神野シゲルの完璧な一日
【序.】
神は言った。
「おめでとう、君には余より『さいごの鍵』を進呈しよう」
私は言った。
「Why?」
神は答えた。
「理由はない。ただ、決まりなのだ。それを説明出来ないこともまた、しきたりなのだがね」
私は応えた。
「つまり、何を為すかだけを考えばいいのだな?」
超笑顔でグッと立てられた親指を捻じり折ったところで、夢は終わりを告げた。
【壱.】
目をしばたかせる。何故私は、虚空にサムズアップを突き出しているのだろう。
いや、どちらかというと因果関係は逆なのだろうか? 私が虚空にサムズアップを突き出していたから、謎の夢を見たのだろうか。ベッドから落ちる時、落下していく夢を見るように。
下らない思考を遮ったのは、携帯のアラーム。
アラーム直前の自然起床。目覚めは爽快で、布団には元気なチョモランマが地殻変動を起こしている。
「ノープロブレム。本日も完璧だ」
階段をドタドタと駆け上がってくる騒音を聞きながら、寝間着を全脱衣する。
ふむ。彼女はどうやらいつもより元気なようだ。過剰演出気味の彼女の行動に報いるには、完璧な朝をこちらも演出する必要があろう。そういうものなのだ。
ドアの前で一瞬立ち止まってから、勢い良く開かれる扉と幼馴染の声に向かって、私は全力で振り向いて、
「こらシゲ!そろそろ起き……」
「おはよう、美希!!」
全力のサムズアップを彼女の左胸につきこんだ。
ふふふ、完璧だ。わが校の女子制服はセーラーで生地は分厚い。
が、しかし!
今、私は確実に彼女のフジヤーマのトップ・オブ・ザ・トップを捉えている!
十数年の付き合いだ、この後の反応もいつもどおり、彼女の鉄拳が飛んで……こなかった。
代わりに私の中に入ってきたのは一つの音と、一つの思考。
カチリ、という軽い音と共になだれ込んできたのは聞き慣れた彼女の声で、
『やだ、もう……武井クンのとの事、思い出しちゃう……』
脳内にあふれる、自分にのしかかる男の姿。誰コレ?武井クン……なの……?
否、深く考えるからわからなくなるのだ。単純に考えればいい。
つまり愛しの幼馴染は、昨晩、大人の階段を登ってシンデレラったのだ。
マジかよ、ほわーい。という言葉をなんとか飲み込むのに数秒を要し、お互いに硬直から解き放たれて打ち込まれるストレートをもらいながら、私は今朝の夢を思い出していた。
コレだ。コレが奴の言っていった『さいごの鍵』だ。
さようなら僕の初恋。こんにちわ新しい世界。
完璧な一日が始まった。
【弐.】
さて、超常の異能を手に入れた主人公:神野 シゲルは何をするべきか?
私の新しい人生のプロットでまずすべきことは、この能力を解明することだ。
この力で出来ること、出来ないこと。己の足りる高みをはっきりと自覚して、決して油断しないことが肝要だ。
毎朝起こしに来てくれる幼馴染という存在に甘え、フラグを取りこぼした私に、慢心はない!!!
しかし私のファーストステップは予想以上に軽々と進行していた。
この"鍵"は万能に過ぎる。
起動方法は親指をグッと突き立てて、解除したい場所に押し当てるだけ。ただし、開けられる対象はこの世の全てではないかと思えるほど幅広かった。
私が今佇んでいる屋上の鍵も簡単に開いてしまった。手すりに指を押し当てたらネジが外れて壊れてしまったのには驚いたが、どうやら物理的な閉まった構造は全て開いてしまうらしい。
午前中に数学の西岡が敢行した突発小テストも、解答欄に指を押し当てたら脳内に答えがフラッシュバックした。今朝の記憶を盗み見たのと似たような感触だった。
しかし、開かない鍵もある。
まず私の左胸に指を突き立てても、何のビジョンも見えないということだ。
そして漠然とした未来とか、そういうのも分からない。
「つまり、一つの解を得られるものであれば、概念であっても解錠することが出来るのか」
昼休みに無人の屋上で給水塔の上に立ちながら、空に手を伸ばす。
今思えばこれほど完璧な学生の昼休みも他には存在し得ない。
「この鍵で、私はより完璧な日々を送れる」
で、あるならば。
私の人生は今も刻一刻と削れているのだ。もはや一刻の猶予もなく、残り三ヶ月を切っている高校生活においては一秒一刹那が黄金の価値を持つ。
で、あるならば。
給水塔から飛び降り、階段を飛ぶようにして駆け下りる。
もはや私を遮るものはなし。大人の階段の先にある花園目指して一直線だ!!
