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3 ホールト

アレックスは仮想空間の中で訓練を受けていた

ミッションは、多くの尾行者のうちひとりを補足して、相手から情報をうばうこと――


(Holt 停止させる、止めるの意。システムをシャットダウンさせるコマンド)

――『仮想訓練、スタート』


 夕方、青年は街を歩いていた。欧州の観光都市はどこも人がいっぱいで、大通りに様々な人種が闊歩していた。ショッピングを楽しむ地元の人間、帰宅途中の黒人、観光地帰りのアジア人。それぞれの人間の目的は別だったが、不思議とどこか調和がとれていた。伝統的な建築物と、近代的な建物が上手く合わさった街だった。

 青年――諜報型ロボットであるアレックスは、目の前の情景を感慨深げに眺めていた。これだけ観光客でごった返しているのに、不思議と嫌な気分はしない。これが一般的な観光地の光景というやつだろう。対して、自分が1番よく知っているあの街はどうだろうか。宇宙のすべての生物を集めてきたような人ごみ。全ての人間がクレイジーで、全ての人間がイカれていると思った。自分のように紺のジャケットを羽おり、黒のパンツを履き、ビジネスバッグをぶらさげている人間が浮いているように感じる。ただの仕事帰りだというのに、そんなことを考えるのは自意識過剰なんだろうか。いやそんなことはどうでもいい。問題は今の状況だった。

 さっき会社を出た途端から、ある種の違和感があった。人々であふれているこの通りの中でも、それははっきりと感じられる。アレックスが金髪碧眼、肌の白いスコットランド系だから、ということは理由にはならない。確実に誰かに尾行されている。しかも複数。

 アレックスは後頭部をかいて、金髪の陰に仕込んである小型カメラに意識を集中した。広角レンズがアレックスの後方、人間の顔と石畳を映している。多くの人間は後ろに流れているが、アレックスと同じ方向に歩いている人間は、それぞれ自分の目的で頭がいっぱいに見える。その中で、こちらに意識を向けていそうな人間が、2人。必死に目線や歩幅、肩の緊張ぐあいを自然に見せようとしているが、体の至るところでアレックスを意識している。アレックスはぐいぐいとレンズを動かして、さらに遠くの2名ほどに目をつける。

 アレックスは広角レンズから意識を戻した。こんな芸当が出来るなら、追尾に気づくなど簡単かと思うかもしれないが、そうでもない。映像から追尾者を判断するにも訓練がいるし、単純にコンピュータで学習してできる芸当でもない。あの追尾者たちも、一見して不自然なところはなく、普通の地元民に変装している。ただ完全に消すことのできないプロの意識。意識しすぎないという意識。それがこちらに伝わってくる。

 さて、とアレックスは息を吐いた。セオリーならば、地下鉄やタクシーを利用して撒いてしまうのが普通だ。自分に連絡できる仲間がいれば別だが、いまはそんな余裕はない。相手は少なくとも5人以上はいる。普通の諜報員なら迷う状況ではないだろう。何をするにも、とにかく絶対的に人数が足らない。

 しかし、アレックスは普通の諜報員ではない。ロボットであり、『撒き餌』である彼にはそれなりの役割がある。

 今は追ってきているやつらの身元が一切不明、また自分たちも情報が不足している状況だ。つまりこれは、相手と接触できるまたとない好機でもある。脅威はなるべく排除しておいた方が良いし、相手と接触できる機会がそう何回も起こるとは限らない。よって自分はこれから、一人で追尾者の誰かを叩きのめし、わずかでも情報を奪わなければいけない。

 まくだけなら何とかなるが、相手と接触し、情報を得るとなると、とたんに難易度が上がる。自分が単独であるならなおさらだ。

 とりあえず、数を減らさないと。

 うろうろと町をさまよい、タクシーを使って駅に着く。地下鉄に乗って、相手と距離を取りながら適当な駅で降りる。この時点で3人ほど落ちただろうか。なかなか相手はしぶとく、連携も上手い。おそらく駅を出たところにも、まだ待ち伏せがいるだろう。

 駅前の広場に出ると、いくつものカフェがぐるりと広場を囲んでいた。古い石畳と噴水、そしてまた恐ろしいほどの人混み。アレックスはぶらぶらと店先の看板メニューを見るふりをしながら、店の中の様子をうかがう。3つ4つと回って、アレックスはようやくひとつのカフェに決めた。入店して女性店員にコーヒーを頼み、テラスのテーブルに座る。

 思ったとおり、追尾者たちが同じ店に入ってくる様子はなかった。テーブル同士の距離が近いこの店では、追尾者にとって入店はリスクが大きい。彼らは隣のカフェで、カップルに偽変してアレックスを見張っている。アレックスはわざと、追尾者からはっきりと見えるテラスの席を陣取っていた。追尾者を安心させ、距離を取らせるためだ。

 注文したコーヒーが来てから、アレックスは手洗いに立った。店奥のトイレは多くのテーブル客で紛れており、追尾者からは死角となっている。アレックスは慎重に、木製の扉を開いてトイレに入った。その瞬間を見ている追尾者は、後頭部のカメラで見る限り、誰もいなかった。

