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「あー、暑い……」
机に頬杖をついて窓の外を眺める。相変わらずうだるような暑さにかげろうまで見えそうだ。蝉もうるさい。
俺はため息をつきつつ、シャーペンを回した。
今は夏休みの時期。全国の高校生は夏休みだろう。リア充どもは海やら山やらでキャッキャウフフして、そうでないものは自宅警備だ。もちろん俺は後者。
夏休みなのにどうして学校に来ているのか。
俺の通う高校はテストが赤点だと補習授業がある。だとすると俺は赤点を採ったのか?
違う、そうじゃない。俺は赤点など採ったことはない。成績は上の下だ。
ならばどうしてか。
答えは俺の前にある。
「すぅ……」
わずかに上下する肩。俺はその背中をジト目で見つめた。
「誰のおかげでこんなことになってるんだ……」
苛立ちにまかせてシャーペンを強く握り締め、その気持ちを抑えるため眼鏡を触った。俺はため息をつき、その背中を揺さぶった。
「起きろよ、誰のための補習だ」
「んー」
もぞもぞと動く背中。しかし一向に顔を上げる気配はない。ほんとムカつく。気温のせいで怒りの沸点が低い。だからこれ以上苛立たせないでくれ。
「もぅ少し~」
「先生」
それを聞いた途端、俺は立ち上がる。先生は何事かと思い、こちらに目を向けた。
そんな先生に俺は一言。
「帰ります」
「はっ? あ、ああ。真藤は別に受けなくていいからな」
先生は目を瞬いて了承した。俺は鞄に筆記用具をしまう。
「いいのかよ?」
隣がそんなことを聞いてくる。その視線が俺の前の席に向けられていた。
「怠け者にこれ以上付き合う必要はない」
そう言い捨てて、教室を出た。
時刻は午後三時。
あれから俺は真っ直ぐに帰宅し、リビングのソファで転がっていた。
別段やることもなく、涼しい部屋でこのまどろんだ空気を楽しんでいた。
しかし、それは突然に破綻する。
インターホンが立て続けに鳴らされた。
「これは……」
俺はむくりとソファから起き上がる。これをやらかすのは、昔から一人しかいない。
「はいはい、今行きますよ」
俺はめんどくさいと思いながら、玄関へ向かった。これ以上ほったらかすと、インターホンから声になる。昔からよく通る声なのだ。だから余計にうるさい。それは近所迷惑なのだ。
俺はそんなことを思いながら、玄関を開けた途端。
「なんで先に帰っちゃうんだよ!!」
「ぎゃあっ!」
首を絞められた。そのまま俺はぐわんぐわんと揺さぶられる。
「答えろよハルちゃん!」
「ちょ……死ぬ……っ、首……」
喘いで訴えるが、こいつは放そうとしない。鬼の形相で俺を睨みつける。
「約束したじゃん! 補習付き合ってくれるって!」
「いっ、いや……、だから……っ」
――補習で爆睡する馬鹿がいるか?
言おうにも喉が詰まり、喘ぎ声で終わる。
「ハルちゃんなんて大っ嫌いだ!」
「ぐあぁっ!?」
視界が回転した。一言で言うなら投げ飛ばされたのだ。腕や腰を掴まれ、廊下に放られた。廊下に強かに頭を打つ。かろうじて意識は保っていた。すげぇ、俺。伊達に何度も投げ倒されていない。……慣れって怖いわ。
ぼんやりとした視界。眼鏡がどこかに飛んでしまったらしい。アホみたいに口を開けていると、影が差す。
「ハルちゃんが悪いんだからな」
マジで? 俺が悪いの? 本気で言ってる?