【参.】
私は気付くべきであった。階段を登りたいというのに自然落下していくかのように階段を駆け下りていた時点で、既に私は敗者であったのだと。
クラスに戻った私は、あらゆるフレンドの鍵を解き回った。
時に男子の、そして時に女子の心臓に押し付けるようにして鍵を使う。
あぁ、残念ながら心の鍵穴は山頂じゃなくて、背中からでも良かったよ。まったく、気が利かない奴だ。スリルのかけらもないではないか。
だがしかし、山あれば谷あり。巨乳あれば貧乳あり。いや、貧乳は無いのか?
ともかく私を襲った衝撃の事実は、クラスメートの約半数が、既に大人になっていたという半ば信じたくない事実だった。
私の脳内に煌めく、数多の記憶。
文化祭の夕焼けとセックス。
湖の脇にあるホテルで過ごした修学旅行の夜とセックス。
互いに支えあう受験戦争……そしてセックス。
(私はもしかして、大量のフラグを取り逃していたのでは!?!?)
完璧な私の人生が、音を立てて崩れていく。
そんな……馬鹿な……。
しかし人は絶望の縁でこそ、希望という名の光を見つけられるのだ。
もしかして、この鍵は不良品なのではないだろうか。心を読む機能、バグってんじゃね?
私は前の席に座っている吉村クンに指を押し当てて、ヴィジョンを確認してから言った。
「ヨッシー。私の貸したCDはどうなっただろうか。壊れていたら買い換えるから、教えてくれないだろうか」
「まじか神野!いやー、言いづらかったんだが、通学中にずっこけてさー」
出てきたキラキラ光る破片を受け取って、彼の顎に飛び膝蹴りを叩き込んだ。
ふむ、どうやらバグっては居ないようだ。もしかしたら世界の方がバグってるんじゃないかと思ったのだが、そうなるとバグった世界のキャラクターである私もバグっていることになる。
ということは、逆説的に世界は完璧だ。
であれば、私が未だに道程(誤字に非ず)であることもまた、パーフェクトな状態だということだ。
ならば焦ることはない。
冬の放課後の夕暮れを眺めながら、拳の中に親指を握りこんで、明日を思う。
吹きさらしの渡り廊下で手すりにもたれかかり、美希が部活を終えるのを待つ。
「……もしかして、もう彼女は来ないのでは」
さすがに定刻を過ぎたら、今日は帰ろうカナ……。
体を震わせて、ちょっとだけ弱気になった私は視線を下げ、中庭を見下ろした。
武井クンが居た。女の子と一緒に。
【肆.】
私の幼なじみである美希の女性らしい特徴を上げるとしたら、多くの男性が彼女のTAWAWAに実ったウォーターメロンを思い浮かべるだろう。
しかして今、かの武井クンと一緒に居る女生徒は、校内で最も垂直な女生徒として美希の逆ベクトルな人気を得ている少女であった。
少女は、バスケ部員だった。
中にシャツを着込んでいるとはいえ、バスケシャツはあまりにも彼女の滑らかさを世に知らしめすぎる。そして武井クンの視線もまた、うつむきがちな少女の瞳ではなく、三十センチほど下を向いていた。
私の視力は3.0。バストサイズの計測で鍛えた測距能力に誤りはない。
俯いたままの少女に、武井クンが近づく。
あぁ、私は少しだけ、この展開に期待していたのかもしれない。
武井くんは、スイカよりもさくらんぼが好きなのだ。
これはもはや確定事項だ。
そして私は夢想する。彼がスイカを食べたのは、つまみ食いだったのだと。
大きくため息をつく。
彼が本気でないのならば、私は明日の完璧を再び目指せるのでは、と思ってしまったから。
他人の行いで私の完璧な人生に安堵を覚えるなど、不覚にもほどがある。
抱き合ったまま、何事かを呟きあう彼らを眺めていたのはそれほど長くなかった。
にも関わらず、スムーズに瞳を合わせ、そして二人は互いの熱を持った粘膜を近づけあい……
「お待たせ、シゲ!今日はちょっと話が有ってはやめ、に……」
最悪のタイミングで彼女がやってきた。
