夢のような人生でした
17作目です。『黄昏を歩いている』の派生作品となります。
生まれるということは、死ぬことと同じ。一見、真逆のように見えるかもしれない。けれども、本質的には何も変わらない。「誕生」というイベントがなければ、「死」というイベントは発生しない。逆に「死」がないとしたら、「誕生」というイベントは発生しない。実際のところ、「誕生」イベント自体はあるが、重要性は希釈されて空気と同じになる。ふたつは、表裏一体、いや、そもそも、裏も表もない。人間が勝手に区別をつけただけだ。何故か「誕生」を喜びとして扱い、「死」を悲しいものとして扱う。長い歴史の中で染み付いた悪癖と言っても過言ではない。ある種のミームのようなものだろうか。両者は輪のように繋がっている。それの「死」が占める割合が多いだけでしかない。先人たちのウロボロスや輪廻の考えは正しい。ただ、想像されるよりもスパンが長過ぎるだけなのだ。永遠に近い時間を経るだろうが、それは人間の知覚のキャパシティを軽々と超過しているため、認めることを脳が拒否するのだ。
「死」が悲しいという認識は、死ぬ者にとっては、怖いという認識に変化した。しかし、「死」というイベントは決してレアなものではない。地球規模で考えればわかる筈だ。ならば、何故、怖いのだろうか。それはきっと、死後の世界という概念の所為だ。地獄、天国、または暗い洞穴、或いは輝かしい宮殿。死後の世界は多岐に亘り、文化により様々な世界観を見せる。一般的には、天国のようなプラスの面しかない場所と、地獄のようにマイナスしか持たない場所のふたつに分かれる。だが、考えれば、基本的にはプラスとマイナス、つまり、半分はプラスなわけだ。それなのに、怖がっている。どうしてだろう。恐らくは、人間という存在自体が、物事をマイナスで捉える傾向があるからだろう。そうしておけば、失敗してもショックを軽減できるからだ。しかし、マイナスで捉えるあまりに、いずれは必ず通過する「死」において、地獄という「ハズレ」を考えてしまう。それがどんなに、ファジーな概念にも関わらず怖れているのだ。
人間は自ら作り出した地獄や天国の概念に苛まれている。「死」を怖れや穢れとみなしたのは人間の文化だ。人間は「死」に際して、自分で自分の首を絞め続けなければならないのだ。そして、それは時代が進むにつれて加速する。追い討ちをかけるように、寿命も長くなっている。「死」に苛まれる時間も増えているのだ。
久しぶりにバスに乗った気がする。最後は、中学生の時だっただろうか。十六歳でバイクの免許を取った以降は、確実に乗っていない。
バスを待つ、という感覚もなかなか新鮮に感じた。時間を贅沢に使っているな、と思った。
時は金なりという言葉があるように、時間は化石燃料以上に枯渇しやすい。それに、化石燃料は使わなければいいが、時間は使う、使わないの意思に関係なく消費されるものなのだ。故に、計画的に、どれだけ有意義に活かせるかが最も重要なことなのだ。バスを待つ時間だって、その有限の一部を消費しているが、それはバイクを使えば無為な消費は抑えられる。少なくとも、バスよりは有意義だ。効率的、とも言えるかもしれない。
昔は効率を重視していた。けれど、いつからだろうか、時間の無意味な消費が増えたように思える。日々、カウントダウンは進行しているのに、麻痺したように何もしないでいることが増えた。ただ窓を眺めているだけの時間が有意義に思えるようになった。苦いコーヒーが飲めるようになったみたいに、成長した結果なのだ、と結論付ける。或いは諦めとも言えるのではないだろうか。
バスは予定時刻に一分遅れてやって来た。ベンチに置いておいたリュックサックを手に取る。重い。
車内には運転手を含めて六人が乗っていた。そこに今のバス停で乗った四人が加わる。取り敢えずは、後方の座席に腰掛け、隣に友人が座る。
