4 ロード 7
夜中になってもマリが家に戻らない。
アレックスが諜報の仕事にもどった理由。
夜。
ぶん、と音がして少女が壁に映し出される。アレックスはリビングの真ん中につっ立ったまま、目を閉じていた。
〈アレックス、マリ見なかった?〉
リーブラが尋ねる。アレックスは振り向いて首を振った。
「まだ帰ってきていない」
は? とリーブラは眉根をきゅっと寄せた。
〈まだ帰ってきてないって、買い物にでも行ったの。こんな時間に〉
「行き先は知らない」
アレックスはただ事実だけを述べた。
〈――昼間からずっといないってこと? 嘘でしょ〉
アレックスは頷きもせず、明後日の方向をぼんやりと見つめた。リーブラは忙しなく左右を見つめる。
〈教授に連絡した?〉
「してない」
〈どうしてしないの〉
「したって意味ないと思って。教授もすぐに帰ってこられる距離じゃない」
リーブラは急に、アレックスの向かいの壁に現れた。スピーカからの音声がひときわ大きくなる。
〈ばかね! 確かにそうかもしれないけど、どうすればいいか指示してくれるかもしれないでしょ。ロボットの私たちだけで解決できるの? どちらにしても連絡はするべきよ〉
「だったらあんたがしろよ。電話回線つかえるだろ」
アレックスがつぶやくと、リーブラは目を見開いた。
〈どうしたのあんた〉
知らない、とアレックスはその場にしゃがみこみ、壁にもたれた。アレックスは混乱していた。なぜこんなにも自分が疲れているのか、それがわからずに困っていた。理由や原因がわかれば対処もできるのに、それがわからない。
リーブラがあわてる。
〈ちょっと待って。いくらあたしが連絡したって、あんたが動いてくれなきゃどうしようもないんだって。頼むから動いて〉
わかってる、とアレックスがのっそりと立ち上がろうとしたとき、けたたましい音が鳴り響いた。アレックスとリーブラが顔を見合わせる。リーブラが回線をつかんでしまう前に、アレックスは走って受話器を取った。もしもし、と暗い声で尋ねる。
受話器からは、雑音しか聞こえなかった。遠くに聞こえるのは車の音だろうか。
「マリか?」
アレックスの眼前の壁に、怒ったような、心配したようなリーブラが現れる。完全に母親の顔だった。
アレックスの耳に人の声が聞こえると、アレックスは目を閉じた。
「怪我してないか? いまどこにいる?」
タクシーを使わなければならないほどだった。走ってもいいのだが、自分が道に迷ってしまっては元も子もなかった。
家から3キロほど離れた、河川敷の下流。暗闇の中でぽつんと黒い影がある。プリンのような形をした、腰かけの上。
マリ、とアレックスが声をかけると、影の頭が動いた。
「どうかしたのか。迷子になった?」
微妙な場所だった。家から距離は離れているが、帰り道がわからないほどでもないと思う。しかし子どもの方向感覚はアテにできない。ましてや夜では、慣れた道でも迷っておかしくはない。
麻里は動かない。カメラを暗視モードにしようかと思うが気が進まない。彼女の表情は能面のように固く、地面を見つめている。
「黙ってちゃわかんないぞ」
「なんできたの」
ぼつりと麻里がつぶやく。アレックスは面食らった。この状況でこんな発言はあるだろうか。さっきから必死こいて、似たようなシーンの動画を探して学習しているのだが、こんな反応は想定していなかった。「なんでって」当たり前だが単純に理由を聞いているのではないのだろう。それはつまりどういうことか、アレックスはわかっている。昼のできごとが影響しているのだ。つまり自分が悪かったりするわけで。
しかしアレックスは、よくわからなかった。とりあえずさっきまでの苦しい感情をどうにかしたい。信太郎ならどうするだろうか。信太郎は麻里の家族だ。自分が麻里の家族なら。自分が彼女の兄なら。
アレックスは麻里のあごに左手を添えて、右手を振った。思い切り頬をひっぱたく形になった。ぐらりと彼女の体が傾く。アレックスが両肩を持って支える。10秒もしないうちに、麻里の顔がくしゃくしゃになり、そのうちに泣きべそが聞こえてくる。
