3 ホールト 3
2人で買い物に来たマリとアレックス。
マリはアレックスの出張前に、彼の気持ちを聞こうとして……
午後二時過ぎ。待ち合わせ場所の社宅前まで行くと、車とアレックスが待っていた。
「タクシーつかうの?」
「交通機関ないからな。僕が運転するわけにはいかないし」
二人は後部座席に並んで座る。アレックスが運転手に英語で話しかけて、車が発進する。数分で高速道路に乗る。
窓の向こうからクラクションの音がこだまする。東南アジアの見慣れた風景だった。全てのドライバーが思い思いの気分で走る。交通規則で動いているというよりは、お互いの気づかいで均衡が保たれている感じだ。経済の急な成長にインフラ整備が追いついておらず、渋滞と排気ガスの深刻さは日本の比ではない。特に二輪車が異常に多い。働き口が首都に集中し、東京のように労働者は外から通勤するしかない。自動車を買うほど裕福でもないため、皆バイクを買うしかないのだ。借金で破産してでも買う人間がいるという。信号待ちの交差点では何列もバイクが並び、まるでロードレースのようだ。
麻里はちらりと隣のアレックスを見た。何を考えているのかは読み取れない。こんなに近くにいる彼を見るのは、R.U.Rで最初に出会ったとき以来かもしれない。
「どこ行くの?」
「とりあえずショッピングセンターでも行くか。ここらへんで一番でかいし」
高速道路の周りは工業地帯と、従業員の住宅にほぼ限られている。少し大きな買い物をするのなら、高速を抜けて都市部に入らなければいけない。
アレックスは反対側の窓から外を眺めている。麻里はふと不思議に思った。いままで散々、子どもアレックスとは冗談を言い合ったり、手をつないだりしていたのに、どうしていまはこんなに緊張しているのだろう。相手は見かけが違うだけで、同じロボットなのに。
そりゃ、何年も散々、ずうっと想像してたロボットだからよ。緊張して当然だわ。
麻里は自分で納得して、隣の彼の方を向いた。
「アレックスって、普段どんな仕事してるの?」
「うーん、他のロボットとあんまり変わらないかな。訓練やったり、後継機の訓練を手伝ったり」
「危険な、仕事?」
「訓練は危険じゃないよ。あんまり言えるものじゃないけど」
アレックスが苦笑して腕を置く。微妙に距離のある、お互いの腕。その間は十センチもない。
「わるい、ちょっと寝る……」
そう言って、いきなりアレックスは目を閉じた。身体を背もたれにゆっくりと預ける。
「え、寝るの?」
「このままだと買い物中に眠くなる」
「私、行き先知らないよ」
「場所は伝えてある。着いたら起きるから」
海外のタクシー内で寝ることは普通ありえないことだが、このタクシーはよく利用しているようだし、安全なのだろう。
「ちょっと朝の訓練が疲れたかな。小さくはならないから」
「アレックス」
大丈夫、と彼は微笑んだ。肩は上下しているが寝息は聞こえてこない。基本的に必要なとき以外、彼は呼吸をしない。
こんなに疲れているのに、どうして今日は外出になど誘ったのだろう。
しばらくして、麻里は身をよじって彼の腕に頭を寄せた。怒られてもいい。とりあえず危ないから、自分が寝ないように起きていよう。
首都圏のショッピングセンター。一見として、日本のそれとはあまり変わらない。違いは店員たちの風貌と、トイレが宗教上、変わっているということぐらいだ。国民のほとんどがイスラム教徒だが、もともと把握できないほどの民族が暮らす国である。国教ではなく、宗教的な規則も厳格ではない。
日本から持ってきた夏服が足りなくなったため、衣料品店で服を選ぶ。少し離れたところではアレックスが腕組みをしている。R.U.Rでは誰もフォーマルな格好などしていなかった。大事な取り引きがあるときですら、みな思い思いの格好だった。インドネシア伝統の、アロハシャツに似た派手な服を着ている社員もいる。暑いので、ちゃんとした格好をしてもしょうがないのだと思う。
「これでいいかなあ」
麻里が唸っていると、買い物袋を持っているアレックスがため息をついた。麻里がアレックスを見つめる。
「危なっかしくて怖いぞ」