「……馬鹿言うなよ、今のどこに俺の悪い要素がある? むしろ被害者だ、俺は」
「約束すっぽかしたのはハルちゃんだ。だからハルちゃんが悪い」
憤然として腕を組む。目は悪いが、怒っていることは理解できた。
「約束は約束だけど……」
俺は起き上がりながらぼやく。すると目の前に銀縁の眼鏡が現れた。俺の眼鏡だ。
「投げたのは謝る」
「ありがとう、拓海」
きまりが悪そうに拓海は眼鏡を渡してくれた。
フレームが歪んでいないか確かめて、俺は眼鏡をかけた。視界がはっきりとし、俺は前方にいる女子高生を見上げた。
少し短めのスカート。着崩したブレザー。セミロングの髪。顔立ちも整っていて、スタイルも良い。中々の美人だ。
一之瀬拓海。俺の幼馴染。
男みたいな名前だが、れっきとした女だ。
「それで。どうして勝手に帰った?」
男口調を直せばそれなりにモテるだろうに。
俺は眼鏡の位置を修正した。
「おまえは補習のなんたるかをわかってるのか?」
「なにを言ってるんだ? ハルちゃんは」
キョトンとする拓海に俺は呆れた。……補習とかの前に問いただすことがある。
「その前にさ……」
「なんだ?」
俺は拓海の目を見つめて、告げた。
「ちゃん付けはやめろ」
俺の名前は真藤遥。女みたいな名前だが男だ。遥だから『ハルちゃん』。だけど俺のまわりでそう呼んでいるのはこの拓海だけで。高校生にもなって『ハルちゃん』はやめてほしい。
しかし、拓海は首を傾げるのみ。
「どうしてだ?」
「……もういい」
俺は立ち上がって、踵を返した。
「ハルちゃんっ」
慌てた様子で拓海が後を追ってくる。話は俺の部屋で聞こうか。
俺は階段を踏みしめた。
「あのな拓海。補習ってなんのためにあるかわかってる?」
「う……、それは……」
俺の部屋で拓海はがっくりと肩を落とした。
「おまえさ、ただでさえ勉強できないんだから。授業ぐらいちゃんと聞けよ」
「だって……」
拓海はもごもごと口籠る。俺がじっと見つめると拓海は目を逸らした。
「ふぅ……」
拓海は全くと言って勉強ができない。運動神経は抜群なのだが、勉学のことになると魂が抜けたように真っ白になっている。
テストの前は必ずと言っていいほど、俺が見ているのだ。しかし結果はダメで。
「寝ずにがんばれよな、ほんと」
コツコツと机を叩いていると、拓海は顔を上げた。
「今日のハルちゃんは厳しいな……」
「厳しいって……。悪いのはおまえだからな」
「……そこまで言わなくてもいいんじゃないのか」
「補習でも赤点取ったら世話ないんだけど?」
「……」
少し言い過ぎただろうか。拓海は黙って再びうつむいてしまった。
「まあ。勉強には付き合ってやるから、今日やったところを復習しよ」
「ほんとか!」
そう言うと拓海は目を輝かせて、詰め寄る。俺はびっくりして身を引いた。
「あ、あぁ……」
こう言ってしまうのは俺が拓海に甘いからだろう。そそくさとテーブルの上に教科書やノートを広げる拓海。その顔は嬉しそうだった。
そうやってにこにこしてりゃあ、男も寄り付くんだろうけどな。
拓海の、砂漠のようにからっとした性格は男には受けつけないらしく、女子のほうで人気が高い。……俺も女子にキャッキャッ言われたいのだが。
それと原因は他にもあり、中学のときに男子三人にからまれていた女子を助けて、男どもを蹴散らしたらしい。この現場を見ていない俺は妙に納得した。剣道部だし、護身術もたしなんでいるし。
とにかく。拓海は男勝りというか、そこらの男より男らしい。口調も影響している。
それでもコイツは女だ。
「ハルちゃん、この問題どう解くんだ?」
「ん? これはy=ax+bってのが基本だから……」
「y、x……なに?」
「……そこからかよ」
今日も拓海の勉強会で一日が終わりそうだ。
それでも、彼女を気に掛けるのは幼馴染という括りだけじゃない。
――俺は、拓海が好きだから。
いつからか知らないけど俺は好きなのだ、彼女が。
「そう言えば部活はいいのか? あ、補習だから部活ないのか?」
「まあそんな感じだ」
「そっか。まあ剣道もいいが勉強もな。留年なんかするなよ」
「わかってるよ」
拓海はぐっと顔を上げて、微笑んだ。
「ハルちゃんがいたらなんとかなる」
「……そ、そうか」
そんな笑顔で言われたら恥ずかしい。俺は照れ隠しに眼鏡の位置を修正した。
「ハルちゃんのおかげだなっ」
上機嫌な拓海を横に、俺は拓海の持つ紙切れを見る。それは補習後に行われたテストの結果だ。拓海はなんとか六割方取れた。
俺は安堵し、拓海に話しかける。
「まあ今回も乗り切れたってところか……」
「いつもありがとう!」
「いつも赤点取らなかったら俺はいらないけどな」
「う、またいじわるなことを言う」
「だったら勉強もがんばれよ」
「難しいことを言わないでほしいな」
どうして自信満々に言えるのか理解できかった。
俺はそろそろ帰ろうと思い、鞄を持ち上げた。
「今日、部活は?」
「あるけどいい」
「は?」
目を見開くと、拓海はニッと笑った。
「今日はハルちゃんにお礼するのだ」
「あー、そういえばいつものだったな」
律儀な性格の拓海は、毎度何かと世話になるとお礼をしてくれる。別にそんなことしなくてもいいのだが、拓海がやりたいそうだ。
お礼と言っても特別なことはなく、何かをおごるくらいだ。
「で、今日はどこ連れてってくれるの?」
冗談交じりに言った。どうせ駅前のファーストフード店かクレープ屋だ。
すると拓海はふむと唸った。
「今日はデートしよ」
「…………はっ?」
拓海の口からとんでもないものが出てきた。拓海とは無縁の言葉。え? 今、デートって言った? 拓海からお誘いですか? マジで?
「ぼうっとしないで早く行くぞ」
「え、ちょ……」
手を引っ張られてドキッとするこちらを余所に、拓海は楽しそうに教室を出た。