良い差別と悪い差別
みなさんこんにちは、ふりがなです。本日は話題の差別の話です。
この話題が出るとわたくし良く持ち出す例がありまして、即ちブサイク差別です。
顔面偏差値で生涯年収が変わるとどこかの論文が出まして、これによって目出度くイケメン至上主義が、きちんと不当な差別と定義されました。
ブサイク差別が不当な差別かとどうか解らない人は、当作品を読んで判断してくださいな。
我々は長年不当な差別で苦しんできた!
ブサイクだからと賃金を下げられてきたのだ!
映画やジャニーズには必ずひとりブサイクを入れなきゃ差別だ!
今こそ立ち上がれ!不当な差別に苦しむブサイク達!
既存の差別から言えば、ブサイク差別はこういう話です。
でも、仕方ないよね、ブサイクだから。
顔面障害者達の嘆きは、それがたとえ不当な差別であっても、聞こえないフリをすれば良いのです。
でも、仕方ないよね、見苦しいから。
さて、わたくしは、かねがね差別の定義ってなんぞかなと思っていたのですが、こういうブサイク差別の例を出してきて、人の意見を聞くうちに、きちんと差別を定義出来るようになりました。
差別には、良い差別と気付かない差別と悪い差別があり、他の人、または事や物を、同じように扱わない事を差別と言う。
社会の主体にとって都合の良い差別は、良い差別であり、社会の主体にとって都合の悪い差別が、悪い差別である。
そして、社会の主体の都合はコロッコロ変わる。
なんだか、腐敗と発酵の定義みたいですが、
※菌の働きで人に役立つ方が発酵、損になる方が腐敗
この定義からすると、ブサイク差別は今の社会の主体の都合からして、良い差別か、気付かない差別と定義されます。
コロッコロ変わるのかよと思う方々が多そうですが、これは昨今再評価されている徳川の綱吉将軍の施策、生類憐れみの令と同じです。
お上による道徳観の更新が生類憐れみの令では再評価されて、官僚達のノルマ制マジヤバいという事も再評価されました。
そう言えば、巨額の不正融資で話題になっているあの銀行もノルマ制が原因だったのかな?
つまり、悪い事とされる常識そのものを、お上が新しい物に更新しましたよ、というのが、再評価された生類憐れみの令です。
殺伐とした戦国時代からの生死の価値観を、生類憐れみの令が、以降の比較的平穏な江戸時代に変えましたよというターニングポイントになったという話ですね。
昨今の差別の話題は、同じように社会にとって都合が悪いから、差別部分の常識そのものを更新しますよ、または更新したいその常識は本当に正しいのか、誤りではないのかという事になります。
何だかんだで、我々は、常識や倫理以前に、社会の主体そのものを見失ってないか?と思ってしまうのですが、それはさておき。
この主体の都合部分こそが、悪い差別の定義の大半になります。
で、誰の都合なのかーという話ですが、わたくし的には、主体の都合はイコールで、社会の公の秩序部分になる場合が多いのかなと思っています。
※ここは人によって違うでしょうね、その人の都合にさえなり得る部分です
つまり、公の秩序部分に反する差別は、一般的に悪い差別なのです。
この定義から、例えば民族の排斥運動は悪い差別なのか?
という話になりますが、これは公の秩序に著しく反する運動になり得る場合と、なり得ない場合、有効となる場合があるでしょう。
排斥運動に対して、排斥運動は悪い事という一元的な見方は、存在しないという事になります。
確かに、差別を悪い事だと定義すると、差別を元とした排斥運動は悪い事になりますが、良い差別もあると定義してしまうと、場合によって排斥運動は良い事になってしまいます。
排斥運動は、全て悪い事のハズだと考えている方は居ないでしょうか?