呆然とする彼女の表情を見て、肺が内側から掻き毟られるような疼きを覚えた。
彼女の痛みを想ったわけではない。私は他人を己の内側に介在させない。私が疼きを覚えたのは、恐らく、彼女にそんな表情をさせたことがない、己の重さを知ったからだ。
そんな彼女がギョッと目をむいた。
再び視線を中庭に落とせば、キスをしながら服の中に手を突っ込む武井クンの図。
辛うじて日が当たる程度の中庭でそれは、さすがに寒かろう。しかし止まらないだけの熱を二人は秘めているのだろう。
私と美希は、同時に呟いた。
「どうして」
どうして、彼はさくらんぼが好きなのに、スイカに手を出したのだろう。
しかも翌日に食い替えるとは、中々の剛気だ。
私を怪訝に見上げる美希を無視して、ギッと睨みつける。
「シゲも、もしかして彼女のこと、好き、だったの?」
見当外れな美希の言葉に、手を横にふる。
「馬鹿を言うな。私が好きなのは貧相なバスケ部員ではない。豊かな幼なじみだ」
だからこそ、私が気にしているのは、彼女を慰み物にしたあの男の真意だ。
今すぐ、この鍵を突き立てて、奴の真意を暴きたい。
虚空にサムズアップする。
届くわけもない。彼我の距離は数十メートル。近づいたはずの完璧は、こんなにも遠い。
否。本当に遠いのだろうか?
私の日々は完璧だ。
完璧で、毎日崩れ去り。
また完璧な一日が始まる。
そう、至らぬと思う事こそが完璧な私の日常なのだ。
そして至らなさを埋めるのは……今この時だけは、この鍵だ。
指に力をこめて立ち上げ、押し込む。捩じ込む。抉り込む。
抉じ開け、と思う。
身を貫く寒風も。隣で見上げてくる少女も。うらやまふしだらな行為に至る情景も、全てを忘れてイメージする。
今日、何度も体感してきた、あの感覚。
思い出せ、聞くとも聞こえぬあの音を。
思い返せ、感じずとも感じた手応えを。
頭の奥でチリッと何かが燃えて、灰の中で崩れ消える火の様に、何かが私の中から消えていった。
「……元々彼は、貧乳好きだ」
「はぁ!?」
向けどころのない怒りを私にぶつけるように、彼女の声が荒ぶった。
どうやら中庭には聞こえていないようだ。それならば、このままでも良いか、と思う。
私の知らぬところで、彼女の道は私から逸れていたのだから。最後だけでも、彼女の思いを私が受け止めて上げるべきだろう。
「クラスメートの穂竹や鷺村に言いふらしていたよ。趣味じゃないけど、向こうからヤリに来たんだから抱いてやった、とね」
「……何それ。武井クンが、んなこと言ったっての?」
「ふむ、そういう事になるね」
実際には、彼がそう思い、言っていたのを知っている、ということになるのだが、そこは些事だろう。
一言一句、あの男がどんなふざけた心地でそんなセリフを言ったのか。彼自身の心地よさと、私の不快さが無い混ぜになって吐き気がする。
「ねぇシゲ。あんた、知ってたの?」
「知らなかったさ。知ったのは今日だ」
「……でも、知っててそういう事言うのは、なんで?」
「何でだろうな。私が、卑怯だからじゃないか」
他人の心を覗いて。
それを勝手に知らしめて。
今日の完璧は、まったくもって不完全に完璧だ。
「なんでアンタは、いっつもそうやって意味不明なのよ!!」
強くこちらの肩を叩くと、美希は背を向けて走り出した。
今の音に気付いて、中庭の二人もこちらを見上げてそそくさと去っていく。
「美希」
呼び止め、彼女の足も止まる。
「また明日な」
返事はない。
まったく、同じ通学路なのに、一人で先に帰って追いついたらどんな顔をするつもりやら。
今回ばかりは、気を利かせて時間をズラしてやるか。
手すりを強く握って、もたれかかる。
今日は完璧に終わっただろうか。
どちらでもかまわない。
明日はまた、完璧な一日が始まるだろうから。
鼻の奥がむずむずして、盛大なくしゃみがでた。
翌日、風邪を引いて看病を受ける完璧なフラグを建てた男が居たそうな。