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百花物語

魔女シンシアの惚れ薬

作者: Kio

ここを訪れていただきありがとうございます。この作品が少しでも皆様の心に触れましたら幸いです。

 黄昏時でも賑わう大通りから逃れるように入った路地、出会った青紫の目の黒猫を追いかけ、淡い光が照らす細く狭い道を進んでいけば、そこにその店はある。


「いらっしゃいませ」

 恐る恐る木の扉を開いたリリィを出迎えたのは、天井まで届きそうな古びた木の棚だった。そこにはおびただしいほどの数の瓶が整然と並べられている。

「何かお探しでしょうか」

 控えめに声が掛けられ、慌てて棚から視線を引き剥がして声の主を見れば、いつの間にか緑の目の女性が微笑みを浮かべて佇んでいた。優しそうな人でよかった、とリリィは幾分か安心した。

「あ、その、えっと、道に迷って……」

 大通りに出る道を聞いてさっさと店を去ろうとして、はたと気づいた。扉に掲げられた店の名、緑の目の店主、そして並べられた薬瓶、もしやここは。

「あの、ここって『魔女シンシアの惚れ薬屋』ですか」

 そう尋ねると魔女シンシアはその微笑みを少し困ったようなそれに変えた。


「こちらはいかがですか」

 出されたハーブティに恐縮しつつも口をつけていると、シンシアが瓶を差し出してきた。淡い桃色のガラス瓶にはリボンが巻かれ、いかにも女性が好みそうな可愛らしい見た目になっている。

「これが惚れ薬……」

 そっと受け取ってまじまじと眺める。何の変哲もない液体に見えるが、本当に効果があるのだろうか。

「失礼ですが、なぜこちらをお求めになっているのか聞かせていただけませんか」

 そう尋ねられ、一瞬迷う。見知らぬ他人に自分のこと、それもあんな話を語る気恥しさはあるが、もしかしたらそれがこの薬を売る条件なのかもしれない。

「わ、分かりました。あまり面白い話でもないんですけど……」

 勝手気ままにはねる自分の赤毛を弄りながら、リリィは話し始めた。


 物心ついた時からジルはいつだって自分の隣にいてくれた。

 喧嘩と仲直りを繰り返しつつもその関係が揺らぐことはなかった。きっとリリィがおばあさんになっても、ジルがおじいさんになっても、ずっとこのまま一緒にいられる。リリィはそう思い込んでいた。

 けれども、十八年かけて築いたその関係はあっさりと崩れた。ジルに恋人ができたのだ。

 明確にジルから恋人だと紹介されたわけではない。ジルと女性が楽しそうに通りを歩いているところに出くわしてしまったのだ。その瞬間、心の柔らかで温かいところに見えないナイフが突き立てられた。その場で棒立ちになったリリィを見たジルの顔はみるみる強ばり、右手に持っていた赤いチューリップを押し付けてそのまま走り去ってしまった。女性は驚いたようにリリィの顔を見ると、ジルの後を小走りで着いて行った。