 アレックスが手洗いに入ってから、90秒後。ただひとつしかない店のトイレから現れたのは、長い黒髪の男だった。イタリア系、やや浅黒い肌。ジャケットの色は黒、下は青のジーパン。男は手ぶらだった。

 アレックスは迷わなかった。さきほどのウェイトレスにチップを含めた料金を払い、席に戻らずに店を出る。

 店を出て数分、アレックスは追跡の数が明らかに減ったことを確信した。完全に撒いた、わけではない。完璧な変装をしたはずなのに、追跡者がまだ2人もいる。恐らく追跡者のリーダーが、念のためと思い部下を送ってきたのだろう。

 相手は優秀だ、とアレックスは頷いた。しかし、追尾者を分散させることには成功した。まだ半分以上がカフェを張り込んでいる。

 ここまで来れば、あとは話が早かった。要するに片方の追尾者をおびき出して、ぶちのめせばいいだけの話である。追尾者が2人組の場合、対象者に近づく人間と遠くからサポートする人間に分かれ、担当を交代しながら追尾する。アレックスはデパートの地下駐車場に、ひとりの追尾者を誘い込んだ。人が周りにいないことを確かめてから、アレックスは不意打ちに陰から飛び出し、相手の顔と腹を数回殴っておく。力の加減が苦手なので、相手の反応を見ながら男を車の死角に引きずる。駐車場は暗く、等間隔におかれた明かりの光は頼りない。金属スキャンをかけて、相手のピンマイクとイヤホンを奪い取る。

 どこから来た、とアレックスは小声でささやいた。何も返答がないことを確認すると、男の手をかかとで踏んづける。男が喉から声を絞り出す。

 あまり時間をかけると、不審に思った仲間が駆けつけてくる。喫茶店に張り込んでいた仲間は、この駐車場のことを聞きつけただろうか。アレックスは指を2本立て、男のまぶたの上に指を押しつけた。

 どこから来たかだけでいい。10秒以内に言え。10秒ごとにひとつ、目を潰す。

 ゆっくりと瞳を押す指に力を入れる。男は見るからに迷っていた。あと5秒、とアレックスがつぶやき、ようやくアレックスが本気だと悟ると、男は自らの素性を口走った。

 そういうことか、とアレックスは頷いて手を戻した。男の表情や所作を見ても、嘘をついているわけではなさそうだ。追尾の技量や人数からも納得がいく。

 そういう組織のつもりということか。

 アレックスが男の腹に蹴りを入れようとしたとき、男から奪い取ったイヤホンに音声が入った。

『A班どこだ?』

 アレックスは反射的に振り向き、遠くの車の陰から覗く、数人の追尾者と目が合った。見つかった! あの人数に囲まれたら終わりだ。アレックスはもう1度だけ男の腹に蹴りを入れた。男が胃液を吐いてうずくまる。アレックスは踵を返して走りだす。

 その時、不可解な力がアレックスの足をおそった。うずくまっていたはずの男が、アレックスの足にしがみついていたのだ。抵抗する力はほとんど取り除いていたはずなのに、どこにそんな力が残っていたのか。不意をつかれたアレックスはバランスを崩して倒れる。おかしい。まるで、応援が来ることを予測していたかのような対応だった。そんなはずはない。仲間は完全に撒いていて、追尾者をここに誘ったのは自分の方のはずだ。

 アレックスはもがき、3、4発蹴りをいれて、今度こそ男の捕縛から逃れた。追跡者の仲間が走ってくるこの事態の中では、おそろしいタイムロスだった。最低でも3人の足音が聞こえてくる。アレックスは唇を噛んだ。 

 地下駐車場をアレックスは全力で走った。とにかく人が大勢いるところまで行けばいい。そうでなくても誰か、集団が来てくれれば。

 遠くの通路に、人影が見えた。まだ学校でサッカーでもしてそうな、10代の少年が不思議そうにこちらを見ている。だめだ。1人ではまったく抑止力にならない。どうしてこういう事態が次から次へと来るのだろう。少年は事態がよくわからないのか、ぼんやりと成り行きを見ている。アレックスは舌打ちした。

「どけ!」

 アレックスが叫んでも少年はおびえたような顔をするだけで、その場からは動こうとはしない。足が固まっているようだ。アレックスは歯を食いしばった。聞こえてなかったのかよ、どけっつったんだ! つき飛ばしてもいいが、余計めんどくさい。無視するに限る。

 少年の脇を通り過ぎようとしたとき。少年が服の中から何かを取り出したのを、アレックスは横目でとらえた。それがスタンガンだということに気がついたときには、体が走る姿勢で固まっていた。早く逃げなければ――その焦りによって、アレックスの体はとっさの行動が出来なくなっていた。全体がスローモーションのように感じる。100分の 1秒単位で物事が動く。避けろ、という頭からの指令はワンテンポ遅れて足腰に届き、腰を無理やりひねる。しかし両手を突き出して突進してくる少年の勢いは止まらず、一直線にアレックスを狙う。避けきれない。激痛を予感したその瞬間に、わき腹に熱いものが当てられる。

 視界が暗転した。脳裏に真っ赤な文字が浮かび上がる。『仮想訓練、中断』――。


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