噂をすれば何とやら
太陽がまだてっぺんにある、穏やかなお昼頃。
柔らかな風が吹くカリブ海南西の海上を、一隻の大きな船がゆっくりと進んでいた。掲げられた帆は真っ黒で、その上にドクロの絵が描かれている。世間一般で言う、海賊船だ。
甲板の上では乗組員達が何やら談笑を楽しんでいる様子だった。手にはビンに入った酒を持ち、汚れた皿の上には得体の知れないステーキが載っていた。
「なぁ、知ってるか?」
「何を?」
酒樽をテーブル代わりに酒を呑んでいた髭面の乗組員の元に、太った乗組員が手にステーキ皿を持ってやって来た。
「美味そうなステーキだ。さっそく頂こう」
太った乗組員はナイフとフォークを使わず、素手で肉を掴んだ。
「おい、焦らすなよ。『知ってるか』って何の話だ」
「カリブ海の、『死の海域』のことだよ」
太った男は口いっぱいに肉を頬張ったまましゃべるので、口から肉の破片が飛び出した。男はそんなことはお構い無しにステーキをまた口に運んだ。
髭面はそれを見て顔をしかめる。
「知らねぇな。何だ、バケモンでも出やがんのか?」
「まあそんなとこだ。一連の予兆があるらしいが」
「予兆?」
「そうそう。その海域に入ってしまうと二度と元の海には戻れなくなる。その予兆として濃い霧が船を包んで、突然乗組員が血を吐き始めて、最後にはクラーケンに食べられるんだってさ」
太った男があまりに真剣な顔で話すので髭面は笑い出した。
「ははは! 馬鹿か! クラーケンっていったらあのバカデカいイカのバケモンだろ? あんなの空想上の生物に決まってるだろ」
「そ、そうだけどさぁ……」
太った男は不満そうにため息を吐いた。
「おい! 凄い大漁だ!」
それは昼下がり、陽が傾き始めた頃のことだった。
「どうした?」
釣りをしていた乗組員の声を聞いた船長が甲板に現れた。
「船長! 一時間くらい前から釣りをしていたんですが、見てください! これ!」
乗組員の足元には大量の新鮮な魚が幾重にも重なっていた。
「おお、凄い量だな。お前が全部釣ったのか」
「はい! つい三十分前に急に釣れるようになりまして……」
「よし、そのまま釣り続けろ。おいそこの雑用! 料理人を呼べ。今日は魚でパーティといこう」
船長は満足そうにそう言うと船長室へ戻っていった。
三十分後、甲板の上に大量の魚料理と酒が並んだ。
「海の女神が俺たちに恵んで下さったありがたい魚だ! 遠慮せずに全て食え!」
船長が言うと、掛け声と共に乗組員達は一斉に料理に手を伸ばした。
「うめぇ! こんな美味い魚は初めてだ!」
「もっと酒持ってこい!」
どんちゃん騒ぎは続き、乗組員達は誰も眠ることななく朝を迎えた。
太った乗組員は二日酔いの頭痛で目を覚ました。隣では髭面の乗組員と他にも多くの乗組員が眠っていた。
しかし、何かがおかしい…。そう、船は霧に包まれていた。周囲を幾ら見渡しても地平線はおろか、海面も定かではない。
太った乗組員は隣の髭面を起こした。
「う、頭いってぇ……。何だよ…」
髭面も頭を抱えながら体を起こした。太った乗組員に何やら不満を言っているが、太った乗組員はそれを意にも介せず髭面に言った。
「おい…周り見回してみろ」
「霧か。方角さえ分かれば何とかなるんだがな」
髭面は立ち上がり、船長室の方へ向かおうとした。
「待てよ。何かおかしいと思わないか……」
「あ? 何も普通だろ。馬鹿騒ぎしたせいで誰も船の進路を見てなかっただけじゃねぇ……うっ?!」
髭面は突然呻き声を上げると、膝から崩れ落ちた。
「おい! どうした! おい!……うぐっ?! 俺もか?!」
太った男も口から血を吐くと甲板に横たわった。
