真の名
ただ霧の中をさまよい続け、それはあった。
どこまでも広がる白い空間、そこに、異物がひとつ。
黒の十字架。縛り付けられているのは、赤い髪の男。
「――そうか、わかったぞ」
そういったのは勇者だった。
先程、嬉しそうに「目的地はもうすぐだ」と彼は言っていた。
しかし、今はそうでもない。
とても、悲観的な表情。
「なにがわかったの?」と聞いてみる。
「勇者とは記号。俺には名前がないって、エトさんには言いましたよね」
「うん」
「……それが思った以上にそのままの意味だったってことです。俺はもう個人じゃない。勇者なんだって」
彼の言葉は謎めいていた。
解釈するのなら、彼は記号であり、個性をもたない、という意味になるだろうか?
その赤い髪の男に近づいていく。
頬がやせこけたりだとか、外的な衰弱は見られない。だが、目から明らかに光が消えていた。
絶望している表情。
勇者が十字架に括りつけられた縄をとく。
赤い髪の男は重力に抗えず、そのまま落ちていく。
勇者が支える、と思ったが彼は動かなかった。触りたくも、なさそうだった。
――それは、瞬きすれば、僕の勘違いだと分かった。
勇者が赤い髪の男を支えている。
嫌そうだとか、触りたくなさそうだとか、今の彼からは一切感じられない。
勇者が赤い髪の男を座らせる。
「――なあ、勇者がこんなところでいったいなにをやっているんだ?」
それは、勇者が発した言葉だ。自分で自分を呼びつけたわけではない。勇者が話しかけているのは――赤い髪の男だ。
「……そうやって呼ばれるのは、久しぶり……だな」
やっと、という感じに、赤い髪の男が口を開く。そして機械がきしみながら動くかのように、勇者を見た。
「おまえは、私と一緒、か。祈りの種族の領域に二人も勇者が捕らわれるとは、なかなか残念な結果だ」
「おまえはどうやってここに来た? 普通の方法じゃこれないはずだ」
「いや、普通に来れる。いや、来れたのだろう。私がここに踏み入れたのは三百年前のことだ」
――三百年。
クシャナよりも、さらに長い。
まさか、と思う。
僕は赤い髪の男に言う。
「……あなたは、ここでどれぐらい囚われていたんですか?」
「最初の数年は普通に町を彷徨っていた。二、三年ぐらいしたら捕まったがな。ってことは二百九十七年ぐらいはここにいたんじゃないか?」
冗談めかしてそう言う。とても、苦しそうに。
最初、この赤い髪の男のことを、勇者が「勇者」と呼んだ時、なにかの冗談かと思った。しかし、ここで確信した。
彼は、本物。
三百年も前に存在した、古代の勇者だ。
苦しみぬいた瞳。
なのに、たいして衰えていない体。
僕は、ここから先のことを考えたくなかった。
しかし、考えてしまう。
この世界では一年がループしている。一日たてば、物質は最善の状態にもどる。人間は、用を足さなくていい状態になる。
これは、どこまで適用されるルールだ? 人間の精神に、どれぐらい影響する?
この男は、なぜ今も簡単に喋れるのだろう? 三百年、ここに囚われていたのに?
もしも、と思う。
もしも、気が狂うということが許されない、という状態が、このループのせいで生じていたのなら、それは。
――きっと地獄だ。
この男に、話し相手がいたとは思えない。
ずっとひとりぼっちで、けっして楽ではない姿勢で縛られ続ける。
眠って目が覚めれば、体の苦痛はなくなっている。精神の異常も、回復してしまう。
正気のままで、ずっと彼はここにいた。
僕が昨日のことを覚えている様子を見るに、記憶が消される、ということはなさそうだ。
「そんな顔しないでくれよ」と僕の方を見て、赤い髪の男は言った。
自分の顔を触ってみる。
僕はどんな顔をしていたんだろう?
