6話「焦熱地獄」
総一は、静かに刀の柄へ手を添えた。
目の前には、今にも襲いかかってきそうな者がいるのに、まるで気にも留めず不気味に微笑を浮かべる女。
彼女の、深い海の底を連想させる暗青色の瞳は、まるで商品の品定めをしているかのように総一を見据えていた。
それだけで、気圧されるような感覚を覚える。ただ見られているだけなのに、先ほどから冷や汗が止まらず、思考もまともに働かない。
あるいは、これが彼女なりの対応なのだろうか。猛獣が獲物を恐れないのと同じで、下位の者に余計な感情を抱かず、必要なのは自分にとってそれが取るに足るものなのかどうか。それを今、見定めている。
だが、少なくとも今はまだ、彼女を満足させるだけの条件を、総一は満たしていない。
「ねぇ、さっきからだんまりで……何か用があるんじゃないのかい?」
少し退屈そうに腕組みして、女が口を開いた。
これは最後勧告。ここで総一が答えを間違えば、もう価値の無いものだと判断し、この女は去るか、もしくは容赦なく喰らいついてくるだろう。
総一を見る青の瞳が、猛禽のような鋭さを帯びた。
もう言葉を考える時間もない。とりあえず会話だけは繋ごうと、僅かに抵抗の意思として睨み返しながら総一は言う。
「あんたは……奴らの仲間か?」
どうやら、彼女の興味を引くことができたようだ。女は何のことだ、と細められた目を今度は丸くする。
「唐突だね。奴らとは?」
「あんたと同じ、黒衣を纏った集団。奴らの仲間かと聞いている」
「黒衣の集団? …………ああ」
それで合点がいったのか、女は目にかかった前髪をかき上げながら、何かを思い出したように眉を寄せ陰鬱そうな顔をした。
「あいつらの仲間なら、こんな学校に堂々と入っては来ないんじゃないかしら?」
確証はないが、嘘は言っていないように思える。だが、この女が危険な存在だということに変わりはない。その証拠に、彼女は奴らの事を知っているようだし、彼女自身化け物じみた存在感を持っている。常人ではないのは確かだ。
「だが、あんたは奴らを知っている。答えろ、奴らは今、どこにいる」
「初対面の女の子に対して、図々し過ぎやしないかい? まあ、そんな子も嫌いじゃないけど」
くすくすと笑い声を立てつつ、女は思案するように顎に手を当てながら、
「ふむ……ではこうしよう少年。ちょうどそこに演習場があるんだろう? 試合だ。時間は……そうだな、私の待ち人が来るまで。大体10分くらい。私に一撃でも喰らわせられたら、君が知りたいことを話してあげよう」
女は新しい玩具を見つけた子供のように笑みを浮かべると、総一を置いて演習場を門をくぐって行った。
しかし、これはまたとない機会だ。一撃でも与えれば、総一は奴らの情報を得ることができる。
ただ、問題はその一撃。彼女は決して、傲慢からその条件を言ったわけではない。むしろ、圧倒的な実力差の中で、総一が勝利するだけの可能性をくれたという方が正しいだろう。ただ立っているだけで相手を威圧できるほどの力。恐らくは、奴らと同じかそれ以上。
――だとすれば、それもまた総一にとっては利益となる。
今の総一がその領域の存在にどれだけ対抗できるのか、それを確かめることができるからだ。
「さて……どこまでやれるか」
情報を入手し、奴らに少しでも近づけると思うと、もはや抱いていた恐怖は消え去り、高揚感が総一を支配した。
自然とこぼれる僅かな笑みを隠さずに、総一も演習場へと続く重い門を開け放つ。
「なんだかそっちもやる気満々だね。お姉さんとしてもそっちの方が面白くていいんだけど」
女は、昨日朱里が立っていたのとまったく同じ場所で、腕組みしながら佇んでいた。
武器は……何も持っていないように見える。
「武器は?」
「邪魔な物は持たない主義でね。私は体があれば十分さ。さあ、気にせずその腰に差してるのを抜くといい」
女は総一の刀を指で指し示すと、楽しそうにふふん、と鼻を鳴らす。
「あ、叩き斬るつもりで来ちゃっていいよ。むしろ、本気を見せてほしいかな」
今回は相手が相手だ、向こうの要望に応えるわけではないが、刀を抜かせてもらう。
す、と鞘から刃を滑らせるようにして、引き抜く。
現れたのは、水晶のように透明度のある白一色の刃。外見はただの直刀でしかないが、持ってみて分かるのは、その重量。柄に使われている鉄の重みしか感じさせないそれは、小型のナイフよりも軽い。