運転手はよく見えない。女子高生が三人、ロングシートに腰掛けている。友人同士なのだろう。話の内容はわからないが、絶え間なく口を開閉している。向かいのロングシートに男子高校生がひとり、よれよれの服を着た長髪の男がひとり。運転席に近い席に、カーディガンを羽織った女がひとり。あとひとりは、斜め前の席の男で、新聞を読んでいる。
バスが振動した。風景が緩やかに移動する。
「バスなんて久しぶりだ」
縹水登万は言った。
「乗る必要がないから」
横に座っている友人、八重森雫は素っ気なく言った。
「必要がなかったら走ってないよ」
「レンジが違う。私は君の話をしてる」
「うん、二択だった」
雫はショルダーバッグから文庫本を取り出した。スタインベックの「怒りの葡萄」だった。面白いの、と訊こうとしたが、読書中の彼女に質問を投げ掛けるのはご法度だ。普段から安定していない機嫌が悪くなることは必至だ。いや、安定はしているのか。平常が不機嫌気味なのだ。
話が出来なくなったので、登万は窓の外を眺めることにした。この眺める際の姿勢の最適解が子供の頃から見付からない。死ぬまでに見つけられたらいいな、と思っている。
窓の外は海が広がっている。バスが動いても、動かなくても海が広がっている。変化があるのは海岸線だけ。段々と砂浜が消えていく。
バスが止まった。乗ってから約五分。夜彦坂というバス停だ。ここの坂からは夜の海が光る現象が見られる。そのためか、「夜光」という言葉が訛って「夜彦」になったとされている。それ以外の情報は知らないところだが、一気に六人が降りた。あとで雫に訊いたところ、付近の高台に住宅街があるそうだ。
現在、乗っているのは、登万に雫、運転手、そして、ふたりの斜め前の男だけだ。雫は依然、読書をしているし、斜め前の男も新聞を読んでいる。登万も眺めることを続けた。
やがて、バスは青風寺までやって来た。登万は雫の肩を叩き、降りるかどうかを訊ねた。そう、特に行き場所は定まっていなかった。雫が頷いたので、降りることにした。後ろから、斜め前の男も降りて来た。彼は花束を持っている。
「雫は初めて?」
彼女は頷く。
「下見?」と雫が訊ねる。
「ストレートに訊くね。まぁ、そんな感じだよね」
ふたりは墓地を散策した。水平線が見渡せる小高い場所にあるので、景色が素晴らしい。
登万はさっきの男がいることに気付いた。墓の前で手を合わせている。こそこそ見ているのはいい気分ではないので、男の方へ行き、彼が水桶を持ったタイミングで声を掛けた。
「こんにちは」
「ああ、どうも」と男は帽子を取って頭を下げる。
「お参りですか?」
訊いた後で思ったが、見ればわかることだった。
「ええ。甥のね。本当はもう少し前なんですけど、仕事の関係で遅くなってしまいました」と彼はにっこりと笑った。
墓石を見ると「深海」という文字が刻まれていた。「ふかみ」とでも読むのだろう。供えられた花を見たが、種類はわからない。登万は花には疎い人種なのだ。
「君は?」と訊ねられた。
「えーっと、まぁ、下見ですかね」
登万がそう言うと、男は笑って「気が早いですね」と言った。普通の人からしたらそうだろう。人生百年なんて謳う時代だ。
「いい景色ですよね」と登万。
「ええ。私も死んだら、ここに入れてもらおうかな」
「いいと思いますよ」
男は名刺を渡してくれた。そこには「深海」とだけ書いてあった。裏を見ても真っ白。名刺というより、名札みたいだ。
「……これは?」
「名札です」
名札だったようだ。
「名刺と言ったら、語弊がありそうですから」
深海はそう言って笑い、水桶を持ち直して、去っていった。きっと、二度と会うことはないだろう。登万は深海の背中に手を振った。
バス停へ戻ると、雫が本を読んで待っていた。彼女にしても時間はそんなにない筈だが、彼女の方が時間を贅沢に使っているように思える。
