◆4話◆恋愛相談室1
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自分の居場所である司書室の奥で、涼子は表情を歪めた。
恋人の話など聞きたくは無かった。
多分とても魅力的な女性だろうとは思ったが、だから聞きたく無かったとも云える。
なのに自虐的にも尋ね、とても可愛らしい人だと連想される惚気を聞き乍ら、涼子は楽しそうに微笑みさえしたのだ。
――莫迦じゃなかろうか。
己の保身に満ち、自尊心を守りきる言動が、浅ましいと思う。
だが、告白して潔く振られて、それで何になるだろう。
涼子が、振られる事も恐れず玉砕したとして、された岬は気まずさと苦痛が残る。
少なくとも、今後は今まで通りとはいかない。
――あの、本音で語る相手の少ない人が?
岬は涼子を恨まないだろう。迷惑だとも云わず、優しい言葉で振ってくれるだろう。
今まで通りの付き合いを、涼子が望むなら「演じる」だろう。
そう。
確実に遠慮が生まれ、岬が良い人で有れば有るほど、罪悪感すら抱くかも知れない。
――噂の様な聖者ではなくても、優しい人だから。
好きな人を困らせたくは無い。そんなキレイ事も脳裡を過る。
涼子は嗤う。
「あれは酸っぱいブドウだったのよ。」
泣きながら嗤って、涼子は震える声で呟いた。
――もしかしたら、キレイ事ですらないかも知れない。
涼子は考える。
――単なる保身かも知れないわよね。
考えて嗤う。
みっともない程の、自分の後悔を嗤い、けれど……やはり、時間を戻せるとしても、自分は同じ様にするだろうと考えた。
岬の惚気が最小限でしか無かったのは、結局涼子が耐えられなかったからだ。
自分では認めたく無い呼称だから、今まで話題にしなかった事を話の種にして、中断させた。
「ごちそうさま。」
と肩を竦め、岬が応える前に呼び掛けた。
「ねえ、岬さん。」
「何ですか?」
「私たちには二つばかり共通する呼び名がございます。」
ご存知かしら?と悪戯っぽく問いかけた。
彼は楽しそうに話題に乗ったから、その呼び名が岬にとっては嫌なものでは無いのだと涼子は知った。
「資料館の主と恋愛相談室ですね?」
「そう。今迄そんな伝統なんて無かったのに、何処かの資料館の主が恋愛相談室なんてするから、美晴ヶ峰でも相談事がやって来るんですわ。」
少しばかり恨みがましく睨み上げた。
本音でも有ったから、多分強がりには見えなかった筈である。
春ヶ峰のマジシャンはクスクスと笑った。
「一人二人なら俺の所為かも知れませんね。」
「まあ。では三人目からは私の所為ですの?」
憤慨するのも冗談混じりで、彼女の眸も笑っていた。
その笑みも嘘では無い。
その時は楽しかった。
二人共に騒ぐ性質ではないから、外に漏れる程の声では無かったが、それでも笑い声の絶えない、楽しい時間だった。
なのに。
何故だろうか?
時が経つにつれて、何だか悲しくなるのは。
――いいえ。情けなくなるのは……と云うべきだわ。
涼子は思う。
理由は解っている。
明らか過ぎて謎など欠片も無い。
「失恋…………したんだわ。」
彼女は天井を見上げた。
涙が止まらなかった。
「想いを告げる事も出来ずに!」
どんな理由を付けても、やはりそれが悔しい。
解っているのだ。
何度考えても、後悔しても、腹を立てても状況は変わらない。
好きだと告げても困らせるだけ。
岬の恋人の話題は、長く続いた訳でも無い。寧ろ僅かだし、少ないエピソードしか聞いて無い。
だが、それだけで涼子は辛くなった。僅かなそれで、解った。
望みは無いのだと。
割り込めないのだと。
涼子が耐えられない程に、岬の眼差しと微笑みが深い想いを語っていたのだ。
涼子はキュッと唇を噛んで、くるりと周囲を見回した。
此処は彼処と同じ空間。パソコンの場所も館内を映す画像も。沢山の本も。
「でも、あの人は居ない。」
岬の迷惑など顧みず、告げたかった気持ちに嘘は無い。
振られる事はプライドが許さず、告げなかった気持ちも本物だ。
そして、云わないまま諦めるのも、自尊心を傷付ける。
――それとも、傷付いたのは別の場所だろうか?
グルグルと、気持ちが乱れる。
納得する回答を探しては失敗する。
「あれは酸っぱいブドウだったのよ。だから、きっと手に入れても美味しくはなかったわ。」
諦める為に云ってみた。
諦めた事など一度も無いから、失敗ばかりしてしまう。
初めての失恋は相手に対する失望だった。
岬には失望する所など無い。
「手に入らなかったから、だから貴重に思えるだけよ。きっと手に入ったら大した事はなかったわって、捨てる事になるのよ。」
云い聞かせても、心は思う様になびかない。
何だか腹が立って来た。
自分を誤魔化し切れずに、涼子はハンカチを握りしめた。
――嘘つき!
自分自身を涼子は罵倒した。
――あんな美味しいブドウはないわ!あんな人、手に入れたなら、きっと大切に大切にして、見せびらかしたくてたまらない。
涼子は顔を歪めた。
――でもって、誰にも見せたくないとも思って悩むに決まってるわ。
「だってあんなに……」
云いかけた言葉が途切れ、涼子の表情が消えた。
鈴が鳴った。
資料館に人が入れば、司書室のベルが鳴る仕組みである。
涼子が館内の映像を見れば、大学部の学生が一人映っていた。
ベージュのニット。プロポーション抜群の美女だ。
見下す眼差しが似合う彼女は、然り気なく館内を見回す。カツンとヒールの音高く、一階をゆっくりと見て回り、とどめの様に左右を見て、司書室のドアに向かって真っ直ぐに歩き始めた。
「…………。」
涼子は嘆息した。
倖い「此処」にも簡易キッチンはある。
そこには、資料館の主の秘密を隠す役割を果たす材料も揃っていた。
『涼子さん。島津涼子さん。いらっしゃる?』
小さな声が、マイクの後ろから聴こえる。そこにはスピーカーが隠れている。
涼子は嘆息した。
そして諦めて、マイクに手を伸ばした。
「どうぞ。ソファでお待ちになって。」
司書室のドアを解錠して、涼子は告げた。
そして。
今はコソコソしているが、高飛車な女王さま然とした彼女の姿を、大学部の名簿から探したのである。
司書室の奥には小さな部屋がある。
その上にある部屋は、理事長を別にすれば、岬と涼子以外は誰も知らない。
酔狂な、だがそれなりに役立つ隠し部屋だった。
今日の相談者は、いつもより長く待たされた。
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