2 フォーイーチ 3
ナーヴの案内のあと、マリはイタリア人の研究者であるジーノと出会う
彼は祖父の友人であり、アレックスの過去を知る人間だった
一通りの案内が終わり、ナーヴと共に研究棟の入り口まで戻る。廊下の向こうから白衣姿の男が歩いてきていた。壮年の男は片手を上げた。
「おおナーヴ、腕の調子はどうだ?」
「おかげさまで、まだ完治には時間がかかりそうです」
「そうか。だけど焦らんでいい。休むのも仕事のうちってね。しかしおまえが女の子を連れていると、犯罪みたいだな」
ナーヴは無言で男をにらむ。白髪交じりの口髭が特徴的な、イタリア系の男はこちらを見た。
「おお、そこにいらっしゃるのはオカダマリさん。シンタローのお孫さんじゃないかね」
「あ、そうですけど」
「うむ、ちょうど探しておったのだよ。一緒にランチをどうですか」
麻里はぽかんと男を見つめた。今日はなんだか訪問客が多い気がする。出勤初日とはこんなものだろうか。お願いします、と麻里は頭を下げる。
「では行こうか」
ランチの時間は食堂に行き、だいたい同じ課のメンバーで一緒に食べるのが普通と聞いている。しかしこの男は年齢的に、偉い教授なのだろう。大人しくついていくことにする。
多くの社員が使う食堂を通り過ぎ、男と一緒に入ったのは中華料理店だった。こういうレストランが敷地内にはごろごろとある。もちろん和食や地元料理の店もあり、その日の気分によってランチを変えたい社員は忙しく移動する。大体の人間はR.U.Rが用意した社員食堂で十分なのだが、来客がある場合は遠出することもある。
赤と黄を基調とした店内。白のテーブルクロスが引かれた丸い卓に2人でつき、麻里はからあげ定食、男は天津飯を頼む。「あんまり脂っこいのはダーリンから止められてるんだけどねえ」人懐っこそうに男の顔が歪む。
「そうそう、僕はジーノ。シンタローとは一緒に働いてたんだ。じいさんは引っ込んじゃったけど。今でも元気?」
「はい、いまだに家でロボット作ってます」
ジーノはお茶をすする。よれよれの白衣が麻里の祖父を思い起こさせる。徹夜になるとコーヒーの染みや髪の毛がくっつき、研究に夢中になるとさらにどうでもよくなる。研究所でなくて自宅ならばなおさらだ。
「昔、〈Al : ALEX〉がそっちに行ったんだっけ。いつだったかな」
「7、8年前で、私が7歳の時のときです。1年間くらいでしょうか」
ジーノは口をもぐもぐさせながら話した。あまりこういう場面に慣れていないので、麻里は緊張していた。英語や工学が得意ではあっても、経験が圧倒的に足りなかった。
「あの時は、たしか〈Al : ALEX〉が落ち込んでたときだったかな。マリちゃんは、最初にあいつが家に来たとき、どう思った?」
目じりにしわを浮かべてジーノが尋ねる。麻里は首を傾げた。
「最初は……私は怖がってたような気がします。もともと人見知りする方だったんですけど、ちょっとアレックスが怖くて。外国人を見たのも初めてですし」
それは仕方ないな、とジーノが苦笑する。
「でも、すぐに優しくしてくれて、すごくお世話になりました。一緒に遊んだり、参観日に来てくれたこともあります。家出した私を叱ってくれた記憶もありますね。私のピアノ発表会に来てくれる予定だったのに、アレックスが忘れてて、私が大泣きしたこともあって」
そこでジーノが吹き出し、手で顔を覆った。麻里は箸を動かす手を止めた。
「あの……少し聞いても良いでしょうか?」
ん? とジーノが眉を上げる。
「あのとき、アレックスはどうしてうちに来たんでしょう。休養だったと聞いていますが」
幼少のころ、なぜあんなヒューマノイドが家に居候することになったのかは、誰からも知らされていなかった。後で信太郎に聞いてみても「休みにきていた」と言うだけで、どうも口が堅い。幼かった麻里が説明を聞いても理解できたかどうか怪しいが。
「ああ、あの時アレックスは仕事で失敗してね。生まれたてのときはアイツ、けっこう真面目だったんだ。いや今もそうなんだが、あのときはカチコチでなあ。真面目に仕事をやりすぎて、考え過ぎで熱暴走を起こしてね。これじゃいかんってことで、シンタローのとこに送ったんだ。ちょっと田舎の空気を吸ってこいってのと、シンタローは腐っても工学者だからね。まあ、稼働したてのロボットには、まったくないことじゃないが」
「その……アレックスの仕事というのは?」
ジーノは顔の中心にしわを集めた。額を触って唸る。
「うーん、あんまりペラペラ言えることじゃないね。すごく大事な仕事だから」
そうですか、と麻里は視線を落とした。やはり誰も口が堅い。
落ち込んだ麻里を見かねたのか、ジーノは微笑んだ。
「すまないね。でもこれだけは言えるんだ」
ジーノがレンゲを食器の上に置く。
「あいつは訓練中に倒れて、すごく落ち込んだ状態でそっちに行ったんだ。けど、そのあとマリちゃんのところから戻ってきた時は、ずいぶんリラックスしててね。吹っ切れたというのかな。どうしたのかって聞いたら、目標が見つかったとかでね。それはマリちゃんのことだったのかもしれないな」
麻里は目を見開いた。アレックスの居候は1年くらいだったと記憶している。これまたどうして、アレックスがR.U.Rに戻ることになったのかは、知らなかった。あの1年間の間に、何があったのだろう。記憶をひっくり返しても、思い当たる節はない。
今まであの1年間は、自分だけが覚えているものだと思っていた。もしかしたらアレックスだって忘れているのではないかと思ったほどだ。しかし、どうやらそうではないらしい。何かしら大切なことが、あの期間にあったということだろうか。麻里は首を傾げた。
「それは、何があったんでしょうね?」
「さあ、それは本人に聞いてごらん。話すかどうかわからないけど」
麻里は口をとがらせる。
「でも、今朝からなんだか冷たくって。昨日から子どもモードになったり、私を避けてるみたい。特に大人モードの方は」
「ハハ、そりゃ男だから、恥ずかしがってんだな。あいつはそういうことにはニブイんだよなあ」
そうでしょうか、と麻里は首を傾げる。ロボットにはそういう細かい感情はないと思っていた。
「まあ、今はあいつも大変な時期だからね。また面倒みてやってくれ。8年近く動いてて、オンナノコ相手に恥ずかしがってちゃまだまだだと」
ジーノの言葉を聞いて、麻里は曖昧に笑った。