勇者を見ても、クシャナを見ても、特段なにかに気付いた様子はない。
しかし、アリアは違った。
とても、ひどい顔をしていた。
たぶん、僕はああいう顔をしていたんだろう。辛い境遇にいた人間を考察し、感情移入してしまう。それで、最悪の気分になる。
アリアがこちらを見る。そして、ゆっくりと首を振った。彼女はなにもいわないことにしたらしい。
……僕も、彼女に倣うことにする。親しいわけでもない人間の傷に触れるのは……やめておいた方がいい。浅そうならばいい。しかし、この場合、僕らの手に、負えないだろう。
僕らは赤い髪の男に今まで来た経緯を離した。
デュースという魔術師を追ってここまで来たこと。
この世界でデュースを探していること。
地上で起きている変異を解明すること。
帰る手段を探していること。
「君たちの問題はよくわかった。全部は無理だが、そのひとつは解決できそうだ」
彼が僕に朧げな虹色に光る玉を渡す。
「それは祈りの種族が作った魔道具。『追憶の魔球』だ。親しかった人間のことを思い描き、その人物を想うことができたのなら、その人物のいる場所にワープできる。どうだい、最高の品だろう? まあ、一回しか使えないのは玉にキズだが」
「……こんなもの、貰っていいんですか?」
「私にはもう必要のないものだ。これだけの年月が過ぎたら、私を待っている者はいないだろう」
そう自嘲気味に笑う。
僕はなにかを言おうとする。
しかし、それを阻止するかのように、赤い髪の男は言った。
「それに、もう私には以前のような力はないんだ。私は過去に勇者だったが、今は力がなく、名前がないただのぼんくらに過ぎない」
「どういうことですか?」
「私を勇者にした神が死んでしまった。いや、消えてしまったというべきか。天界の様子のすべてを把握しているわけではないが、他の神に敗北したらしい。そういえば、地上ではどうなってるんだ? ほとんどの神が滅びたはずだから、治癒術は使えないはずなんだが……」
赤い髪の男がアリアを見る。
アリアは、先程この男を癒していた。つまり、まだ治癒術が使えるのはなぜか、ということを聞きたいのだろう。
「僕らの世界では、神聖断絶の時代、というものが訪れました。一切の神が姿を消した、そういう世界。……今はほとんど人間に干渉してこない神がひとりだけいますが。とにかく、人は自らの思う心によって、自己神聖を獲得し、人を癒せるようになったんです」
「ほほう、面白い。人が神の真似事ができるように成長したのか。なかなかに、なかなかに」
赤い髪の男が笑った。しかし、どうにも虚しい響きになってそれは発せられている。それが少し、恐ろしかった。無理をしている、と思った。
「ほかになにか聞きたいことはあるか? 君らは助けてくれた恩人だ。何でも聞くと言い」
そういえば、と思う。
彼は神について詳しいように見える。いったい、神になにがあったのか? 神聖断絶の時代とはなんなのか? ここで、聞いておくべきなのかもしれない。『彼』の言葉を考えてみるに、祈りの種族、神々、破滅のエトワール、には、なにかつながりがあるのは間違いない。
「では、ここを作った神、破滅のエトワールについて知りたいです。こんな世界を創造するなんて、いったいどうやってやったんですか?」
世界の創造。
神は万能者。ひとに力を与える全能者。
それは、まやかしだ。神にも限界がある。できることに限りがある。
そもそも、全能や万能という言葉にはある種のパラドックスが発生する。妥当な考えをするなら、神は力ある存在だ、という定義が、もっともうまく当てはまる。しかし、そこまで到達する方法など、存在するのか?
「まず、神について説明したほうがよさそうだな。神っていうのは――そうだな。ちょっと話はそれるが、頭の中で飛び切りかっこいい剣を想像してみてくれないか?」
赤い髪の男の言う通り、僕らは頭の中に剣を思い浮かべた。
「今お前たちがやっているのは想像だ。神はそれを創造に変えることができるんだな。人間と神は本質的によく似ている。というか、すべての神がそうかは知らないが、基本的に神は元人間だ」
『創造』と『想像』。
神と人間。
「神に成るための第一段階は妄想と現実が混ざり始めた状態からスタートする。ただ、それは現実には影響を与えないし、自分の頭で剣やらなんやらを創造しているだけだ。つまり、妄想となにもかわらないな」
赤い髪の男は言った。
しかし、それがただの妄想ではない場合がある。自分の思念がエネルギーを持ち、異空間でしっかりと存在するものになるときがある。こういうことだけなら、できる人間はそこそこ、今の世の中にだっているだろう。現実には影響しないから、結果的には妄想でしかないのだが。
「しかし、その途中でその異空間にそいつ自身が入れることがある。思想のエネルギーを使って、紐解き、見つけ、自分に魔法をかけるそうだ。異空間で自分の代理を用意する。その代理が、自分についてのことを創造する。思考のエネルギーが結びつき、現実の人間を異空間へと引っ張り込む。異空間が、創造主のみの現実に影響を与える」
引っ張り込まれた人間は現実から消える。行方不明者となる。現実でいくらさがしても見つかることはない。行方不明者がいるのは自分が作った異空間だ。そこは、同じ神であっても辿り着くのは至難の不可侵の領域。
そこまで聞いて、ふと、思うことがある。
『彼』についてだ。僕は『彼』と修行をする。その時の場所は、夢の世界だ。現実には影響しない、万能世界。『彼』が『創造』したものは一瞬で生まれる。『彼』は僕がいくら傷ついても、一瞬でもとに戻してしまう。
これは、今赤い髪の男が言っているのと、同じことではないか?