 男勝りなリリィとは正反対の、可愛らしい女の子だった。そのことが尚更彼女を傷つけた。

 そして、傷ついた自分によってリリィは愚かにも自分がジルに恋していたことを気づかされたのだ。


「ジルの一番は私だって、自惚れてた。本当に恥ずかしい、馬鹿みたい……」

 俯いて頬に零れた雫を拭う少女は儚げで、いつものあっけらかんとした笑顔はどこにも見当たらない、けれども。

「でもこのままじゃ諦められないの。諦めたくない。ジルを手に入れるためには何でもする!だから!」

 リリィの諦めの悪さ、そして何があってもへこたれない心は失われてはいなかった。

 それまでじっと少女の話に耳を傾けていたシンシアが、少女の覚悟を受け取ると再び微笑みを浮かべた。

「分かりました、ではこちらの商品をどうぞ。いいえ、お代は結構ですよ、もう十分頂きましたから」

 そう悪戯っぽい笑みとともに差し出された手には、夏の快活な日差しを集めたような色の香水瓶が握られていた。


「ありがとうございました!」

 幾分かもとの明るさを取り戻した少女が、残りの翳りを払うかのように笑う。そんな彼女の耳にシンシアは顔を寄せて囁いた。

「チューリップの、それも赤のチューリップの花言葉をご存じですか?実は……」

 この言葉こそが一番の薬であったのは、その髪にも負けないほど真っ赤に染まった少女を見れば明らかである。

 そしてリリィは扉を閉めた。





「自分に惚れ薬は効くかしら」

「…………はい?」

 滅多に取り乱すことのないシンシアが珍しくその目を丸くさせたのは、もうほとんど夜と言ってもよい時刻のことである。

 ひとまず気持ちを和らげるハーブティを出しては見たが、変わらず固い表情を見るに効かなかったようだ。

「浮気されたの、夫に」

 女は何の感情も宿さない平坦な声で淡々と話し始めた。


 もともと望んだ結婚ではなかった。ティターニアにも少女らしい恋への憧れというものがあった。幸せな結婚を夢見ていた。けれどもそうしたものが決して手に入らないことは彼女が生まれたその時に決まっていた。

 ティターニアはそれでも夫を愛そうと努力をした。けれど待てども待てども夫はティターニアのもとには帰ってこない。ティターニアは辛抱強く待った。夜遅くにふらっと帰ってきた夫を詰りたくなる気持ちを抑え、常に明るく優しく朗らかな女を演じた。生まれてこの方ずっと被り続けた仮面は完璧なはずだった。

 今日、ティターニアは見た。夫が夜に紛れて他の女と会っているのを。いつも冷ややかだった夫が女の前では優しく笑み崩れるのを。闇が隠してくれるはずだったそれらを、ティターニアは見てしまった。


「あの笑顔をずっと、ずっと私は見たかったのに……」

 深紫色の瞳が微かに揺れるが、すぐに不自然に凪いだそれに戻ってしまった。

 シンシアは痛々しげに目を細めるだけで何も言わない。

「このままだとわたくしは夫を嫌いになってしまう。でも大勢の人生がかかっているこの婚姻を、私一人のわがままで終わらせることはできない。ならば嫌いな人とこの先の人生を過ごすよりもいっそ愛してしまった方が、たとえそれが一方通行でも偽物でも、ずっといいの。だからわたくしは惚れ薬が欲しい」

 もう本物なんて望まない、そう呟いた声が静かな店内に響いて儚く消えた。再び小さな店を静寂が包む。


「よろしいのですか」

 凍りついたかのように微動だにしない彼女の肩に、シンシアの暖かい、されど芯を持つ声がふわりと降りかかる。

「貴女は好きでもない人に人生を捧げて、ご自分の心を殺して、本当によろしいのですか」

 森の叡智を宿した瞳が、決して鋭くはないが思わず人をたじろがせる力を帯びてティターニアを射抜いた。

「人生は一度きり、陳腐な言葉ですが真理です。それは儚い命しか持たない人間も、途方もなく長い寿命を持つ私たちも、変わりません。一度人生を終えてしまったら決してやり直しはききません。それでも貴女はよろしいのですか」

 黙り込んでしまったティターニアにシンシアは厳かに告げる。

「人に押し付けられた人生で、本当によろしいのですか」

 悔しくないのですか。

 そうシンシアが告げた後、重苦しい静けさが二人に纏わりつく。ティターニアは思考の渦に一人沈んだ。


 しばらく経った後、もとの穏やかさを取り戻したシンシアの声がそっとかけられた。

「今だけで答えを出す必要はないと思います。ひとまずこちらを召し上がってから、」

 そう言って湯気を立てる新しいティーカップが差し出されるのと同時に、

「私と家出……いえ、駆け落ちしましょうか」

 となんとも物騒な提案がなされた。

「焦って自分を追い詰めても良い考えは浮かびません。とりあえず遠くに行って、そこでこの先のことをゆっくりと考えましょう。どこへでも着いていきますから」

 突然情熱的な誘いをされたティターニアはしばらく唖然としていたが、そこはさすがというべきか、素早く立て直して反論を始めた。

「意味がわからないわ。第一そんなことをしたら皆が困るでしょう」

「うんと困らせてやりましょう。いっそ置き土産に何か仕掛けますか?」

「皆は何も悪くないのよ!悪いのは夫と、それから……」

「貴女だって何も悪くありません」

「そ、それに家出なんてしたって、すぐに見つかるだけ、時間の無駄よ」

「追っ手をまくのなら私に任せてくださいな、こう見えて腕には覚えがありますから。それに無駄なんかじゃありませんよ。ティターニア様、美味しいクッキーを作るのに必要なものはなんでしょうか」

