5 デッドロック
デッドロック(deadlock):「行き詰まり」の意。2つ以上のプロセスがお互いの処理の終了を待ち、結果として先に進まなくなること
午前中。社内の渡り廊下を歩いていると、遠くのほうでスーツの男が歩いていた。売店からの帰りだった麻里は、追いかけて声をかける。
「ナーヴさん」
人ならざる男が立ち止まって振り向く。相変わらず眼光は鋭く、常に不機嫌のような印象を受ける。
「ドクターオカダ」
「マリでいいですってば。腕の調子はどうですか」
ナーヴは麻里がR.U.Rにくる以前に、仕事で腕を怪我して療養中のようだった。ロボットが怪我をすれば、その部分だけを交換すればいい、というわけでもない。腕1本の中にも、無数のケーブルやアクチュエータが詰め込まれている。接続調整もしないといけないし、ロボットにも慣れが必要だ。
ナーヴは右腕を少し上げ、手を開閉させた。
「この通り、悪くはない。もう少しで仕事に戻れる」
「良かったですね。ちょっと、今お話いいですか?」
ナーヴは頷き、麻里は近くのベンチに先導する。彼と会うのはこれで3、4回目くらいだが、だいぶ扱いにも慣れた。彼は怖い顔をしているが、はっきりと怒りもしないし、笑いもしない。常に感情がフラットなのだ。そういう訓練を受けているのだろう。一緒に近くのベンチに腰かけて、麻里が質問する。
「最近、ミラさんの元気がないみたいなんですけど、何か知りませんか?」
先日、ミラに昔の話をして以来、彼女はなんとなく自分を避けている気がする。朝もすぐにいなくなってしまうし、夜も残業が多くなった。麻里も意図的にアレックスの話はしなかった。社宅に戻るたびに、ああいないんだ、という落胆が少なからずあった。いい機会と考えて、逆に仕事に集中しようかと思ったが、徒労に終わった。やはり気になることがあっては何も手につかない。
ナーヴは一度だけ視線を横にずらすと、すぐに麻里を見つめた。
「本人に聞けばいいのではないか」
「何か私に隠してるみたいで。アレックスのこともあるし、何か心当たりがないかと思って」
ナーヴはぴくりとも動かずに、口を開いた。
「本人に聞けばいいのではないか」
麻里は頬をふくらませた。彼の言葉が冗談かどうか、判断するのは難しい。
「それに、アレックス機のことなら、何かあったとしても私は何も話せない。研究者に聞いたほうが早い」
無駄なことを話さない、ナーヴらしい言葉だった。彼がもし何かを知っていたとしても、『知らない』と嘘をつかなくてもいい。『話せない』と言えばそれで済むし、ロボット自身がその基準さえ守っておけばいい。無理に嘘を言ったりごまかしたりする必要がなく、ヒトよりも嘘が表情に出ない。そういう意味では、尋ねる相手としてミラよりも無謀な相手だった。
麻里は頭を切り替えた。
「じゃあ、質問を変えます。いまアレックスが起こしそうな問題はなんだと思いますか。たとえば、前も起こしたことがある熱暴走とか」
ナーヴは片手を口元に当てて思案した。機密かどうか判断しているようだ。
「熱暴走ならいくつか種類があるが、アレックス機なら頭の使いすぎだろう。考えすぎと言うべきか。言語と感情処理が追いつかずにハードが焼ける。普通なら各機能を停止させて安静にする。人間と同じだ。ひどい時には完全にハードが焼け落ちて修復不可能になり、記憶や理解に重大な障害が残る。直せなければ廃棄しかない」
麻里は目を細めた。説明書を読み上げられているような感覚。ただそれだけに、嘘はない。
「どういうときにそうなると?」
「私なら、無理な運動を長時間つづけているとそうなる場合がある。あいつなら、たとえば難しい処理を一気に要求されると、計算が追いつかなくなるときがある」
麻里は頷いた。どんなに運動性能がいいロボットでも、無理に動かせ続ければ壊れてしまう。それと同じで、どんなに処理能力が優れているコンピュータでも、無理をさせればダウンする。アレックスは時々刻々、多くの評価関数を計算し続けている。それが過ぎれば倒れるということだ。
「さっき、廃棄するって言いましたけど……壊すってこと、あるんですか」
「ある。私など、コンピュータが破壊されればこれまでの経験もノウハウもなくなる。修理しても、また一から学習を始めないといけない。腕なら修理や交換をして、リハビリくらいですむ。だが頭となるとそうはいかない。私を廃棄して、新しいロボットを作ったほうが早いし、そいつのほうが圧倒的に優秀だろう」
ナーヴはたんたんと答える。そこには恐れも何もなかった。さも当然というふうに話す。
ふと、アレックスならなんと答えるだろうと思った。きっと少し苦笑いをして、子どもに教えるように、オブラートに包んで話すだろう。機嫌が悪いときだったら、肩をすくめてごまかしてしまうかもしれない。
またアレックスのことを考えている。考えると会いたくなってしまう。麻里は首を振った。
パソコンや計算機のように、ロボットのいまの状態をそのまま保存する、ということはできない。つまりバックアップを取ることはできず、壊れてしまえば替えが利かないのだ。エレメンツは起動した瞬間から学習をはじめる。学習の過程を追うことはできず、すでに彼らの頭の中がどうなっているのか、完全に再現できる工学者は誰もいない。アレックスの似たようなロボットを造ったとしても、それは似てはいるがアレックスではない。アレックスの頭の中の記憶をコピーしたとしても、そのロボットは満足に動けない。人間は脳を移植しても、体が勝手に適応してくれるが、ロボットはそうではない。
「壊されるって、どんな、ふうに」
ナーヴは一瞬、沈黙を置いた。ためらっているかのように見えたが、そう見えるふりをしているだけかもしれない。いずれにしろ、珍しくこちらの問いに反応した。ナーヴの声が少し低くなった気がした。
「今のところ、エレメンツはだいたいが廃棄されずに、展示として残されている。一般公開はされてないが。おそらくどこかにあるだろう。エレメンツでないロボットについては様々だな。分解して廃棄するのが普通だと思うが」
聞いていることは恐ろしかったが、あきらかにナーヴがこちらに気を使ってくれている。残念ながらそれは不自然な間になっていたが、その気持ちだけでほっとした。
「ロボットは、それについて、どう思ってるんですか」
「私は、それでいい、と言うしかない。そういうふうに造ったのはヒトだからな。ふだんなら自分の身を守るのは当然だが、制作者の命令なら別だ。アレックス機は何を言うかわからんが」
麻里はとても、ナーヴにありがとうとお礼を言いたくなった。きっとそうしても、彼は何をいまさらという顔をして平然としているだろう。冷静に返してくるかもしれない。質問に答えただけだ、とか言って。