「――自分の世界に引きこもった半神は自分の世界で好き勝手創造を始める。本物は自分の身体だけ。ほかはすべて思念が生み出した作り物。それを繰り返すうちに、そいつの異空間が、そいつの領域が思念のエネルギーであふれるようになるんだ。そうなると、『神』が誕生する」
思念のエネルギーでいっぱいになった領域は、新たな能力を獲得する。
その神の領域は、いぜんはただの妄想と違いない空間だ。しかし、エネルギーで満たされたその領域は、あふれたエネルギーを外に向けれるようになる。……現実に作用することになる。
エネルギーを配ることができるようになった状態を『神』と呼ぶ。そのエネルギーは、主にその神の信仰者に渡される。
それが、赤い髪の男が言う『神』だった。
もとは人間。妄想が激しいだけの変種。その突然変異の果て。
そういった存在は、千年に一度の周期で現れるらしい。そういうものを、天才、とでも呼ぶのだろうか。とにかく、だから神は大勢、世の中に存在していたし、存在し続けることを放棄する神もいた。
「――しかし、祈りの種族がそういう法則を細かく発見して、分析した。千年に一度しか生まれないはずの神に成れる人間。そういうのを、人工的に作り出そうとしたんだ。自分の理想を叶えるために。……祈りの種族ってやつらは、天才だった」
祈りの種族にはいくつか宗派があった。そのうちのひとつ、破壊の力を主軸として、ひたすらエネルギーを膨大に生み出して神に成ろうとする破滅の派閥。破壊はエネルギーを生み出す。膨大なエネルギーを利用して、神を作りあげる。
「祈りの種族は神を人工的に生み出すことに成功した。やつらがいた時代だけ、神が二十ほどは発生したはずだ。そしてなにを思いあがったのか、やつらは禁忌の下法にも手を伸ばし始めた」
そこから、赤い髪の男の口調が熱くなった。
受け入れられないものについて喋る、そういう類の。
祈りの種族は元から人体の錬成に成功していた。腕とか、心臓とか。
しかし、脳や魂に至る錬成だけは無理だった。
だからその部分を、神に作らせることにした。
そこで赤い髪の男は急に口を閉ざす。
どうしたんです? 聞いてみる。
「……わからない。話したほうがいい気もするし、止めたほうがいい気もする」
「話してみてください。ここまで来たからには、僕らはすべてを知りたい」
アリアも勇者も頷く。
しかし、クシャナはそうではなかった。
「私は聞かないことにする」といって耳を塞ぐ。そして遠くへと座った。
それも、彼女の決断なのだろう。
僕らは話の続きをせかす。
赤い髪の男は重苦しそうに口を開く。
「私が地上にいるとき、それは人間の創造は中途半端な成果がでていた。動くし喋る。考える、ということもできる。しかし、不気味だった。魂がなかったんだ。小耳にはさんだことなんだが、魂がもつエネルギーというのは、神の持つエネルギー以上のもので、精製不可能なものらしい。……で、私はそういう作られた人間を見てきたんだが」
ここに来た時、驚いた。この世界は創造されたもの。つまり、中の人間は作られたものだ。
しかし、ほとんどといっていいほどに人間だった。
「祈りの種族は天才の一族だ。その中の筆頭、破滅のエトワールは最高の能力を持っていたんだ。彼は……魂こそないが、脳みそがある、ほぼ人間であるものを作り上げた。『真の名前』があるかどうかでしか、もう判別できないほどに。そして、私がここに降りてきて三百年たつ。精巧な人間に近いものが作られて、三百年」
もしその技術が受け継がれているとしたら?
神はたしかに滅びたらしい。だが、その技術が進歩しているとしたら、もっと精巧な人間のようなものを作れるはずだ。
「魂の有無は、その人間に『真の名』があるかどうかによって判明する。悪いが、勝手に君たちに『真の名』があるか調べさせてもらった」
――ぞっ、とする。
まさか、そんな、そんなはずはないと、思いたかった。
――心臓がドクン、と二つ分鼓動した。
勇者が僕以外の人間を指さす。それには、クシャナも含まれている。
「エト、といったか。君以外の人間には真の名が見当たらない。そこの三人はおそらく――創造された人間だ」