よく見ると、眠っていたと思っていた乗組員は全員、血を吐いて死んでいた。生き残っていたのは自分達だけだったのだ。
「くそ…やっぱりか……」
「やっぱりって…どういうことだよ」
鼻から血を流している髭面が、太った男の方へ顔を向けた。
「死の海域の予兆の一つ目は、『魚が大漁に釣れる』…だったんだよ……。それは関係無いと思っていたが、まさか本当だった……とは」
その時だった。船の下に大きな影が現れた。そして地響きの様な音と共に、海賊船の隣にその十倍はある巨大な潜水艦が姿を現した。
「な、何なんだ?! 一体」
太った男は突然の出来事を理解出来ないでいた。
巨大な潜水艦の乗降口部分が開き、ハッチが海賊船に下された。
中から、潜水艦の乗組員と見られる男達が現れ、海賊船に乗り込み始めた。
「まさか、そんな…死の海域の噂は……」
「そういうことだ」
太った男は突然後ろから髪の毛を掴み上げられた。背中を踏まれ、首までが仰け反る形になっている。
「俺たちは海賊狩り専門の海賊でなぁ…お前達みたいな馬鹿どもから金品を頂戴してるのよ。死の海域なんてもんは俺たちの流したデマだ」
顔は見えないが、男がにやにやと笑みを浮かべていることだけは分かった。
「真相を教えてやろうか? 俺たちはまず毒を海に流した。強力な致死毒だ。強い幻覚作用の後に頭痛、吐血、失明、その他諸々だ。こいつによって弱った魚たちをお前らが釣る。そしてその魚を食べたお前達も、同じように毒をもらうわけだ」
「で、でも確かに霧は出ていたぞ!」
「言ったろ、幻覚作用だってな。それか、失明の効果だろうなぁ……。あとはお前達が死んでも死ななくてもこうして弱っていれば金品を奪ってオサラバってわけだ。クラーケンなんてのは弱い人間の描いた妄想だ。そんなバケモンがこの世に存在してたまるか」
男は喉の奥でくっくっくっと笑うと、髪を離した。
「せいぜい、毒で苦しんで死ね」
男はまたくっくっくっと笑った。
「よしお前ら! 船に火を放て! ズラかるぞ」
男は乗組員に指示すると潜水艦に戻った。
乗組員達は油の入った樽を船のそこら中に撒き散らし、火を放った。
一人の潜水艦乗組員が潜水艦に戻る桟橋を渡った時、その狭間から見える海を見て腰を抜かした。
「か、艦長! う、海! 海を! ひいぃい!」
「あ? 何だよ……」
艦長と呼ばれた男は面倒臭そうに海に浮かぶ潜水艦の窓から海を見下ろした。
そこには、潜水艦と海賊船をも包み込む程に大きな黒い影があった。海面は段々と渦巻いているようにも見える。
更に、気付くと辺りは霧に覆われ、数センチ先も見えないほど濃くなっている。
「は、はは……噂は本当だったってことか……? 噂をすれば影がさすってのはこのことか……ははははははははは!」
艦長は腹を抱えて笑っている。
「忘れたか、お前ら! この潜水艦は対軍艦用に改造された、武器庫も同然の船だ! ありったけの火薬で下にいる化け物を撃ち殺せ! 今日の宴はイカの丸焼きだ!」
艦長は口と鼻から血を噴き出しながら、自らも大口径の銃を海面に向けた。
「クラーケンが毒を吐くんて聞いてねぇぞ……畜生が!」
毒霧によって血反吐を吐きながら、艦長は海底の巨大生物目掛けて銃を乱射した。海面から大きく飛沫をあげて水が跳ねるが、弾丸が届いているかは定かではない。だが、艦長には撃つ以外になす術が無かった。
怪物の殺し方を教わったことがないのだから。
刹那。
海から飛び出した白い、恐ろしく長い十本の触手が二隻の船をバキバキと軋む音を残して、海底へと引きずり込んだ。
それは、死の海域の噂が流れて七十四日目のことであった。
人の噂も七十四日ってね