「心配したんだぞ。心配したんだ。教授がいなかったから、僕たちではどうしようもなかった。マリがどうかなってたらって、考えたことあるか。すごく怖いんだぞ。死ぬほど怖いんだ。リーブラなんか泣きそうだったんだ」
麻里は相変わらず泣いている。アレックスの声がかき消されそうだったが、ちゃんと聞こえているのだろうか。両肩を持って、相手の目をしっかりと見つめる。
「もうこんなことは二度とするな」
これらの言葉がどこから生成されているのか、アレックスにはよくわからなかった。信太郎が乗り移っているのか、他の多くの親の言動を学習したのか。はたまた本当に、麻里を家族だと思っての言葉なのか。分析するのも面倒だった。とりあえず今の自分の感情を彼女に知らさないと、負けた気がした。
「約束しろ。二度としないって」
さらに彼女の二の腕をぎゅっとつかむ。口をへの字にした麻里はしばらく反応しなかったが、やがて小さくうなずいた。「本当か?」アレックスが念を押すと、麻里は2回大きくうなずいて、何やらぐにゃぐにゃと言葉を吐き出した。ごめんなさい、と言ったのだろう。
見ると、彼女の頬が赤く腫れている。思っていたより強く叩きすぎたかもしれない。アレックスは麻里の頭を抱いた。ぐずる麻里を見て、アレックスは自分の違和感の正体がわかった。もうこんなことは二度とごめんだ、とアレックスは首を振った。
***
「あの時はわからなかったけど、今考えると、アレックスはけっこう悩んでたのかもしれないですね」
ミラがこしらえたスープをすすり、麻里がつぶやく。小さなテーブルをはさんで、向かい合ってソファに座る。
「私は、誕生日パーティの日にアレックスが倒れたのがけっこうショックで、よく覚えています。どうしてああなったんだろうって、色々理解したくて、私は工学を勉強したんですけど」
ミラの目の前にいる少女は、過去の記憶を話してくれた。おそらくずっと抱えていたであろう、一種の呪いのような記憶だ。ミラは頷いた。
「すごく興味深い話だわね。だってあの子、全然そんなこと話してくれないんだもの。私が最近アレックスについたってのもあるけど。あの子のその体験は、すごく精神的に支えになってると思う」
麻里は顔を上げた。
「そうでしょうか」
「そうよ」
正直な話、ここまで面白い話が聞けるとは思っていなかった。これまでアレックスとは何百時間もカウンセリングをしてきた。大昔の挫折のことはよく聞いたが、麻里との1年間の休暇のことは話してくれなかったのだ。まぎれもなくこの間の出来事は、アレックスに何か影響を与えたはずだ。それなのになぜ話してくれなかったのか。自分とはさんざん付き合ってきたはずなのに、まだ信用されていないのだろうか。それとも、本人も思い出したくないだけ?
「基本的にロボットは、ヒトが喜んでくれると嬉しいはずなの。護衛型ロボットなら護衛対象が、教育型ロボットなら生徒がその対象。だけど、アレックスの相手は国益だからね、単純じゃない」
さっき聞いた一部の記憶からだけで、安易な予想はしてはいけない。正解はアレックスに聞くしかない。ただ昔のアレックスが、自分が何のために仕事をしないといけないのかという、強い疑問を持っていたとしたら。挫折の立ち直りのきっかけは、麻里のために動く、ということだったかもしれない。麻里という家族を守るために、国家の平和を保つ。そうなっていてもおかしくはない。小さな意識の違いかもしれないけれど、これがあるのとないのとでは大違いだ。
ただそのバランスが、7年たった今は結構くずれてきている、ということが問題なのだけど。おそらくそれは、麻里が成長してしまったからだ。アレックスの、自分の仕事の後ろめたさのほうが、大きくなってしまったのではないか。
麻里はまた頭を下げる。
「……今は、ここに来ないほうが良かった気がします。結局アレックスの邪魔になっちゃって」
ミラは目を閉じた。どうしてこの話を、彼が出張に行く前に聞かなかったのだろう。試験の準備に忙しすぎて気が回らなかった、というのは言い訳にしかならない。ものすごく自分に腹が立つ。
