彩也子と父
特別なものを作るな。全てを客観的に見ろ。そうでなければ記録を司る鈴蘭の枢木家の当主など務まらない。
紡はそう言われ続けてきた。別に紡にも抵抗はなかったのだ。むしろたくさんのことを知れることは紡にとって最高の快楽でもあり幸福である。ただ、婚約者の彩也子に関してだけは何故か妙に客観的になれない。こんなことは許されてはいけないのに。
「紡さん?」
紡は声をかけられてはっと我に戻る。彩也子がこちらを見ている。彩也子と今日は観劇に来ていたのだ。長い黒髪に美しい顔立ちは母親譲りで蒼い瞳はクォーターの父親譲り。だが、紡が何よりも惹かれたのは愚かだと思うまで真っ直ぐであろうとする彩也子の心根だ。だから、あの家から離れないのだろう。
「ああ。ごめんね。彩也子さん。退屈させてしまったな。」
紡は苦笑する。彩也子は微笑む。
「いえ。でも珍しいですね。いつも私がぼーっとしてるのに。いつもと反対。」
「ああ。そうだね。彩也子さん。今度、母君のお墓参りに行くんだって?」
紡の言葉に彩也子は頷く。
「いつも通り私とお兄様だけですけどね。」
「そうか。確か都京にお墓はあるんだよね。気をつけてね。」
「お土産買って来ますね。」
彩也子はそうやって明るく微笑む。紡はそんな婚約者に微笑み返す。
「ただいま帰りました。」
彩也子を出迎えたのは継母の紀井子だった。元は父の愛人だが、今では正妻だ。
「お帰りなさい。彩也子さん。旦那様がお待ちですよ。私は麻也子と出かけてきますから。」
紀井子は冷めた目で彩也子を見つめながら言う。紀井子は娘の麻也子以外には興味がない。
「はい。いってらっしゃいませ。お義母様。」
彩也子は笑顔で義母と異母妹を送り出す。それからため息をついて父の私室に向かったのだった。
「お父様。彩也子です。...入ってもよろしいですか?」
彩也子は部屋のノックをして言った。
「入りなさい。」
無愛想な父の声が聞こえたので彩也子は部屋に入る。父である花小路文也は娘の彩也子から見ても美丈夫だ。ただ、無愛想すぎるのが難点だが。文也の私室は大抵煙たい。何故なら文也はヘビースモーカーだからだ。
「お父様。お呼びだとか。」
「こないだ宮廷に行ったそうだな。」
文也は無表情なままで言う。彩也子は頷く。
「はい。陛下がお呼びでしたので。何か問題でございましたか?」
彩也子が言うと、文也はため息をつく。
「当分宮廷には近づかぬように。あと当分外出禁止だ。私の許可なく部屋から、いや家から出ないように。学校は許すが、それ以外はだめだ。社交も私から断っておく。」
「お父様。私が何かお気にさわるようなことでもしましたか?」
彩也子は俯いて言う。彩也子は父の前の自分が嫌いだ。弱いから。
「お前は私の言うことだけきいていればいい。もう下がりなさい。」
「...はい。お父様。」
彩也子は大人しく部屋を出た。それから自分の部屋に入ると、ベッドに倒れこむ。
「彩也子?入るぞ。」
そう言って彩也子の部屋に入ってきたのは一也だった。彩也子はベッドの上でだらだらしている。そんな彩也子を見て一也はふ、と微笑む。
「全く。お前ときたらいつまでも子どもなのだから。父上のお見送りくらいしなさい。」
一也は軽く嗜める。だが、彩也子は黙ったままだ。
「彩也子。悲しいのか。」
「悲しくないです。ただ、悔しいんです。まだ私はお父様に認められてないから。」
「彩也子。父上はお前を認めているよ。」
一也は珍しく彩也子を優しく慰める。彩也子は兄の袖元をぎゅっと掴む。
「とりあえず外出禁止だけは守るように。」
一也は憂い顔で彩也子を見つめながら言う。
一也は翌日宮中で紡と仕事の話をしていた。そこで父に出くわした。
「これは花小路伯爵。お久しぶりです。」
「紡様。お久しぶりです。いつも娘が面倒をおかけしているようで。」
「いや、面倒なんて思っていません。彩也子さんは可愛い婚約者殿ですから。」
紡は爽やかに微笑んで言う。文也はいつもの仏頂面のままだったが、不機嫌になったのがわかった。そもそも文也が一番に彩也子を可愛がってることなんか周知の事実だ。その愛娘の婚約者が憎くないわけないのだ。
「ほう。仲が良くて何よりです。」
「花小路伯爵。貴女の可愛い彩也子さんは真っ直ぐで純粋な方だ。言わなければわかりませんよ。」
「あの子は私と関わるべきではない。私が言えるのはそれだけです。では失礼。」
文也はそう言い残すとその場を去る。一也はため息をつく。
「父がすまないな。」
「いや、礼儀を失したのはこっちだから。今日彩也子さんの所に行くよ。どうせ外出禁止だから家にいるだろう?」
「それは構わないが。」
一也は不敵な笑みを浮かべている紡を心配そうに見つめる。