バスは一分遅れでやって来た。
今度は乗客は登万と雫だけだった。
適当な位置に座り、発車を待った。深海は現れない。散歩でもしているのだろう。
バスはすぐに発車した。
「ねぇ」と雫。彼女は本を読んでいない。それはとても珍しいことだ。加えて、自分から話し掛けるということも極めて珍しい。
「何?」
「伝えてあるの?」
「何を?」
「場所」
「いや、言ってない。だって、場所なんて決めてない。おれ、確か雫にも言ったよね」
「そうだっけ」
「確かに言ったよ」
彼女は何も言わず、窓の外に眼を向けた。これまた、珍しい行動だ。雫の視野は手前の二十センチだけ、と散々揶揄してきた。今は何キロもある。今日の彼女は何かが違う。それが自分の所為か否かはわからなかった。
バスは停滞なく進んでいく。雫もいつものように本を読み始めた。「怒りの葡萄」は終盤に差し掛かっているようだ。
登万は瞑想した。
これから起きること。その先に起きること。それらがどのような影響を周囲に与えるのか。材料が少ないながらも計算をしてみる。今、ふたりがバスに乗って、宛もなく彷徨っていることは誰にも伝えていない。誰かに伝えたら、きっと、止められただろう。少なくとも、最後くらいは自由に、普通に生きてみたかった。それが淡く脆い幻想でしかないことは、自分が一番わかっている。
彼は髪に触れた。茶色く、短い。
昨日までは長さが肩甲骨まであった。
それを昨晩、切り落とした。不思議な感覚だった。自分が育てたものが、殺されるような、不思議な喪失感。首筋を撫でる空気に違和感があった。異様に冷たかった。
短髪になった登万を見て、周囲は何かを察した筈だ。友人のひとりが、「失恋したみたい」と表現した。間違っているが、否定も出来ないように思えた。確かに、別れではあるのだ。別れ。喪失感よりも、充足感が前面に現れる。
自分は、死にたいのだろうか?
長年、登万という人間をコントロールしてきたのだ。「死」に対する、恐怖の類いの感情は、もはや、浮上しない。
しかし、死にたい、というほどの積極的な欲求ではない。
死んでみたい、という好奇心のようだ。
友人のひとりが、手首を切っている姿を見たことがある。精神的に疲弊していた友人は、頻りに「死にたい死にたい死にたい」と訴えていた。何がそんなに嫌なのだろうか。そんなに絶望的なのだろうか。何が?
こういうことを考えると、自分と比較してしまう。
「お前らには、まだ、何年もあるだろう」
そんなフレーズが心に現れる。
心か。
心って何処にあるんだろう。
本当にあるのだろうか。
でも、名前がある以上、少なくとも、概念としての存在はあるのだろう。だが、触れたことも見たこともない。普遍的な脆い拠り所。脆い分、修復は容易に出来るパターンが多い。
自分の心は、飛び抜けて直しやすい。
そもそも、嫌なことが何かわからない。
辛い、苦しい、が麻痺しているのかもしれない。
心が強いというより、エラーを起こしているのだろう。深刻なバグで、何度、リセットしようと、同じ局面で同様のバグに陥る。ハンマーで叩いても、皹が入ったら、瞬時に直るに違いない。
自分は「いい人」だったと思う。自然だった、或いは演技だった、どちらに関係なく、それだけは誉められる点だ。普通の人の前で普通の人の振りが出来るということは、幾分か賢いことだ。そして、その点においては正常なのだ。
人間は大きく分けると三種類で、賢く賢い人、賢いバカな人、バカでバカな人。ここから、細かくすることは限度なく可能だ。自分がどれに属するか、と問われれば、客観的に見たなら、第一グループ。つまり、ただただ賢い人。この場合の「賢い」は、頭脳的な賢さというより、人間的な賢さの話だ。人格的ではない賢者なんて沢山いる。