しかし今ここで後悔しても、アレックスの助けには何一つならない。自分にできることは、こんど彼が帰ってきたとき、彼が安心できるような環境を作ることだ。そのためには、この問題は避けては通れない。ミラは尋ねた。
「マリちゃんは、アレックスのことが好きなの?」
ミラは麻里の目をじっと見つめた。いかにも10代らしい、恥ずかしがるような反応を期待していたのだが、予想は外れた。麻里は一瞬だけ苦笑し、すぐに目線を下げた。
「だめですか?」
自分がものすごくひどいことを言ったような気がしたので、ミラはあわてて首を振る。
「だめじゃないわ。確かにヒトとロボットの恋愛なんて、タブーだって言う人もいるけど。でも、私は好きってこと自体を抑えることはないと思うの」
本当は、カウンセラとしてはあれこれ指摘してはいけないのだが、自分は工学者でもある。それに一応、恋愛の先輩でもあるし、彼女にアドバイスをせずにはいられない。
「だからこそね、アレックスをちゃんと好きなら、あの子のことを考えないといけないと思うの。たとえば今は仕事のことに集中したいんだって言われたら、距離を取ったり陰で支えたりする。それは人間だって同じでしょう?」
麻里は大きく頷く。たかが10代の恋愛とはいえ、そこから発生するエネルギーはすさまじく大きい。彼女はその気持ちだけで、単身この南国の地へ来たのだ。そのエネルギーは大きすぎるだけに、暴れまわり、自分でさえコントロールできなくなる。
「本当言うとね、確かにマリちゃんが来てから、アレックスのストレス値が少しずつ上がってるの。でもそれはしょうがないことだから。人と接してストレスが出ない人はいないから」
「だから、アレックスは、自分のことを忘れろって」
今にも麻里は泣き出しそうだった。ミラは首を振る。
「たぶん、あの子はマリちゃんの気持ちを察して、避けたんだと思う。基本的に、ロボットとヒトは親密になりすぎないようにって、生まれる前にプログラムで書かれるから。それにアレックスの仕事は特別でしょ。どう答えていいかわからないか、答える自信がないから、距離を取ったんだと思う。せめてもう少し、アレックスに考える余裕があれば良かったんだけど、その時間もなかったから」
一息おいて、自分に落ち着けと言い聞かせる。
「だから、マリちゃんが嫌われてるってことじゃないと思う。私の予想だけど。――でも、私がマリちゃんの親なら、やめときなさいって言うと思うわ。相手が相手だし、危険も多い仕事だし。すごく傷ついたり、辛くなったりすることも多いと思う」
ミラは麻里の瞳を見つめた。麻里の顔は、さっぱりあきらめていないという表情だった。まあそうよね、とミラは思わず同意しそうになった。恋愛の前の禁忌なんて、本人らからすれば何の障害にもならない。地雷が大量に埋まっているとわかっていても、渡らずにはいられないのだ。
そのとき、自分の携帯端末が鳴った。ごめんね、と画面を見ると、R.U.Rの社内電話からだった。夕陽はとっくの昔に落ちている。こんなときの電話は無視するに限るのだが、なんとなく胸騒ぎがした。タイミングが悪すぎる。ディスプレイに表示されている電話番号。その無機質な数字の羅列が何かを訴えかけている。何かとてつもないことを。
どんどん広がっていく不安を無理やり押し込んで、ミラは携帯をソファのクッションの下に押し込んだ。今日はどうしても、麻里のそばを離れたくない。たとえこれが緊急の用事だったとしても、後悔はしない。
ミラはクッションをお尻の下に敷いた。
「なんでもない、ってことにしときましょ」
「大丈夫なんですか?」
大丈夫、とミラは微笑む。もう少しだけ麻里と話をしよう。だけど、さすがに用事が気になるので、夜中になる前に研究所を覗いてこよう。ただし、深入りはせずに。
結果から言えば、このときの連絡はミラの予想通り、恐ろしく重大なことを伝える電話だった。だがミラはそのあとも、一度も後悔をしなかった。この連絡を知ってしまえば、麻里と一緒にいようなどと、到底思わなくなったからである。