソコには生命活動を一切停止させた物言わぬ肉塊が横たわっていたのだった。
藤堂勇二が死んだ。私はその事実に口を開くことが出来ずにいた。今先ほどまで私の目の前で妹を貶めた男が、その口が微動だにせず、冷え切っている。
この目の前の男が私に何をした?この男が生きてる間どれだけ他人に迷惑をかけ続けた?
この男の存在がどれだけの人間を苦しめたか?
そんな思いが頭の中で駆け巡る。そんな思いに頭を巡らせていくと徐々に頭の中が白く喪失していく。そうして私は、かつて仇であった者の横に崩れ落ちていった。
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本や資料に紛れてその存在を消し去ってしまっているテレビから誰も聞かない音が流れ続けている。
「本日午後5時頃、△□警察署前でこの警察署へ移送中だった16歳の少年が突如倒れました。警官が近づき確認したところ、既に呼吸が止まっており、署内において死亡が確認されました。少年には特に外傷もなく、毒物も検出されなかったことから警察では突然の心臓発作として調査を開始しており、居合わせた関係者に詳しく話を聞く予定です。
また、少年の傍には20代から30代前半とみられる男性が意識不明の状態で倒れており、警察は意識が戻り次第、この男性からも詳しく話を聞く予定で・・・。」
テレビからは今世間を騒がせている一大ニュースが聞こえる。しかし、今このテレビが置かれている事務所にはだれ一人いない。テレビは虚しく独り言を続けていた。
気付いた時は警察病院の白い天井が目の前で広く伸び広がっている。傍らには誰もおらず、誰かが生けてくれた花瓶の花だけが私の意識が戻った事を知る。私は働くことを拒否する頭に鞭を打ち、強硬に働かし記憶を探る。確か休みを利用し、久々に息抜きの散歩でもしようかと昼食後、ゆらりと外出したのであったが、それ以降の記憶が思い出せない。いや、存在していない。家を出て歩いたら、ここにいた。それが私の行動の全てだ。
ところで今日はいつなのだろう。私はやむを得ず、枕元ものナースコールを押し、私の疑問に答えてくれるであろう人間を呼び出した。
その後は当事者の私を置き去りにして周りが天よ地よへの大騒ぎだった。意識が戻ってすぐに警察を名乗る人物たちが現われ、私に倒れた時何をしていたのか、藤堂という男とはどんな関係なのか、等の四方八方からの質問攻めで数日を過ごした。精密検査も終わり退院した後も警察からの取り調べは続いた。しかし、そのほとんどが私が知らなかったり、記憶にないことであり、警察も様々な方法で取り調べた結果、私が一切偽りを述べていないことが分かるとさしもの警察も私を無関係と判断したようだった。
その週はやむを得ず仕事を休むことになったが、次の週からは自由の身となったので職場へ顔を出すことが出来た。事件のことを聞き及んでいたのか、出社するとすぐに同僚たちに囲われ心配の声を聴かされた。様々な言葉をかけられた中である言葉が私の意識をえぐった。
「しかし、飯田も大変だな。妹さんがあんなことになってから半年くらいしか経っていないのに、今度は謎の死に巻き込まれるなんてなぁ。」
妹・・・?ああ、そうだ、私には妹がいたのだった。名前は確か、美保、といった。半年前に事故で亡くなったのだった。しかし、どうして私は唯一の肉親であった妹のことを今の今まで忘れていたのだろう。彼の言葉で初めてその存在を思い出したのであった。
きっと、記憶の欠如に伴い思い出せなかったのだろう。そう考え、私を囲む友人たちに再び彼らに感謝の意を示すことに専念し始める。
しかし、彼の中で《飯田美保》に関してのものが埋もれて消えていくのを彼は自分自身で気付かなかった。
街角に不思議な3人組が揃ってある人物を眺めている。一人だけいる女性は白いブラウスを着て、タイトスカートを履いている。顔を見ると涼しげな瞳につくりのいい顔、世間的に見てもかなり美人の部類に入るだろう、そんな彼女の美貌を損なわず、むしろ引き立てているのは切れ長の目にかけられている眼鏡である。