しかしだ。主観的に見たら、自分は第三グループに属しているだろうと思う。本当に賢く振る舞えているだろうか。さっきの客観が根本的に違う可能性なんてバカみたいにある。
自分という生き物は、得てして見失うものなのだ。見失ってこそ、人といえるのでは? そう思うと、少しは楽になった。
そこから、少しの間、登万は宇宙の誕生についての考えを広げた。死んだ後の世界には、宇宙ってあるのだろうか。死んだ後の世界で、星は煌めいているのだろうか。頭の中の宇宙でエントロピーが高まっていく。
雫は文字を追っていた。これだけが幸福だと思える。ただ、幸福というものの本質的なポイントがわからない以上、断言は出来ない。
横では登万が瞑目している。短くなった髪に違和感がある。昨日の夕方までは、自分と同じくらいの長さだった。登万の髪は長いという固定観念が、すっかり定着しているのだろう。自分は固定観念に左右されやすい人間だと認識しているので、気にするほどのことではなかった。
「怒りの葡萄」が残り二十頁程度になったが、彼女は本を閉じた。何故、最後まで読まなかったのか、自分でも説明は出来なかった。
ゆっくりと首を動かして、窓の外、茫然とした青い海に視線を向ける。平素から穏やかな海だ。変化は見られない。急に鯨でも現れたりしないだろうか。鯨は実物を見たことがない。多分、死ぬまで見ない気がする。
登万が寝息を立てている。いや、寝ているのかはわからない。彼は、思考の宇宙に触手を伸ばす時、半ば寝ているような態度になる。思考にエネルギーを使う分、肉体は休めておくのだろう。
彼の手首を軽く握った。プラスチックみたいだった。
文庫本を開いた。彼女は栞を使わない。
文庫本を閉じた。スタインベックを焦らしているように見えなくもないが、彼が自分に読まれることを幸せと感じていない限りは妄想でしかない。彼女がこのような取り留めもない妄想に埋まることは稀ではない。定期的に見られる現象である。
横を見ると、まだ登万は瞑目している。なかなかに贅沢に時間を消費しているではないか。彼も自分も、無意味な消費を何とも思わなくなり始めたことで、既に人生の晩鐘が鳴ってしまったことがわかる。しかし、自分の人生において、無意味ではない時など、いつあったのだろう。
彼女も眼を閉じた。これも珍しいことである。寝ること、瞬きすること以外で眼を自発的に閉じることは非常にレアだと言える。彼女は眼を閉じた時の暗闇が苦手なのだ。普通の暗闇は平気なのだが。
ほら、火花が散る。プラズマのようだ。または、ダリの絵にありそうな非ユークリッド空間の乱立。この普通の暗闇にはないカオスなイメージが不安を想起する。夢の中で走ろうとすると、上手に足が運べず、終いには地面が崩落する。そんな不安。
アナウンスが聞こえた。口籠っていて聞き取りにくい。電光掲示板には、次の停車駅の名前が表示されている。「吹曇岬」とある。当然ながら、見知らぬ名前だ。登万は立ち上がった。雫も立ち上がる。ふたりが料金を精算していると、運転手が「こんな辺鄙なところ、何もないよ」と言った。登万は外を見た。確かに、海しか見えない。
「ここでいいのかい?」と運転手。
「はい。特に行き場所は決めてない旅なので」
「そうかね」と言って、口元を緩め、「青春だね。気を付けていきなさい」と続けた。
運転手は手を振って、バスを発車させた。まだ、この先に進まないといけないらしい。この先に何があるのか、気になったが、腕時計を見ると、制限時間は刻々と近付いていた。
バスを降りたすぐのところに、階段があった。雫は既に下にいる。登万もそれを下った。急で、尚且つ、整った並びではなかったので、何度か転びそうになった。これで死んだら、ちょっと恥ずかしい。
「何ここ?」と雫に訊ねた。
彼女は指で看板を示した。
看板には「吹曇岬」の説明があった。見たところ、目立った特徴はない。だからこそ、辺鄙な場所なのだ。