「貴女は何でも唐突すぎてよ……腕のいい料理人では?」

「いいえ」

「質のいい材料?」

「いいえ。十分な時間、それからよく冷やすことですわ」

 教本を片手に教師が生徒を導くように、彼女はどこからか取り出した『オークでもわかる!料理のキホン』と書かれた本を手にして答えを告げる。

  すると虚をつかれたティターニアはたった今目を覚ましたかのように幾度か瞬きをし、やがてクスクスと肩を揺らして笑いだした。

「私はクッキーと言うわけね。えぇえぇ、貴女の言う通り私にも頭を冷やす時間が必要だわ。いいわ、貴女に引っかかってあげる」

「せっかくですからどこか遠くに行きませんか? 新婚旅行に人気のアストラ王国なんてどうでしょう」

「また貴女は、いったいどこからそんな本を出てきたの?あら、素敵なところねぇ」

 先程までの痛々しく重苦しかった時間はどこへやら、小さな店はしばしお茶の柔らかな香りとページをめくる音、そして二人の楽しげな笑い声に包まれた。


 荷物をまとめたティターニアと店仕舞いをしたシンシアは楽しげに笑いながら外へ出る。辺りはもう真っ暗になっていた。

「ありがとう、シンシア。私の目を覚ましてくれて」

  そう言って振り返るティターニアの深い紫の瞳は星空よりも神秘的に煌めき、半透明の美しい羽は扉の内から漏れる灯りに透かされて輝く。

 夜はそれを統べる彼女の時間。闇を纏ったティターニアが美しいのは当たり前だった。


 こうして妖精王は魔女をお供に旅立った。






「シンシア!」

 シンシアがこっそり扉の蝶番の安否を心配するほどの勢いで扉が開かれ、春風とともに少女が飛び込んできた。

「まぁ、レティ様。変わらずお元気そうですね」

「お久しぶり!シンシアも元気そうね!」

 レティと呼ばれた少女はシンシアの手を握ってぶんぶん振り回す。シンシアはお茶を出して落ち着かせることにした……また全ての瓶がなぎ倒されるという悲劇が起こる前に。


「本日はどのような御用向きですか」

  いつもの柔らかな微笑みをさらに幾分か親しげなものにしてシンシアは問うた。

「あのね、あのね、シンシア」

 少女はしみひとつない白い頬を初々しく染め、もじもじしている。その様の何と愛らしいことか。

「実はね、私ね……」

「はいはい」

「ついにね、結婚することになったの!」

「えぇ存じておりますが」

 大きな秘密を打ち明けるように告げたレティにシンシアはつれない反応を返す。

「な、なんで!?」

 なんでも何も当たり前である。国の至宝と謳われた王女様がついに婚約された、と国中がお祭り騒ぎなのだから。ただ、それが政略結婚ではないことを知るものは多くない。

 絶世の美姫たる彼女とこれまた美しい大国の王子のおとぎ話のような婚約は、不満げに口を尖らせるそこの王女様があの手この手で努力をした結果なのだ。


「お幸せそうでよかったです、では……」

「ちょっと、追い払おうとしないでよね!」

「追い払おうだなんてそんなまさか。まだ何かありましたか」

 周囲に見えない花畑を作り上げたこの幸せそうな王女様が所望するようなものはこの店にはなさそうである。あるとすれば興奮を抑える効果のあるハーブであろうが、彼女を落ち着かせる薬は不老不死の秘薬よりも作るのが難しい。いっそ眠らせた方が百年は早いだろう。

 ところがレティは幸せいっぱいといった少女らしい表情から、憂いを帯びた女の顔へと一瞬で変えてみせた。その様は女であるシンシアさえ思わず息を呑むほどで。

「ねえシンシア、今の幸せは本物かしら」

 それともあなたの惚れ薬の力でしかないのかしら、レティは切なげにそう零した。


 時々不安になるのだ。

 彼に好きだと囁かれた時、彼からの想いのこもった手紙を読んだ後、ひとりきりで彼のことを考えている時。幸せに不意に一枚の薄いヴェールを被せられたかのように、ひっそりと影を落とすそれ。