もう一方にはネクタイを一切緩めず、スーツをキッチリと着込み、ガタイのいい体を包んでいる男。服装と同様にその表情も実直そうでしっかりとしている。
そして、二人の間には全身黒のコーディネイトでまとめた青年とも少年ともいえる風貌は時代が違えば、千両役者とも呼ばれるだろう優男風だが、纏う雰囲気は鋭利な刃物を想起させるようなちぐはぐな男であった。
「警察の方でも、藤堂勇二の死因を心臓発作による自然死と判断したようですし、飯田隆之の方も無関係な一般人として、捜査線上からは外れています。」
そう、手元の手帳を確認しながら、口を開いた。
「父親の藤堂元三郎氏も検察庁の調べにより、近く警察に逮捕される予定です。」
後を継ぐように三國が話す。
二人の話を黙って聞く優男。彼の手元では持ち主に存在を忘れられた包丁が遊ばれている。
彼らの共通の目線の先には数人の同僚とお昼をとりに行く男の姿がある。彼はコチラの存在に気づいたか、目線をこちらに向ける。しかし、彼は何も気に留めることなく、再び同僚たちと食事に向かう。
そもそもこれだけ目立つ三人組だが、誰一人彼らを気に掛ける者は居ない。
手元の包丁をハンカチで巻き、懐にしまうと優男が口を開く。
「俺たちが彼から奪ったのは『失った妹に対する記憶と感情』。勿論、彼自身妹がいたことは認識できるし、思い出そうとすれば思い出せる。しかしながら、周りは妹や家族について触れることはないし、自分自身で思い出そうとすることもなく、徐々に記憶は埋もれていずれ疑似的な喪失を迎える。彼は一番大事なものを失ったまま、喪失感を抱え、自分でも気付かないまま、一生を終える。」
見つめられていた男の後ろ姿が人ごみに消える。
「彼は妹を失った。そして、妹を失ったという事実は彼自身を苛み、自身の不行為を攻めた。その結果、心が空ろになり、世界を感じられなくなった。だからこそ、あそこに来た。
いや、来れた。そして、自らの罪をかき消す悪を目にし、耳に聞き、自分の中で誅した。
しかし、現実には誅する事は出来ない。だから人の手に己の過去の罪と未来の罪を押し付けた。しかし、今度は『押し付けた』という罪に苛まれた。それは次第に押し付けてしまった罪をも飲み込み、彼自身を殺した。」
優男は振り返り歩き出す。後の二人も後に続くように歩き始める。道には自然と誰も居なくなっている。それどころか彼らが向かう道には何もない。
「そして、彼は最後まで気付かなかった。人が誰かを殺すことは出来ない。法や秩序に支配されている社会の中で自分の倫理が『他人殺し』を許さない。だからこそ、人が人を殺すとき、初めは必ず自分を殺さなければいけない。その先の人殺しはただの『人間壊し』に過ぎない。結局、人が人を殺すなんて社会が決めたルールが生みだした妄想なんだよ。
『人を呪わば穴二つ』なんて言うけど、最初から呪った人間は穴の中だ。人々はそんなことも気付かずに穴の中でもがいている。」
彼は足元に転がっている缶を拾い上げ、近くのゴミ箱に投げ入れる。
空き缶は音を立て、ゴミ箱の中に落ちていく。
三人は一度足を止め、そのゴミ箱を見つめる。
「しかし、誰も気付かないのなんて当たり前なんだが、な。人が人を呪うなんてそこかしこになるし、人が人を壊すなんてそれこそ其処ら辺に転がっている。だから当たり前のことにも気づかない。
自分が傷つくなんて当たり前、自分の家族・友人が傷付けられるなんて石ころのように溢れている。それが『特別』でなく『普通』であることが『当たり前』なんだ。」
「もう失くなったんだよ。技術の進歩と共に失った夜空の星の光のように。それが進化した人間の結末なんだよ。」
再び足を運び始めた優男と残りの二人は誰も分からない未来にまた穴に落ちた愚者に救いと制裁を与えるためにあるべき場所に戻る。
三人が歩いた後には人々が歩く。何も知らない、何も知ろうとしない人々が街を行き交う。
そこには喜怒哀楽に溢れた世界で人々はその存在を続けている。
足元には深い穴と傷付けるための石ころが雁首を並べて控えている。
常なることを常ならざることと思いて、今日も『生きている』。
そして永久の喪失を抱えて人々が生きる世界で彼らは今日もそこに居る、そこで待っている。
終