それに加えて、切れ味は他の刀剣を超越している。文字通り、触れれば斬れる刀なのだ。砥石で手入れをしようものなら、砥石の薄切りができてしまうほどの。
「ふぅん」
女は一瞬目を細めると、総一の刀を見つめた。恐らく、一目でこれが特別な物だと見抜いたのだろう。
だが、それだけではない。先ほどから総一は斬り込む隙をうかがっているが、どうやろうとも赤子の手を捻るように潰されてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。
笑みに気を取られがちだが、彼女の敵を観察するような目線の運び、ただ立っているだけでも常に気を張る態度。それが踏んできた場数の多さを物語っている。
「ふふ、分かるよ。君は強い。こんな場所では本気も出せないんだろう? いいよ、学生ごっこは終わりだ。私が本物を見せてあげる」
女はくつくつと喉を鳴らしながら、片手を頭の位置まで上げる。
それが開戦の合図となった。
反応もろくにできなかった総一の足元に、炎を纏った矢――否、炎が矢の姿になったものだ。それが突き刺さる。
この演習場は、大規模な戦闘にも耐えられるよう、特別な床材を使用しているはずなのだが、炎の矢は瞬く間にそれを融解した。
人体に当たれば、掠っただけでも相当の被害となるのは明白。
「気を抜けば、怪我くらいはするかもね」
女は口元から笑みを消すと同時、パチン、と指を鳴らす。
「っく!」
何が来ようとも、立ち止まっているよりはましだと総一は後方に大きく飛び退いた。
結果、それが正しい判断であることを証明するように、総一が先ほどまで立っていた場所で中規模の爆発。
直後、起こった爆風に飛ばされないよう、地面に刀を突き刺して耐えるが、その際頬を何かが掠めた。
じんわりと頬が熱を帯びていくのを感じ、指で軽く触れる。と、鮮血が頬を紅く濡らしていた。
原因は、目の前のクレーターが出来上がる前まで存在していた石床。それが弾け飛び、総一の頬を切り裂いた。
爆発が起こる前の一瞬。見えたのは、人の頭ほどの大きさを持った火球。それが落ち、戦車砲の着弾を思わせる轟音と爆裂を引き起こした。
そして、再び女の手が上がる。
今度は何が来る、と周囲に目を凝らすも、何もない。
ただ、急激に空間の温度が上昇した。熱された空気を吸い込んだ肺までもが乾くような熱気。
体の水分が瞬間的に奪われていく中、総一は気づいてしまった。
総一の頭上、夕日だと思い込んで目を向けていなかった空に浮かぶものを。
「――なっ!?」
それは、家一軒分くらいはあろうかという巨大な火球。それが静かに、ゆっくりと高度を下げていた。
向かう先は、総一。
しかし、速度はそれほど速いわけではないので容易に回避はできるだろう――と、
「やっと気づいた? そう、なら……」
そんな総一の余裕を砕くように、女が手を下げた途端、火球は急加速を始めた。
もはや地面に刺した刀を抜く暇もなく、総一は地面を蹴って、壁際まで跳躍。
それを待っていたかのように、火球は床に吸い込まれた。
何かが沸騰するような音を上げ、石畳の床にできたのは、マグマの池。
それでも、幸いその中心にある総一の刀は以前の形を保ったままでいてくれた。ただし、取りに行くにはあの池に浸からなければならないが。
「…………」
ぎり、と総一は奥歯を噛み締める。
思い上がっていた。自分の腕ならば、多少なりともその刃は届くと思っていたのだ。しかし、現実は非常にもそんな希望を容易に打ち砕く。
彼女は一歩たりともその場を動いていないというのに、総一は今だ近づくことすらできていない。
何か策を考えようと思考を巡らせるも、武器を失った今の総一にできることなど、無いに等しい。
女は、そんな総一を見、深く息を吐いた。
所詮、一時の戯れでしかなかったとでもいうように。期待は失望へと変わり、焔の演奏会は終幕へと向かう。
女が胸の高さまで両手を上げると、先の火球が数十個という数で総一を取り囲む。
終楽章への準備は整った。指揮者は女。球形をした灼熱の演奏者達が奏でるは、破壊と暴虐が織り成す協奏曲。
「それで終わりなの? 本当に、それで……」
嘆くような女の呟きが、演奏の始まりを告げた。