『この幸せは惚れ薬のおかげだ』

『彼の想いは偽物なのでは』

『いつか効果がきれてしまうの?』

『彼に見放されたら……』

 レティの心は罪悪感と不安に苛まれていた。


 その苦しげに胸の内を明かしたレティを見るシンシアの眼差しは暖かく、されど少しの切なさを含んでいた。

「レティ様は本当にあの方のことが大好きなのですね」

 少し見ない間にレティはまた一つ、大人の階段を上がっていた。零れ落ちた髪を物憂げに掬い上げる彼女は、もうただの無邪気な少女ではない。

 胸に走った小さな痛みには気づかない振りをして、シンシアは真実を告げた。

「レティ様、惚れ薬など存在しません」

 大きな瞳をさらに目一杯丸くしたレティに一つ頷いてみせると先を続けた。


 シンシアは惚れ薬など売ってはいない。作ったこともない。売っているのは高品質なハーブやハーブを使ったささやかな小物のみ。それなのに『魔女シンシアの惚れ薬屋』の名はいまや店の名は国中にとどまらず人ではない者たちにまで知れ渡ってしまった。シンシアはただお茶を出し、時に話を聞いて、時にささやかな助言をしていただけだというのに。


「ですから『惚れ薬』の力ではありませんよ。レティ様自身の魅力と努力、それがすべてです」

「…………そんなまさか」

「真実です。そもそも惚れ薬ような人の気持ちを操る魔法は禁術ですから」

 信じられない、といった様子でレティシアは力なく首を振っていたが、シンシアが根気強く言葉を重ねるとようやく納得した。

「なら彼は、本当に……」

「えぇ。本当に良かったです、レティ様の恋が叶って」

 幸せになってくださいね、と微笑みかけたシンシアに彼女が突然飛びついてきた。そして満面の笑みを浮かべる。

 レティが特に嬉しい時に見せるこの笑顔は見たものの心を掴んで離さない。これだから困るのだ、この王女様は。遠い昔に凍ったシンシアの心さえも包んで解かし、するりと内に入り込んでしまった。

 今日くらいは甘やかしてもいいでしょう。そう心のうちで言い訳をしてシンシアは控えめに抱き返した。


 直ぐにレティを引き剥がし、穏やかにお茶をしていた時である。

「シンシアは好きな人、いないの?」

 刹那、僅かにシンシアのカップの水面が揺れた。大丈夫、零れてはいない。頬も濡れていない。

 レティの唐突な問いかけはいたって無邪気で、けれど切ないほどに残酷だった。

「……私も好きな人がいましたよ」

 遠い昔ですけどね。

 シンシアは意識していつも通りに微笑んだ。


 扉を開けると花の香りを乗せた春風に包まれた。 

 次の春が来ればレティは隣国へと行ってしまう。あと一年、その間に何度この騒がしい王女様に会えるだろうか。

「レティ様」

「なぁに、シンシア」

 ドレスが汚れるのも構わず店前の花壇を覗き込んでいたレティが顔を上げる。 

「ご婚約おめでとうございます」

 そう心からの想いを込めて伝えれば、たちまち今日一番の花が咲いた。


 次の年の春盛り、王女レティシアは愛する人のもとへ嫁いでいった。





 眩しいほどだった夕暮れも、今は取り残された光が空の片隅に残るばかり。シンシアはすっかり寂しくなった店を出た。

「好きな人、ね」

 先程までレティが見ていた花壇を覗けば、そこにはたくさんの青紫の小さな花が咲いている。見る度に懐かしさと寂しさが込み上げる、シンシアが大好きで大嫌いな花だ。

「遠い昔に、なんて言ったからあなたきっと拗ねているわね」

 シンシアの呟きに応えるかのように、細く嫋やかな茎が揺れた。僅かな風でも折れてしまいそうな風貌だが、初めて種を貰った時からずっとこの花壇で花を付け続け、今ではかなりの数になった。

 小さな花弁を慈しむように撫でてから、胸元に下げたペンダントを手に取った。小さな窪みに爪を引っ掛けてそれを開く。

「好きな人、なんて嘘よ」

 ペンダントの中におさめられた絵に囁いた。描かれた男性の瞳は、あの淡く儚く美しい花と同じ色をしている。

「ずっとずっと愛してる」

  そう言って静かに口付けたシンシアは、今は静かに眠る夫にそっくりな微笑みを浮かべた。


 月の淡い光が舞い散り始めた頃、シンシアは花束を手に店に入った。

  青紫の惚れ薬の効き目は、まだまだ当分切れる気配がない。




 黄昏時でも賑わう大通りから逃れるように入った路地、出会った青紫の目の黒猫を追いかけ、入り組んだ細く狭い道を進んでいくとその店はあるが、真実『惚れ薬』を必要とする者しか辿り着くことはできない。


 その店の名は、『勿忘草』。


 終


ご来店ありがとうございました。

いつかどこかで再びお会いできますように。


2019/12/9改稿

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