「捻くれた漢字の読み方だよね」
「うん」
「どうする? 一応、先端まで行ってみる?」
彼女は登万の腕時計を凝と見ている。
「ああ、時間ね。うん、あんまりないな。あと、一時間くらい?」
登万は自分で言って不思議に思った。
あと一時間。一時間で、この世から消えるというのに、どうしてこんなにドライでいられるのだろうか、と。案外、自分自身に対する愛着なんて薄いのかもしれない。きっと、昨日、髪を切った辺りから、諦めの気持ちが、洪水のように自分を沈めたのだろう。
ふたりは岬の先端まで行った。本当に何もない。景色も、ただ海が限りなく広がるだけ。灯台でも立っていそうな雰囲気があると思ったが、看板を見るに、灯台は不要なので撤去されたらしい。
ふたりは海が見渡せる場所に腰を下ろした。
ここが死に場所なのか、と考える。死に場所の評価とは、その場所の良し悪しではない。最期に起きるイベントによるのだ。
「お疲れ様」と雫。
「……今日は珍しいな」
「何が?」
「自分から話し掛けるとか、なかったじゃん」
「それは、面倒だから」
「言うと思った」
登万はリュックから煙草を取り出した。
「まだ十九だよ?」
「あと、一時間だけな。どうせ、死ぬんだ。一度、吸ってみたい」と火を点けた。
「どう?」
「……煙い」
登万は何となく、雫に自分の煙草を差し出した。拒否すると予想したが、雫はそれを咥えた。そして、すぐに咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫だと思う?」
「喋れるならまだ」
彼女は煙草を登万に返した。彼としても、もう一度、吸う気はなかったので、煙草が少しずつ消費されていく様を見ているしかなかった。
「こんなところまで悪かったな」
「別に。一緒に来たのは私の判断だから」
「そっか」
今更ながら、波の音がする。
「ねぇ」と雫。
「ん?」
「死ぬって怖い?」
登万は少し驚いた。彼女から、そんな質問が繰り出されるとは思いもしなかった。寧ろ、登万が雫にしようと思っていた質問だ。
「んー、まぁ、昔はな。でも、今日が近付くにつれて怖くなくなった。だってさ、死ぬってイベントは誰にでも起きるわけだろ? 誰もが通らなきゃいけないイベントだから、それが少し早いだけのことかな、って。おれは、天国も地獄も考えてないし、きっと、死んだら、この世界のレプリカみたいなところで、夢を観るんだと思ってる」
「夢?」
「そう。自分が生きていた頃の夢」
「繰り返し?」
「どうかな?」
登万は息を吐いた。呼吸の残り回数を算出してみる。
「死ぬことと眠ることって同じ?」
「ほとんどね」
煙草は半分になっている。
「そもそも、生きることと死ぬことだって同じなんだよ。『死』という長い長い輪の一部に『生』っていうアブノーマルな期間があるわけ」
「それは、生きていることがおかしいの?」
「多分ね。少なくとも、おれはそう思う。生きるって行為は、長いトンネルから顔を出すだけなんだよ。おれたちは真っ直ぐなレールの上を走らされているだけ。でも、レールが曲がり九練っていると錯覚する」
「……じゃあ、私たちの生きるって動作は決定事項?」
「そうだね。輪廻の輪」
「こっちの方が夢みたい」
「そうかもしれない」
登万は煙草を咥えた。そして、息を吹いた。煙草はもう四分の一も残っていない。
「『死』っていう長い真の意味での現実において、眠るときに観る夢。それが『生』ってことなのかもね」
「あと、三十三分後に起きるのは、覚醒?」
「こっちが夢ならそう」
「変なの」
「もともと、おれたちは変だよ」
「うん」
雫の表情は見たことがないないものだった。死ぬ前の貴重な発見と言えなくもない。
ふと、空を見上げる。
死んだら空をあるのか? 空がなければ、宇宙も星もない。
そもそも、死んだら何がある?