これは、そもそもの因果関係を把握していないから起こる誤認なのです。
本来、排斥運動の良し悪しは、排斥運動そのものではなく、公の秩序において、その排斥運動は、都合が良いか悪いかが、良し悪しの根拠となるからです。
対象となる存在の状態によっても、それは変化します。
国内に殆ど居ない存在なのか、排斥すると難民の発生する存在なのか、排斥運動が起きても難民の出ない存在なのか。
難民が出ると社会の主体の単位が、国連や周りの国々と増えたりして、主体の変わる公の秩序について問われる事になりますからね。
さて、例を民族に挙げると理解出来ない人が多くなるでしょうから、他の例にしましょう。
例によって、ブサイク差別です。
仮にブサイク排斥運動が、音楽業界において起こるとします。
この主体は、音楽業界のスポンサーで、ブサイク排斥運動を気付かない差別と仮定します。
主体であるスポンサーの都合によって、関係各所が、今まで気付かなかった差別であるブサイク排斥運動を、良い排斥運動だと認識して、ブサイクを積極的に排斥した結果、ブサイクは音楽業界に存在しなくなりました。
結果、音楽業界は美人の世界となりました。はっぴー
ブサイクを排斥しても難民は出ませんでした。はっぴー
公の秩序に著しく反した訳でもなく、反発は起きませんでした。はっぴー
この例は、ありがちな良い差別か、気付かない差別の典型ですが、これを、ちょっと民族や人種に置き換えてみてください。
いざ変えてみると、今だと大きな問題になりますよね。という事で置き換えると民族差別、もしくは人種差別はするなと音楽業界にクレームが行くでしょう。
すると、主体となるスポンサーの都合が180度変わったりして、排斥運動の良し悪しも180度変わるのです。
このように差別というものの良し悪しは、主体の都合によってコロッコロ変わりうるのです。
よって、その手段でしかない排斥運動も、良い排斥運動や、悪い排斥運動として、コロッコロ変わりえます。
主体が複数あるともう大変です。
あーだこーだと、まとまりようが無くなります。
我々の社会はイメージで出来ているという好例ですね。
みなさん、主体の都合はコロッコロ変わるのに、何々差別は悪い事なんだ!と定義出来ると思いますか?
わたくしは、欠片も思いません。
で、ですね。
ここに、一つの定規として、共通善という物が世の中にはあります。
一般的な世界の常識として、全ての人が普遍的な価値観として、共有出来るような善の事です。
この共通善から、何々人は殺せとか、ブサイクには暴力を振るえとか、そういう公の秩序と著しく反するヘイトスピーチや行為は、一般的にも定義の出来る悪い差別として良いとわたくしは思います。
これは、主体がどうであれ、コロッコロと変わらない部分の共通善を元にした悪い差別の好例だからです。
つまり、一般的な人々の普遍的な価値観とズレのない、きちんと定義の出来る悪い差別なのです。
このような共通善をベースにした差別の定義は、普遍的な価値観として、共通善を背景に持つ人々に広く受け入れられる事が多いでしょう。
一方で、嫌いだとか好きだとかの差別が、この共通善の範囲に入る事はあるのでしょうか?
中には入れたい方も居るでしょうが、入れようがありません。
殺すだとか暴力を振るうだとかは、取り返しのつかない行為です。好きだとか嫌いだとかは、そもそも取り返しのつく事で、好きや嫌いと感情の分かれる事こそが、我々の一般的で普遍的な価値観だからです。
つまり、共通の価値観、共通の認識から、好き嫌いの認識や表現は、コモンセンスと言っても良い領域にあるのです。
※今コモンセンスわかんねーよとか言う人多そうですね。え、いや、マジか
ですから、好き嫌いを差別とするときは、一般的に悪い差別とされるような共通善の外側、あくまでコロッコロ変わる主体のみの都合の差別となります。
よって、当然ですが、共通善を背景に持つ人々からも、好き嫌いまでを差別の定義に入れる事には、支持と不支持で分かれます。
ここで、ようやくその主体とは、そもそも何なのかという話になりますね。
えっ?とりあえずここまで認めちゃうのって話。
主体については書く必要が出たら書くかもしれません。
反差別の主体と、我々の社会の主体が本当に一致しているのかという話になるかな。
多くの場合、差別から定義しようとすると、視野狭窄に陥ります。
例えば、本作品に対して好き嫌いをむやみに拡散していいのかという話が出そうですが、定義しようのない差別からではなく、一度コモンセンスから考えてみましょう。
例えば、本来有りもしない嘘によって人や集団を陥れる事は、我々の普遍的な価値観と一致しているのでしょうか?
その部分では、普遍的な価値観として不当な差別と意見は分かれずに定義出来るのです。
一方で、その人が実際に体験した事によって、何々人が嫌いと表現する事は、不当な差別でしょうか?
我々の普遍的な価値観からは、差別とはならないハズですね。
ですから、コモンセンスからして、この手の好き嫌いへの言及は、むしろ、公の秩序に反する類の言論弾圧に見えるのです。
一度差別から離れて、主体やコモンセンスを焦点に当ててみましょう。