アレックスは視線を鋭くした。麻里は思わず肩からかけているカバンを見る。確かに外ではスラムに似たところがあり、物乞いと目が合ったりした。麻里は目を合わせないように、アレックスの手をつかんで後をついていくのが精いっぱいだった。
「海外はじめてだし、しょうがないよ」
アレックスが目を見開く。
「本当か?」
「もっと言うと飛行機も初体験だったよ。英語はリーブラと特訓したけどさ、実際に来ないとわかんないこともあるし」
いまだに、海外での買い物の仕方もあまりわかっていない。レストランでの振る舞い、値段の交渉の仕方。たまに英語が通じない店員もいて、そのたびにアレックスをあてにしている。インドネシア語をぺらぺらと話すアレックスには、店員も目を見張っている。
「ロボットの僕が、人間の君を心配しないといけないみたいだ」
「だからまだ十五歳なんだってば」
吟味していた服をアレックスに押しつける。
「ねえ、お腹すいた」
「僕はすいてない」
「当たり前でしょ」アレックスのお腹をつついてやる。ロボットでも空腹という欲求は理解できるし、共感もできるだろう。要するにエネルギー切れだ。アレックスは苦笑する。
「わかったって。あっちにフードコートがある」
行きついた先は、日本のファストフード店とやはりそんなに変わらない。二階建てに置かれたカラフルなテーブルとチェア。全体的に食べ物のスパイスが効いている。既に昼食はとっているので、麻里はグラタンだけを注文する。
テーブルを挟んで向かいの長イスに、アレックスが座る。麻里はグラタンの中のマカロニを突っつきながら、彼を見つめた。ぼんやりと店内を眺めているアレックス。肘をついたり、コップを触ったり、その行動は人間のそれとまったく同じだった。たとえそれが、人間の細かな動きをキャプチャして、それをそのまま模倣しているだけだとしてもだ。人間だって、意識的に全ての行動を行っているわけではない。彼だってただプログラムに従うまま、ほぼ無意識で行っている。見かけ上、アレックスはほぼ人間と変わらなかった。恐らく彼は何も考えていない。
店内は多くの客でにぎわっている。頭を布で隠した女性たち。彫りが深すぎるわけでもない、マレー系の店員。ここにいる誰も、アレックスがロボットであることに気づかない。よほどおかしなことがない限り、アレックスが機械であることが露見することはない。
麻里は立ち上がって、アレックスの隣に座った。片腕同士が触れる。彼は少し身じろぎをする。
「なんで隣にくるんだ」
いいじゃん、と麻里は彼の肩にもたれかかる。アレックスはまた身じろぎをする。麻里はうつむく。
「アレックス」
ん、と彼の声が聞こえる。麻里は拳を握りしめた。
わたし、ここに来てよかったのかなあ。
「どうした、急に」
自分の頭上で、アレックスの顔が動いたのがわかる。
「アレックス、なんか怒ってるみたいだもん」
ああ、とアレックスがつぶやき、沈黙が降りる。まわりの喧騒だけが通りすぎる。
しばらくして、頭の上に手を乗せられた。
「いや……怒ってるわけじゃない。その、麻里が大きくなったんだ」
彼の少し高い声が耳に入る。
「なにそれ」
「大人になったんだって、本当。だからさ、昔みたいに接するわけにもいかないだろ?」
「別に大きくなりたくてなったわけじゃないもん」
視界がぼやけてくる。自分が子どもみたいなことを言っているのはわかっていたが、どうしようもなかった。
奇妙な感触だった。
「悪かったよ。あんまり君ぐらいの年頃の女の子と、話したことないから。仕事モードだったらできるけどさ、そんなの嫌だろ?」
麻里はアレックスの右手を握った。親指以外の四本をつかむように。覚えていないが、昔はよく触ったのだと思う。今でも大きさの差はかなりあるのに、昔はどうだっただろう。人と同じ体温。アレックスが手を握り返してくる。あっという間に自分の手が小さくなる。
彼の手を持ち上げて間近で見ると、青い血管まで再現されていた。使い込まれているとわかる、細かな傷や痣が見える。マネキンとは違うが、別にこの中に本物の血液が流れているわけではないのだ。見せかけの液体があるだけで。
「変な手」
ロボットに限った話ではなく、自分以外の人間の手など大体おかしなものだ。
夕方。近くの公園で散策する。公園の周りにはいくつか屋台が連なっており、店員が一服しながら道路を眺めている。