夢ならば、本物ではない。
本物も偽物も、何もない世界。
小さい頃に行った、ヴェネツィアの風景を思い浮かべる。誰と行ったんだっけ? どうして行ったんだっけ? 何をしに行ったんだっけ? それらは何年も放置され、風化し、破砕され、修復できないくらいにボロボロになった。ただ、風景という弾性のあるメモリーは消えないまま、自分の奥底で泥のように溜まっている。
思えば、生まれた時から、死ぬことなんてわかっていた。
「死」以上に避けられないイベントはない。
「ねぇ」と雫。
「何?」
「やっぱり、私は死ぬのが怖い」
彼女は涙を流していた。
登万はそれを初めて見た。
「あと、二年? それだけじゃ、何も」
彼女の目元が赤い。不思議な感覚になった。
「『最後の一葉』ってわかる?」
「オー・ヘンリーの?」
彼女は頷く。
「蔦の葉が全部、落ちたら、自分も死んでしまうかもしれないって言うやつだろ?」
「そう」
彼女は依然として涙を流している。
「私は、数えてるの」
「何を?」
「残りの日数」
彼女は息を吐く。
「何処か広くて虚ろなドーム。壁一面に蔦の葉が見えるの。それが、一日に一枚ずつ、音もなく剥がれ落ちていく。落ちた瞬間、砂になって消えてしまう。風もないから、ドームの円周には砂が堆積しているの」
「……」
「葉が落ちる瞬間、いつも、私は泣いている。理由なんてわからないけれど、日を跨ぐ毎に心が苦しくなっていく」
彼女の頬を大粒の水滴が流れていく。登万は、美しいという認識に囚われた。恐らく、この場で優先されるべき感覚ではないとわかっている。けれども、雫の頬を伝うガラス玉のような涙の行方を追うことから、眼が離せなかった。
もうじき、陽は暮れる。うっすらと赤が見える。雫の水滴に、その仄かな茜が滲んでいる。不思議と世界の有限さがわかった。世界は、その水滴の中にあるのだ。
「どうして、人って死ぬの?」
「生きているからだよ」
「どうして、人って生きているの?」
「死ぬためだよ」
「死にたい?」
登万は首を振る。
「生きていたい?」
「出来ることなら」
腕時計は五時半を示している。あと、二十分。
ここから、少しの沈黙。
波の動きが、やけに鮮明に見える。
ああ、これが、死ぬ前か。
無意味な思考が原始の泡のように浮かんでは消える。ビッグバンのような感じ。一気に生まれて、すぐに死ぬ。
雫はもう泣いてはいない。そもそも、彼女は何故、泣いていたのだろう。怖い、という感情は本当に彼女を動かしたのだろうか。彼女が自分の死を悼んでいる可能性を考える。考えてくれていたらいいな、という程度で止まる。少し笑ったしまった。どうしてか、余裕がある。多分、麻痺しているのだろう。
「あと、五分」
雫がこちらを見る。目元が赤い。それは、涙の所為であり、夕陽の所為でもある。
「死ぬってことは、死ぬことなんだよね」
彼女は首を傾げる。
「それ以外に意味を持たせるのは無粋なのかな?」
「そうかもしれない」
「じゃあ、何も言わない方がいいのかな?」
「……それは、寂しい」
「ちょっと、意外」
「え?」
「雫もそういうことを思うんだ?」
「一応、生きている人間だから。笑うし、泣くし、怒る」
「そっか」
登万は雫の頭を撫でた。
「あとで、色んな人に、よろしく頼むよ」
「うん」
「あと、三分」
既に空は藍色になり始めている。遠くを見ると、心が何処かへ飛んで行ってしまいそうだ。しかし、心なんて最初から何処にもないようなもの。もう、自分に先駆けて飛んで行ったに違いない。だからこそ、こんなに渇いているのだろう。
「不思議な気分」
「そうだろうね。私も同じ」
「死ぬって初めて」
「うん」
「待ってる、って言ったら気持ち悪い?」
「そんなに」
「じゃあ、待ってるよ」
「待ってて。あと、二年」
「短い短い」
「あと、どのくらい?」
「ちょっと」
「ねぇ」
「うん?」
「感想は?」
「感想?」
「そう」
「んー、いい黄昏だね」
「そうだね、綺麗」
「あとは……」
「何でもいいよ」
「……」
「……」
「……」
「……うん」
「夢みたいな人生でした」
「そっか」
「うん」
「じゃあ……」
「うん」
「バイバイ。それと、おはよう」
「うん。おはよう」
瞼が重くなっていく。抗えない。どんどん入り口が狭くなる。
雫は何も言わない。これ以上の言葉が無粋だとわかっているからだ。
完全に瞼が落ちた。それは溶接されたように、開けることが出来なかった。付近を暗闇が完全に支配した。
身体が軽く、重い。
浮いているのかもしれないし、沈んでいるのかもしれない。
いずれにせよ、動けない。粘性の羊水の中のようだ。
これが「死」か。
なるほど。
身体が細かい泡になって消えていく。
暗くなる。
遠くなる。
手を伸ばす。
消えていく。
身体も、意識も。
宇宙の中。
ビッグバンはまだ。
一瞬、激しい電気が走る。
信号が消えた。