買い物袋をひっさげ、アレックスが木製のベンチに座り、麻里が隣に座る。公園は緑豊かだった。大通りの車とバイクの多さに辟易していると、緑が恋しくなってくる。高層ビルが立ち並ぶ首都において、こういう場所は珍しかった。排気ガスの影響がないとは言えないが、自然の芝生が気持ち良い。
「研究所じゃ、君の噂で持ちきりだったよ」
「本当? 別に私なにもしてないけど」
「ま、正確には信太郎教授の噂だけど。教授の孫でトモオミの娘なら、どんなすごいやつが来てるのかってさ」
アレックスの体が近い。物理的な距離だけでなく、心理的な距離もそうだ。今までで一番近いような気がする。
「やだなー。あんまり期待されてるとなんか」
「十五歳で来てるんだから、十分すごいさ。リーブラに教えてもらったんだっけ」
教育用プログラムの〈Li : LIBRA〉は、数十年前に開発された後、岡田家で稼働を続けていた。麻里が小さな頃から一緒に住んでおり、麻里の母であり姉のような存在だった。
「うん。アレックスが家から離れたあとに、工学と英語教えてもらった。数学はわりと出来るよ。他はダメだけど」
中学で習う数学や理科は、既に小学六年生あたりで完了してしまい、授業は退屈の一言だった。反面、日本史や地理は壊滅的に苦手で、逆に理解が追いつかずに授業はつまらない。工学はほとんど遊びながら学んだようなもので、いつの間にか大学生レベルの資格もとれるようになっていた。
「それって、僕のせいなのかな」
「そうでしょ。じいちゃんの影響もあるけど」
「教授はなんて?」
「あんまり嬉しくないみたい。最初は喜んでた気がするけど、だんだん私が本気になってきて、渋い顔になってきてる。あんまりロボット工学やってほしくないのかなあ」
麻里が小首をかしげる。あれだけ家に機械を持ち込んでおいて、興味を持つなと言う方が難しい。
「ま、教授にも考えがあるんじゃないかな」
アレックスが微笑んで麻里の頭に手をやる。こんな当たり前のような会話を、どうして今まで出来なかったのだろう。家で待っているミラには悪いけれど、この時間が長く続けばいいのに。
なあマリ、とアレックスがつぶやく。麻里は振り向いた。
「今週末から、出張に行くんだけどさ」
うん、と麻里が頷く。
「しばらく帰って来られないかもしれない」
アレックスの顔が心なしか、固くなっている気がする。麻里は心配になった。
「長い仕事なの?」
ああ、とアレックスはうなずいた。麻里の顔を見ていなかった。
「だから、僕のことは忘れてほしい」
麻里は、一瞬何を聞いたのかわからなかった。反射的に口がぽかんと開く。
へ、と間抜けな声がでた。言葉の意味を咀嚼して、目を見開く。
「どういうこと?」
「ごめん。だけど、あんまり僕には、関わらない方がいい」
アレックスの目は、冗談を言っているわけではなさそうだった。もちろん悪意があるわけでもない。心から誠実に、麻里のことを思って言ってくれていることはわかった。それだけに、麻里は理解できなかった。
「なんで……」
「頼むよ。僕を困らせないで」
彼がその理由を言えないことも、麻里にはわかっていた。それだけに、力になれないことが悔しかった。そのために工学を勉強したのに。彼の支えになるためにここまで来たというのに。
麻里は両手でアレックスの手を握った。
「くやしい」
「大丈夫。そんなに遅くはならないつもりだから。でも、もしかしたらってことがあるから」
アレックスの手から温かさが伝わってくる。麻里は反論する気も起きなくなり、ただ目をそらしてうつむいた。
「やだ……」
麻里はアレックスの胸に顔をうずめた。彼が腕を回して抱きしめてくれる。嬉しかったけれど、悲しかった。こうやって優しくしてくれるのは、これが今日限りだからだ。それを受け入れるのは嫌だった。それは彼の提案に答えたことになる。しかし麻里にとって、それ以外に選択肢がなかった。彼の悩みに答えることができない。
ああ、と麻里は既視感を覚えていた。こんな気持ちを、いつか感じたことがあった。七年前、アレックスと一緒に住んでいたとき。急にアレックスが家を離れると聞いた、あのときだ。また彼が遠くへ行ってしまう。結局自分は、アレックスの苦しさをわかってあげられないのだろうか。